2008年08月18日

神仏は妄想である 119

八宗の祖といわれる、龍樹である。
その、考え方の、バックボーンを、般若経、そして、浄土三部経とした。

要するに、解釈である。
それが、大乗仏教の教義の、始めである。

そして、理論としては、無所得空を、実践としては、阿弥陀仏の本願に基づく、念仏の教えによって、不退転の位に住するという。
不退転の位とは、仏の候補者になって、命終わり、浄土に生まれて仏となるというものである。

ここで、仏教家は、仏陀から、龍樹へと、教えが伝えられたと、信じたことである。
仏陀滅後、七百年後の人が、仏陀の教えを、受け継いだというのである。

それが、更に飛躍して、日蓮などは、仏の教えが、東より西に帰るだの、道元のように、これこそ、仏陀の教えを継いだものだと、言うのである。

青年の主張である。

仏陀在世当時、様々な、考え方があった。その中で、仏陀は、極端を嫌った。それゆえ、中道という、考え方を勧めた。
勧めたのであり、強制ではない。

多くの偏った見解にある、当時の様である。
快楽主義も、禁欲主義も、苦行主義も、運命論者も、道徳否定者も、不可知論の者も、ありとあらゆる、考え方があった。
その中で、仏陀のオリジナルな、考え方は、中道だった。

苦と楽という、両極端を否定して、中道を得ることを教える。
また、面白いのは、あるとか、ないとかの、両極端を克服するともいうのである。
それを、後の人、仏教という、一つの枠に嵌めた。

さて、この中道という、考え方は、実に難しい。
私が、それを、解釈しても、中道にはならない。何故なら、中道の思想とは、百人百様の思想だからだ。

このように、書けば、仏教家は、もっと、深いものだと、批判するであろうが、書く。
その深いものだと、思い込む様が、実は、迷いなのであるが。

人により、丁度良いという、感覚は、それぞれである。
これが、良いというものは、無い。それは、人によるのである。

ロシアの夫婦は、一週間に、八回セックスして、当たり前である。それを、日本人の夫婦に、当てはめることが、出来るだろうか。
若いうちなら、何とかなるが、年老いてくると、無理であろうし、それほど、セックスをしなくとも、夫婦関係を続けていられる。

中道とは、何かである。

先に、龍樹が、不退転の位を得るためと言ったが、それを、歓喜地という。それは、仏になるための、位の一つであり、菩薩の段階から、言うと、十地の位の、最初であり、全体の修行の段階から、四十一番目であるという。
ちなみに、仏の位は、五十二番目である。
不退転であるから、退かない位ということである。

こういう考え方をするという、龍樹を、真っ当な感覚といえるのか。

仏の位を定めて、仏に至る修行をするという、矛盾である。
それそこ、仏陀の否定したものである。

仏教家は、悟りを、我自身を知るものであるという。
本来の私というものを、悟ることだという。
更に、仏の教えを聞くことは、同時に、自己自身の姿を見つめてゆくことだ、ともいう。

それを、また、我執の自己というものに、気付くという。そして、我執のままに、無所得空の、私が実現するというのである。

それが、深くなると、我執にとらわれている、自己で良かった。煩悩具足の凡夫で良かったということになる。
阿弥陀の御蔭で、ある。

そのまま、問題意識なく、聞いていれば、そんなものかなあと、思えるが、真っ当に、考えれば、あまりに、身勝手な言い分である。

面白いのは、仏陀在世当時は、その弟子たちが、悟りを開いて、多く、阿羅漢になったという。つまり、菩薩の位を得たと言う。
しかし、その、滅後は、そういう阿羅漢の位に到達するのが、困難になったという。
修行が難しいことと、それに耐える能力のある者が、減ってきたのであると。

仏陀在世当時に、悟った、阿羅漢になったと、誰が、知るのだろうか。

阿羅漢という、大乗で言うところの、菩薩になったかどうかは、本人にしか、解らないのである。
そう、本人の自覚である。
つまり、悟りとは、本人の、自己認識である。
更に、つまりは、自己申告なのである。

私も、菩薩であるということになる。
自己申告する。

それにである。
仏陀滅後、修行が難しくなった、それに、耐える能力のある者が、減ってきたというのである。
それでは、仏陀の存在している間のみ、菩薩になることが出来るというのと、同じである。
おかしい。
仏陀は、最後の言葉で、我を頼るな、己自身を頼り、真理の法を抱けというのである。

