2008年08月04日

神仏は妄想である 105

鎌倉時代に、法然は、男女平等を念仏によって、掲げた。

さらに、驚くべくことは、男女の差だけではない。
上下、貴賎の別なく、人は平等だと、説くのである。
これはまた、画期的である。

当時の、身分差別の激しい時代に、人は皆、平等であると、説くのである。

法然の元には、多くの、罪人が、集った。
罪人とは、ドロボーを始めとして、卑しい者たちである。

さて、実は、ここで、人間の平等というものが、いつから、日本の歴史の上で、成されたかということである。

それは、万葉集である。
上は、天皇から、下は、庶民に至るまで、すべての人を歌の前に、平等であるとしたのである。
日本の、平等主義の歴史は、実に古いものである。
しかし、それが、忘れられた。
鎌倉時代に、万葉集を知る人も少ないのである。

法然は、元の日本の平等主義を、念仏を通して、伝えたといえる。

法然が、現代に生きていれば、宗門ではなく、確実に思想家として、人間平等説を唱えていたであろう。

更に、救いは、誰もが、平等であるという、思想である。

陰陽師の、阿波之介という者が、自分の怪しげな占いや祈祷により、多くの女を囲い、酒池肉林の生活をしていた時の、ある日、人生の無常を感じて、法然の説法を聞くようになる。

法然が、弟子たちに、尋ねた。
阿波之介の念仏と、私の念仏とでは、どちらが、尊いのかと、すると、皆、お上人の念仏ですと、答える。それに対して、法然は、
「日頃、申していることが、まだ解らないのか。唱える念仏に尊いも、卑しいもない。念仏とは、阿弥陀様、お助けくださいという、その、一念しかないのだ。」
と、答えるのである。

どんな者でも、平等に救われる。それは、人間平等説の、高らかな、宣言であった。法然を慕うもの、その、法然の思想に、共感するのである。

そして、それは、悪人正機という、教えに結実してゆく。
それは、悪人こそ、救われなければならないのであるという、画期的な思想である。

この、考え方は、親鸞によると、思われる人がいるが、それは、親鸞ではなく、法然の考え方である。それを、親鸞が、継いだ。というより、師の教えとして、伝えた。

親鸞の弟子の、唯円による、歎異抄という、書は、名文である。
私は、この書を、高く高く、評価する。
世阿弥の花伝書と、共に、漢字かな混じり文では、傑作中の傑作である。

それにより、親鸞の思想のように、考えられるが、それは、法然のものであった。

何度も言うが、法然は、30数年間仏法を学び、智慧第一と、言われた程の者である。
つまり、仏法とは、彼自身であり、それを、離れて、彼の思想は、成り立たないのである。

人間は、決して、客観的というものの見方は、出来ない。
あくまでも、主観の内にある、客観である。
自分の内にあるもの以外の、いかなる、考え方も、考えることは、出来ない。
法然に、神学の考え方をせよと、言うことは、出来ないのである。

