2008年09月15日

ベトナムへ 15

旅の最終日、チェンマイから来られる、小西さんにお逢いする。
約束の時間は、正午である。
有名ホテルのロビーで落ち合うことになっていた。

ゲストハウスから、歩いて、5分である。

その朝、七時を過ぎたので、屋台連合に行く。
屋台連合とは、私が勝手に名づけているので、その辺りに行って、屋台連合と聞いても、通じない。

皆さんと、顔馴染みになった。
向こうから、コーヒーと、聞いてくる。
コーヒーを頼み、その小路で、絞りたてジュースを作るおばさんから、20バーツのジュースを買う。
何も手を加えない、本当のジュースである。
オレンジの甘さのみ。日本の冬ミカンに似ている、ミカンである。

ジュースを飲み、コーヒーを飲んで、何を食べるか、考える。
スタッフは、少年のようになり、私の前にいる。
不思議なことで、レディボーイを続けていると、素になった時、少年のようになるのが、不思議である。
矢張り、少年は、中性なのである。

ここで、少年の美について、書きたいが、それは、性についてで、書くことにする。

実は、一つ書き忘れたことがある。
衣服支援の子供服が、少し余っていた。

スタッフが、マッサージをしたいというので、私がいつも行く、安いマッサージの嬢を紹介した。
私が連れて行った。そのまま、私は、部屋に戻った。
すると、担当したのは、別の中年の女性だったという。

私の紹介した嬢は、中年の女性に、客を譲ったことになる。
それは、中年の女性には、まだ、客がつかなかったので、嬢が、譲ったと思える。
そういう、優しさがある。
皆、苦労しているから、人の苦労が解る。

その中年の女性と、マッサージをしながら、話していると、彼女には、三人の男の子がいて、別々に暮らしているとのこと。
子供たちは、学校で暮らしているのである。

母子家庭で、皆で、暮らせるだけの、収入がないのである。
タイは、福祉政策が、非常に遅れている。

そこで、スタッフが、子供服を、少し持って来ているが、必要ですかと、尋ねた。
彼女は、必要、必要、欲しいと、言う。

マッサージを終えて、部屋に戻った、スタッフは、急いで、残りの、衣服を集めて、彼女に持って行った。
私は、それを見ていた。

戻ってくると、他の者も、出て来て、皆で、それを見て、良質な物で、自分も着れるものがあるという、女性もいたという。
小柄な女性は、子供用でも、着られる。

バンコクでも、必要な人がいる。
都会だからこそ、必要な人がいる。
貧しいゆえに、都会に出て働くという、感覚は、当たり前である。

これは、口伝えで、私たちの活動が伝えられると、ここでも、必要な人は、多くいるのだろうということに、気づいた。

バンコクには、カンボジア、ラオス、ミャンマーからも、働きに出ている人が多い。
ラオスの少女が、体を売れるようになると、立ちんぼになることも、多々あり。

成人になり、覚悟して、体を売るということに、何の問題もない。
寝る場所の確保と、食べることの、権利は、誰にもある。
何ら、恥じることはない。

人様に、世話にならず、自分で、自分の生活を、賄うのである。

実は、パタヤでも、ベッドメークする、女たちと、色々と話すことが出来た。
出稼ぎの人が多い。
丁度、子供服の下に、女性用の、ナイトガウン、寝巻きに出来る物が、数点入っていた。それを、彼女たちに、差し上げた。
大喜びで、それから、私たちは、実によくしてもらった。

一人のおばさんは、子供がいるというので、子供服を見て、選んで貰った。
その選んだ服を、静かな笑みを浮かべて見ていた。
きっと、子供に着せる時の、様子を思い浮かべているのであろう。

差し上げた時に、その場にいなかった女性がいて、元気な女性が、彼女には、何か無いのかと、言われた。
すべての、衣服を出して、彼女に合うものを、探して、渡した。

その時、支援の形の無形さを、思った。
臨機応変である。
必要な人に、差し上げる。

苦労している人は、優しいのである。人の痛みが解る。
そして、自分一人が良くなればいいとは、思わない。助け合う心で、支えあうのである。

バンコクに行く日の朝、ベッドメークで、廊下に座り、待機していた皆と、出掛けに会った。
次は、いつ来るの。その時も、このホテルに泊まるか。
また、このホテルに泊まるので、逢えるよ。
イサーン出身の女性が、皆の代表になり、待っている、と言う。
次は、いつになるのと、言う。
来年、来る。
来年って、いつ。
年が明けたら、来ると、言うと、納得した。