仏典の矛盾は、多くの人の、考え方により、様々な方法で、書かれたゆえに、支離滅裂になってしまったのである。

阿羅漢とは、直訳すれば、施しを受ける相応しい者、尊敬される者である。聖者四段階の、最高位であるという。
誰が、それを、認定するのだということになるのだが、気付かない。

ここにくると、キリスト教の、聖職者の段階に似てくる。
法王、枢機卿、大司教、司教、司祭、助祭等々である。

龍樹は、単に、頭が回った者であることが、解る。
私には、手の届かないほどの、頭の良さである。しかし、それ以上の何者でもない。
今に至るまで、この龍樹に対する批判が無い。
誰も、龍樹のように、頭が良くないのである。
また、その、ブランド名に、適わないのか。

西暦前後に、大乗を始めた人々は、仏陀が説いた一つの、信心を主にする、悟りの道を、大乗経典を編纂することによって、云々という。
それを、龍樹が、不退転の悟りの位を得ることを、明らかにしたという。

明らかにしたのではなく、創作したのである。

これこそ、龍樹の、顕示欲である。
仏陀の教えを、根こそぎ、奪い、我が物として、アレンジして、道の祖となるべくの、手はずである。

それを、日本仏教は、大乗として、伝える。

ちなみに、仏陀は、もう一つの悟りへの道を、示したといわれる。
それは、理論によって、悟るというものである。
それを、隋法行という。
信心を主にする悟りを、隋信行という。

それらも、後に、付け加えられたものである。

信心というが、西暦前後の人々は、仏陀を慕った心を、信心というのである。
今の信心は、信仰であり、それとは、別物である。
信じるという行為が、同じものだと、思うのは、愚かである。

理論で悟るという人と、信心で悟るという人では、その悟りは、全く違うものになる。
それでも、同じ境地に行くというから、困る。

そうして、今では、他宗教の者とも、同じ境地に行くという人がいる。
そんなことは、一切無い。

同じ境地に行くのなら、宗派の別は無い。
同じ境地ではない、顕示欲が、宗派となる。
見よ、馬鹿馬鹿しい限りの、宗派の争いである。
それを、見るだけで、それらが、嘘だと、解る。

仏陀を見よ。
彼の怒りを、私は受け取らないという。
私が受け取らなければ、その怒りは、彼自身に向くという。
実に、真っ当である。

相手に、説くが、それを受け入れなければ、そのまま、立ち去る。

やや、虚弱体質の仏陀は、無理、無駄を嫌った。
その身を慈しみ、その人生を、味わい尽くす。
生きていること、それが、恵みである。

この世を厭うという感覚は無い。
あの世は、あの世である。
今は、この世にいる。

仏教家の、何人が、あの世を知っているのか。
知るはずが無い。
知れば、僧を辞めている。

僧侶が、あの世で、良い場所に行かないことくらい、その姿を見れば、解るというもの。

どんなに、善行を行うとも、僧侶は、あの世では、幽界止まりである。
それは、読経をするからである。
読経は、言霊が大きく乱れる。

それは、漢語の棒読みからくる。
私は、声明というもの、魔界の音だと、知る者である。

大和言葉から、言えば、濁音が多すぎる。
濁音は、魔界関与の音である。

地獄ではない。
魔界である。

あれは、芸術。そう、芸術である。芸術とは、魔界から、発するもの、多い。
芸術、は、術である。



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もののあわれ280

かの夕顔の宿りには、いづかたに、と思ひまどへど、そのままにえ尋ね聞えず。右近だにおとづれねば、あやしと思ひ嘆きあへり。たしかならねど、けはひを、さばかりにや、と、ささめきしかば、惟光をかこちけれど、いとかけ離れ、気色なく言ひなして、なほ同じごと、好き歩きければ、いとど夢のここちして、「もし受領の子どもの好き好きしきが、頭の君におぢ聞えて、やがていて下りけるにや」と思ひよりける。



あの夕顔の宿では、女君は、どちらに行ったのかと、心配するが、探すことが出来ないでいる。
右近までも、便りもしないので、変なことであると、皆、悲しんでいた。
はっきりとはしないが、ご様子から、この方ではないかと、ひそひそとして話し合っていたが、惟光にも、ほのめかしてみるが、丸っきり、知らない様子であり、関係がないように、話す。
やはり、今まで通りに、惟光は、からかって回るので、変な夢のような気持ちがして、もしや、受領の子で、女好きな者が、頭の中将を怖がり、女君を、連れて国に、下向したのかと、考えたりするのである。



