2008年08月10日

神仏は妄想である 111

親鸞の信仰の深さについては、多くの人が、多くのものを、書いている。
現在でも、御用学者や、小説が書けない作家たちが、親鸞様について、書いて、名声を上げ、さらに、本を信徒に買われて、金にもしている。

確かに、物思う人として、見ると、その通り、親鸞は、実に深く物を考えた。

妄想は煩悩に発するにちがいないが、煩悩から離れようとする信仰自体のうちに、実は最も深い妄想がひそんでいるのである。救いについてのそれは自己計量(はからい)である。親鸞はこれと徹底的に戦った人だ。
亀井勝一郎 日本の精神史

私も、そう思う。

そのことがおそらく彼を人々から孤立させた。晩年の彼をはるばる京都までたづねてきてくれた関東の人々に対して、「総じてもて存知せざるなり」と答えたのである。
亀井勝一郎

いづれの行も及びがたき身
地獄は一定すみか

自己の計量したあらゆる救済観念を破壊すること、これが親鸞の戦いである。換言すれば、罪の自覚の深さに応じて、そういう救済観念の空しさを身に沁みて経験してきたということである。
亀井勝一郎

上記、実に理解する。
しかし、それとて、実は、大きな観念の中でのことである。
一番大事な、その観念の枠から、逃れられなかったという。
どんな観念か。
救いとか、罪人という観念である。

この自虐は、どこからのものか。
彼の生まれ育ちにもあろう。
虐待を経験した親は、自分の子供を、虐待する。自分の子供に向かわない場合は、自分に向く。自虐である。

法然は、疑いつつ、念仏すると言う。

崩壊しつくした人間と、弥陀の本願との、どん底における出会いに、信仰の純粋性を見ようとした。
亀井勝一郎

美しい表現であるが、崩壊しつくした人間は、崩壊したのであり、信仰の純粋性を、求められるだろうか。
美辞麗句に、聞こえる。

信仰の純粋性とは、絶対帰依の心であろうか。

多かれ少なかれ、人間は、アホでない限り、人生の一時期に、自分の、どん底を観る時期がある。
親鸞ばかりではない。
ただ、多くの人、語らないだけである。

信仰の純粋性というならば、道元の方が、まともである。
彼も、同じく、文を多く書いたが、親鸞のように、くねくねと、していない。
文においても、一本筋が通っている。

私は、日本の哲学書として、一つを上げれと、言われれば、即座に道元という。
ただし、道元にも、言いたいことは、多くある。後で、それは、書く。

兎に角、阿弥陀の呪術から、阿弥陀というものの、観念から、抜けられず、七転八倒しているのが、親鸞であり、それは、ぐるぐると回る、車に入れられて、同じところを、回っている、ネズミに似ている。

亀井勝一郎も、信仰の最も重要な面は罪の自覚にあることは言うまでもない、という。

ああ、この罪の自覚というものに、振り回されて、今の今までやってきたが、本当だろうか。
当の本人たち、仏教者たちが、本当に罪の自覚を、持ち続けたとは、到底、思われないのである。

仏教者たちであり、仏教家たちではない。
宗教という、団体に、胡坐をかいている僧たちは、話にならない。私の言う、仏教者たちとは、市井に生きる、信仰深い人たちのことである。

罪の自覚に、震え慄いていれば、生活など出来ない。
昔、言われた、不安神経症である。
信仰の深さというもの、精神病理に、どうしても、関わる必要がある。

この話ばかりを、続けていると、嫌な気分になるので、少し、寄り道する。

心が病むということは、どういうことなのであろうか。
大和言葉を、見る。

やむ やアむウ
アウという、母音にゆく。
病むは、止むとも書く。
心の何かが、停止する。思考停止状態でもある。同じ思考を、ぐるぐると、回る。

それでは、日本の伝統は、どうあるのか。
そういう時こそ、自然に向かった。
山川草木に、心を、向けて、樹や、石や、山川海に、カミ呼びをした。
自然を回復し、自然を清め祓い、そして、その自然の前に、祈りを上げた。額ずいたのである。

