2008年09月19日

ベトナムへ 19

ベトナムに到着して、即座に、8ドルのタクシーに乗り、メーソン広場に向かった。
そこには、ベトナムの英雄、チャン・フン・ダオの像がある。

およそ、800年前、日本では、鎌倉時代である。
三度にわたり、ベトナムに侵入してきた、元の大軍を破り、救国の雄となった。

タクシーを降りて、すぐに歩き出し、川沿いに向かった。
慰霊に、相応しい場所を探す。
丁度、川に突き出た、船着場のような、場所があり、そこで、追悼慰霊の儀を、行うことにした。

夕暮れ迫る頃である。

まだ、人影まばらである。
バイクに、カップルが、いた。
スタッフが、白人の夫婦が、じっと、こちらを、見ていたというが、私は、気がつかなかった。

すぐに、用意していた、白紙を、枝に取り付けて、御幣を作る。
枝は、公園の、一枝を貰った。
いつも、その地にある、枝を使う。
榊でなければならないということは、一切無い。

今回は、清め祓いのみであり、神呼びをして、霊位を、置かない。
ただ、言霊により、清め祓いをするのみ。
祝詞を唱えて、しばし、黙祷する。

御幣を太陽にかざして、その、気を頂き、四方を清め祓う。

何と清清しいことであろうか。
私の勝手な、思いである。
これが、私のやりたいことである。

何故、それをするのかと、言われれば、それを、やりたいのだとしか、答えられない。

見える世界は、見えない世界に支えられてある。
それ以外の、言葉は、無い。

いずれは、ベトナムの日本人村にも行くことであろう。
そこは、ホイアンという、ベトナム中部、フエの南にある町である。

来遠橋という、1593年に、日本人が作った橋があり、町のシンボルでもある。
橋を、境に、東側に日本人街、西に中国人街がある。

橋の中央には、舟の安全を祈願する、小さな寺がある。

1999年に、世界遺産に指定された。
ホイアンについては、いずれ旅した後で書く。

ちなみに、フエを中心とした、中部では、日本語熱が、高い。
ベトナム政府は、年間、1000億円を援助する日本に対して、学校教育の場で、日本語授業の選択で、応える。

また、ホーチミンの高校でも、日本語は、選択科目にある。

さて、急ぎ、追悼慰霊の儀を、終わり、私たちは、傍のレストランに入った。
まだ、準備の時間であるようだが、快く、受け入れてくれた。
川沿いに面した、オープンカフェに、座り、ベトナムコーヒーを注文する。

ボーイたちが、まだ、仕事前で、休んでいた。
話をしたいが、英語も、通じない。
ただ、ニコニコと、笑いあうだけである。

ベトナム人が、笑う。
私は、その僥倖に、何度も出会った。

着物の、珍しさもあるのか・・・
解らない。
しばし、そこで、休む。

写真を見ると、最初に撮ったものより、慰霊後の方が、明るいのである。
不思議である。
不思議なことは、この世に、数多くある。
不思議は、不思議で、いい。
偶然でも、いい。
詮索する必要は無い。

空港に行くまでは、まだ時間があるので、ベンタイン市場に歩いて向かう。
しかし、夕暮れ時の、ラッシュである。
車と、バイク軍団の中を、道路を横断するのは、勇気がいる。

とてもじゃないが、怖すぎる。
ビュンビュンと、その走る中を、横切るのである。
心臓ドキドキ。

ようやく、市場に着いたが、疲れた。
本当に、疲れた。

ところが、市場の中は、お終いである。
皆、本日の、後片付けをしている。勿論、食堂も、である。
あららららら
と、思いきや、市場の横の広場に、屋台である。

見事に変身している。

雨が降ってもいいように、テントが、張られている。
そこを通ると、呼び込みが、激しい。
時々、変な日本語で、呼び止められる。

私は、フォーを食べるつもりである。
海鮮のフォーである。
専門店を、探すが、呼び込みに、止められる。
フォーと言うと、オッケーオッケーと、言うが、スタッフの野中が、ここは、専門店じゃないと言うので、また、先に進む。
そして、フォー専門の店に、入った。

ところで、私は、呼び込みを、無視しているのではない。
必ず、声を掛ける。
日本語である。
いい、男だねーーー
可愛いーーー
皆、意味が解るのか、照れ笑いする。

メニューには、日本語も、載っているから、ありがたい。
写真を示し、注文する。
同じものを、二つ注文し、もう一つ、余計なものを、注文したが、忘れた。
料金は、高めである。

