2008年08月09日

神仏は妄想である 110

多くの人、親鸞は、法然の念仏信仰を、深めたというが、私は、そうは、思わない。
単に、方法の問題である。

それを、専門的には、行と信だという。
法然は、念仏行を、親鸞は、ただ、信だというのである。
その意味は、法然は、念仏するという行為に、親鸞は、それ以前の心、つまり、歎異抄にある、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、と、言うのである。

文章としては、見事だが、その真実に迫ってみる。
結論から言えば、親鸞は、考えすぎであり、ノイローゼの気質である。更に、法然と、比べて、劣るのは、言わずと知れた、物を書いたということである。
私も、含めて、物を書くということは、妄念であり、妄執であり、妄想である。

物を書かない者、こそ、実に、真っ当である。
その、第一の人は、言わずと知れた、仏陀である。

法然も、自筆の物を、書くことがなかった。
実に、言えば、嘘になることを、知っていた。

親鸞は、文章がお上手であり、歌も詠む。
その、和讃は、有名である。

ここで、少し、親鸞に触れる。

一番最初に、親鸞の、精神不安定を、示す事実は、19歳の時の、夢告である。
度々、聖徳太子が現れる夢をみたという。

当時、聖徳太子は、大乗仏教の日本の開祖のように、考えられていた。
更に、救世観音の化身だとされている。ただし、伝説である。その、伝説が、そのまま、太子信仰に、結びつくほど、愚かであったと、言う。
今は、それ以上、余計なことを書かないでおく。

親鸞は、9歳から、29歳の20年間を、比叡山の堂僧として、修行研鑽していた。
夢は、19と29歳の時が、特徴的だ。

19歳の夢では、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、我が教令を。汝の命根まさに十余歳なるべし。命終わりて速やかに清浄土に入らむ。善信、善信、真の菩薩」である。
上記、読みやすくしてある。

命根とは、命の長さである。
まさに、十余年とは、いかなることか。
後、十年の命ということなのか、今なのか。
ただし、夢である。

当時の、比叡山の様子は、親鸞の晩年の和讃から、見ると、
「この世の本寺・本山のいみじき僧とまをすも法師とまうすもうきことなり」
である。

うきことなり、と言うのである。
うき、とは、憂きである。
親鸞は、彼らの行状を、憂いでいるのである。それほど、酷かったのである。

比叡山は、天台の教えも、理想も無くして、ただ、学閥と政略に、満ちて、世間と、変わりない有様である。
要するに、堕落していたのである。
僧たちの、堕落は、今と同じく、甚だしいものがある。面倒なので、書かない。

さて、夢である。
その中に、聖徳太子が、救世観音として、登場するというもの。
真っ当に、それを、鑑定など出来ない。
後の人は、その夢告を、後生大事に、解釈するが、何のことは無い、ノイローゼである。

真面目な人ほど、そうなる。
まして、人並み以上に性欲に、悩んでいれば、同然のこと。

夢分析なるものを、する必要も無い。
願望の、雑夢である。
何せ、命終わりて清浄土に入らむ。と、言われている。つまり、浄土に往生すると言われるているのである。

善信、善信、真の菩薩。
よいかな、よいかな、真の菩薩である。
自らを、菩薩にしてしまった。
自分が、自分で、自分を菩薩と、言わしめるほど、フラフラ、朧に、迷っていた。
この宗教的な、夢に象徴されるように、宗教とは、迷いなのである。

その、迷いを、超越したものに、転化して、救われたと思い込むモノが、信仰である。

自問自答の、自業自得である。

さて、次の夢は、もっと、悩ましい。
救世観音と、交わるのである。
29歳の、六角堂参籠の時である。

後の、正統伝の作者が、言う。
「行者しふほうにて、たとひ女犯すとも、われ玉女の身となりて、犯せられん。一生のあひだ、よく荘厳して臨終引導して極楽に生ぜしめん」

簡単に言う。
夢で、女と、交わる。朝目覚めると、仏像に、精液がついている。
アア、と、ため息をつくが、後になると、菩薩が、私は女になって、あなたとセックスするというのである。

