2008年08月11日

神仏は妄想である 112

親鸞を、貶めるつもりは、毛頭ない。
多くの人、親鸞の思索によって、更に、思索を深めたことであろう。

何度も言うが、私は、人の信仰を否定しない。
極めて個人的な、情緒であるから、それに介入することはない。

私が、書いているのは、批判である。
更に、宗教が無くなる時が、来たことを言うのである。

人間の知性と、感性が、目覚め、知性によって、行為行動する時が来たというのである。

勿論、一人の人が、今までの宗教行為を続けても、何も問題は無い。
極めて個人的なことである。

頭の悪い人のために、再度言う。
私は批判をしている。

そして、この批判も、妄想であると、言われることを、知っている。

一つの例を上げる。
定方晟さんという方が、「憎悪の宗教」という本を書いた。
ユダヤ、キリスト、イスラム教と、聖なる憎悪という、副題がついている。

聖書を徹底批判している。
その内容は、実に、見事なものである。
そして、最終的に、仏教の慈悲の思想による、提言と、最後のページ、あとがきで、こういうのである。

私はユダヤ教、キリスト教、イスラム教を批判したが、本文でも言及した青鬼の役割を演じたつもりでいる。人々から愛されない赤鬼は愛されたくて、友人の青鬼に悪役を演じてもらった。青鬼は巷に出て暴れまわった。赤鬼がそこに現れて、青鬼を追い払った。人々は赤鬼は自分たちの友人だと考えて、かれを愛するようになった。わたしは仏教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒がこぞってわたしの批判を批判し、そのことによってたがいに赤鬼となり人間となって近づきあい、仲良くなることを望んでいるのである。

仏教の慈悲の思想に、精通している方である。
上記の意味は、痛いほど解る。

しかし、私の立場は、違う。
私も、批判するが、彼らが仲良くなることを、望むのではなく、私は、宗教の終焉を言うのである。

先にも、言ったが、それぞれが、それぞれの宗教的行為を行ってもかまわないが、それは、伝統としてあるべきなのである。

更に、その伝統は、強制力の無いものである。
極めて個人的な、行為としての伝統である。

教えを説くということの、誤りをいう者である。

人に自分の信じているモノを、拝めという、傲慢極まりない行為を、断罪するものである。

おおよそ、宗教というものは、上記の通りであろう。
自分の幸せが、何故、人の幸せになるのか。そんなことは、有り得ない。勿論、アホならば、そうであろうが、自分の頭で、考える人、知性ある人、そして、感性を磨く人、知性により、行動する人に、それは、必要ない。

22世紀は、そういう時代である。
時代性と、時代精神に、習うものである。

私の批判は、そこにある。

定方氏は、あくまでも、宗教の保存を願うものであり、更に、仲良くという、全く希望の無い、希望を持って、終わる。

批判に批判して、仲良くなるというのは、仏教家の、陥りやすい、慈悲の思想である。

それならば、ヘロドトスの時代に、そうなっていたはずである。
それから、どれ程の、時を過ごしたか。

神仏という、人間の妄想力が、作り上げたものに、そろそろ、お別れする時が、きたのである。私は、それを、言う。
個が、最大限に、生きられる時、集団は、輝く。

自由と平等と博愛の思想が、それを、成したとは、思えない。それは、宗教から出ているからである。
宗教から出るモノは、魔物である。
御覧の通り。

どれ程多くの、無理、無駄、むら、つまり、無用を成してきたか。
真っ当な、仏陀の生活指導の教えが、根こそぎ、無視されてきた事実を、歴然として、見ているではないか。

幅広い許容範囲の仏陀の、教えも、不可能だったのである。それは、宗教になったからである。

かえりみて、日本の古神道を見れば、良く解る。
教義も、教祖も無く、ただ、先祖が築いてきた、所作を通して、平らけく、平和を望んできたではないか。

ここで言う、古神道は、宗教団体が、勝手に名乗る、古神道ではない。

かんながらのみち
それを、唯神の道と、漢字で書くから、おかしくなった。
神という、文字から、観念を生む。

かんながらのみち、を、現代訳すれば、自然と共感、共生する道ということである。
そして、アフリカから出た、小数の人の集団が、最初に、その自然の大元である、太陽を拝したことから、畏敬の思い溢れて、出来た、情緒が、それ、である。