三万ドン以上であるから、米ドルでは、2ドル以上であり、日本円では、約200円以上となる。

そうそう、水を買った。
一万ドンである。
あれっ、高い。5000ドンではなかったのか。
すると、野中が、メーカー物だよ、と言う。
観光客用なのであろう。

致し方ない。
この、みみちさは、日本に戻っても、続く。

ベトナムの感覚で、日本の店の、料金を判断するから、とんでもなく、高く感じる。
立ち食いソバが、最も理想的になる。

そして、8ドルで、乗るタクシーの場所に移動した。
と、その前に、公園を通るのである。
その公園で、女の子三人に、話し掛けられた。

高校生が、二人、一人は、大学生である。
英語が、話したいようで、一生懸命に話しかけてくる。

実は、私と、野中は、着物姿である。
話をして気づくと、私たちの周囲に、人が群がっていた。驚いた。
30人以上はいる。
私たちを、見て微笑んでいる。

これは、一曲歌うか、舞うかと、思ったほどである。
しかし、時間を見ると、駄目。
しょうがない。次のチャンスだと、カーモーン、ありがとうと、言って、その場を離れた。

女の子たちは、スイユアゲンである。
何とも、ベトナムの最後は、皆に、送られた気分であった。

8ドルの、タクシーに乗り込み、空港へ、向かう。


posted by 天山 at 12:44| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 48

ロミオのペニスがジュリエットのカントに入ったらオーガズム、なんてロマンチックな幻想を抱くのはもうやめにしょう。女性が自分でオーガズムに達することができれば、それで感度は抜群なのです。「不感症」は男性の作った言葉。正常位でたった二、三分のうちにオーガズムなんか得られるもんですか。いい思いをするのは男性だけです。実際、性行為だけでいつもオーガズムに達する女性など、ほとんどいません。(男性が亀頭をいじらずにオーガズムを得ようとするようなもの)。セックスはいつも楽しいものとはかぎらないけれど、オーガズムとはほとんど無縁の女性に、セックスを楽しめるといっても無理な話です。
ドットソン

挿入で、オーガズムに達する時間は、およそ、20分程度である。
しかし、20分という時間は、長い。
初心者、更に、結婚生活が長くなると、男は、さっさと、射精して終わるセックスである。

キンゼイ博士の報告によると、挿入してからの、ピストン運動は、全米平均で、たったの二分半である。
アメリカのポルノ映画などで、延々とピストン運動を繰り返しているのは、理想なのである。

相手の反応など、眼中に無い男が、多くなるし、多いのである。

更に、女が、セックスで、快感とか、楽しみを覚えるのは、そうとうの、熟練が必要である。
成熟しない体での、セックス行為は、全く、論外である。

女の体を、成熟させるほど、男は、時間を使えるだろうか。
それは、宗教の修行にも似る。

女が、自分で、自分の体を、成熟させるには、マスターベーションが、一番の方法であると、いえる。

セックスには「正しい」方法も「最高の」方法もないのだとわかってしまえば、あとはあふれんばかりの愛とオーガズムが待っています。
ドットソン

百人百様の人の、性があり、セックスがあるということ。
それを、知るためにも、マスターベーションは、欠かせない。
勿論、性にも、セックスにも、興味の無い人には、必要なことではない。
稀に、そんな人がいるものである。
それが、不感症として、男に判断される場合が多いが、お門違いである。単に、興味が無いのである。

クリトリスの決定的な役割はもう周知の事実。ヴァギナの内側にあってオーガズムを引き起こすという最近の「Gスポット」理論にもかかわらず、クリトリスはやはり第一のセックス器官です。わたしはこれまでのところまだGスポットなるものが見つかっていません。でも一方では「Gスポット」が大好きな友人もいますから、それはそれで素敵なことでしょう。
ドットソン

女の膣にある、Gスポットは、自分でも、解らないことが多い。
上向きで、膣の上部を撫でてゆくと、ある箇所に、ザラザラとした、部分がある。それが、Gスポットと呼ばれる地帯である。
そこに、ペニスの摩擦が、加えられて、オーガズムに導くのである。

勿論、それは、また、人それぞれの形や、位置がある。
それを、自分で探す女もいる。
また、男もいる。
そこへの、ペニス以外の刺激は、端的に指である。
その部分を、軽く撫でる、軽く叩くのである。

ヴァギナへの挿入はとてもエロチックなこと。わたしたちの性器は外部も内部もすばらしい感覚をかもしだしてくれます。挿入だけでオーガズムを得たい人、性行為の最中に直接クリトリスを刺激してほしい人、オーラルセックスを好む人。そして、わたしのようになにもかもほしい人だっているのです。もちろんマスターベーションも含めて。
ドットソン

