2008年09月14日

ベトナムへ 14

明日は、バンコクへという前日の、夕方、ホテルの斜め前の、マッサージ店に入った。

いつも、数名の嬢たちが、料金表を掲げて、客引きをしていた。
そこで、一時間のタイマッサージを頼んだ。

五十代の、おばさんが着いた。
マッサージ室は、三階にあった。細長いビル一つが、マッサージ店だった。
誰もいない、だだっ広い部屋に、ベッドが並んである。
窓際のベッドに案内されて、二時間にした方がいいというのである。
二時間なら、350バーツで、得だよと。

もし、下手糞なら、二時間は、苦痛だと思った。これは、賭けである。
まだ、今日は、お客が一人もいないので、押し売りしているのかもしれない。
オッケーというまで、食い下がるので、オッケーと、答えた。

そして、マッサージがはじまった。
足裏から、脚全体にかけての、マッサージは、巧い。
そして、更に、上半身にきた。
いつもと違う。
このおばさんは、手、肘、足、膝と、縦横無尽に使って、私の体を、少しつづ、ずらしつつ、わき腹まで、揉んだ。
わき腹は、余ほどの人でなければ、事故にもなるので、揉まない。

これは、巧い。
最後になった時、太股の、内側を、足で揉んだから、驚いた。
そして、私の体を、少し横にし、背中を膝で、押すように、揉む。
今までにない、マッサージのテクニックを、幾つも見た。

自分の体重を巧く利用するのも、上手である。
見事だった。
プロの仕事である。

そして、終わり、私は、100バーツのチップを渡した。
そして、素晴らしいマッサージですと、英語で言った。
おばさんは、英語がペラペラである。

そして、言うには、タイマッサージは、二時間必要だという。
一時間では、やり切れないとのこと。
これから、タイマッサージを受ける時は、二時間やるようにしてくださいと、言われたのである。

イートさん、番号15。
店の名刺に、サインをして貰う。
パタヤでの、タイマッサージは、このおばさんに決まりである。
フットマッサージは、前回来た時の、ボーイマッサージ店の一人のボーイである。
力が強く、足裏を、ぐいぐいと押す。足裏は、どんなに強くとも、事故は、起きない。
そして、オイルマッサージは、あの、イサーン出身の、嬢である。

パタヤマッサージの顛末を終える。

さて、私は、バンコクに、バスで行こうと考えていた。が、ホテルに、車チャージの、コナーがあるので、料金を尋ねる。
800バーツ、1200バーツ、1500バーツ以上とある。
お勧めは、1200バーツ、約4000円のコースで、高速料金が含まれている。
800バーツは、高速料金が含まれない。車の質も違うと、後で、スタッフに教えられた。

バスは、一等エアコンバスで、一人約200バーツである。しかし、バス停までタクシーに乗り、降りてから、また、タクシーなど利用すると、色々と、お金が掛かるし、いちいち交渉しなければならない。面倒である。
よしと、1200バーツに、決めた。
出発は、一時である。
チェックアウトが、十二時なので、昼を食べて、行くことにした。

ところが、タクシー運転手は、十二時に、待機して待っていた。
それならと、乗り込んだ。
食べ物は、屋台で買った物が、多少あったので、それを、食べることにした。

バンコクまでの、高速道路は、スムーズに進んだが、バンコク市内に入ると、渋滞である。
スクンビットのナナ駅に近づくと、更に渋滞。

三時を過ぎた。
ようやく、運転手が、横道に入り、一気に、ソイ11に入った。
目印の、セブンイレブンがあったので、そこで、降りる。
旅行雑誌で、見た、ゲストハウスに泊まってみたいと、思ったのだ。
しかし、ほぼ満室で、ツインルームは、一泊しか出来ない。
900バーツである。

確かに、民家風で、緑に囲まれている。が、実に、不自然な感じである。周囲の形態と、違和感があり過ぎる。そして、少し高慢な、態度は、人気があるのだろう。
更に、フロントの横に、セックス目的の方は、お断りしますと、書かれてある。

どういうことだろうか。
つまり、売春する者を、連れ込むなということ、なのであろうか。
ラブホテルのように、使用するなと、いうことか。

確かに、欧米人のセックスは、長時間に渡り、更に、音が大きい。造りの粗雑な、部屋は、隣近所に迷惑である。
それにしても、わざわざ、そんなことを、書くとは・・・
それが、楽しみで、きている人もいるはず。

まあ、それぞれの、ハウスの、方針があっていい。
結局、私たちは、いつもの、600バーツという安いゲストハウスに向かった。
スタッフが、連れ込み宿という、ゲストハウスである。
私は、アンタ、連れ込み宿でも、ゲストハウスに替わりないと言った。私は、気に入っている、のだ。