すべての民族は、太陽を拝していた。
拝すると、漢字で書くから、また、観念になる。

あー
という太陽を、目指して、生きる場所を、求めて歩き、
いー
という、この身が、その中で、自然の中でしか生きられないことを、知る。
うー
という、相手という存在を、受け入れることから、集団の生活を知り。
えー
という、その場にあるものから、生きるとする、肯定的な姿勢を持った。
おー
という、その物事の、人の終わりを受け入れて、生きてきた。

お送りする、の、おー、が、死ぬことであった。

それで、すべてが、済んだ。
それを、古神道という。
いや、別に、古神道と、呼ばずともよい。
言葉に騙され続けてきた、人間の歴史である。

書けば嘘になると、知りつつ、書き付けてきた。
何ゆえに。
子供たちのために。
次に続く者、幸あれと、願いつつ。

私は、民族の伝統の中に、もし、救いというものがあるならば、それを、観る。

ただし、私見である。
人間に救いなどというものは、無い。全く無い。
救われるというならば、生まれる必要は無い。
救われないから、生まれるのである。
というより、救いという観念を、持つ方が、どうかしている。

そして、妄想の救いというものに、酩酊してきたのが、人間の歴史である。

神仏は、疲れた人の、蜃気楼である。
蜃気楼は、無い。幻覚である。
ただし、幻覚が、必要だというなら、それを、否定しない。

一つだけ、私にも、妄想がある。
次元の違いというものである。
それを、霊界と名づけて語る。しかし、それも、妄想である。
だが、便宜上使用している。

私が、この世に生まれる確率は、無に等しい。
それなのに、生まれて生きている。
これを、何かに感謝する以外にないのである。
誰に。
太陽である。

太陽が死滅すれば、すべてが、死滅する。

真実とか、真理というもの、実に単純明快なものである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ273

右近を、源氏「いざ二条の院へ」と宣へど、右近「年ごろ、をさなく侍りしより、かた時たち離れ奉らず、慣れ聞えつる人に、にはかに別れ奉りて、いづこにか帰り侍らむ。いかになり給ひにきとか、人にも言ひ侍らむ。悲しき事をばさるものにて、人に言ひさわがれ侍らむが、いみじきこと」と言ひて、泣きまどひて、右近「けぶりにたぐひて慕ひ参りなむ」といふ。源氏「ことわりなれど、さなむ世の中はある。別れといふもの悲しからぬはなし。とあるも、かかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひなぐさめて、我を頼め」と宣ひこしらへても、源氏「かくいふ我が身こそは、生きとまるまじきここちすれ」と宣ふも、頼もしげなしや。



右近に向かって、源氏が、さあ、二条の院へ行きましょうと言う。
すると、右近は、長年、小さな時分から、少しも離れることなく、親しくしていましたお方に、急にお別れして、どこに、帰れましょう。どうなったと、皆に申せましょう。悲しいことは、ともかく、皆に、色々と言われることが、辛いです、と言う。
おろおろと泣き、あの方の、煙と一緒に、私も、後を追いたい。
源氏は、誠に、もっともなことだが、世の中は、こうしたもの。
別れが悲しくないということは、ない。
先に死ぬのも、後に残るのも、みな寿命として、決められたこと。
悲しみは、静めて、私に頼りなさいと、言う。
源氏は、そういう自分の方が、生き永らえることが、出来ないという気持ちがすると、仰るのも、頼りないことである。


けぶりにたぐひて慕い参りなむ
煙と、一緒に、私も慕い、参りたい。

かくいふ我が身こそは、生きとまるまじきここちすれ と宣ふも 頼もしげなしや
これは、作者の思いである。

とあるも かかるも
ああなのも、こうなのも
様々な姿である。



惟光、「よは明けがたになり侍りぬらむ。はや帰らせ給ひなむ」と聞ゆれば、かへり見のみせられて、胸もつとふたがりて、出で給ふ。道いと露けきに、いとどしき朝霧に、いづこともなくまどふここちし給ふ。

惟光が、夜は明け方になります。早々に、お帰りあそばしましょうと、言う。
源氏は、後を振り返り、振り返りして、胸いっぱいになり、お立ち出でになる。
君の、お目には、涙の露、そして、道は朝露で濡れ、さらに、朝霧で立ちこめた道である。
いっそう、見えにくく、何処とも知らず、さ迷うような気がするのである。


