2008年08月12日

神仏は妄想である 113

親鸞の信仰の深さは、賜りたる信仰という言葉に達した。
どこかで、聞いたような言葉である。

主イエス言う。
あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選んだのである。

要するに、神への信仰も、実は、与えられてあるということである。

キリスト教に、似ていると、言われる所以である。

ユダヤ教にあった、イエスは、ユダヤ教における、救いというものを、見ていた。
しかし、親鸞は、どこから、救いという観念に、まみれたのか。

親鸞の年代を追ってみると、まず、出家して比叡山に入った時、9歳である。
平家が壇ノ浦で滅亡したのは、13歳。衣川合戦で、藤原三代の滅亡した時、17歳。鎌倉幕府が成立し、頼朝時代から実朝が暗殺された時、47歳。承久の変の時、49歳。
さらに、この間に、法然と共に、流罪となり、親鸞は、35歳から39歳の間、越後国府にあり。

亡くなる90年間のほとんど、半分は、内乱を見ていたことになる。
特に、源平合戦の後のことなど、身近に聞いたことであろう。
更に、自然災害などを、見ている。
内乱と、乱世の、思いに、あって、人間の様を、観続けたのである。

当然、人間とは何か、そして、仏教の教えを、信じても、互いに仏に祈りつつ、殺しあうという、人間の様に、救いというものを、考える以外になかったと、思える。
浄土信仰は、平安期からあった。
念仏信仰も、平安期からあった。
しかし、法然により、念仏一つで、善しと、宣言される、鎌倉仏教の、選択、せんじゃく、仏教が生まれる。

それもこれも、救われるためである。

最初に、私は、何故、救われようとするのかと、言った。
何故、極楽に往生しなければ、ならないのかと、言った。
それは、時代性である。

今、親鸞の教えは、一つの情報である。
信仰を、考えるというより、生き方の、一つの情報となっている。
それも、時代性である。

日本人の七割は、宗教を信じないという、統計がある。
それを、嘆くのは、集金が出来ない宗教団体である。

実に、七割の人、宗教を信じないということは、宗教団体を信じないということである。それを、宗教団体は知らない。

日本人は、潜在的に、信仰深い民族である。
宗教という観念は、必要ない。伝統として、それを、持つのである。

心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
菅原道真

お天道様に、顔向けできる生き方をしていれば、神は、祈らずとも、守るのである。
それ、日本人の、真骨頂である。

宗教団体を信じていなくても、十分に生きられる。
それを、精神的に未熟だというのは、欧米の思想に侵されているか、または、会員を増やしたい、宗教団体である。

われらが心のよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことを知らざることを、おほせのさふらひしなり
歎異抄で、唯円が言う。
それは、親鸞が
なにごとも、心にまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなはち殺すべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心のよくて殺さぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人を殺すこともあるべし。
を、受けての、唯円の、思いである。

往生のために、千人殺せと言われても、殺す縁がなければ、殺すことは出来ない。また、殺すと、思わずとも、殺してしまう縁もある。
因縁である。
これが、賜りたる信仰に、行き着く。

絶対他力は、絶対帰依である。

それを、支えるのは、罪意識である。
そして、救われたいという意識である。

この、罪意識は、仏教によって、もたらされたものである。
そして、そこからの、救いという観念も、そうである。

仏教は学問としてあった。当時は、中国の書物をもって、ものならふ、学問と、言った。
学問は、定義と、観念の産物である。

その枠の中での、思索である。
だから、弥陀の誓願の、第18
もし我仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽し、我が国の生ぜんと願じて乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚をとらじ。唯五逆と正法を誹謗することをば除く

親鸞は、この、最後の、唯五逆と正法を誹謗する者を、除くという言葉に、思索を深める。
皆、救うというのに、五逆と正法を誹謗する者は、除くというのは、如何なることかと。

これも、観念の中での、七転八倒である。

スポーツのルールのように、定められたことに、疑問を生ずるということ。
スポーツなら、理解するが、人間の生きることになると、定義され、定められるのいうのは、国家以外に、必要ないことである。