部屋から出る時は、皆、忙しかったが、一人の女性が、私たちが、部屋から、出る時、荷物まで、持って下に降りてくれた。

清算し、チェックアウトが、スムーズに終わるのを、見届けて、さようならと、言って、また上がって行った。

こうなれば、私たちは、彼女たちの知り合いである。
単なる、客の一人ではない。
次に行く時、更に、衣服を持って行けば、必要な人のいる場所を、教えてくれる。
彼女たちが、橋渡しをしてくれるだろう。

そして、本当に切実に、必要な人の存在も、彼女たちは、知っているはずである。

追悼慰霊から、子供服支援、衣服支援になり、そして、人と人の付き合いになり、情けある付き合いになり、その相手が、日本人である。

私の願いであること、成就せり、である。

前置きが長くなったが、小西さんとは、正午に会って、食事をすることにした。

小西さんについては、以前の旅日記は、何度も書いているので、改めて、説明はしない。

タイ北部の、慰霊地については、ほぼすべてを把握している方である。
皆、小西さんを、頼り、取材や、慰霊に訪れる。
マスコミ関係から、政治家、その関連の方々。
要するに、タイ北部の、慰霊については、スペシャリストである。

そして、小西さんは、事実を知る人である。
日本軍、日本兵の、事実を知る人で、それを、しっかりと整理して、書かれると思う。
多くの、誤解や、偏見を取り去り、事実を書くのである。

また、遺骨収集も行い、実際に、日本兵が、どのような亡くなり方をしたのかも、見ている。

更に、タイで、日本人として、生きている。
迎合は、しない。
真っ当な日本人として、国際人である。

海外で、日本人としてあることは、そののまま、国際人なのである。
日の丸を背負うことが、国際人の、第一歩である。
自分の国に、誇りを持てない人を、どこの国の人も、信用しない。


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性について 45

1968年の、革命的理論支柱の、ライヒの思想から、マスターベーションに関する、意見が、それに、準じて、出された。

禁止することを、禁止するというような、過激なものまである。
マスターベーションを禁止することを、禁止するというのであるから、穏やかではない。

しかし、フロイト、スピッツなど、初期の精神分析学者たちは、行き過ぎた、禁止と、その悪影響を告白した人たち自身が、矛盾した、折衷的態度を余儀なくされたという、見方もある。

衝動の抑圧こそが、神経症の危険を伴うとした、精神分析学が、解決の糸口を、見つけ出すには、大変な、努力がいる。

地獄の罰という、呪いと、脅迫によって、強化された、罪悪感の、マスターベーションは、フロイトの発見に至るまで、更に、それでも、それ以降続いた、罪悪感の後に、新しい考え方が、セクシャリティの好ました進展のために、ある種の、バランスの取れた、適度のフラストレーションが必要であるという、考え方が、登場したのである。

フラストレーションが、人格を形成するものである。

突然の、宣言のような、言葉が飛び出す。

アンナ・フロイトは、人格形成にとって、その価値を強調し、子供も、納得しうる、マスターベーションに対する、闘いを重視したのである。

かつてのように、野蛮で、サディスティックなものではなく、フラストレーションの修練は、漸進的で、各人の感受性と、忍耐力に合わせて、勧められるものである、という。

面白い議論は、成人になっても、オナニーが続けられ、性的結合を目的とする、成人の唯一の、セクシャリティ表現を、回避するまでに至る、反抗的オナニー、それは、まさに、無意識のうちに、留められた心的幼児性への、固着であるというものだ。

病理学からの、対応は、性器的快感の発見という過渡期の現象として、全く正常なものであるという、見解である。

ただし、マスターベーションは、性的能力の十全たる表現と、見なしえないという。
それは、せいぜい待機行動、思春期の初めての興奮から、十全な性生活へ至るまでの、道において、不可避なものである、待機行動にすぎないとも、いう。

