2008年09月12日

ベトナムへ 12

レディボーイの、福祉施設に出掛けた、スタッフが、中々戻らないので、六時前に、電話をした。
すると、今戻るところだという。

五時間ほど、その施設で過ごしていたことになる。
その報告が、楽しみだった。
しかし、私は、簡単に書くことにする。
いずれ、彼が、詳しく書くことになると思う。

タイ政府の支援ではなく、アメリカの民間団体と、タイの民間団体が、支援金を出して、レディボーイのための、レディボーイによる、万相談所だった。

どんな相談にも、のってくれるのが、自分と同じ、レディボーイなのである。
医者の診療もあり、ホルモン投与なども行う。

それで得た情報は、何から何まであったという。
生活のことから、噂話まで、

その、活動は、チェンマイまで、広がっているとのこと。
そして、ゲイ関係の施設とも、連携としているようである。
パタヤには、別に、ゲイの福祉施設もある。

何と、スタッフは、会員になり、会員証まで、持ってきた。

すっかり、レディボーイになっていた。
人生とは、実に面白い。
人は行為によって、成りたいものに、なれるのである。

タイでは、レディボーイで、通したら・・・
そうだね、である。

バンコクに出た時も、レディボーイの恰好で、行ったから、楽しい。
ホテルに、入った時は、女と、認識された。

そこで、面白いことが、起こった。
何度か、出入りしていて、彼が、男用になっていた時、二人で、フロントから鍵を渡して貰った。
その時、フロントの女性が、スタッフに、あなたは、どこへ行くのと、声を掛けた。

その、安いゲストハウスのようなホテルは、フロントが、厳しく出入りを、確認している。それが、安心で、私も、そのホテルに泊まるのである。

一緒ですと、スタッフが答えると、フロントの女性は、私に、あの、もう一人の女性はと、尋ねるのである。

えっーーーもう一人の女性・・・

あっ
スタッフが、何と、日本語に訳すと、私は、おかまです。時々、女になったり、男になったりしますと、説明したのである。

唖然とした表情を見て、私は、笑った。
タイでは、当たり前の感覚で、受け入れるが、まさか、日本の、おかまが、という、複雑な表情である。

一件落着したが、後で、あの女性は、食事の時でも、他のスタッフに、ちょっと、泊まっている日本人がさあー、おかまでさー、などと、噂すると、想像した。

ということで、レディボーイの施設侵入は大成功だった。
アジアのトランスジェンダーの問題に、関わるつもりである。

帰国して、数日後に、韓国で、23歳の役者が、テレビで、ゲイであることをカミングアウトすると、すべの仕事が、キャンセルになり、絶望して、自殺したという、ニュースが、入った。
そして、続けて、そのような、自殺が、続いた。

痛ましいことである。
ただ、ゲイであるということでの、差別である。
韓国でも、ゲイは、盛んである。
しかし、根強い差別がある。それは、キリスト教である。
あの、排他的、非寛容の教えである。
これを、書き始めると、止まらなくなるので、別の機会にする。

その夜、初めて、少し高めの、レストランに行き、ステーキを食べることにした。
二人で、1000バーツの食事をした。
勿論、スタッフは、女に化けた。

生きるということは、演じることである。
親を演じ、子を演じ、男を演じ、女を演じ、夫を演じ、妻を演じる。
演じる時は、徹底して、演じることである。
それが、私の教えである。

私の本来は、何も変わらない。
故に、成りたいものに、なればいい。
私は、木村天山を演じている。

ドロボーは、物を盗んで、はじめて、ドロボーになる。
物を盗みたいと考えている時は、ドロボーではない。
行為して、はじめて、ドロボーになるのである。

聖者になりたければ、聖者を演じるとよい。
演じ続けて死ぬと、聖者として、生きたことになる。

成りたいものになれ、とは、私の教えである。

その端的な、生き様が、レディボーイである。
実に、興味がある。

今日の寝る場所を確保し、今日の食べ物を確保するために、人は生きる。辛いときは、夢や理想を思い描いて、脳内物質の、快楽物質を出して、乗り切る。
生きるとは、そういうことである。

そして、その大半は、死ぬまでの、暇潰しなのである。

暇潰しに、命懸けになるほど、面白いことはない。

老死を逃れることは、出来ない。
事実である。
人は、事実のみを、生きる。
真実などは、人の数ほどある。
真実、真理が、一つであるというのは、支配するための、策略である。
宗教を見れば、解る。
主義を見れば、解る。
あれらは、糞でもくらえ、である。

ステーキは、実に、拙かった。
後悔しても、始まらない。
いつも、家では、北海道からの、贈り物である、ステーキを食べているのである。
板を食べているようであった。

コックが出てきて、私を見るので、頷いて、拙いと思念を送るが、コックは、自信を持っている。美味いと、私が言っていると、信じている。
信じる者は、騙される。

1000バーツ、約3300円と、奮発したのにーーーー

帰りは、屋台で、スイカと、パイナップルを買った。
40バーツ、約130円。

あの、固いステーキ肉を、消化するために、体は、どんなにストレスかと、思いつつ、早々に寝ることにした。

明日の一日は、マッサージに賭けることにした。
パタヤは、実は、タイ全国から、マッサージ嬢が集う場所でもある。
下手も、上手も、色気も、タイマッサージのすべてがある。

今回は、最後に、五十過ぎのおばさんに、目の覚める、マッサージのテクニックを見た。
私は、彼女をマッサージの名人と見た。
彼女の胸には、誇り高い、タイマッサージのライセンスの、名札がついていた。

