2008年08月14日

神仏は妄想である 115

さて、ここで、浄土門が言うところの、深みについて、みてゆく。
それは、宗教における、深みでもある。
一体、何を深みとか、深さというのかである。

念仏門の教義に「指方立相」と呼ぶものがある。「方位を指差して相を立する」というのであるが、その方位とは西方を意味する。詮ずるに浄土が西方に在るということと、そこに仏や聖衆の相を見るというのである。その西方浄土は何処に在るかといえば、この穢土を離れること十万億土の彼方だといわれる。
柳宗悦

指方立相、しほうりつそう、である。

密教の曼荼羅でも、西は、阿弥陀如来が、描かれる。

何故、西かといえば、太陽が沈む方角であり、その連想から、人が死ぬと、西へ向かうと、想像されたというのである。

浄土を西方に見つめるのは、かくして人間の心理的な必然さに依るといえよう。人間が往生を遂げて落ち着くべき行き先、仏の来迎にあずかって歓喜するその場所が、西方の国土にあると考えるのは極めて自然ではないか。
柳宗悦

続けて、柳氏は、だがそれにしても浄土を方位で決定するとは何故なのか。方位即ち空間性に仏土を観ずるのは、正しく深い見方であろうか。という。

そこから、更に深みに至り、相対的な、西や相に何の無上な意味があるのかと、なる。

「西方」が立派な一つの宗教的教義たるためには、そこに何か絶対の意味がなければならならぬ。いやしくも浄土の方位である限り、究境の方位と考えるべきであろう。もしそうなら西は単に東に対する西というが如き粗笨なものではあるまい。
柳宗悦

絶対の西なら東に向くもそこに西がなければならぬ。何処を向くも、向くところ一切が西だという意味があってよい。単に東に対する西であるとか、西は東とは異なるとかいうだけなら、浅い西、言葉の西に過ぎまい。真に浄土を求むる者にとって、行く手は、皆西であるはずである。東も西、南も西、北も西である。もし東に向いてそこに西がなくば、浄土を切に求めている者の理解とはいえぬ。どこに行くも、行く処悉く西を指すに至って、始めて浄土への回向がある。
柳宗悦

私は、若い頃、こういう文を読んで、深いと、感激していたが、何のことは無い、屁理屈である。
深みと、思われる、論述は、目くらましのようである。
一から万事が、このような、お説になるのである。
何とでも、言えるということである。

だから何処も西ならざるはなしである。そういう西にして始めて仏土たることが出来る。

このように、しゃーしゃーと、言ってのけるのが、宗教の面目であり、議論の議論であり、理屈の理屈である。
これに、今の今まで、騙されてきた。
それを、深さだと、感じ取らされてきたのである。

更に、進んで
我々はそれが宗教の西だということを忘れてはならぬ。・・・浄土とはかかる中土の意味なのである。中土とは西と東の中間にある国土という意味では決してない。東西を絶した「中」が、西方の真相である。
と、なる。

西方浄土が阿弥陀仏の住処だという場合、弥陀は中に居る仏なのである。中にいるものが弥陀である。否、中仏を弥陀と呼ぶのである。実は如何なる仏もその本質は「中」である。大日如来のみが中に位するのではない。
柳宗悦

これを、そのまま、深みと信じて、納得していた時代があるということである。

これは、インド魔界の、理論の典型である。
このようにして、目潰しをする。
意味の無いところに、意味を見出そうとするのが、哲学である。
そして、哲学ならば、それで善し。しかし、宗教である。勿論、宗教も、哲学である。が、哲学に、もう一つ、余計なものが、つく。それが、信である。