性、セックスに貪欲になることを、淫乱と認識するのは、男の理論である。
性、セックスを楽しむ、求めることは、生を、豊かに求めることでもある。

ドットソンは、ボディーセックスの、ワークショップを開始した。
ヨガ、カンフーの運動、食べ物、健康についての話し合い、性器の検討、マスターベーション歴の披露、自分のオーガズムの説明であり、彼女は、更に、マスターべションの実技指導も、行う。

ある晩、マスターべションの実演が終わったあと、いかにも内気そうな女性がいつか本物のクライマックスを見てみたいといいだしました。ローラとわたしはすかさずバイブレーターのスイッチを入れ、オーガズムへとまっしぐら。事が終わると、いっせいに拍手喝采がわき起こったのです。ほかのグループでも好評を博し、こんなことをして大丈夫かしらという不安も、取り越し苦労に終わりました。
ドットソン

実は、オーガズムというものも、人それぞれである。
小さな山が何度もおとずれるタイプと、一度に、ドカンとくるタイプなどである。

延々と、クリトリス刺激を、繰り返して、延々と、オーガズムを楽しむという、タイプもいる。

オーガズムの話になったとき、みんなのイメージはどうもあいまいでした。オーガズムはおもに感情の問題だとか、取るに足らない快感とか、まったくの謎とか、ありもしないロマンチックな期待を抱いていた女性。イッたことがないと思っていたら、じつはオーガズムが小さなだけだった女性。これはポルノ小説の読みすぎです。
ドットソン

ドットソンの結論も、オーガズムは、人によって、随分と違うということだった。

以前、私は、できそこないの男たち、という本を紹介しつつ、男の体を、解説した。
女の体の未分化なもの。
女の、陰部を縫い合わせて、作られた、男性器であると。

ペニスは、クリトリスから、出たものであり、クリトリスの特大型である。
逆にいえば、クリトリスは、ペニスの、亀頭部分である。

クリトリスマッサージこそ、マスターべーションの基本である。

もう少し、ドットソンの試みを見ることにする。


posted by 天山 at 00:00| 性について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 49

ベティー・ドットソンの体験を、そののまま、書き写すことで、十分に効果があると、思うので、少し、拾いつつ、書き写す。

離婚後初めて結んだ関係が、わたしにとって性のターニングポイントとなりました。――

わたしが結婚時代のうしろめたいマスターベーションについて話すと、彼も自分の体験を語ってくれました。十七年間の結婚生活のあいだにじょじょに「色あせていった」セックスのこと。性行為はまったく型どおりのものとなってしまい、性的な抑圧とコミュニケーションのなさもたまらなかったこと。その分バスルームでこっそりマスターベーションをしてオーガズムを得ていたこと。
ドットソン

私の相談者も、一時期、若いと呼べる年齢の、オーガズムの問題が多かった。
結婚、独身共に、最後まで、セックスを持続出来ない問題、つまり、中折れと、彼女との、セックスで、満たされなく、一人マスターベーションにのみ、快感を得るというもの。

若者、三十前後の、中折れの問題は、深刻だった。
途中で、セックスが不可能になるのである。

上記、十七年間の、夫婦生活を、続けている者は、大半が、すでに、セックスなどしていないか、おざなり、パターン化、男だけが、満足して、妻は、体を提供する、単なる、性処理の道具と、化すのである。

彼は目先の変わったセックスに焦がれていたましが、浮気はしないと約束していたし、浮気相手を見つけるにはあまりにも理想が高すぎました。残された道はマスターベーションしかありません。楽しく出来ればそれはそれでかまわなかったでしょう。ところが、わたしと同じように彼も欲求不満と罪悪感にさいなまれたのです。やがて自尊心がむしばまれ、自分のことを薄汚い中年男と思うようになったのです。

彼と語り合ううち、セックスに否定的な社会がいかにわたしたちを抑圧しているかわかってきました。自分の体に触れて快感を得るのでさえ、うしろめたく思わずにはいられないなんて。そう考えると怒りに駆られ、わたしは金輪際、性的な罪悪感を抱くのはやめにしようと決めたのです。もううしろめたいなんて思うもんですか。教会や国家のいうことなどおかまいなしに、情熱的にセックスの奥義を探ってみせる。セックスや快感について学ぶなら、心の広い恋人をもつのがいちばんです。