皆、救われるという、悉皆成仏という思想は、最澄の天台のものである。
すべてのものに、仏性があるという、とんでもない勘違いの思想である。

大乗の唯識を、極めた三蔵法師玄奘の、法相宗では、無性の人ありとする。つまり、仏に成れない人ありと、する。
大乗仏教が、すべての人を救うというのは、実は、嘘なのである。

真面目な者、細部までに、拘り、仏典の細部に滞る。
結局、仏典にも絶望を感じて、物思いを捨てて、行き着くところ、賜りたる信仰になった。
つまり、弥陀の本願という、定義に、振り回されて、それも、人の創作したものである、それに、くたくたにされたのである。

このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり
歎異抄

ついに言ったのである。
もう、念仏を信じても、信じなくても、皆々、好きなようにしてください。

行き着くところに、行くと、そういう言葉になる。
好きにいたせ、である。

それを、深いとか、親鸞の心の広さである等々、解釈するのは、勝手であるが、必ず、絶対他力は、そこに行き着く。

つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるる

親鸞は弟子一人もたずさふらふ

縁があれば、そうなるし、無ければ、そうなる
親鸞は、弟子一人も、持たない

無かったものを、在ると信じて、考えていたのであるから、最終的に、それらを、すべて捨てることで、元に戻り、自己回復するのである。

親鸞は、和讃を多く詠んだ。
和歌の形式である。

大和の歌道の形式で、その、思索の様を歌った。
結局、大和心に、抱かれていたのである。

仏法という、旅をして、故郷に戻ると、故郷の山は、川は、変わらずに、迎えてくれたのである。
さて、親鸞は、それを自覚していたとは、思われない。
どんなに、七転八倒しても、いつも、故郷である、天地自然は、抱いていた。
人間の観念遊びも、その前には、無に等しい。

仏法という、ルールの中で、よくやったと思う。
鎌倉仏教は、日本の思想史の、始まりである。

日本には、思想がないと言う者、大勢いたが、実に、見事に、思想を成したのである。

日本の思想史を、書き表す若者の、出現を待つ。



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もののあわれ274

あやしう夜ふかき御ありきを、人々、「見苦しきわざかな。このごろ、例よりも静心なき御しのびありきの、しきるなかにも、きのふの御気色のいと悩ましうおぼしたりしに、いかでかくたどりありき給ふらむ」と、嘆きあへり。



あやしう深夜の、お出歩きを、女房たちは、みっともないことです。この頃、いつもより、そわそわして、お忍び歩きが続いていますが、昨日は、特に、ご気分がすぐれない様子でしたのに、どうして、ふらふらと、お出かけ遊ばすのでしょう、互いに嘆きあう。

あやしう
怪しい、出歩き。
不可解な、である。



まことに、臥し給ひぬるままに、いといたく苦しがり給ひて、ふつかみかになりぬるに、むげに弱るやうにし給ふ。内にも聞こしめし嘆くこと限りなし。御祈り、かたがたにひまなくののしる。祭り、祓へ、修法など、言ひ尽くすべくもあらず。「世にたぐひまなく、ゆゆしき御ありさまなれば、世に長くおはしますまじきにや」と、あめの下の人のさわぎなり。



お休みなさったまま、酷く苦しがり、二三日のうちに、大変な衰弱の様子である。
帝も、それを、聞いて、大変、限りなく、嘆いていた。
ご祈祷は、方々で、ひっきりなしの、大騒ぎである。
祭り、祓え、修法など、言い切れない有様である。
またとない、ご立派な方であるゆえに、長生きしないのではないかと、天の下、つまり、民が、騒ぐのである。


ゆゆしき御ありさまなれば
特別の立派なお方である。
通常ではない、御人である。



苦しき御ここちにも、かの右近を召し寄せて、局など近く賜ひて、さぶらはせ給ふ。惟光、ここちもさわぎまどへど、思ひのどめて、この人のたつきなしと思ひたるを、もてなし助けつつ、さぶらはす。君は、いささかひまありておぼさるる時は、召し出でて使ひなどすれば、ほどなく交らひつきたり。ぶくいと黒くして、かたちなどよからねど、かたはに見苦しからぬ若人なり。



