2008年08月06日

神仏は妄想である 107

信仰の最も重要な面は罪の意識の自覚にあることは言うまでもない。同時に隠れた自力性といったものが、ここに微妙に作用するのではなかろうか。たとえば罪の告白懺悔は尊いことかもしれないが、このときほど人間の「はからい」が巧妙にはたらくときはないのかもしれない。親鸞はそこに生ずる虚構をおそれたのだ。
亀井勝一郎

罪の自覚は、当然だと言う。
親鸞は、告白懺悔の虚構を恐れたと言うが、私は、それ以前に、罪の意識のあるのが、当然だということに、注目する。

宗教の救いというものは、人間の罪意識あればこそだと、暗黙の内に、了承されていることである。
おかしい。

我が身が、救いようのないほど、罪人であるという意識は、如何なるものか。
罪意識があるから、救われたいと思う。

何度も言うが、この自虐性が、問題である。

更に、
自己の計量したあらゆる救済観念を破壊すること、これが親鸞の戦いである。換言すれば、罪の自覚の深さに応じて、そういう救済観念の空しさを身に沁みて経験してきたということでもある。

自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
歎異抄

自力の人は、他力の心が、欠ける。ゆえに、弥陀の本願には、適わないのである。

これは、観念の中の観念である。
確かに、親鸞の思索の深さというものが、表現されるというが、何ゆえに、ここまで、自己を追い詰めるのかといえば、罪意識である。

罪人意識に、陥り、抜け出せないでいる。しかし、これも、自業自得である。

歎異抄は、名文であり、日本文学の中でも、一際、冴える書である。
しかし、それと、宗教の云々とは、別問題である。
確かに、宗教的、云々があればこその、名文であろうが、そうだとすれば、これは、あまりに、無用な、悩みを、多くの人に与えた。
更に、現代までも、この親鸞の迷いに、導かれて、さすらう人がいる。

愛欲の大海に、沈む、つまり、セックスの欲求が、何故、罪の意識と、結びつくのか。
それを、罪意識だと、当然として、今までの解釈は、成り立つていた。
根本からして、それは、誤りである。

名利の山に、迷う。
何故、名声を求めてはいけないのか。
そのために、努力奮闘することに、人生の一つの道があるのだろう。

何をしても、人は、生きられるようにしか、生きられないのである。

救いを説く、仏教がもたらしたものは、救われないという、罪意識であり、それは、単に、その世界の中での、お遊びであるという。
つまり、観念遊びである。

罪意識という、迷いを与えて、そして、そこからの救いを説くという、ゲームである。

どんな救済観念も崩壊した極限を設定することによって、言わば自己のはからいの微塵も入る余地のない、絶対帰依の心をあらわそうとしたのである。悪人への同情でもあこがれでもない。崩壊しつくした人間と、弥陀の本願との、どん底における出会いに、信仰の純粋性を見ようとしたのである。
亀井勝一郎

上人の常の仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり
歎異抄

親鸞一人のために、あの大願が発せられたということである。だが何がこのことをいわせるに至ったのか。まさに天地の間「唯我独悪」の切なる体験が、この言葉となったのである。一切の悪がこの自分一人の中に渦巻いているのである。だがそれは何を意味しているのか。一切の慈悲が自分一人の上に降り注がれているということではないか。・・・・
こんな驚きこんな感激が他にあうか。もう自分の往生に露塵ほどの疑いも残らぬ。誰を差し置くとも、この自分が浄土に生まれるのである。こんな歓喜が世にあろうか。地獄必定と分からせて貰えた者のみの味わい得る歓喜である。
柳宗悦

一体、誰が、こんな、妄想を、与えたのであろうか。
大乗仏典は、すべて、創作であると、今では、知られている。
当時は、そうではなく、すべてが、本当であると、考えた。
つまり、極楽も、地獄もあるものだと。

今では、仏典の多くが、検証されて、その有様が、解られてある。
妄想の、観念が、妄想の観念を生み、更に、誇大妄想が、加えられて、とんでもない、極楽往生の、思索の深さが、善しとされている。

人は、生きられるようにしか、生きられない。

つまり、時代性であり、時代精神である。
彼らを、責める訳にはゆかない。
その時代に、徹底して、生きたのである。

さて、それから、親鸞を支持した者たちが、浄土真宗という、集団を作る。
そして、現在までに至る。
その、宗教団体は、如何なるものか。

あの、時代に、宗祖が、悩み抜いた境地に、立って、信仰と成しているのか。それとも、既得権益のみに、汲々としているのか。

堕落の一言である。

更に、内の中に、反省を促す声も、聞かず、ただ、諾々として、伽藍と、形式に陥り、すでに、その心意気を失い。ついには、葬式のみに、生きる宗教となり、唾棄すべき、僧侶たちの、安穏とした様は、世の中の害毒である。
無きもしない、地獄、極楽を、説いて、信者を騙し、更に、脅迫して、強迫神経症を、引き起こさせるという、お粗末さである。

次に、宗門から、宗門を批判した、昭和歎異抄を書いた、大沼法龍氏の、文を、見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ268