ブレイクとわたしはじきに伝統的な性的役割を乗り越えました。どちらも健全な好奇心に駆られ、上になったり下になったり、交互にオーラルセックスやエロチックな「手淫」をするなどして、受け身や攻めの実験に励んだのです。

ここで、彼女は、教会と、国家のいうことなどと、言う。
いかに、教会と、国家意識が強いことかが、解る。
日本人は、宗教や、国家意識を、セックスと、結びつけることは、数少ないクリスチャン以外にいないだろうと、思える。

セックスは、宗教と、国家とは、別物であると、考える。

一神教の世界は、個人の生活の中に、確実に、侵入している。勿論、夫婦のベッドの中にも、侵入しているのである。

彼女は、ブレイクと、伝統的な、性的役割を乗り越えたと、書いている。
つまり、男は、女を道具とし、更に挿入して、セックスが成り立つという、考え方である。

性関係の上でも、同等の関係を築くというもの。
これは、多分に、彼女の、女性解放、つまり、ウーマンリブ運動、フェミニストとしての、活動参加に刺激を受けている。
全米女性機構というものに、参加していた。しかし、そこでも、セックスに関しての、意識は、低いものだった。

アメリカでは、60年代、セックスパーティーがたけなわになる。そこでは、女同士が、セックス遊びをする機会もあった。彼女は、そこで、女とも、楽しめることを、覚えて、バイセクシャルと、称するようになる。

更に、70年代、ヘテロセクシャル・フェミニストと、レズビアン・フェミニストとの、内ゲバが、起こる。

自称バイセクシャル・フェミニストのわたしとしては、どちらとも決めかねました。純粋なレズビアンになって男性に対するエロチックな感情を抑えるのはいやだったし、かといって、純粋なヘテロセクシャルになって女性に対するエロチックな感情を抑えるのもいやでした。

ここに、欧米人と、日本人との、大きな差があることが、解る。
セックス、性的な関係における、捉え方が、全く違うのである。

日本人は、秘め事として、深める。
例えば、バイセクシャルであっても、その行為は、極めて個人的な、行為にあるのだが、彼女のように、公言して憚らないように、自己主張しなければならない、社会である。

抑圧が、強い分だけ、自己主張も、強くなる。

しかし、いずれにせよ、差別意識は、ある。

男と、女の性的関係を、ヘテロセクシャルと呼び、同性愛を、ホモセクシャル、更に、バイセクシャルと、区別を置くのである。
ただし、いずれは、その垣根も、取り払われる時期、時代がくる。

その魁は、試験管ベービィーである。
妊娠に関しての、意識が大きく変化すれば、もはや、セクシャリティに関しての、差別意識も、薄まる。ただし、宗教が、それをどのように、位置づけるかは、不明である。

彼女は、年下のセックスフレンドとの、関係で、強制的な一夫一婦制、理想化されたロマンチックな恋愛、依存したセックスを、女性の禍の元と、認識する。

その、ローラとの関係から、抜粋する。

わたしたちはだんだとおたがいに楽しめるようなテクニックを身につけました。カトリックの家庭で育ったせいで、ローラのセックスはみじめなものでした。わたしとつきあうようになってはじめてマスターベーションでオーガズムに達する方法を学んだのです。初めはオーラルセックスをしてみましたが、ふたりとも不安になってしましいました。わたしがやってあげているとき、ローラはつぎは自分の番だとプレッシャーを覚えるし、わたしはローラにやってもらっているとき、こんなに時間をとらせていいのかと心配になるし。そこでおたがいにオーガズムを与えてあげるのはあきらめ、かわりにマスターベーションをすることにしたのです。

そして、二人は、充実した性的関係を築くことになる。

ローラとわたしはロマンチックなセックスのイメージを抱くのではなく、エロチックな愛のイメージを描いたのです。いよいよ別れの日がきたときも、愛は憎しみに変わらず、かけがえのない友情をいまもなおつづけています。

その方法は、マッサージとマスターベーションを組み合わせ、交互に相手のオーガズムを高めるというもの。
一人が、バイブレーターを使い、もう一人が、官能的な愛撫をして、ヴァバナやアナルに挿入する。
時には、一つのバイブレーターを同時に使うなど。

下になった者がバイブレーターを感じる位置にあて、上になった者は快感を得るために体を動かさなければなりません。わたしたちはいつもかわるがわるやったものです。

女同士でも、十分に、性的快感を得て、そして、十分に満足した、オーガズムを感じられるという。
つまり、性の解放である。
更に、性とは、何かということを、考える、きっかけになる行為である。


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