さらに、私は、それを、時代性とか、時代精神と言っている。
その時、のみだから、また、その人だから、考えられた思想である。

弥陀の本願にまで、疑いを持ちつつ、弥陀に縋るという、考え方を、選択した、その法然の心の内に、私は、共感する。

男女平等、更に、人間平等、そして、更に、悪人も、善人も、同じく、弥陀の救いにあるという、当時としては、大変な思想を、展開したといえる。

織田信長によって、近代というものが、拓かれたというならば、法然によって、20世紀後半の、平等主義が、すでに、拓かれたという。

しかし、だからといって、弥陀の救い云々が、現実的であるかということは、別物である。

当時の救いの観念が、いつの時代にも、普遍的なものであるかといえば、違う。

私は、空也などの、ひじり、聖たちの、多く、一遍に至る、念仏行者の、活動や、行為は、念仏という、方便を通して、つまり、定義としての、ものだと、考える。

一つの、定義なくして、行動行為は、成り立たない。
念仏が、方便であるということは、弥陀の本願というものも、方便である。

方便とは、とりあえず、ということである。
弥陀の救いが、確実であるということを、前提にして、置く。

我なるものを、見つめる、一つの手立てとして、念仏を、方便とする。
法然は、信じた。それは、法然の長きに渡る、仏法という世界が、法然自身となっていたからである。

しかし、法然の思想を、取り入れるが、念仏により、救われるという、思想は、取り入れずともよい。

何故なら、方便だからだ。

何々と、仮定しての、思想であり、哲学であり、更に、主義であり、主張である。

この世に、確定したものは、何一つ無い。
科学で実証されたものも、確定しているのではない。それは、進化しているのである。
すべて、とりあえず、なのである。

人生は、その、とりあえず、の中を、生きるということである。

法然が、行き着いた、念仏は、生きている時の、念仏は、どんなに信心が、深くても、どうしても、「飾りがある」ということだった。

自己を観察することから、自己を、徹底して、観照するという、もの。
限りなく、客観というものに、近づけてゆくが、我を失う我など無いのである。
我という、主観にある、我のみが、我を認識する。

無我の境地というが、無我の境地を得れば、精神疾患である。
我を失わず、我というものを、ぎりぎりのところまで、突き放すという、心的状態を、無我というなら、理解する。

仏法というもの、実に、思索的であるが、魔境に陥るのである。
悟りとは、悟らないことである。

悟らずに、弥陀の本願に救われるという、教えは、ぎりぎりの、客観性である。
それ以上になると、アホになる。

悟りとは、理想的境地であり、決して、辿り着けない境地である。
そんな、悟りの境地というものは、無いからだ。

歎異抄で、唯円が、親鸞の独白を書く。
煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死を離るる事あるべからざるを、哀れみ給いて願をおこし給う本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみ奉る悪人、もともと往生の生因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおおせ候いき。

悪人は、成仏など出来ない。そして、その悪人とは、すべての人間のことである。すべての人間は、弥陀の願を頼み、往生するしか、ないのだという。

私は、そこまで、自分を悪人だと、意識するという、病理を突き止めたいが、それを、深みとして、受け取る仏教家たちである。

何度も言うが、何故、罪の意識を持ち、何故、弥陀に救われなければならないのか。
何故、往生しなければならないのか。

人類の歴史の中で、救済観というもの、いつから、持つようになったのか。
何ゆえに、それが、必要だったのか。

それは、きっと、この世を認識する言葉、厭離穢土であろう。
キリスト教などは、原罪という、妄想の罪意識である。
実に、宗教とは、救われないものである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ266

帰り入りて、さぐり給へば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。源氏「こはなぞ。あなものぐるほしのものおぢや。あれたる所は、きつねなどやうのものの、人をおびやかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。まろあれば、さやうのものにはおどされじ」とて、ひき起し給ふ。


部屋に戻り、ご座所に入って、手探りされると、女は、元のままに、横になり、右近は、傍にうつぶして、寝ている。
源氏は、どうしたのだと、問う。何と、馬鹿げた怯えよう。人の住まない所は、狐などが、人を脅そうとして、恐ろしがらせるのだろう。私が、いるゆえに、そんなものに、脅されないと言い、右近を引き起こすのである。


あな ものぐるほしの ものおぢや
ああ、なんという、怯えようだ。馬鹿げている。

狐が、人を脅すという、考え方が、面白い。
しかし、それは、戦後までも、続く、民間信仰の元になっていた。
お狐様である。
稲荷を、お狐さまと、呼んで、お奉りするのである。
更に、龍神や、天狗というものも、ある。

それを、迷信だと、笑えないのは、そういう、想念体があるからである。
例えば、稲荷信仰に、のめり込んだ者が、死後、稲荷の想念体を作るのである。龍神も、天狗も、同じである。


信じ込む念というのも、それは、広い意味での、物質である。
以下省略。



右近「いとうたてみだりにごこちのあしう侍れば、うつぶし臥して侍るや。おまへにこそわりなくおぼさるらめ」と言へば、源氏「そよ。などかうは」とて、かいさぐり給ふに、息もせず。ひき動かし給へど、なよなよとして、われにもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、もものにけどられぬるなめり」と、せんかたなきここちし給ふ。