法然は、疑いつつ、念仏すると言う。
親鸞になると、信が、必要条件である。

この姿勢に関しては、また、検証するが、兎に角、それを、思索の深みとするのが、今までの、既成の浄土門の教えである。

西は、単なる東西南北の西ではなく、仏のいます国であるから、それは、中であるという。西という言い方は、方便である。と、そういうことである。

何とでも、想像を妄想を逞しく出来るという、宗教の面目である。

恐れ入るとしか、言いようがない。
この、言葉の手品に、騙されて、おおよそ、800年ほどを過ごしてきた。
そして、まだ、このような、言葉遊びに始終している、宗教家の面々である。
一歩も、進歩していないのである。

そして、極めつけの、言葉である。
仏は、我が内にあると、なる。
人間本来、仏性をもっている。曇りがあるから、それが、見えない。
大乗起信論から、それが、出でいる。

おおよそ、すべての宗教の行き着く先は、人間は、神の子であり、仏性を宿している、である。

大層な議論の後で、それを言う。

キャッチセールスも、その方法を使い、人を騙す。

さんざんに、迷わせて、最後は、あなたは、仏であり、神である。

読みやすい、新興宗教の本を、何冊が読むと、そのような、耳障りのよい言葉の羅列である。
宗教は、進歩したか、生成発展してかといえば、全く、滞って、何も、進歩していない。
千年前の人間より、少しは、賢くなっているはずだが、宗教になると、全くといってよいほど、愚かである。

いつまでも、そうして、騙されるには、訳がある。
それは、宗教が死というものを、扱うからである。

死ぬという、絶対なものに、立ち向かうものが、宗教以外にないと、思っているのである。
そして、賢者も、それが、宗教の役割であると、認める。

まやかしである。

日本には、死に向き合う、辞世の句という作法があった。
日々、辞世の句を詠むという、作法があった。
それについては、別に書いている、もののあわれについて、を、参照していただきたい。

死は、自然の内に隠れるという、古神道の考え方を、仏教の言葉遊びに、移行して、迷いに迷うようになるのである。

無神論者だった人が、死ぬ間際に、洗礼を受けましたというのが、キリスト教徒の、布教の手にするが、たまたま、錯乱して、洗礼を望んだのであり、死の恐怖から、逃れるために、選んだのであろう。
そういう人は、日本の伝統を知らず、また、学ばずに生きてきたのである。
実に、哀れである。

洗礼を、受けて、死んだら、天国へ行くと、思う心が、更に、哀れである。
天国という、空間は、霊界には無い。
勿論、西方浄土の、仏の国という、空間も霊界には無い。
極楽も無い。

あれば、キリスト教霊界であり、仏教霊界であり、それは、三次元と、四次元の隙間にある。

次に、浄土門の信仰の深さというものを、法然、親鸞、一遍の姿勢で、見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ276

源氏「幼き人まどはしたりと、中将の憂へしは、さる人や」と問ひ給ふ。右近「しか。をととしの春ぞ物し給へりし。女にて、いとらうたげになむ」と語る。源氏「さていづこにぞ。人にさとは知らせで、我にえさせよ。あとはかなくいみじと思ふ御かたみに、いと嬉しかるべくなむ」と宣ふ。


源氏は、小さな子を見失ったと、頭の中将が惜しく思っていたが、その子は、と、お尋ねになる。
右近は、はい、昨年の春に、お生まれになりました。
女の子です。
それは、たいそう、可愛いお子です。と、言う。
源氏は、どこにいるのだ。皆に、知らせず、我に預からせてくれ。
あっけない、しみじみとする女君の、お形見に、なんて嬉しいことだろう。と、仰る。

あとはかなく いみじと思ふ
後はかなく、その後は、儚いのである。あっけないと、訳すか。どうも、違う。
矢張り、後は儚くなのである。
いみじと思う。しみじみと、思う。いや、それも、感じが違う。矢張り、いみじと、思うのである。

いと らうたげ
よく出てくる、表現である。可愛らしい。
これは、らう たげ、であろう。
文法解釈ではない。


源氏「かの中将にも伝ふべけれど、いふかひなきかごと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、はぐくまむ咎あるまじきを、そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひ給ふ。右近「さらばいと嬉しくなむ侍るべき。かの西の京にて生ひ出で給はむは、心苦しくなむ。はかばかしく扱ふ人なしとて、かしこになむ」と聞ゆ。