この家のあるじぞ、西の京のめのとの娘なりける。三人その子はありて、右近はこと人なれりけば、「思ひ隔てて、御ありさまを聞かせぬなりけり」と泣き恋ひけり。右近はまた、かしがましく言ひさわがれむを思ひて、君も、いまさらに漏らさじ、と忍び給へば、若君のうへをだにえ聞かず。あさましく、ゆくへなくて、過ぎ行く。


この家の、主人が、西の京の乳母の娘であった。
三人、乳母の子があり、右近は、他人だったゆえに、分け隔てして、女君の様子を知らせないのだと、涙を流して、忍ぶのである。
右近の方も、やかましく、騒ぎ立てられると、君も、今になって、我が名を出したくないと、お隠しになるので、若様の事さえ、聞けないでいる。
呆れたことに、行くへも、知らぬままに、時は、経てゆく。



君は「夢をだに見ばや」と、おぼしわたるに、この法事し給ひて又の夜、ほのかに、かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じようにて見えければ、「荒れたりし所に住みけむものの、我に見入れけむたよりに、かくなりぬる事」とおぼしいづるにも、ゆゆしくなむ。



君は、せめて、夢にでも、見たいものと、思い続けているが、四十九日の法事をされた、その翌日の夜、かすかながら、あの事件の起こった、院そのままに、枕元に立った、女の姿もそっくりな、夢に見えた。
荒れ果てたところに、住んでいた魔物が、自分に見入ったついでに、こんなことになったのだと、思い出すと、寒気がするのである。

ゆゆしくなりむ
寒気がする。気分が悪くなるのである。



伊予の介、神無月のついたちごろに下る。女房の下らむにとて、たむけ、心ことにせさせ給ふ。またうちうちにもわざとし給ひて、こまやかにをかしきさまなる、櫛、あふぎ、多くして、ぬさなど、わざとがましくて、かの小うちぎもつかはす。

源氏
逢ふまでの 形見ばかりと 見しほどに ひたすら袖の くちにけるかな

こまやかなる事どもあれど、うるさければ書かず。御使ひ帰りにけれど、小君して、小うちぎの御返りばかりは、聞えさせたり。

空蝉
蝉のはも たちかへてける 夏衣 かへすを見ても ねは泣かれけり

「思へど、あやしう人に似ぬ心強さにても、ふり離れぬるかな」と思ひ続け給ふ。けふぞ立つ日なりけるもしるく、うち時雨て、空の気色いとあはれなり。ながめ暮らし給ひて、

源氏
過ぎにしも けふ別るるも ふた道に 行くかた知らぬ 秋の暮れかな

なほ、かく人知れぬ事は苦しかりけりと、おぼし知りぬらむかし。



伊予の介は、十月の上旬に、任国に下る。
女房が、一緒に下るはずとて、別れの品を、贈る。
別に、女たちにも、特別に贈りになった。
細工の良い、美しい櫛や扇、幣などは、特別に仕立てたと、見えるもの。
そして、あの、空蝉の、小うちぎ、も、返した。

源氏
また逢う日までの、形見と、見ているうちに、落ちる涙に、袖がすっかり、朽ち果ててしまったことだ。

色々とあったが、うるさいから、書かない。
お使いは、帰ったが、小君を、使いに、小うちぎの、返歌だけは、差し上げた。

空蝉
衣替えも、終わり、今、お返しくださった、夏衣を見ると、声を上げて、泣きたい気持ちです。
いや、泣いたのである。

考えても、不思議なほどの、強情さで、拒み通して、離れていったものだと、源氏は、感慨深い。
今日は、立冬である。
いかにも、冬らしく、はらはらと、時雨が降る。
空が、実に寂しい。
一日、物思いに、浸り、

源氏
死んだ女、離れる女、共に、遠くに行く。今日が、最後の秋の日と、同じように。

こんなような、人に隠しての、事は、やはり、苦しいものだと、思い当たりなさったことであろう。
と、最後は、作者の言葉、感想である。

そして、最後の段。


かやうのくだくだしき事は、あながちに隠ろへ忍び給ひしも、いとほしくて、皆もらしとどめたるを、「など御門の御子ならむからに、見む人さへかたほならず、ものほめがちなる」と、作り事めきてとりなす人、ものし給ひければなむ。あまり物言ひさがなき罪、さりどころなく。



こんな、ゴタゴタした、お話。
努めて、忍び隠していたのも、お気の毒なことなので、すべて、控えていたのに、なぜ、御門の御子だからと、知っている者までが、短所はないと、何かにつけて、誉めてばかりなのか、と、作り話のように、思う人がいるようなので、あえて、申しました。
無遠慮な、お喋りの、非難は、免れないことでしょう。
と、作者である、古女房は、言う。