右近は、もうたまりません、気持ちが悪くて、つっぷしていましたと、言う。
お姫様は、怖がっておいでてしょうと、言うと、源氏は、本当に、どうして、と、仰りながら、手探りすると、息もしないのである。
揺り動かしてみると、なよなよして、正体も無いのである。
まるっきり、子供のようで、魔物に、生気を奪われたのだろうと、思うのである。


おまへにこそ わりなく おぼさるらめ
御前であり、女を敬称する。お姫様は、どうしているのでしょう、か。

いと いたく 若びたる人にて
とても、いたくは、同じく感嘆である。
子供のように。



紙燭もと参れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御凡帳を引き寄せて、源氏「なほ、もて参れ」と、宣ふ。例ならぬことにて、おまへ近くもえ参らぬつつましさに、長押にもえのぼらず。源氏「なほもてこや。ところに従ひてこそ」とて、召し寄せて見給へば、ただみの枕上に、夢に見えつるかたちしたる女、おもかげに見えて、ふと消えうせぬ。



滝口が、紙燭を、持って上がった。
右近も、動けそうもない様子。
傍の御凡帳を引き寄せて、女を起し、源氏は滝口に、もっと、こちらに持って来なさいと、言う。
かつてないことと、お傍近くに、来られない様子である。
敷居にも、近づけないのである。
源氏は、もっと、近くに持ってくるようにと言う。
礼儀も、場所によるものだと、滝口に言うのである。
呼び寄せて、御覧になると、女の、枕元に、夢に見た、恰好のそのままの女が、幻に見えて、ふと、消えた。


例ならぬことにて おまへ近くもえ参らぬ つつましさに
かつてないことである。
御前に出るということは、出来ないという、礼儀である。
いつもは、人を介して、お話するという、決まりである。
身分制度は、厳しかったのである。
君なる方は、御付の者を通して、命を、下される。



昔物語りなどにこそ、かかる事は聞け、と、いとめずらかにむくつけけれど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心さわぎに、身のうえも知られ給はず、添ひ臥して、源氏「やや」と、おどろかし給へど、ただひえにひえいりて、息はとく絶えはてにけり。いはむかたなし。



昔物語などには、このような話は、あるが、と、実に、奇怪で、気味が悪いのである。
何より、女は、どうしたのかと、思う。
自分のことさえ、考えられない。
寄り添い、声を掛けるが、すっかり冷え切って、息が切れている。
何とも、言いようがないのである。


いと めずらかに むくつけけれど
珍しく、むくつけ、奇怪である。

息は とく 絶えはてにけり
息が切れて、絶えている。


さらり、と、書くが、女は、死んだのである。

この、奇怪な物語は、何を伝えるものか。
名も知れぬ女の、死である。
ミステリーであるが、それは、物語の、ミステリーでもある。

先ほどまで、生きていた者が、今は、死んでいるという、設定は、残酷である。
それも、物の怪である。

作中の人は、物の怪に、無力である。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 4

性欲の、脳の働きというものを、見る前に、心の動きについて、言う。

性欲と、恋愛を、一緒に出来ないのが、人間である。
単純に、あの人と、セックスをしたいという、恋愛というものがある。勿論、本人は、そんなことを、考えていないと、信じている。しかし、セックスをした、途端に、熱が醒めるということ、多々あり。

ある青年は、初めての体験の時に、相手の、膣に、ペニスを入れて、愕然としたと言う。その、あまりの、味気なさにである。
マスターベーションの、味わいに比べたら、何ほどのものはないと。
しかし、その後、彼は、女にモテた。
要するに、膣では、中々射精をしないのである。故に、長い時間を、要するのである。女には、それが、気に入られたという、変な話。

また、その逆も、ある。
ほとんど、受験勉強に終われ、性欲なども、失せる程の、お勉強をして、大学を卒業し、そうして就職し、落ち着いたところで、先輩に連れられ、ソープに初めて行き、こんな、快感があったのかと、のめり込んで、遂には、仕事を、辞めて、女の部屋で、セックス三昧に、陥った者である。