苦しい中でも、あの女の、右近を、召しだし、部屋などを近くに与えて、お召し使えとされる。
惟光は、動顚し、狼狽するが、心を落ち着けて、右近には、拠り所もないと思い、色々と世話をして、お仕えさせる。
君は、少しでも、気分がよい時は、呼び出して、使ったりするので、次第に、御殿にも、馴染んだである。
喪服を、濃い黒で、固めて、器量などは、それほどではないが、見られないほどの姿ではない、若い女房である。


ぶくいと黒くして
喪服のこと。
特に、黒々とした喪服である。

かたはに見苦しからぬ若人なり
見られないという程の、器量でもない。若い人である。
その前に、かたちなどよからねど、とある。これは、器量は、それほどてもないという。



源氏「あやしう短かかりける御契りにひかされて、我も世にえあるまじきなめり。年頃の頼み失ひて、心ぼそく思ふらむなぐさめにも、もしながらへば、よろづにはぐくまむとこそ思ひしか、ほどもなく又たちそひぬべきが、口をしくもあるべきかな」と、忍びやかに、宣ひて、弱げに泣き給へば、いふかひなき事をばおきて、いみじく惜し、と思ひ聞ゆ。


源氏は、不思議に、短い縁にひかれて、私も、とても、生きていけないような気持ちだ。
長年の頼みの綱を、失い、心細く思うだろうが、それを、慰めるためにも、もし生き永らえたら、一切、面倒を見て上げようと思った。
しかし、自分も、間も無く、後を追いそうな、気がする。
残念なことだと、小声で仰り、傍目にも、弱々しく泣くのである。
言っても、甲斐のないことだが、たまらなく、悔しいと、思い直すのである。


よろづにはぐくむこそ
後の、すべての、面倒をみる。
通常は、育てるのである。

しかし、ほどなく又たちそひぬべきが
ほどなくして、我も、たちそひぬべき、か、である。
立ち添いぬべきか、とは、誰にか。それは、死んだ女にである。つまり、自分も、死ぬのではないかと、思うのだ。

それ程、源氏は、弱い男である。
女の死が、源氏には、耐えられない程の、恐怖になった。
死を知らない者である。


このような、源氏の、後に残された者に対する、思いをもって、本居宣長などは、もののあはれ、というものを、観たようである。
人と人の、慈愛の関係にある、もののあはれ、である。

人と人の、機微から観る、もののあはれ、というものも、ある。
心の、細やかさである。
それは、心を砕くこと、相手に、共感し、そして、その心を共生しようとする。

しかし、私は、それ以上に、紫式部の筆の、風景と、情景に、もののあわれ、というものを、観るものである。

確かに、我も世にえあるまじきなめり、と、痛烈な思いに駆られる。
それは、源氏の若さゆえであろうし、作者である、紫の思いでもあろう。
夫を、亡くした後の思いを、ここに、込めるのである。
人の死は、実に辛いものである。
その後に、残された者は、どのように生きればいいのか。
実際、我が身も、死にたいと思うのである。
しかし、生かされるまで、生きなければならない。

人の死を実感として、感じた作者の思いが、込められている。

人の死ほど、もののあわれ、を、感じるものはない。
どうしようもないもの、それは、人の死である。
その、死を、どのように、受け止めるのか。
それが、もののあわれ、という心象風景の、行くべき先であろう。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 12

性と脳のことに関しては、また、追々と書くことにする。

その前に、一つ、私は、提案する。
性というものは、本能かということである。
性欲というものは、本能であるかというのは、今は、誰も疑わないようである。それは、性欲本能説である。

自然に、持って生まれたもので、それにより、子孫を作り、それは、自己保存の本能とも、言われる。
性欲に、関わるすべてのことは、本能である。
これは、一つの観念であるという、提案である。

私は、性欲即本能とは、考えられなくなっていると、思っている。
それは、人間の進化である。

後々で、また脳について書く時に、それを、説明するが、単なる本能であると、考えている人は、大きな間違いを起こしている。
子孫を作るから、自己保存だというが、子孫を生めない人もいる。
どうしても、子孫を作らなければならないとしたなら、一夫多妻でなけばならない。
一夫一婦制で、子孫が出来ない人もいるからだ。

本能とは、何か。
生まれつき自然に体に備わった、生理的反応のことである。
意思に反して、起こるものである。
それでは、男が性的に興奮して、勃起するのは、本能であると言える。
だが、それで、性交を求めるとは、ならない。
マスターベーションという、最高の方法がある。