いまだ夢の中でしか実現でなかった性関係の先取りする代用品のようなものにすぎない。
ジャック・デュシェ

精神分析から、性感帯の、暫時的発見と、それらの部位の興奮は、リビドーが、どこかに、固着してしまわない限り、段階を追って、やがて、性器的セクシャリティに、到達すると、考える。

ここで、リビドーの固着が、うまくいかなかった場合や、歪んだ場合などに、成人になってから、性的事件の引き金になったりする。
性的的快感を、全うに体験することが、大切なことなのである。

でなければ、生き物を、殺すことによって得る、快感を、性的快感として、持つ場合もあるということだ。
または、色々に変形して、性器的快感を得ることになる。
異常性愛と、言われる行為になるのだが、日本には、異常でもなんでもない。そのように、成長させてしまったのである。

さて、欝状態の若者の、マスターベーションは、主題を欠き、陰鬱で、罪悪感を伴った、快楽という、気分的不安定さを、帯びることになる。
それは、強迫観念の部類になり、また、脅迫行動に至ることもある。
更に、それに、サディスティックや、サドマゾヒスティックな、色調を帯びることもあり、そうなると、治療が必要となる。

幼児期の、多機能的、多種多様のセクシャリティが、徐々に、整ってゆく過程における、性器的成長の過程で、起こるものを、心理学で、探っていたようである。

それに、深入りすると、性についての、論旨が、更に広がるので、止めておく。

さて、どの調査も、女子より、男子の方が、頻度が高いという、結果がある。

男子の場合は、明確に、性器を意識でるのに対して、女子は、性器が、内に在るという感覚なので、その意識は、顕著ではない。
ただし、女子も、自然のうちに、マスターベーションの行為を、多く体験する。
女子の、マスターベーションは、曖昧という言葉が、合う。
意識して、明確に、マスターベーションとい行為に、至るには、それなりの、年齢が必要である。

マスターべションは、男子にとっては性的成熟のために重要な役割を演じるが、女子の性的発育においては事情は異なる。両性間の解剖学的差異が、おそらく、そこで部分的に何らかの役割を果たしているのであろう。男の子は、自分の身体の特徴と、それを際立たせる生理反応に気づかないわけにはゆかないし、必要とあらば勃起がそのことを思い出させてくれる。女の子の場合は市場が違い、欠如しているもの、切断されてしまったものとして確認することしかできない。
デュシェ

そして、男が、思春期で、最も、激しい性的衝動を覚える。
愛情的交歓や、性行為の優しさなどを、知るのは、後のことである。
しかし、女は、それと、逆になるのである。
男が、異性関係に至るまで、マスターベーションによって、満足しているのに大して、女は、マスターベーションをするにしても、欲望ではなく、相手のためという、感情的なものが、先になる。

つまり、女は、欲望よりも、最初は、情緒による性的満足感を、求めるというのである。
それに対して、男は、欲望が先に立つ。

そこで、どうしても、その性的行為には、差異が出る。
そこが、男と女の溝なのである。

性行為を、早く求めるのは、男である。
女は、性行為より、情緒的関係を求める。

しかし、只今の、中学生、高校生の付き合いという前提は、性行為に、結び付けられているのが、現状であり、それを、大人が、理解し、把握できないでいる。

マスターベーションの歴史を、俯瞰してきたが、今なら、この過程自体が、お笑いものである。

20世紀後半の、性行動の、目まぐるしさといったらない。
男のマスターベーション入門などの、記事が、その手の、雑誌に載るほどになり、フリーセックスを経て、更に、マスターベーションの効用が、語られる。

マスターベーションで、痩せるなどという、歌い文句で、女のマスターベーションを、推奨するという、記事なども、雑誌に載せられた。
それが、今は、中国、上海で、流行っているというから、驚く。

現代の語るマスターベーションの、新しい展開を見て、更に、マスターベーションの効用というものを、見ることにする。

そして、飽くなき性の快感の、追求というものを、見ることによって、人間の性とは、何かを、問うことにする。


posted by 天山 at 00:00| 性について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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