ただし、男の場合は、女と、違い、時間の差はあるが、一度、冷静に、立ち戻ることが、出来るので、暫くの無駄な、時間を、セックスに明け暮れたが、結局は、ごく普通の、欲望に戻った。

余計な、話が、続いたが、私の書きたいことは、人間の精神は、性欲と、比例するものではないということを、言いたいのだ。

人間だけは、他の動物と、違い、恋に恋するという、芸当が出来るのである。

性を、考える時、この、精神状態というものが、実に、良い、手掛かりになる。

つまり、人間の性は、単に性欲のみで、測れないものなのだということだ。

手に入れられないモノを、手に入れた時の、性の快楽は、言いようも無いものである。
性欲が、主たる意味ではないが、そのモノを、手にいれたことによる、優越意識に、似たような、意識が、性欲よりも、別な欲望を、満たすのである。

例えば、浮気や、不倫であり、兄の嫁を、寝取る、弟の行状などに、それを、見る。

それは、性欲ではない。

このようにして、色々と、性欲にまつわる行動を、見ることによって、性というものを、純粋に見つめることができるのである。

エロスの運動は、ふしぎな道程をたどるもので、出発点では幸福を望んでいながら、終点では幸福を拒否するという結果になることがある。快楽を拒否し、苦悩を求めるという結果になることがある。
澁澤龍彦 エロスの運動

このような、複雑な、心境を持てるのは、人間のみである。
他の、動物には無い。

更に、複雑化するのは、
肉の愛が精神的な愛に高まって行くのが、プラトン的な意味におけるエロスの運動だとすれば、逆に精神的な愛が肉の愛に下降するというような場合も、当然、考えられるだろう。これを哲学上の言葉で「逆プラトニズム」と称することがある。
澁澤龍彦

と、いうのである。
しかし、何故、精神的な愛が肉の愛に、下降、するというのだろうか。
それは、上昇かもしれない、のに。

無意識的に、精神が、肉よりも、何かしら、価値のあるものだとの、意識があるようである。
そういうことを、考えられるのも、人間だからである。
私は、前頭葉の、働きだと、思う。

ただし、澁澤龍彦は、逆プラトニズムも、情熱恋愛という、精神的なものと、同じ方向ではないとか、言う。
澁澤龍彦は、いつも、冷静である。

その、澁澤が、存在の不安という、エッセイで、存在の孤独というものを、考えるのに、以下のような、考え方をしている。

アメーバーは、分裂によって、増殖する。
分裂後は、個体として、また、分裂を繰り返し、増殖してゆく。
彼らには、死というものがない。

進化して、有性動物になると、つまり、雄と雌になると、たちまち自己保存の本能、個体維持の本能が、表れる。
個体維持というのも、本能と、私は、思わなかった。
自己を、保存しようとする、本能があるというのが、不思議である。
確かに、種族保存は、本能であると、言われる。

本能については、また、いずれ、書く。

さて、雄と雌が、生殖のために、一時的に結合して、離れて別々に死ぬという、現実がある。
澁澤は、存在の孤独とは、たぶん、ここから由来するという。

欠けているものを満たすために、分離によって生じた不安を逃れるために、男女は互いに結合するわけであるが、束の間のオルガスムが過ぎれば、ふたたび独立した別の個体として、互いに離れなければならない。そうして、自分の意志に反して死ななければならない。もちろん動物も死ぬが、死ぬことを知っている動物は人間だけである。
澁澤龍彦

少し、訂正すると、動物でも、死ぬことを、知っているのである。
ただ、人間のように、恐怖が無い。

人間が、誕生して、成長するというのは、色々なモノから、分離してゆく過程であると、澁澤は、言う。
その通りである。
分離することによって、他者を認識し、世界を認識し、実存の意識に、目覚めるという、悲しい存在の、宿命であるとも、言う。

さて、この、事実に、目を背けて、妄想に生きるのが、宗教という、化け物である。が、それについては、神仏は妄想である、を、読んで下さい。


posted by 天山 at 00:00| 性について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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