もし、性欲が本能だとすれば、それを、罪と考えた、宗教の多くは、実に誤りである。
完全に、誤っている。
本能ではなく、人間の何かによって、なるものだという、考え方があって、性欲抑制を、心の修行のように、考えたのである。

実に、狭い考え方を持って、性欲を本能だと、観念してきた、長い年月がある。

自然科学、文化人類学の検討が、実に必要になってきた。
性欲とは、本能であるが、人間の性行動は、本能ではないと、いえるのである。

人間の性行動は、作られてゆくものである。
それが、脳の発達によるものであるということ。

私は、バーチャルセックスという言葉が出来た時に、いよいよ、人間の性が、変容すると、思った。

例えば、インターネットの画面を見て、その接続に、本物そっくりの、女性器を取り付けて、バーチャルセックスが可能になる。
あるいは、セックスロボットが、現れて、セックスの相手をしてくれる。
時代は、そのように、向かっている。
それは、また、人間だけが、出来ることである。

子孫を作るための、性から解放される時代が、来たのである。
更に、子孫は、別に、セックスが、無くても、作られる技術は、十分に発達した。
試験管ベービーなどは、当然になってゆく。
甚だしいものは、男同士、女同士でも、子供が、作られる時代になる。

生物学的のみに、進化しているのではない。
人間は、その脳と、精神も、進化しているのである。

再度言えば、性欲は、最早、本能ではなく、文化と進歩と共に、新しく拓かれるものなのである。

性教育の、あり方も変わってくる。といいうより、今まで、正しい性教育が、為されていたかという、問題もある。

今までの、性教育は、生理学的、機能的、性の教育であり、人間の総合性としての、性教育が為されていないのである。

つまり、教える者たちが、性というものの、本来の姿を知らないのである。
すべては、古い観念により、それを、信じたものである。
何ら、創意工夫がなく、また、人間性の、性ということも知らないのである。

食の栄養については、溢れる程の情報がありながら、性の情報は、実に、少ない。
極端に、医学的、極端に、エログロ的、極端に、宗教、道徳的。更に、極端に、差別的なのである。

四十代の男が、若い女と、付き合い、妊娠すると、子供はいらない、堕胎せよと言う。そして、結婚はしない。女は、泣く泣く子供を堕ろし、男との、別れを決意する。しかし、男は、少し熱が冷めると、また、女に、二人で楽しもうと、誘う。

これは、実際に、私が相談を受けたものである。
その、男の親も、男と、同じ考えであるというから、驚いた。
私は、激怒したが、道徳的な人なら、皆、激怒するであろう。

何故、激怒するのか。
女を道具、セックスの道具のように、扱うからである。
更に、無意味な堕胎を促す、という無謀である。

しかし、このような、男が、非常に多くなっている、現実がある。
果たして、既成の観念で、何か、導くことが、出来るのか。

もう一つ言う。
結婚する相手はいる。しかし、別にセックスだけの関係の女が、妊娠し、生むといわれたと、悩んだ男がいる。
友人には、一ダース程、女に、堕胎させた男もいる。一人位ならば、堕胎させても、というのである。

上記、道徳なるもの、何の影響も、いや、道徳などは、何もないのである。

果たして、このような、時代性に、今までの性の観念で、考えていいのだろうか。

そして、更に、ジェンダーの問題から、ゲイ、レズビアンの問題から、性に関しては、今までにない問題が、持ち上がっている。

一夫一婦制の、結婚制度に関しても、更に、検証しなければならない。

結論的に言うと、人間は、性欲大脳化が、完全に出来上がっている。
生物学的に言えば、性行動は、本能ではなく、実に、人間の文化的行動であるといえるのである。

人間の性のあり様は、文化というものを、抜きにして語れないのである。
それでは、文化とは、何かといえば、伝統、文明、その他諸々の、要因によってなるものの、総称である。

性は、文化なのである。

ちなみに、性活動は、成人した、男女であれば、例え、去勢されたにしろ、障害があるにしろ、性活動は、行われるのである。

実は、一夫一婦制というのも、性の大脳化によるものなのである。

ますます、性というものの、世界が、広がってくるのである。

posted by 天山 at 00:00| 性について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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