今回は、オーナーさんが、フロントにいた。
オーナーさんは、日本に、十ヶ月過ごしたことがあるという。ただし、日本語は、ちょっと待って、ありがとう、さようなら、しか、出来ないと言う。
とても、親日溢れる、おじさんだった。

二泊することにした。つまり、バンコク滞在は、そこのみである。

部屋に、荷物を置いて、すぐに、食事に出た。
スタッフは、逢う人がいるので、私一人で、いつもの、屋台連合のような、ビルの横にテントを張っている屋台に出掛けた。
そこで、スープライスを頼む。
しかし、最初、それが、通じないのである。
ライスに、ラーメン丼を、ジェスチャーしたが、それなら、あちらの、麺屋だと、言われる。違う、違う。ライスに、と言うと、おじさんは、ご飯を大盛りに丼に盛る。違う違う。ライスに、スープ、スープという。
ようやく、おじさんは、スープライスかと言う。
ライススープと、スープライスは、違うのか・・・

とても、疲れた。
しかし、次からは、おじさん、私の顔を見ると、スープライスかと、尋くようになる。

何度聞いても、その、スープライスの、タイ語が、覚えられないのである。

食事は、ほとんど、そこでした。
そして、その近くのインド料理の店で、カレーを食べる。
その辺りは、インド、アラブ料理の店が、多い。アラブのテレビ番組を点けている店もある。
黒尽くめの、イスラムの女性の姿が目立つ。
そして、ホテル横の小路は、アフリカ系である。

更に、ナナ駅の付近には、女性、レディボーイの、ゴーゴーバーが、多い。
夕方からは、歩道に、長く、ナイトバザールがはじまるという、混雑さである。

食べ物の、屋台も多く出る。
毎日が、お祭りである。

スタッフは、一人のレディボーイと、逢っていた。
泊まるホテルを教えてくれたのも、そのレディボーイである。
朝から、レディボーイたち、女性たちの、立ちんぼがいる。
その皮膚の色が、多くなった。
黒人の、女性も、白人の女性も、立つようになったのである。
タイ人ばかりではない。

その夜、スタッフは、女装して、私をレディボーイの、ゴーゴーバーに連れた。
ビル全体が、ゴーゴーバーである。
何件もの店が、客引きをしている。

私は、はじめて、ゴーゴーバーに入ることになった。
音楽に合わせて、レディボーイたちが、水着姿で、踊る。
驚くほど、美しい人、可愛らしい人、様々である。
中には、吉本、お笑いという人もいるが、それもまた、楽しい。

しかし、長くは、いられなかった。
音楽と、照明に耐えられない。

私を指名してと、皆々、訴える。
指名をして、店から連れ出すのに、600バーツを払う。そして、後のことは、交渉次第である。

飲み物を運んでくる者も、レディボーイなのであるが、舞台に立てない、ちょっと、面白、レディボーイである。
しかし、必死で生きているのは、伝わる。

オレンジジュースを飲み終えて、清算する。
二人で、160バーツ程度。安い。
すると、子豚顔の、飲み物係りの、レディボーイが、チップ頂戴と言う。
20バーツという、ケチ臭いチップを上げて、退散した。

私のスタッフは、女性に見られたことに、満足していた様子。
そこで、一言。やるなら、徹底して、やるべきだと。
女に、見せるのではなく、女であること。

役者は、それに、見せるのではなく、それに、成るのであり、名優は、それに成るのである。

スタッフは、私に、日舞を教えて欲しいという。しぐさは、学ぶ必要があると、気づいたのだ。
所作は、教育される必要がある。

私は、踊りつつ、ホテルに向かった。
手踊りである。誰も気づかない程度である。

それが、最も楽しかった。
教養というものは、そういうものである。
人に見せるものではなく、私が楽しむもの。それが、教養である。
自己満足の、何物でもない。

蒸した、とうきびと、枝豆を買う。
20バーツ。
屋台のおばさんに、焼いたエビを、勧められたが、100バーツである。それは、高い。私のような、貧乏人には、手が出ないもの。

本当は、食べたいが、我慢する。
その、我慢が快感になる。

酒を飲まずに、早々に寝ることにする。
明日は、チェンマイから来てくださる、小西さんと、会う。



posted by 天山 at 12:41| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 44

性教育という目的のもとに、マスターベーションについてもわずかなりとも言及した初めてのフランス語の文献は、おそらく、1939年に出版されたカルノー医師の「愛のために」であろう。
1968年を境にした、この件に関する見解の変化は、目を見晴らせるものである。それまで、多くの著者たちはそれを徹底的に断罪し、過ちや罪と見なしてきた。ありうべき一つのステップと考えられることはあっても、やがて乗り越えられねばならないものであった。1965年、アメリカで、ジョンソンが先陣を切って、十二歳の子供たちに向けてこう書いている。「マスターベーションは、身体に害になることはないし、精神病の原因になることもありません。それに、将来の結婚生活において性的な喜びを損なうこともありません」この時以降、それを全面的に断罪するものは皆無となり、不安は沈静化され、罪悪視に終止符が打たれてゆく。マスターベーションは、少なくても少年においては、正常な、普通のものと見なされる。少女たちに関しては、その統計上の数値は調査によって大きな隔たりがある。いずれにしても、時々の、過度のものでないかぎり、それは危険なものではない。
オナニズムの歴史 ジャック・デュシェ