美しい、情景である。
道いと 露けきに いとどしき朝霧に いづこともなく まどふここちし
道は、朝露に濡れ、更に、朝霧が立ち込めて、何処のなのか解らぬ茫漠とした、風景の中を、惑う心持で、進むのである。

源氏の、心模様を、その風景で、表すのである。
目の前の、風景が、心の姿なのである。
紫の、筆は、いつも、人の心模様と、風景を対にして、描く。
これを、一言で、言うとき、あはれ、という言葉になる。



ありしながらうち臥したりつるさま、うちかはし給へりしが、我が御くれないの御ぞの、着られたりつるなど、いかなりけむ契りにかと、道すがら思さる。


あの夜の、姿のままに横なっていた様。
着せた、自分の紅の、御衣が、そのままかかっていた。
どうした、前世の縁で、このようなことになったのかと、道々、お心に、浮かぶ。


当時の、浄土思想によるもので、前世の因縁と、考える。
これは、その後も、日本人の、基本的感情になった。
何ゆえの、前世の因縁かという、考え方である。
それを、理由として、考える方が、易いのである。


御馬にもはかばかしく乗り給ふまじき御さまなれば、また惟光そひ助けておはしまさするに、堤の程にて御馬よりすべり降りて、いみじく御ここちまどひければ、源氏「かかる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ。さらにえ行き着くまじきここちなむする」と宣ふに、惟光ここちまどひて、「わがはかばかしくは、さ宣ふとも、かかる道にいて出で奉るべきかは」と思ふに、いと心あわただしければ、川の水にて手を洗ひて、清水の観音を念じて奉りても、すべなく思ひまどふ。君もしひて御心をおこして、心のうちに仏を念じ給ひて、又とかく助けられ給ひてなむ、二条の院へ帰り給ひける。



お馬にも、うまく乗れない様子である。
惟光は、助けつつお連れするが、途中、加茂川の堤の辺りで、滑り落ちてしまった。
源氏は、酷く、気分が悪くなり、こんな道端で死んでしまうのか、とても、帰り着けそうにないと、仰る。
惟光は、惑い、そう仰るが、それは、自分が、こんな所に、お連れしたからだと、思い、川水で、手を洗い、清水観音に、祈願する。しかし、途方に暮れる。
惟光の、様子に、君は、力を絞り、気力を出して、心に、仏を念じる。
それゆえか、何とか、二条の院に、辿り着いた。


いみじく 御ここちまどひければ
酷く、気持ちが、動揺するのである。気分が悪くなる。

はふれぬべきにや あらむ
ここで、死んでしまうのか。

いと心あわただしければ
大変、気持ちが、落ち着かない。慌ててしうのである。

互いに、観音や、仏を、念じるという。
人知を超えたところのもの、それは、観音や仏であった。
平安の頃より、そうして、観音信仰、仏信仰に、頼るのである。

日本人の原風景は、万葉であるが、平安期になって、仏の法、ほとけののり、としての、仏教に、大きく影響されている。
当時の、仏教は、天子、貴族の、仏教であり、ハイカラな、ものだった。
信仰という、観念は無い。
拝むべき、もの、という意識である。
人間を超えた存在という、意識である。

庶民には、手の届かない、仏の教えだった。
ただし、平安貴族の、退廃振りは、この仏教の、無常観というものが、大きく影響した。
一種、インドのバラモン、ヒンドゥーに近い感覚である。
すべては、因縁により、起こる。
人間は、それに手出しは出来ないという、諦観である。

その、良し悪しは、別枠の、エッセイ、神仏は妄想である、で、お読み下さい。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 11

もう少し、脳を見る。

脳下垂体は、頭部の真ん中にある。眼の奥である。
大脳の前面に、付着している、小さなものである。
やや、前頭よりに、下方に垂れている。

前葉、中葉、後葉と、茎がある。

後葉は、神経下垂体ともいい、茎を通って、間脳視床下部に、つながる。
それは、視床下部から、神経を受け取るということ。

後葉には、多くの、無髄神経線維が集まる。
その、神経は、有髄神経と、無髄神経に分けられる。

有髄の方は、髄鞘という物質があり、無髄には、それが無い。

髄鞘は、脂肪質の物質で、保護するためにある。

後葉は、内分泌液を分泌するという説だったが、そうではなく、視床下部の神経細胞が分泌して、それを、神経線維が運んでくるという、しくみが、解った。
神経分泌現象と、呼ばれる。
それは、神経線維と、神経線維の間を、運ばれてくるのである。

