2008年09月04日

ベトナムへ 4

私は、ホテルの部屋で、ゆっくりと、眠れるタイプである。
よく、人には、不思議がられるが、ホテルでは、何も無いからである。
電話も無い。今は、携帯があるが・・・海外では、無用である。
本も読まない、書くことも無い。要するに、眠ることしかない、空間になるのだ。

ゆっくり寝るためには、ホテルが一番であると言うことは、旅寝が良いということである。

最初の日は、夜九時に寝た。
ただ、いつもより早いため、深夜二時頃に目が覚めて、しょうがなく、缶ビールを飲んだ。
それから、また、寝て、朝五時過ぎに、目覚める。

ホーチミンの朝は、早く、五時過ぎから、人が動き出している。
朝の屋台の、準備である。
そして、お客は、六時を過ぎると、やってくるという。

七時頃に行くと、すでに、混雑している状態である。

まず私は、ホテル並びの、レストランに入り、コーヒーを注文した。
濃いコーヒーをお湯で割り、砂糖を入れず、ブラックで、味わいを楽しむ。しかし、慣れていないせいか、胃に負担が大きい。

屋台の朝食は、明日からにしようと、そこで、サンドイッチを頼む。
屋台の値段に比べると、五倍程、高いのである。

ある程度のレストランだと、英語が出来るウエイトレスがいる。
そこで、少しばかり、色々なことを尋ねた。

日本から、少し衣服を持ってきている。必要な人はいるかと、尋ねると、沢山いると言う。
どの辺りに持って行けばいいかと、また、尋く。
地図で、私たちの泊まるホテルから近い、大きな通りの辺りを指し、ここに沢山の人が住んでいて、衣服の必要な人は、いるという。

こんな、街中でも、と、思った。
もっと、郊外になるのではないかと、思えたが、違った。
本当は、車をチャーターして、町を抜けて、村村に、行くつもりだったが、ホーチミンの街中で、衣服を渡せるとは、と、ウーンと、考えた。

しかし、街中を歩けば、貧しい人こそ、街中にいて、暮らしていると、知る。

町を抜けて、村に向かえば、ほとんどは、農業をしている人々である。
後で、ベトナムの、経済政策について書くが、農業に従事する人々は、今、大変な状況にある。

兎も角、それでは、ホーチミンの街中を歩いてみることにした。

その前に、チェックアウトが、正午なので、二泊するホテルを、探すべく、付近を歩くことにした。

ホテルの状態を知りたいということもあり、手当たり次第に、アタックした。
そして、それぞれの部屋を見せて貰う。

ホテル料金は、すべて、ドルである。
20ドル前後が、相場である。
30ドルも出すと、高級感がある。
つまり、三千円程度で、良い部屋に泊まれるのである。
ただし、高級ホテルは、200ドルを平気で、超える。二万円である。まあ、日本では、普通の料金である。

私には、興味の無いホテルである。

別に、貧乏旅行を、気取る訳ではないが、安くて、良いホテル、ゲストハウスに泊まるということが、楽しいのである。
高級ホテルにはない、現地の人との、交流がある。
それは、追々書いてゆく。

一時間以上も、回ってみた。それも、一丁角である。
随分とホテルがある。

その中で、一泊、15ドルの部屋があるという、ホテルに着いた。
早速、部屋を見せてもらうが、その前に、受付の女の子が、一人用ですと、言った。
一人用なら駄目かと、二人で話していると、女の子が、一人用でも、二人で、泊まれますと、言う。

変な話であるが、日本のように、一人一泊、幾らではない。部屋、一つについて、幾らなのである。
だから、三人で、泊まっても、15ドルなのである。

さて、私たちは、部屋に案内された。
ところが、一階から、二階、そして、三階と上がるが、階段が長いのである。
えー、まだ、上るの。

その部屋は、四階にあった。
ホテルは、五階建てである。

私は、息を切らせていた。

広くて良い部屋である。
古いが、設備も整っている。つまり、ホットシャワーであり、エアコンもあり。
大きな、ベッドが、どんと、置いてある。
天井が高く、一面窓で、開放感に溢れる。