からうじて鳥の声はるかに聞ゆるに、「命をかけて、何の契りにかかる目を見るらむ。わが心ながら、かかるすぢにおほけなくあるまじき心の報いに、かく来しかた行く先のためしとなりぬべき事はあるなめり。しのぶとも、世にあること隠れなくて、内に聞し召さむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬわらはべの口すさびになるべきなめり。ありありて、をこがましき名をとるべきかな」と、おぼしめぐらす。



ようやく、鶏の声が、遠くに聞こえた。
君は、心の内で、命まで、賭けて、なんの因果で、このようなことになったのか。我が心の内からとはいえ、この道の、不謹慎な欲望の、応酬で、過去や、未来に例となるような、事件が起こったのだ。
隠しても、実際に、起こったことは、隠せない。
いつかは、主のお耳に入ることだろう。そして、世間の思惑、噂になり、更に、賎しい童たちの、噂の種になる。
挙句の果て、愚か者と、言われることだろう。と、考え続けるのである。


かく来しかた行く先の ためしとなりぬべき事は あるなめり
過去や、未来の、例になるだろう。

しのぶとも 世にあること隠れなくて
隠しても、隠くすことは、出来ない。


かろうじて惟光の朝臣まいれり。よなかあかつきと言わず、御心に従へる者の、こよひしもさぶらはで、召しにさへおこたりつるを、憎しとおぼすものから、召し入れて、宣ひ出でむことのあへなきに、ふとものも言はれ給はず。



やっと、惟光の朝臣が、来た。
夜中でも、朝でも、御意に背かない者が、今夜という今夜に限り、お傍に、いず、その上、お召しに、遅れたことを、けしからんと、思いつつも、呼び寄せて、お言葉に、されようとするが、情けない話になので、急に、口が、利けないのである。


右近、太夫のむはひ聞くに、初めよりの事うち思ひ出でられて、泣くを、君もえ堪へ給はで、我ひとりさかしがり、いだき持給へりけるに、この人にいきをのべ給ひてぞ、悲しき事もおぼされける。とばかりいといたく、えもとどめず泣き給ふ。


右近は、太夫が来たことを知り、初めからのことが、思い出されて、泣く。
君も、我慢出来ずに、一人、気丈に、抱かかえていたが、惟光に、ほっとされて、悲しい思いが湧きあがる。
しばらくの間、止めようもなく、お泣き続けになるのである。


ややためらいて、源氏「ここにいとあやしき事のあるを、あさましと言ふにも余りてなむある。「かかるとみの事には、読経などこそはすなれ」とて、その事どももせさせむ、願などもたてさせむとて、アジャリものせよと言ひやりつるは」と宣ふに、惟光「昨日山へまかりのぼりにけり。まづいとめづらかなる事にも侍るかな。かねて例ならず御ここちのものせさせ給ふ事や侍りつらむ」源氏「さる事もなかりつ」とて泣き給ふさま、いとをかしげにらうたく、見奉る人もいと悲しくて、おのれもよよと泣きぬ。



しばし、気を静めてから、源氏は、ここに実に、意外な事が起こり、大変なこと、いや、それ以上のこと。
こんな急なことは、読経などするのが、よいとのこと。
そんなことも色々しようと、願も立て、アジャリも、来るようにと、言っておいたのだ、と仰る。
惟光は、昨日、山に参りました。
何にせよ、不思議な事件でこざいました。
前々から、ご気分の悪いことでも、ありましたか。
源氏は、そんなことは、なかったと言う。
そして、泣いた。
実に、美しく、可愛らしい。
それを、見ている惟光まで、悲しくなり、自分も、声を上げて泣いた。

泣き給ふさま いとをかしげにらうたく
泣き姿が、大変に、をかしげに、見えるという。
作者が、それを、強調する。

しかし、不思議なことに、源氏の姿形が、どこにも、書かれてないのである。
ただ、美しいの、一点張りである。
何故か。
美しいという、物指しを、読む者に、丸投げしているのである。

兎に角、美しい、というのみ、である。
ここに、源氏物語の、テーマがある。
美とは、何か。
美によって、許されるもの。
すべては、美を超えないのである。

源氏は、その象徴である。

この大変な状況にあっても、源氏の美しさを、書くという、紫式部の根性である。
女の死など、物の数ではないというのよな。

源氏の、姿、有り様に、読者を、曳き付ける。

あさましと言ふにも 余りありてなむある
源氏の言葉で、事の重大さを、言う。
あさましいと言うにも、程がある、いや、それ以上に云々である。
あさまし
驚くべきこと、にも、余り有ること、である。

惟光は、あらかじめ、事の有様を、聞いていたと、思われる。
まづいとめづらかなる事にも侍るかな
大変、珍しい、不思議なことがあったのですね。
今までにない、事件である。

それにして、源氏の泣く姿に、貰い泣きするという、惟光である。
作者は、それを、源氏の美しさゆえだという。

物語は、源氏の顔が、見えずに進んでゆくのである。
それの方が、私は、不思議である。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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