さて、前葉は、胎児が発生してくるとき、本来は、口を形成する細胞からくるが、それが、腺となり、後葉、つまり神経からきた部分と一緒に、脳下垂体となったのである。

中葉は、色素の出来かたで、三種の細胞は、分かれる。
後葉を、ニューロ下垂体、前葉は、アデノ下垂体と、呼ぶ。

ニューロ下垂体は、働きとして、いくつかの、ホルモンを分泌して、血液に送り、臓器の働きを、促す。

一つに、抗尿ホルモンADHを出す。これは、腎臓にいって、尿量を調節する。あまり、尿を作らないように、作用する。

もう一つは、ADHが、ワゾレッシン、オキシトチンという、物質を含んでいる。
ワゾフレッシンは、抗尿に、オキシトチンは、乳腺に作用する。

アデノ下垂体は、二つの細胞群を含んでいる。
一つは、クロモフォーデ細胞で、染色性のないもの、もう一つは、クロフィル細胞で、色素に染まる細胞である。

この細胞は、酸性色素エオジンや、酸性フクシンに、よく染まる細胞と、塩基性色素であるヘマトキシリンによく染まる細胞との、二つに分かれる。
この、酸性細胞が、成長ホルモンを出し、泌乳ホルモンと名づけられていた、プロラクチンを、出す。

塩基性色素に染まる、細胞は、向性腺ホルモン、向甲状腺ホルモン、向副腎皮質ホルモンを出す。

アデノ下垂体の働きは、諸ホルモンの働きのことである。

次に、向性腺ホルモンの、ゴナドトローピンという総括名で、二種類あり、一つは、卵細胞刺激ホルモンFSHで、もう一つは、黄体形成ホルモンLHである。

これらは、女性のもつものだが、男性では、FSHとLHをかねた間質細胞刺激ホルモンICSHである。

LHとICSHは、化学的には、同一物質であり、男性も、女性でも、LH、ICSHと、呼ばれる。

これ以上になると、専門的になるので、省略して、次に続ける。

脳下垂体から出る、ゴナドトローピンは、男性では、睾丸の成熟と、その機能や活動を調節している。

卵胞刺激ホルモンである、FSHは、脳下垂体から、直接、精子の生成を促す。
脳下垂体は、また、逆に、睾丸からの、影響を受けている。

前葉ホルモンは、睾丸が外に出るのを、促進する。
睾丸は、最初、卵巣と同じように、腹腔の中にあったものだが、それが下がり、陰嚢の中に入った。これは、自然の発育で、外に出る。

男らしさ、女らしさを作るものは、脳下垂体の、ゴナドトローピンが元だ。
ゴナドトローピンは、男では、睾丸のテストステローンを、女では、卵巣のエストラジオールと、プロジェステローンを分泌させ、それが、全身に回り、男、女らしさを、作る。

ところが、副腎皮質の内分泌により、男らしさ、女らしさに、変化することが、わかった。

副腎皮質とは、左右の腎臓の上についている、小さな臓器である。

腎臓は、尿をつくるが、副腎は、それとは、何の関係もない。

副腎皮質は、二層に分かれ、外側を、副腎皮質、内側を、副腎髄質と名づけている。

この、副腎髄質の出す、内分泌物質は、アドレナリン、ノンアドレナリンである。
性の問題には、関係ない。
性に関係があるのは、副腎皮質である。

副腎皮質の、出すホルモンは、性ホルモンと、よく似ている。
すべて、ステロイドで、八つホルモンがあり、それらを、一括して、コルチコイドと、名づけている。

更に、コルチコイドは、五十種にも、及ぶのであり、その働きは、三種に、分けられる。

オキシコルチコイドといわれ、三大よう素の新陳代謝に関係するホルモンである。
デスオキシルコルチコイドは、体内のミネラルの新陳代謝に関係する。
副腎皮質の性ホルモン。性腺の作用がある物質である。

いかに、複雑な構造で、性が、成り立つかということである。
それは、脳と、密接に関係しているのである。
性が脳であるという、理由を書いている。

そこから、見えるものは、結果的に、人間の性のあり様である。
脳科学、大脳生理学、心理学、文化人類学、哲学、思想、宗教、民俗学等々、様々な分野を見渡して、性というものを、見るという、試みをしているのである。

勿論、私は、素人であるから、気が楽である。
勝手、気ままに、性を探るのである。

posted by 天山 at 00:00| 性について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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