なんとも、勝手気ままな、解釈である。

勿論、これを、まじまじと、屁理屈を捏ねて、親鸞の信仰の、云々という話になるから、空いた口が、塞がらない。

その、夢を、見た年に、法然に出会い、念仏信仰、一本に、絞るのである。

私の疑問は、念仏に生きていもいいが、何故、農民や、漁民になって、ごくごく自然の普通の生活をして、信仰しなかったのかということである。

ところが、悲壮感たっぶりに、出家道より、在家道を、選び、肉食妻帯であり、我は、罪人なりという、神経である。

そして、教えを、垂れるという、傲慢である。
つまり、結局、仏教という、枠から、離れられなかったということである。
そして、それは、いい。しかし、何故、宗教家として、生きるのか。

そうそうに、足を洗って、在家信者になり、妻を娶り、普通の生活をして、市井の人として、信仰を深めていいのである。
結果は、浄土真宗であるから、がっくり、くる。

勿論、最初は、浄土新宗である。つまり、法然の、浄土宗から、新しく生まれたものという意識である。その後、真宗に、改めた。政治的匂いがする。

文学として、彼が作家であるならば、私は、言うことも無い。
宗教という、迷いを、平然として、掲げたから、批判する。

法然の門に入り、更に、結婚をして、親鸞は、日本仏教に、大きな影響を与えた。今は、僧たち、皆々、結婚をするようになった。
真宗だけではなく、すべての、宗派である。

ここ、ここに至っては、本当は、言葉も出ないことなのだが、私は、書くことにする。

仏陀は、きっぱりと、出家者は、女の膣にペニスを入れるなと、言明している。

これに、誰か、反論は、あるだろうか。

大乗仏教なるもの、誠に、嘘である。
大乗起信論に、大きな舟に衆生を乗せて、彼岸、極楽へと、運ぶ教えと言う。
嘘である。
決して、そんなことは、あり得ない。

自業自得が、宇宙の法則である。

催眠術に似たような、大法螺である。



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もののあわれ271

日暮れて惟光参れり。「かかるけがらひあり」と宣ひて、参る人々も皆立ちながらまかづれば、人しげからず。召し寄せて、源氏「いかにぞ、今はと見はてつや」と宣ふままに、袖を御顔に押しあてて泣き給ふ。



日が暮れて、惟光が、やって来た。
こういう穢れがあると、仰ったので、参上する人も、皆、退出し、お宅は、閑散としていた。
惟光を、呼びよせて、源氏は、どんな、最後を見定めたのか、と言う。
そのまま、袖にお顔をおしあてて、お泣きになるのである。



惟光も泣く泣く、「今は限りにこそは物し給ふめれ。ながながと籠り侍らむも便なきを、あすなむ日よろしく侍れば、とかくの事、いと尊き老僧のあひ知りて侍るに、言ひ語らひつけ侍りぬる」と聞ゆ。源氏「添ひたりつる女はいかに」と宣へば、惟光「それなむ又え生くまじく侍るめる。右近「われも遅れじ」とまどひ侍りて、けさは谷に落ち入りぬとなむ見給へつる。右近「かのふるさと人に告げやらむ」と申せど、「しばし思ひ静めよ。事のさま思ひめぐらして」となむ、こしらへおき侍りつる。と語り聞ゆるままに、いといみじとおぼして、源氏「我もいとここち悩ましく、いかなるべきにかとなむおぼゆる」と宣ふ。


惟光も、泣く泣く、もう最後で、ございました。
長いこと、籠もりますのも、不都合ゆえに、明日の日が、よろしゅうございますから、それのことを、尊き老僧で、懇意にしている者に、頼んでおります。と、申し上げる。
源氏は、付き添っていた女は、どうした、と尋ねる。
惟光は、あれは、また、生きられそうにも、ございませんようで。
自分も、一緒にと、正体もなく、今朝など、谷に、飛び込みかけました。
あの、五条の家に、知らせようと言いましたが、しばらく気を落ち着けて、事情を十分考えてからと、慰めました。
そう、報告するのを、源氏は、ただ、悲しくて、たまらず、私も、とても、気分が勝れず、どうなることか、という、気がすると、仰る。