ここまでに至る、道のりは、実に長かったのである。

それ以降、思春期、自分の体を意識し、発見する、性器的快楽を発見する過渡期としての、時期にあっては、それは、正常なことであり、罪悪感を持つべきものではない、そこから、解放されるものである、という、世論になっていったのである。

成人してからも、性的パートナーの不在を代替するものでなければ、何ら憂慮するものではないとなる。

それから、マスターベーションに関する、肯定的な、意見が、相次いだ。

例えば、生物学的に、マスターベーションは、緊張の放出であるというもの。
心理学からは、愛情コミュニケーションの練習であり、単なる、孤独な快楽以上のものである、など。

過去の、蒙昧さ、狂気さに、逆襲するかのような、発言が、相次いだようである。

そして、生物学者でもあった、アルフレット・キンゼイの、確かな統計方法に基づく、「男性の性行動」と「女性の性行動」が、注目された。

それぞれ、1948年と、1953年の出版である。

夢精と区別される、マスターベーションに関する数値を、上げている。
男性の、85パーセントは、思春期に、それを経験し、成人したのちも、継続して行う者がいる。

定義として、マスターベーションは、外的な対象を使わずに、もっぱら、自分自身の身体に依存して、満足を得るという、自己性愛的行動を意味する。
自己性愛的活動は、ほとんどの場合、性感帯への、身体の他の部分、つまり、手などの接触によるものである。

キンゼイによれば、二十歳前の少年の、95パーセントが、マスターベーションを体験していると、報告された。
女子の場合は、83パーセントである。

つまり、圧倒的多数が、それを、体験しているということだ。

ただし、女子の場合は、手による摩擦のみをマスターベーションと見なすとすれば、その数値は、低いものとされた。

いずれにせよ、この数値から、マスターベーションは、正常な行為であると、判定された。
つまり、多数である。多数が、行うことは、正常行為なのである。

その中で、罪悪感が伴うとした男子は、26パーセントである。更に、それらの男子は、治療が必要だとも、考えていた。

マスターベーション擁護の発言が面白い。
愛情コミュニケーションの練習である。
マスターベーションをしながら、セックスすることを何千回も夢見ている。
それは、他者への、欲望を育んでいるのだ。
マスターベーションは、あらゆる意味で、愛する技術への関与であり、その習得であり、単なる手による刺激には、還元しえないものである。

常にと言うわけでないにしても、純然たる排泄欲求であった初めてのマスターベーション行為もやがて、パートナーを思い描く想像力に富んだ行為となり、つまり、まさしく成人のセクシャリティと、それに結びついた快楽の習得のようなものと言えなくはない。とすれば、それはまぎれもない教育的役割を持つことになる。場合によっては、空想の中に同性愛的なものが含まれることがあり、そのことで不安を感じる若者もいる。しかし実際は、そうした空想はこの時期の初めにあっては、ほとんど正常なものと見なされうるのである。異性との交際の機会のない単一の性集団の中でしばしば見られる相互マスターベーションも、必ずしも同性愛的傾向の兆しとは限らない。
ジャック・デュシェ

思春期に、マスターベーションを経験しない者の方が、多数になり、過去とは、逆転の様である。
しかし、しない者が、病的という訳ではない。

更に、現在では、性感染症などの意味から、マスターベーションによる、性的解放が、実に意味深いものとなっている。

エイズ問題が起こった時、アメリカでは、互いのマスターベーションを見せ合いながらの、マスターベーションルームという場所が、出来たくらいである。

また、妊娠に対する、恐れからの、マスターベーションの推奨もされたのである。

それでは、簡単に、避妊具の普及、例えば、ピルなどの普及によって、マスターベーションの頻度が減ったのかととえば、それを示す、統計的数字は、存在しないのである。

性的に、成熟する、つまり、異性間にしろ、同性間にしろ、セックスパートナーがいても、心理的、情緒的なことにより、マスターベーションは、持続されるものであると、いえる。

更に、マスターベーションを、楽しむべくの、大人のオモチャの世界は、凄まじく、進歩、発展しているのである。

ジャック・デュシェは、マスターベーションによって、これといった葛藤もなしにオーガズムを得ることができるなら、それは言わば、性的成熟のステップとなる。との、言葉を、掲げている。

更に、現代の、マスターべーションに関する、様々な見解を見ることにする。


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