天井が高いということは、階段が長いということ。
いちいち、あの、長い階段を上るということになる。
しかし、15ドルは、安い。

いい、いい、とは、言いつつ、スタッフが、私に、大丈夫と、尋く。
階段のことである。
エレベーターが無いということが、致命的である。
しかし、もし、若ければ・・・勿論、私も若いが、即決まりである。

フロントに、戻り、後で来ると言って、一度、ホテルに戻ることにする。

その間に、二件のホテルを見たが、矢張り、四階のホテルの部屋が、一番安い。

面白いのは、日本人だと知ると、まず、一番高い部屋を紹介される。
それで、決まりだと、相手が、思いこむ。
金持ちに見られるのである。

22ドルの、小奇麗なホテルの部屋に戻り、さて、どうすると、二人で、相談する。
問題は、ただ、階段である。
ただ、それだけでである。
それなら、問題はないということになった。
最後の私の、答えは、運動になる、という結論である。

二泊で、30ドルは、安い。
三千円である。
あの、ホテルに決めた。

早速、荷造りをして、チェックアウトの準備である。

支援物資を運んで、あの四階を上るというのが、難だったが、閃いた。フロントに、支援の衣服の二つのバッグを、預けるのだ。
ああ、これは良いアイディアだった。

最初のホテルに、泊まり続けると、余計に、12ドルかかる。その金額は、それからの、すべての食費分である。

私は、荷物を持って、意気揚々と、次のホテルに向かった。
歩いて、五分もかからない、場所である。

ホテル探しのお蔭で、その辺りの地図が頭に入った。

午前十一時前でも、部屋が空いていれば、チェックイン出来るのである。

中小路を、見下ろせる、大きな窓から、辺りの風景を、眺めて、満足した。
バスタオル二枚のみの、シンプルな備品。
歯ブラシも、二本セットがあった。シャンプー、リンスの、使いきりのもの、それぞれ、一つ。
これで、十分である。

昔、私は、日本で言うところの、高級ホテルに、泊まった経験は多いが、何故か、今の方が楽しいのである。
何故か。
根っからの貧乏好きなのであろうと、思う。
それで、今は、イメージが貧乏なので、貧乏なのである。
だが、それを、楽しめるというのは、傲慢であることを、知っている。
ホーチミンの人に、私は貧乏ですなど言えば、軽蔑されるだろう。

貧乏人が、ベトナムになど、来れるものではない。
意識を認識し、それを判断するということは、実に、難しいものである。


posted by 天山 at 12:36| H20.09 ベトナムへ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 153

日蓮にゆく。

日蓮は、仏陀を知らない。
それは、実在の仏陀を知らないというのではない。
仏陀の教えを知らない。
彼が、知った、仏教は、天台である。
ここに、彼の悲劇がある。

下々の、身分である、単なる僧の一人が、国の政治に、物申すという、暴挙をなした。
何故か。
国を案じたか。
違う。
自己顕示欲と、名利の何物でもない。

千葉の貧しい漁民の子に生まれて、天下を目指すとしたなら、身分の意識曖昧な、仏教という、場から、はじめなければ、彼の野心を、満たすことはない。
高僧になれば、身分を超えて、ゆける。

法華経を称えること、天台を真似て、祈祷をなすこと、真言に真似て、題目を唱えること、念仏に真似て、末法思想は、厭離穢土の浄土門を、真似た。
さらに、安国を述べること、仏教の護国を、真似た。
そこに、オリジナルは、無い。