源氏は、あの中将にも、知らせても、いいが、かえって、怨みをかうこともあろう。
あれこれにつけて、私が、育てるのに、不都合はないだろう。
その、乳母などにも、言い繕い、連れておいで。と、言う。
右近は、そうなりましたら、どんなに、嬉しいことでしょう。
あの、西の京で、成人するには、お気の毒です。
きちんと、お付申す者がいない、あちらに、いますと、と、答える。


いふかいなき かごと負ひなむ
あえて、益のない、無用な、怨みを買う。
つまり、何故、女を死に至らしめたのか、と。

とざまかうざま
あの女の子でもあり、更に、中将の子であれば、源氏の姪に当たることになる。
妻の兄の子である。
それを、あれこれにつけて、と訳す。



夕暮れの静かなるに、空の気色いとあはれに、おまえの前栽かれがれに、虫のねも鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵にかきたるようにおもしろきを、見わたして、「心よりほかにをかしきまじらひかな」と、かの夕顔のやどりを思ひ出づるも恥ずかし。

この、風景の様、そのままに、二人の心の、風景なのである。
それが、物語の、核心に迫る。
風景描写が、単なるそれではなく、心の模様なのである。


静かな夕暮れの時、空の景色は、あはれに、この、あはれは、趣き深くとか、心に染み入る空ということになる。
庭の、植え込みも、枯れ枯れして、虫の音も、嗄れ果てたという。
紅葉が、次第に色づく風情、絵に描いたように、美しい。
右近は、それを、じっと見て、思いがけず、良いお勤めだと、夕顔の宿を思い出すにつけても、顔の赤らむ思いがする。

絵に描いたように、美しい。とは、おかしな表現である。
絵に描いたものより、目の前にある、風景の方が、実である。
つまり、美しいという、実感を、絵に描いたようにと、例えでいる。

更に、この風景の中に居る、二人の風情である。
しみじみとした、情感が流れる。

心より ほかに をかしき まじらひかな
まじらひ、お勤めすることが、をかしき、ことなのだ。
結構な、勤めである。


そして、
かの夕顔の やどりを 思ひ出づるも 恥ずかし
何故か。何故、恥ずかしいのか。

住まいが、貧しいからか。
女が、一人で、いたからか。
女が、情婦のようだからか。
親が、出世しなかった故に、女の立場も、良くなかったからか。
身分の低いままで、死ぬまで、そのままである、女というものの、定めにか。

さて、私にも、解らない。

すると、先ほどの、風景が、見える。
夕暮れの静かなるに
空の気色 いと あはれに
虫のねも 鳴きかれて
紅葉の色づくほど
絵にかきたるやうに おもしろきを

源氏の、身分と、右近の、身分とが、風景の中で、平等なのである。
もののあわれ、というものは、平等に与えられているのである。

万葉の歌のように、民も、主も、平等なのである。
歌道が、もののあわれ、というものに、支えられているのである。

風情の前に、人は、平等である。
例えば、仏陀の説く、平等などと、比べると、実に自然な、平等感覚である。
自然の前には、皆、平等なのである。
大和心というもの、自然の前に、平等であると、言うのである。
しかし、それを、あえて、言わない、言葉にしない。
しかし、言葉にしないから、無いというのではない。
観念というものを、置かない中に、日本の伝統というものがある。

観念としてしまうらば、嘘になる。
その、嘘になるということを、知っていたのである。

欧米の思想などは、足元にも、及ばない、実に、無いというべき、思想が、流れていいる。

もののあわれ、というもの、言葉で、語りきれない。
だからこそ、それは、事実であり、それ以外の何物も無いのである。

それは、感じるものである。
つまり、感性である。
感性の、ありようを、言葉にすれば、堕落する。

すべて、風景を、語ることで、それを、完結するのである。

以下省略。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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