心、止まる時こそ、自然の恵みを頂いた。
八百万、千代万の神々と、飲み食いし、歌い踊った。

依り代を、作り、つまり、カミの場を作り、ひと時、その場で過ごす。
そして、自己回復を図った。

依り代とは、自分を突き放す場である。樹に、注連縄を張り、樹を依り代として、そこに、我が心を置いた。それを、カミと共に、自然と、共に、共感させた。
真っ当な自己回復である。

人間が生きるのは、自然の中である。
人間が、人間として生きるのは、自然と共にあるときである。
それを、日本は、伝統として、有する。
解りやすく言う。
エコという言葉があり、あたかも、それが正しい行為のように、思っている。また、それを、前提にエコという行為をする。
あれは、自然支配の欧米の傲慢な、考え方であること、明々白日である。

自然は、どんな状態でも、回復する。
台風の大きな被害の後でも、サイクロンから、竜巻の後でも、自然は、自己回復する。その、エネルギーたるや、計り知れないものがある。

その、自然対して、人間がするという、エコロジーという、考えたは、あまりに、浅はかである。
日本の伝統を、もってすれば、まず、自然の清め祓いを成し、自然と、飲み食いすることから、始まる。

対立したものが、自然ではなく、飲み食いする相手が、自然なのである。

木を植え続けた人の話は、感動するが、自然と、飲み食いする人の話には、感動しないという、アホ馬鹿、間抜けの多くなった日本である。

病むことが、回復するのは、自然の中にあってである。

それが、出来ないという人が、便宜上、精神薬を飲むのである。

仏教が、自然と離れた処で、語られ始めて、おかしくなった。
伽藍という、馬鹿馬鹿しい空間である。
それは、寺院という、中にある。

昔、人は、宇宙という、空間にいて、太陽を、主として、カミの懐にあることを、知っていた。


道元は、福井の山に籠もり、ようやく、大地雪満々と、観た。
だから、道元は、健康であった。
なよなよした、文は、見当たらない。

仏教家で、最も自然に対座したのは、田舎に籠もった、道元である。
結果、親鸞も、都に戻り、悩み続けた。
勿論、それも、否定しない。

信徒が、多くなると、その土地を、離れて、出て行く。
語れば語るほど、言いたいことが、遠のくからである。

言いたいことが、遠のく時は、沈黙しているに限る。

言挙げ、しないという、古神道は、それを、知っていた。故に、言葉にしない。沈黙したままである。
人は、言葉という、観念に縛られることを、知っていた。
だから、あーーーー、いーーーー、うーーーー
というように、一音に、思いを託すという、言霊、いや、音霊の所作を、尊んだ。

それは、まさに、自然の様である。
だから、自然と、同化、共生した時、病は、癒える。

自己の罪をかぞえて、救いを計る。人間の妄想にはきりがないのだ。妄想と格闘しつつ、別の妄想にふけるのである。
亀井勝一郎

マスターベーションは、罪であると、教えられてする、マスターベーションは、そうではない場合と、格段の差のある、快感になる。
人の妻と、セックスするなと言われれば、逆に人の妻との、セックスが、通常の何倍にも、快感になる。
技巧を凝らした、セックスをしなくても、罪の意識が、快感を増幅する。

西洋の文学には、そういう話題で、持ちきりである。
それを、深みだとして、日本には無い、精神の云々という、アホの紹介者を、鵜呑みにして、有り難がるという、これまた、アホの皆々である。

日本に、神は、いない、神の不在の文学などという、アホも多かった。
神など、いる訳がないのである。
日本の方が、真っ当であったが、兎に角、白人に弱い。

勿論、白人に弱いのは、日本人だけではない。
中国など、日本に対しては、徹底的に、交戦態度であるが、イギリスに対しては、尻尾を丸める。
白人に弱いのである。
侵略と言うなら、イギリスは、中国の怨敵である。
しかし、白人であるから、頭を上げない。