更に、鎌倉では、神道をも、学んだ。
故に、神棚の前でも、法華経を唱えるという、行為が、日蓮から、はじまった。

後の人、法然は、理で悟り、親鸞は、情で悟り、日蓮は、意で、悟るというが、そんなことはない。
皆、それは、迷いである。

彼が、他宗のすべてを、罵り、攻撃したのは、それらに、最も関心を抱いたからである。
彼の、不屈の精神は、偉くなり、人に尊敬されること、それに、尽きる。

彼の、行動は、すべて、裏目に出た。

仏僧は、多く、偏屈であり、天邪鬼が多い。
私自身がそうであるから、それを、理解する。

人の意表を突き、飄々として、いられる。
あえて、物議を醸し出す。
日蓮は、それの、典型である。
彼の、教義の屁理屈は、何のことは無い。

日蓮の目的は、解った。
それでは、日蓮を見る。

「立正安国論」にみられる日蓮の抱いた疑惑そのものは必ずしも新しいとは言えない。源平合戦から承久の変まで、なぜ多くの天皇が悲運のうちに倒れて行ったか。安徳帝や、承久の変で配流となった三上皇を悼んでいるが、そこに古代風の「鎮護国家」にむすびついた一種の「神国思想」がみられる。また内乱を通しての犠牲者と、そこに生ずる無常観は当時の誰しも抱いたところである。或いはなぜ天災地異がくりかえされるのか。鎌倉の大地震や、疫病飢餓の発生を深く憂えているが、これも当然のことだ。内乱と天災と疫病と、歴史は恐怖の歴史だという実感に立っていることは、いずれの出家者にも共通している。
亀井勝一郎 日本人の精神史


何も、新しいものではない。
そして、注目すべきは、彼は、日本という国に、その精神的支柱として、君臨すべくの、活動であるということ。
それは、野心である。


では日蓮の独自性はどうにあるか。いまのような疑惑に直面して、法華経を根本とするととともに、それ以外の一切の経典と宗派に対して、強烈な折伏力を発揮し、その結果として生ずる受難において、信仰の証をたてようとした点である。

と、亀井は言う。さらに

法華経専修による宗教改革力を爆発させたようなものである。法華経そのものは聖徳太子の時代以来、ひろく読まれてきた。様々な性格の菩薩が登場し、劇的に構成された多彩な大乗経典であり、芸術の上にも多くの影響を与えてきた。しかし、日蓮のように読んだものはひとりもいなかった。

そうである。
日蓮のように、あの、御伽噺を、あのように、読んで、解釈したものはいない。
それに、注目すべきであろう。

日蓮の、末法思想は、膨大な仏典の、どこにも、出てこない。というより、そんな、考え方は無い。
それは、中国の一人の、誇大妄想の僧の、アイディアから、生まれた、思想というより、戯言である。

末法という、考え方に、強迫された。
要するに、末法思想の、強迫神経症である。

更に、日蓮は、その、末法というものに、撹乱され、今こそ、我が、我が、我がと、自我意識を、拡大させた。
とてつもない、妄想の中に、身を埋没させたのである。

それに、拍車をかけたのが、名利である。


日蓮の考えた末法の世とは、折伏の時機であった。接受ではもはやまにあわぬとみたところに、彼の危機感があったということである。法華経を護るため、様々な経文から、折伏の必要と必然性をあきらかにしようとしている点に、きわだって特徴がみられる。
亀井勝一郎

法華経については、後で、じっくりと、検証する

日蓮の、迷いは、正法というものと、釈迦の説いた教えの、根本であるという、ものである。
要するに、信じた。
何をか。
自分の妄想を、信じ込んだのである。

これこそ、正法、釈迦が、説いたもの。
信じるしかない。
釈迦に会っていないのだから。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 34

分子生物学からの、男女の生物学的、成り立ちをみた。

驚かれた方もいると、思う。
男は、女から出来たという、事実である。

勿論、これで、男と女の脳の仕組みについて、書きたいところだが、後日に譲る。

そこで、女のエロス、エロティズムというテーマに、移ってみたい。というのは、生物学的に、女が、主体であれば、その女のエロスに対する、情動がどんなものかを、知りたくなるのである。

ここで、明確にしておきたいことは、男と、女の世界は、それぞれ、固有の世界であるということだ。
エロスに対しての、情動は、あまりにも、乖離していると、私は、考えている。
溝が小さいが、それは、埋めることの出来ない、溝である。

端的に、セックスとは、勃起したペニスが、女の膣に入る、男のペニスを、膣に入れるという行為である。

よって、不能の男、つまり、インポテンツの男は、セックスが出来ないということになる。

勿論、例外はある。
性器結合だけが、セックスではないという、考え方もある。
それは、また別に論じることにする。

男には、不能があるが、不感症ということは、有り得ない。

そして、女には、不感症というものがあるが、性交不能ということは、有り得ないのである。

女の肉体は、いつでも、受け入れることが、出来るが、男は、勃起していなければ、挿入は、出来ない。
女は、どんな場合でも、男によって、肉体を開かれることが、可能である。