こしらへおき
慰める。
心の有様を、こしらへる、のである。



惟光「何かさらに思ほしものせさせ給ふ。さるべきにこそよろづの事侍らめ。人にも漏らさじと思ふ給ふれば、惟光おりたちて、よろづは物し侍り」など申す。源氏「さかし。さ皆思ひなせど、浮かびたる心のすさびに、人をいたになしつるかごとおひぬべきが、いとからきなり。少将の命婦などにも聞かすな。あま君、ましてかやうの事などいさめらるるを、心はづかしくなむおぼゆべき」と、口がため給ふ。惟光「さらぬ法師ばらなどにも、みな、言ひなすさま異に侍り」と聞ゆるにぞ、かかり給へる。



惟光は、何を、今更、ご心配あそばすのですか。因縁によりてのことです。誰にも、知らせないようにと、惟光が、すべていたしました。と、言う。
源氏は、そうか、そう思ってみるが、浮気心の、遊びから、人を死なせてしまった非難は、避けられないのが、実に、たまらない。少将の命婦などにも、知らせるな。尼君なら、いっそうに、喧しい。知られたら、会わす顔もない。と、口止めする。
惟光は、その他の、僧などにも、いずれも、皆、違ったように話しています、と言う。
源氏は、それを聞いて、力強く思う。

命婦とは、惟光の、姉妹のことである。
尼君とは、惟光の、母親のこと。

ましてかやうの事など いさめらるるを
まして、こんなことは、諌められる、喧しく言われる。

源氏は、女が、死んだことを、
いとからきなり、と言う。
からき、とは、堪らない気持ちである。



ほの聞く女房など、「あやしく、何事ならむ。けがらひのよし宣ひて、内にも参り給はず。又かくささめき嘆き給ふ」と、ほのぼのあやしがる。源氏「さらにことなくしなせ」と、そのほどの作法宣へど、惟光「なにか。ことごとしくすべきにも侍らず」とて立つが、いと悲しくおぼさるれば、源氏「便なしと思ふべけれど、いま一たびかのなきがらを見ざらむが、いといぶせかるべきを、馬にて物せむ」と宣ふを、いとたいだいしき事と思へど、惟光「さおぼされむはいかがせむ。はやおはしまして、夜ふけぬさきに帰らせおはしませ」と申せば、このごろの御やつれにまうけ給へる狩りの御さうぞく着かへなどして出で給ふ。



小耳にする、女房などは、変ですね、何事でしょう。穢れに触れたと、おっしゃって、参内もあそばさず、それに、ひそひそ話で、お嘆きになっている、と、不審がる。
源氏は、この上は、手抜かり無く、はからえ、と、葬式のやり方をおっしゃる。
惟光は、仰々しくいたすべきでは、ごささいません。と言い、席を立つのが、とても、悲しく思われる。
源氏は、不都合と、そちは、思うだろが、もう一度、あれの、亡骸を見ないでは、いつまでも、気がかりになるので、馬で行く、と、仰る。
それは、とんでもないと、思うが、惟光は、そう思われるならば、いたしかたありません。早く、お出まして、夜の更けぬうちに、お帰り遊ばしませと、言う。
このほど、作られた、御狩衣に、御召しかえなどなさり、お出かけになるのである。


ことごとしくすべきにも侍らず
身分の高い女ではないから、それほど、仰々しくしなくても、いい。

いといぶせかるべきを
いぶせ、気分が、晴れないのである。

いとたいだいしき事
そんな、ことは、源氏の身分では、してはいけないのである。

さおぼされむは いかがせむ
そのように、思われるならば、しかたがない。

このごろの御やつれにまうけ給へる 狩りの御さうぞく
微行、びこう、である。
人に知られず、行為すること。
そのために、作った、狩衣である。
御さうぞく、は、装束である。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 9

大脳辺縁系は、かつて哺乳類時代は、臭脳と呼ばれていた。
原始感覚の脳であり、女は、ここが、実にしたたかに出来ているという。
それは、命を生むからである。

視覚、聴覚、味覚、触覚の、四感は、視床下部という中継点を通るが、臭覚だけは、別行動をする。
直接、大脳辺縁系の梨状葉に達する。ここは、扁桃核の皮質にあたる。
臭覚情報の最終地点は、前頭葉なのである。
そして、不思議なことに、臭覚は、他の感覚が休んでいても、ずっと活動している。さらに、臭覚記憶は、何年にわたっても、保存される。