そうして、アジアの中で、威張り腐っているのである。
日本と中国である。
アホか。
以下省略。
寄り道し過ぎだ。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ272

御ここちかきくらし、いみじく堪へがたければ、かくあやしき道に出で立ちても、危かりし物懲りに、「いかにせむ」と、おぼしわづらへど、なほ悲しさのやる方なく、「ただ今のからを見では、またいつの世にかありしかたちをも見む」と、おぼし念じて、例の大夫隋身を具して出で給ふ、みち遠くおぼゆ。



その、お心は、暗く、酷くたまらないもので、更に、このような、如何わしい場所に出掛けることは、危険であり、昨夜のようになるかもと思い、引き返そうかと、思案にくれる。
しかし、悲しみの、晴らしようがなく、女の亡骸を見ないでは、二度と、いつの世に、女の姿を見られようと、我慢して、いつものように、惟光、隋身を連れて、お出かけになる。
道が、遠い気がするのである。


おぼし わづらへど
考える、思案する、煩うのである。

わづらえ おぼし、と、つまり、敬語になるのだ。



十七日の月さし出でて、かはらのほど、御さきの火もほのかなるに、鳥辺野のたかなど見やりたるほどなど、物むつかしきも、何ともおぼえ給はず、かき乱るるここちし給ひて、おはし着きぬ。あたりさへすごきに、板屋のかたはらに堂たてて、行へる尼の住まひ、いとあはれなり。



十七日の月が出て、加茂の河原の辺に、先駆の松明も、微かに、鳥辺野の方を、見ると、気味が悪いのである。
君は、胸が、一杯で、何とも感じなく、やっと、辿り着いた。
そこら辺り一帯の様子は、凄い様である。
板屋根の小屋の傍に、堂を建てて、尼が住んでいる様は、実に、あはれ、である。

この場合の、あはれ、は、物寂しいのであろう。

東山の、麓の、寂しい場所に、出掛ける源氏の、心境である。
普通ならば、夜に、そんな場所に、出向くことなどない。

何故、女が、あっさとり、死んだのかということが、まだ、語られていないのである。
六条御息所の、生霊として、明確に意識されるのは、いつか、である。
源氏は、狐の類と、思っている。



御燈明の影ほのかにすきて見ゆ。その屋には女ひとり泣く声のみして、外のかたに、法師ばら二三人、物語しつつ、わざとの声たてぬ念仏ぞする。寺寺の初夜も皆おこなひはてて、いとしめやかなり。清水のかたぞ、光り多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼ぎみの子なる大徳の、こえ尊くて、経うちよみたるに、涙の残りなくおぼさる。



お燈明の火影がかすかに透いて外から見える。
その家には、女が一人泣く声のみ、聞こえて、法師たちが、二三人、話をしながら、小声の念仏をしている。
寺寺の初夜の、勤行も皆、済んで、ひっそりとしている。
清水の方には、光が多く見える。
大勢いる様子である。
庵主の尼君の子である、お上人が、尊い声で、読経している。
それを聞いて、源氏は、涙を、とめどもなく流される。


涙の残りなくおぼさる
涙を、流すのであるが、残りなく、とは、止め処もなくということ。


当時の様が、目に見えるようである。

初夜とは、午後十時頃。
東山の、寺とは、現在の清水寺である。
十七日は、清水寺の、観音の縁日である。



入り給へれば、火とりそむけて、右近は屏風へだてて臥したり。いかにわびしからむ、と、見給ふ。


お入りになると、燈は、遺体に背けて、右近は、屏風の向こうに、横になっている。
どんなに、たまらないだろうと、御覧になる。

いかにわびしからむ
いかに、わびしい、という気持ちは、現在の心境にすると、やり切れない思いという、ことになるのか。
切ない気持ち。



恐ろしきもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたる所なし。手をとらへて、源氏「我に今ひとたび声をだに聞かせ給へ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに心を尽くしてあはれに思ほえしを、うち捨ててまどはし給ふが、いみじきこと」と、声も惜しまず泣き給ふこと、かぎりなし。大徳たちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひて、みな涙をおとしけり。