夕顔の巻が、終わった。
これ以上の、詮索は、しない。


けふぞ冬立つ日なりけるもしるく うち時雨て 空の気色いとあはれなり

しるく
その日である。
うち時雨て
密かに時雨れる。
空の気色いとあはれ
空の気配は、大変に、あはれ、である。
この、あはれ、を、何と訳すか。

前後の、文章から、この、あはれ、の意味を、探る。
あはれ、の表情が、無限に広がる。

ここには、この、物語には、観念というものはない。
あるのは、大和心である。
人の世の、ただそのままに、生きることにある、心の様を、大和心として、受け入れている。
仏教の救いという、観念があっても、行くかた知らぬ 秋の暮かな となる。
もう二度とない、人の世を生きているのである。

もののあわれ、とは、行くかた知らぬ 秋の暮れ なのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 18

もう少し、生理学的に、性的快感というものを、俯瞰する。

皮膚感覚である。
人は、皮膚に対する意識が低いようである。
この、皮膚感覚が、実は、性感というものと、密接に関わっている。

皮膚は、絶えず成長する。
体温を調整し、防水壁となり、発汗させて、細菌の侵入を防ぐ。太陽光線を取り込んで、太陽の栄養素を、受け取る。
太陽の栄養といっても、ピンとこないかもしれないが、体に必要な、栄養は、太陽から来ると、思っても良い。
一つだれ、例を上げる。
カルシュウムを摂取しても、太陽の光がなければ、体に取り込まれないのである。つまり、ビタミンDである。それがあって、はじめて、体に、カルシュウムという、栄養素が、出来上がる。
今は、ビタミンD配合の、カルシュウムが、健康食品で、売られているが、本来は、太陽の光を、浴びた方が良いに決まっている。
ただし、紫外線というものもあり、程度である。

欧米人が、太陽の下では、兎に角、裸になるのは、日射時間が少ない地域で暮らすからだ。

皮膚は、頭髪や、腺、神経部分などの、付属器官と共に、性的調節と、密接な関係を、持っている。

皮膚の表面にある、感覚受容器の数は、100平方ミリメートルの中に、約50の受容器がある。
皮膚から、後根を経て、脊髄に入る感覚線維の数は、50万本以上である。

これに対応する、脳の、触覚領域も、広いといえる。

例えば、髪を触られて感じるのは、毛根のまわりの、皮膚感覚の、受容器・リセプターである。
この器官は、毛に刺激があったことを、知らせる働きをする。
圧感を受容する、パチニ小体は、長さが、一ミリメートルで、皮膚のかなり深いところにある。

その、皮膚感覚というものが、変形して、くすぐったさ、かゆみ感覚、そして、性感というものがある。

脇の下や、足の裏に、刺激を与えると、くすぐったくなるのは、特別なリセプターがあるわけではない。
心理的な感受性が、変動して、同じ刺激でも、気持ちのあり方によって、くすぐったくも、快感にもなるのである。

かゆみ、というものは、痛感のリセプターに対して、弱い刺激が続くと、起こる。
外傷や、炎症のときには、遊離される、ヒスタミンなどによって、神経終末を刺激するため、かゆみ、が起こる。

しかし、これが、曲者である。
かゆみ、というものの、本体が、性的不満によって、起こる場合がある。

愛情不満、欲求不満が起こると、皮膚に、かゆみ、が起こる。
触れて欲しいという、むずむずとした、欲求が涌いてくる。
酷くなると、長引く湿疹ということにも、なる。

これは、人間のみの、感覚である。
情操である。
性的情操が、満たされない時に、かゆみ、となって、現れるのである。
特に、女性である。
性欲障害とでもいう、状態になると、かゆみ、が、酷くなる。

性欲が、かゆみ、という感覚で、表現されるという、実に、面白いことである。

専門家に言わせると、大半の、長期的かゆみ患者は、そのようである。

甚だしい場合は、性器の、かゆみ、にもなる。
原因が無いのに、アソコにかゆみが生じるのであれば、欲していると、考える。

これを、深めていくと、性感覚とは、ペニス、膣、クリトリスによる、摩擦である。

愛は、摩擦の深さであると、私は言う。

リセプターは、パチニ小体と同じ構造であり、触覚系の変形である。
つまり、接触摩擦が、快感というものを、生み出すのである。

準じて、乳房、そして、体全体が、性感帯となり、触覚刺激によって、性感というものを、高める。

それは、人間だけが、持つものである。
故に、人間とは、性感という感覚を、有するモノであると、言える。

性的交わりは、皮膚が、全面的に関わりを持つのである。
オルガズムに、達するのは、男女共に、皮膚刺激、摩擦である。

性は、皮膚である、とも、いえるのだ。

性的接触の、最大の触覚感覚は、当然、粘膜である。

特に、ペニスは、それに寄り、絶大な快感を得る。
であるから、粘膜感覚に近いもの、オイルなどで、作り出すと、膣挿入でなくても、十分に性的満足感を得て、更に、射精する。
要するに、男の場合は、それを、つまり、射精商売というものが、成り立ち易いのである。