男は、勃起さえすれば、眠っている女とでも、死んだ女とでも、セックスは、可能である。
更に、男は、女を強引に、強姦することが、出来るが、女は、男を基本的に強姦することは、出来ないのである。

男が、その気にならなければ、女は、性的満足を得ることが出来ない。
それは、男の欲望が、攻撃的であり、能動的であるということである。逆に、女は、受身でいるしかない。
女が、攻撃的であるということは、男を、その気にさせるという、媚態のみである。

更にである。
セックスは、男の射精によって、終わるという、動かしがたい事実がある。
女が、エクスタシーを、感じなくても、男が、射精をすれば、セックスは、終わる。
更にである。
女が、満足しようが、しまいが、射精されてしまえば、女は、妊娠するという、生物学的、結果が、表れる。

男の性的満足が終わった後から、女の性的歩みが、始まるという、事実を無視出来ない。
女のエロスとは、何か。

男の、ペニスが、面に出ているということは、実に、男と女の関係に、不思議な、陰影を与える。

男は、物心ついた時から、ペニスを見て育つ。しかし、女は、ペニスが無く、膣は、体の中にあるという、決定的な、生物としての、違いがある。
これを、理解しなければ、話は先に進めない。

当たり前ということだが、その当たり前を、理解し、受容するには、時間がかかる。

女の子は、自分にペニスというものが無いということで、劣等感を抱くという、報告がある。

これから、女の性的役割が、受動態であり、女は、男の、能動態、つまり性的欲望の、客体になるという、事実が解る。

フロイトが言う、リビドーという観念は、性的欲望であり、それは、男に対するもので、女の、リビドーという観念は無い。

それでは、女に、欲望は無いとかといえば、そんなことはない。しかし、男の欲望とは、異質であるということだ。

男の欲望の元は、ペニスである。
ペニスの、リズムが、欲望である。

女の、セックスの主体性を、確立しようとすると、必ず、躓く。

女にも、色情狂という者がいると、言われるだろうが、女の色情狂の、裏には、不感症という、病理があるのだ。
奔放な性的行動を取る女は、その時期、不感症であると、言える。

奔放な女が、不感症ではないとすれば、そんな行為を、続けていれば、死ぬ。

男の、エロティズムを知る女は、レズにしか、見出せないはずである。
しかし、これは、特殊な場合であり、別に同性愛を書く時に、論ずることにする。

それでは、女のエロスに対する、本質的な、ものは、何か。

まず明らかなことは、女のエロティズムを支配する本質的な要素の一つが、自己の内部に欲望の芽を育てることではなくて、むしろ相手のうちに欲望を掻き立てることだ、ということである。まず相手の欲望を生ぜしめ、次いで自分もそれを共有する。だから女における欲望とは、一般に、彼女が相手の男の中に目覚めさせる欲望の函数である、と言うことも可能だろう。
澁澤龍彦

つまり、どんな、積極的な女でも、我が身を、客体化させて、はじめて、自身の欲望を達成させることが、出来るというもの。

女のセックスとは、だから欲望するものではなくて、本質的に欲望されるところのものである。
澁澤龍彦

女の、欲求不満は、一つの男の愛情と、その肉体と、ペニスによって、満たされる。しかし、男の場合は、そうではない。肉体の満足だけではなく、精神的、頭脳的な、満足を求めるのである。

それが、男と女の乖離である。

浮気は、男の性的特徴である。
どんなに、愛する女がいても、男は、別の女と、セックスすることが、可能である。
また、その、セックスは、愛する女とは、別のものなのである。
これが、男と女の、埋められない、小さな溝だと、私は言う。

セックス時における、男と、女の違いに、それが、明確にされる。
男は、眼を開いて、女の姿態を見て、興奮し、満足感を高めるが、女は、眼を閉じて、その快感に身を浸すのである。

これは、どうしようもない、溝である。

posted by 天山 at 00:00| 性について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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