恐ろしい気持ちはしない。
実に、可愛らしい姿で、変わったところはない。
手を取り、私に、もう一度、せめて声を聞かせてくれ。どんな前世の縁であったのやら、わずかの間、愛情を注いで、愛しいと思った。
後に、残して、途方に暮れさせるとは、酷い、と、声も惜しまずに、限りなく泣く。
法師たちも、誰とは知らず、何か訳があるのだと、皆、涙を流すのである。



いとらうたげなるさまして
よく出てる表現である。
可愛らしい。愛らしい。

しばしのほどに 心を尽くして あはれに 思ほえしなる 昔の契りにかありけむ
美しい表現である。
昔の縁による、契りを、あはれ、に思う。
この、あはれ、は、愛したことを、言う。
あはれ、という言葉は、前後の表現により、広い意味合いを持つ言葉であることが、物語を、読むことで、解った。

定義できない、あはれ、という言葉である。
私が、ここに書いている、もののあわれについて、は、また、同じく、定義が出来ない。
自由自在に変化する、言葉なのである。
もののあわれ、とは、こういうものですと、書くことが出来ない、広がりを持つ言葉であり、それは、日本の精神、日本人の心の、在り方を察する、手がかりにも、なるのである。

この、あはれ、という言葉を、見つめ続けて、日本の伝統が、成り立つ。
すべての、伝統の文化的行為にあるもの、それが、この、あはれ、という言葉に、集約されるのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 10

女は、臭覚、男は、視覚だと、書いた。
それでは、女の臭覚について、もう少しみてみる。

臭覚は、視覚、聴覚、触覚、味覚とは、別に、匂い分子が、鼻の嗅上皮細胞に入ると、電気信号に変化して、臭神経を通り、臭球核という臭覚の、第一次中枢へゆく。
そこから、大脳辺縁系の扁桃核に対する、皮質である、梨状葉という、第二次中枢へゆく。
そして、前頭葉の外側の、後へ行き、そこではじめて匂いを、識別する。

匂い情報は、人間の、最も高度な働きをする、前頭葉に達するのである。
つまり、原始的感覚である匂いと、大脳辺縁系という、最高級の脳の、働きに至るのである。

そして、以前書いたが、性的関心は、前頭葉にあるということも、書いた。

非常に、興味深いところである。

女は、臭覚で、性的興奮を得るということは、原始感覚と、最新の脳の働きによるということである。

ただし、男にも、臭覚はあり、時に、視覚より、甚だしく、性的刺激を受ける場合がある。

極端な例であるが、結婚して、性生活がない男が、いた。
原因は、妻の腋臭であった。
強烈に匂う腋臭が、彼の性欲を、奪った。
結婚する前は、それほどでもないと、思えた腋臭が、強烈なものだと、ベッドで、知ったのだ。

勃起することが、出来なくなった。

その逆も、ある。
強烈な、腋臭で、性的興奮を得る男もいる。
その、好みの、問題は、胎児期から、幼児期にかけて、作られるものである。

つまり、人間の、最も人間といわれる、大脳の前頭葉の基本的神経回路が、出来上がるのは、九歳なのである。
生まれてから、九歳までの、心の風景を、私は、原風景と呼ぶ。
この、原風景が、以後の人生を、すべて、左右するのである。