ある女性が、相談に来た。
時々、眩暈がして、突然、動けなくなるというのである。
勿論、精神科にも、通っていた。
原因が解らないという。

何か言葉を交わしているうちに、私は、過去の記憶に、何か問題があるのでしょうということを、話した。
複雑な家庭環境である。
彼女は、養子である。

突然ではなく、何かそれには、訳がある。
昔の嫌な思い出を、突然、何かで、思い出すのでしょう。
すると、人に、初めて言いますと、家庭内、性的暴力のことを、話し出した。
聞くことに、耐えられないような、話だった。

養父に犯され、兄に犯され、更に、弟にも、犯されていたという、話である。

高校を卒業して、すぐに、家を出た。

彼女の最初の、相談内容は、彼氏が部屋から出て行くと、不安で堪らなくなるというものだったが、根本に、そのような問題があった。

思春期を、とんでもない環境の中で、過ごしたのである。

そして、最後に、匂いに至った。
思い出の匂いを、嗅ぐと、突然の眩暈がはじまる。
匂いを、思い出すと、という言い方もできる。

女性は、原始感覚が、生まれつき、強靭であるが、別なことで、狂うと、それは、精神的苦痛になるというものである。

臭覚は、性欲の、キーポイントである。
男の場合、前回も書いたが、視覚である。

性的関心を司るのは、前頭葉であると、言える。

コンピューターが登場して、その技術者が、テクノストレスというものに、晒されるようになり、それは、前頭葉のストレスであるが、ここが、ボロボロに疲労することで、とんでもない状態になる。

食欲も、性欲も、狂うのである。
前頭葉が、スピードと、正確さ、そのコントロールに振り回されるのである。

食欲、性欲が、あることは、実にありがたいことなのである。

さて、男である。
視覚により、性的感覚を、呼び覚ます脳の働きとは、何か。

見るという行為は、目である。
目には、網膜がある。
網膜には、光を感じる細胞が、一億以上もあるといわれる。
細胞が処理した情報は、100万個もある、神経節細胞によって、視床下部の中の、外側膝状体を介して、新皮質の視覚領に伝達される。

しかし、そこが、終点ではない。
視覚領からの情報は、性欲中枢のある、大脳辺縁系に送られて、性的情動となり、興奮させ、脳裏に、留め置く。

大脳辺縁系とは、脳の中心にある髄液で満たされた、脳室をとりかこみ、新皮質との境界を形成している、海馬、扁桃体などの組織である。

この、大脳辺縁系は、視覚のみならず、感覚情報を、すべて、処理する中心的機構である。

また、そこは、体と、心のつなぎ目である。

ストレス、マイナスイメージの、情報が、送られると、つなぎ目が、混乱し、ストレス症候群とか、心身症、神経症に陥る。
つまり、性欲も、食欲も、おかしくなる。

さて、男は、見て刺激を受ける。
女は臭覚、男は視覚である。

人間が、他の動物と、違うところは、性欲が、甚だしく拡大し、歪曲してゆくということである。
生まれ、育ち、習慣、教育などにより、性欲の表情が違う。
本能としての、性欲は、同じだが、文化を抜きにして、性欲の表現、行為は、語れないのである。

ヌード写真を見て行うという、実に基本的な、マスターベーションの行為がある。
視覚に訴えて、興奮する。
ところが、それに、飽き足らなくなり、色々と、考案する。
涙ぐましい、マスターベーションの歴史が、一人一人の男にはある。

ところが、ある頃から、マスターベーションを知らないという、世代も出た。

十年程前、私の知り合いが、ある大学の、講師として、講義をしていた頃である。
性についてを、語り始めて、一人の男子学生が、部屋に尋ねて来て言うには、マスターベーションの仕方を教えてくれというものだったと、言う。
彼は、知らなかったのである。
受験、受験に明け暮れて生活しているうちに、自然発露の、性欲を、忘れた。

以前に書いた、性欲嫌悪のことではない。

講師は、丁寧に、マスターベーションの仕方を伝授したという。

男の子の、マスターベーションは、想像力を鍛えるものである。
いかに、楽しむか。楽しめるか。
いずれ、文化的、マスターベーションというものを、見ることにする。
要するに、マスターベーションも、その背景には、文化がある。

posted by 天山 at 00:00| 性について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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