生理学的に、言うと、人間の性交は、運動筋の働き、言語、皮膚と同じ、外胚葉性の、視覚、味覚、臭覚と、深部感覚の、付随的な刺激によって、補強される。
実に、複雑になっているのである。

性交するために、出来た体であるとも、いえる。
適度な、セックスが、生きるエネルギーを、生むということである。

更に、セックスの、喜びは、人生の、喜怒哀楽を超えることもある。
どんな、辛い状況でも、セックスの喜びで生きられる。

この、刺激に対する、感受性は、胎児、乳児、幼児期の、皮膚感覚経験によって、決まる。

この時期、性感帯としての、役目を担う皮膚の表面が、子供の成長に、多様な機能を果たしているといえるのである。

接触による、コミュニケーションが、人間にとって、実に大切であるか、ということだ。

霊長類に広げると、サルの場合は、毛づくろいという、行動。それは、社会的、絆でもある。毛づくろいの他に、軽く体を叩く、鼻を擦り付ける、キスをするなど。

下等哺乳類のように、舐めることから、キツネザルのように、歯で梳き取る、指での、毛づくろい、撫でるという、愛撫まである。

接触という行為にも、進化がある。

皮膚は、脳に次いで、最も重要な、器官であるといえる。

皮膚感覚のうち、接触感覚は、すでに胎児の最初に発達する。
ヒトの新生児の、体重の全体に対する皮膚の、重さの割合は、19,7パーセントである。成人では、17,8パーセントである。
それほど、変わらないというところに、生理的な重要さがあると、いえる。

さて、動物の場合は、相手の体に対する、攻撃という行動に、一種の性行動のパターンを形成している。
それが、問題である。

ヒトの場合も、相手に苦痛を与えることによって、性的興奮を得るといえる。
それが、人間が行う場合は、サディズム、その逆の、マゾヒズムといわれるものになる。

それは、すべての人間に内在しているものであると、言い切れる。
それを、どのように、表現するかで、人間としての、質に関わってくると、思うのである。

叩くことによって、作り出される苦痛と、性的快感とのつながり、という、それも、幼児期における、条件づけになるのである。
専門的に言うと、残忍性性欲倒錯という。

さらに、それが、永続的になると、一つの病理として、対処しなければならない。

苦痛と、残忍性が、挑発的性的快感を、引き起こす、異常行動である。
マゾヒストは、苦痛、嫌悪、屈辱の体験を、身につけ、性的興奮を、導き出す。
サディストは、苦痛、不快、恐怖、屈辱を他人に課して、性的快感とする。

共に、倒錯と言われるが、その基準は、無い。
二人の間で、許される範囲での、行為であれば、それは、愛の行為であり、相手が、それを、求めることがないのに、強制すれば、倒錯であろう。

歴史上の人物を、検証すれば、政治に、その、性的感覚、性的快感を持って対処した例が多い。その、大半は、倒錯と呼べる、残忍性である。

また、そのような、事件を起こし、人を殺害する者は、残忍的性欲倒錯と、判定してもいいと、思われる。

更に、弱者に対する、性的興奮というものも、ある。
幼児、児童に対する、性的欲求である。
一般に、幼児性愛と言われる、ロリコンである。
これは、上記の、残忍性のあるものと、同じく、病理であり、治療が必要であると、言う。

幼児期から、親の性的虐待にあった、女性の相談を、多く受けたが、それは、後々まで続く、精神的苦痛となり、甚だしくは、自分の性を、投げ捨てるような、性行為を望む。

そこから、解放されるために、本人は、血の滲むような、苦労を重ねる。
しかし、それから、逃れならなかった人は、神経症を持続して持ち、或いは、抑鬱を続け、通常の性行為を、持てない者もいる。

子供の悲劇は、大人の欲望によって、成るということである。

この、性的残忍性のある、性的倒錯者を、侮ってはならない。
つまり、一度や二度の反省では、治らない。
人権の問題もあるが、治らないものは、治らないのである。

西洋の一部地域では、去勢という、刑を採択したところもある。
当然である。


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