性欲、性的刺激、性なるものも、すべて、である。

とすると、男、女というもの、その、感覚も、それまでに、出来上がるということである。

つまり、男と、女とは、何かという、問題になる。

子供が大好きだという、男の大人の中には、潜在的、幼児性愛がある。
誤解されないように言う。
子供は、中性である。

およそ、九歳までの、子供は、中性と、認識するべきである。
まだ、男、女の地図が、脳の中で、定まっていないのである。

ジョンズ・ホプキン大学精神ホルモン研究所長、ジョン・マネーという人の、性倒錯に悩む人々の研究成果が、九歳までに、作られた脳の性地図によるものとの、報告がある。

世の中には、様々な性の姿がある。
男と、女だけではない。
男と女しかいないという、認識は、おそらく、能天気なアホであろう。
人間は、そんな単純なものではないことは、脳の働きを、見ても解る。

つまり、100パーセントの、男や、女は、いないのである。

脳だけではない。体も、稀に、性器が男と女という、場合も有る。

百人百様の、性があると、認識することから、性というものの、姿を知るのである。

もう一度、セックスという、語源を尋ねると、ラテン語の、分割された部分という意味から、転じて、分断するという意味の言葉から、生まれた。
性という、言葉の意味である。

それでは、日本の場合は、性という言葉は、男は、ギ、であり、女は、ミ、である。共に、母音が、イである。
イ音は、受け入れるという、音霊の意味がある。
共に、相手を受け入れるという意味である。
そこには、男、女の区別はない。
受け入れる相手がいれば、男でも、女でも、受け入れる。

同性、異性に、関わらず、である。
同性を受け入れるから、同性愛というわけではない。
武士道に見られる、男同士の関係は、精神的同性愛、プラトニックとしての、同性愛という、認識である。
勿論、肉体関係が、伴っても、構わないのである。
それが、重大なことではない。

要するに、相手のために、命を投げ出す覚悟の、問題である。

ここから、同性愛、ホモ、そして、バイセクシャル、更に、ジェンダーというものを、考える。
しかし、ジェンダーという言葉は、日本語にないものであり、まだ、誰も訳語を提唱していない。一応、性差ということになっている、が。

動物の世界では、雄と雌という、セックス、性が、一致している。
ジェンダーが、セックス、性と、分離するのは、脳が発達した、人間のみである。

動物の世界でも、同性愛行為は、あるが、人間の場合とは、意味合いが違う。

ジェンダーとは、男の体でありながら、女として、生きたいという者である。
その逆も、また、同じく。
そして、男の体で、愛する相手が、男であるという、同性愛。その、逆も、あり。

そして、問題は、ジェンダー、ホモセクシャル共に、自分で、選択できるものではないということ。

昔は、倒錯といったが、現代では、通常にあるものと、認識される。
それは、胎児期から、九歳までの、間に作られる性向である。

人間であるが、故に、性という、セックスを、超えた、ジェンダー、及び、ホモセクシュアルがあると、言っても、よい。

そして、それこそ、人間存在の、根源的な、カテゴリーとなるものである。

人間的なもの、それが、ジェンダーであり、ホモセクシュアルである。故に、それを、理解し、包括しなければ、性というものの、姿は、見えないのである。

ちなみに、ジェンダーの語源は、ラテン語の、ゲヌス、フランス語にある、ジャンルに当たる。
一つの、分類された、グループという意味である。
実に、彼らを差別する、何物も無いのである。
彼らも、一つのグループである。

もう一つ、オマケに、フランス語では、男性、中性、女性名詞と、分けている。

ちなみに、もう一つ、オマケに言う。
バイセクシャルである。両刀使いと、言われる。
これも、一つのグループである。
アメリカでは、バイセクシャルを承知で、結婚する、カップルが、実に多い。

日本では、江戸時代まで、結婚と、恋の遊びは、別物だった。
恋は、玄人の遊郭の、遊女と、遊び、結婚は、別である。
そして、更に、男色という関係も、また、結婚とは、別である。

妻がいても、男の相手がいて当たり前である。
井原西鶴、好色一代男に、すべて、描かれている。

火付けで、磔にされた、八百屋のお七の相手も、あれほど、お七が、慕った男には、男色の相手がいたのである。
それが、当然のことだったという、時代もあるのである。

posted by 天山 at 00:00| 性について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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