そして、もう一人は、東北部イサーンから出て来たという、23歳のマッサージ嬢である。
その親切と優しさに、私は、心で泣いた。



posted by 天山 at 12:41| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 42

1898年に、発表された、神経症の病因論におけるセクシャリティという、論文で、フロイトは、神経衰弱、ヒステリー症候群、不安神経症における、マスターベーションの、病因的役割を、明らかにした。

そこでは、また、強迫神経症の、発生における、マスターベーションの、重要性も、指摘された。

強迫観念の発生は、マスターベーションとの、熾烈な戦いの後に、一定の潜伏期間をおいて、表面に現れるという。
そこでは、マスターベーションが、見かけ上、負けただけで、単に抑圧されているにすぎない。
そこから、生じる、不満足感による抑制は、知的抑制ともなるという。

フロイトの手紙に、
マスターベーションこそ、唯一にして最大の習慣であり、根源的欲求であると、そして、アルコールとか、モルヒネ、タバコといった嗜好品への欲求は、その代替物、代用品に過ぎないという結論に達したのです。
とある。

1919年、子供が叩かれる、との、題された論文で、フロイトは、その頃、一般的だった、性的空想について、論じている。

この空想には、それに続く、マスターベーションによる、甘美な感覚と、羞恥心、罪悪感という、激しい感情とが、混合しているというもの。
そして、最初は、自発的に、やがて、強迫的になり、空想は、果てしなく、反復されてゆく。

更に、マゾヒスティックな空想による、マスターベーション以外では、性的快感を、得られないという、マゾヒストもいるとされた。

フロイトは、男女を問わず、成人の中でも、頻繁に、マスターベーションが行われてると、考えていた。

それに、付随した、羞恥心のせいで、隠されることにより、様々な、神経症の原因となると、判定した。

患者がつねに自分の性的習慣と闘っていることを、そしていつもその闘いに敗れて絶望に追いやられていることを医者が理解すれば、そしてさらに、患者からその秘密を聞き出し、その重みを軽減し、そこから抜け出すために助力しようと努めれば、治療効果は必ずや報われるはずである。
フロイト

医者は、マスターベーションの告白が、得られたら、その習慣を、改めさせることだというのである。

こうした治療は、病院施設で、監視の元で、行われなければならないのである。
そうしなければ、自慰者は、安易な充足手段に戻る。

フロイトは、自慰者を、モルヒネ、コカイン、睡眠剤の中毒患者と、同じように、考えた。

つまり、自慰というものが、為されない場合は、薬物に頼るという、考えだったといえる。
今なら、笑い話である。

医者は、夫婦の、一方あるいは、両方を神経症の危険に晒したくない場合は、夫婦の性生活を、問い、新婚初夜から、妊娠の回数を減らすという目的で、中絶性交、つまり、オナニズムに頼っていないかを、知るべきであるとする。

フロイトは、避妊手段に、経口避妊薬が、発明されることを、願っていたという。

フロイトも、矢張り、古い人間で、
苦労することなく、安易な方法で、大きな目的が達成できるということを、教える、この悪癖によって、人格を堕落させる。
と言うのである。

それに対して、作家、カール・クラウスは、シニカルに、論理を逆転させる。
性交とは、マスターベーションの不満足な代用品に過ぎない。

この言葉は、実に、的を得ている。
現在、マスターベーションの、優位性というものは、セックスを考える上で、重要なものになっていると、思われる。
セックスとは、何かと、問う時、マスターベーションとは、何かを、問うことで、理解される。
そして、性的満足というものは、何かと問う時も、である。

さて、1910年、ウィーンにて、精神分析学学会で、オナニズムおよび、その他の自己性愛的行為についての、議論が交わされた。

それは、自慰論という、題で、その年に、刊行されている。

全員が一致した意見
オナニズム行為に伴う、あるいはその代わりをする空想の重要性について。
M・クラインは、子供の遊戯をマスターベーション的空想の表現と見なす。

オナニズムに起因し、それに結びついた罪の意識の重要性について。
どのような条件においてオナニズムが有害であるかを定性的に決定することの不可能性について。

一致を見なかった種々の見解
オナニズムの身体的影響の否定に関して。
オナニズムの有害性全般の否定に関して。
罪悪感の起源に関して、不満足感から直接に由来するという見解と、そこに社会的要素を認める、あるいはそれぞれの場合について、幼児期オナニズムの偏在性に個人的差異を認める見解とがあった。

最後に、不確かなままに残ってしまった重要な問題
それが確認されたとして、オナニズムの有害性のメカニズムについて。
現在の神経症とオナニズムとの病因論的関係について。

フロイトは、神経症の発生に関して、容易に満足が得られるせいで、幼児的性目標の固着と、心的幼児性の中に、停止したままでいることが、可能になるという点で、明確に、オナニズムの有害な影響を、認めている。

能力が有り余っているとき、高潔であることは、なかなか難しい。オナニズムは、美徳の欠如であると同時に、逆に、欠如の美徳ともなる。
フロイト

それは、
マスターベーションの有害性は、それに伴う罪悪感と結びつき、そこには悪循環のようなものができあがり、罪悪感をなだめようとしてマスターベーション的満足に回帰し、それがまた罪悪感を生み出してしまうのだ。
要するに、思春期以前の子供のマスターベーションは有害ではないとしても、青春期を過ぎて成人の年齢に達してもなお持続する場合には、必ずしも害がなくはないということである。
オナニズムの歴史 ジャック・デュシェ

この後、フロイトの、弟子達の時代が、来るのである。

posted by 天山 at 00:00| 性について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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