2008年08月03日

性について 3

トロブリアンド島の、父という観念が、全く違うということを、書いた。

性と、生殖が、結びつかないというだけで、このように、異質なものになるという、例である。

島の、結婚は、嫁入り婚である。
女は、夫の村に入り、夫の家に住む。
そこで、父は、子供たちにとって、親しい仲間であり、男は、進んで子供たちの面倒を見る。子供たちの、教育にも、携る。
同一家庭内での、子供たちと、円熟した慈悲深い男との情操関係を持ち、他方社会的には、母と、密接な関係をもち、家庭の主人たる、男である。

上記、性と、生殖が結びつくという、社会の父も、そのようである、が、子供が、成長すると、それが、生殖と結びつくという、社会とは、大幅に違ってくる。

父は、自分と同じ氏族に属する者ではなく、トーテム名称も異なる。
自分と、同じなのは、母であると、明確になる。
あらゆる、義務も、拘束も、プライドまでが、母との間に、結ばれて、父とは、分離していることを、知る。

更に、子供は、父とは、別な男、それは、母の兄弟に向けられる。
その、母の兄弟が住む村が、自分の村であり、そこの、財産や、権利が将来待っていることを、知る。

子供は、生まれた村で、よそ者扱いされることがあるが、母の兄弟のいる村では、自分の村であり、父が、そこでは、よそ者、扱いされる。

更に、進むと、父は、その権威と、助言などが、無視されるようになる。
父は、単なる男として、認識される、というのだ。

この、部族については、何度も、これから、このエッセイに登場することになる。

さて、性というものが、人間には、快感を伴うものであると、当たり前に信じているし、また、そのために、性を楽しむのが、当たり前である。
妊娠を、求める人より、性の快楽を、求める人の方が、圧倒的、多数である。

しかし、動物は、どうか。
皆、性の快感を、感じているのか。

全然、逆である。

命懸けの行為の場合もあり、とんでもない、苦痛を伴う種類もいる。

身近な例でいうと、犬の場合は、交尾の際は、肛門筋の痙攣による、生理現象が起こり、15から30分程に、わたり、雄雌が、つながっていなければならない。
人間は、その程度、楽しまなければ、早漏などといって、悩みになるが、犬は、苦痛である。

それでは、猫はどうか。
ペニスに、剛毛がはえているので、交尾後に、雄が、ペニスを引き抜こうとすると、雌は、苦痛を感じないわけにはいかない。

生殖本能で、快適気分を、味わう人間には、信じられない、動物の世界があるのである。

モグラは、膣に、厚い膜があり、塞がれている。
鋭いペニスでなければ、その膜を、破れない。
雄は、逃げ回る、雌を追い、雌の、膣の膜を、破って、ようやく、目的が達せられる。

ある種の、クモや、カマキリなどは、交尾の後で、雄が、雌に頭から、食べられるという、壮絶な性交渉である。

人間が、性交渉を、長引かせて、より、性を楽しむなどということは、他の動物には、見られないことである。

もし、動物たちに、知性が、あれば、人間の性交渉の、あり方を、笑うだろう。
何故、それほど、性行為に、拘るのかと。

結果、言えることは、人間の愛の行為、つまり、セックスをするという行為は、生殖本能とは、別なのである。
快楽の、欲求に、動かされているのである。

この、性行為を、愛の行為という、言葉に、私は、欺瞞を感じている。
誰の、策略か。
雄が、性を楽しむために、雌に、性の快楽とは、別に、心的満足感を、与えるように見せる、愛という言葉である。
嘘、でしょう。
ただ、セックスして、射精したい、だけでしょうとは、雌は、言えない。
雌も、それを、望むからである。

更に、複雑なのは、自分を、道具として扱っていると、思えても、相手に、好意、これが、曲者であるが、抱いていれば、雌は、体を、差し出すという、蒙昧。

私は、大人のオモチャの、製造元から、カタログを、取り寄せて、それらを、見渡すと、素晴らしい、マスターベーションの世界が、広がっているのである。
しかし、それでも、生身の相手を、求めるという、人間の性、この場合は、サガと、読む。
人間の、サガというものを、感じる。

人間は、性なるものである。
それほど、性は、脳に、何か特別な、分野を、作ったとしか、言いようが無い。

だから、優れたマスターベーションの、道具があっても、それで足りないと、欲求する、そのモノを、見ることで、性を、より深く理解できると、思っている。

例えば、金で、手に入る、雌というモノがいる。
売春である。
しかし、中々手に入りにくい、雌を、手に入れようとする、その雄の行動は、何から、発するものなのかを、追求すれば、一つの手掛かりになる。

そして、もう一つは、同性愛の、性行為である。
それを、解明すれば、性というものの、姿が、現れると、思うのだ。

どうしても、人間という、相手を、必要とする、人間の性である。

更に、性衝動を、別のモノ、特殊性行為と、私は呼ぶ。
覗きや、露出、更に、大便小便、アナルへの、興味等々の、欲望を、解明すれば、性というものの、姿が、見えるだろう。

そして、それは、最期に、脳の働きに、行き着くのである。
性は、脳なのである。



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もののあわれ265

よひすぐるほど、少し寝入り給へるに、御枕がみにいとをかしげなる女いて、怪「おのがいとめでたしと見奉るをば、たづね思ほさで、かくことなる事なき人をいておはして、時めかし給ふこそ、いとめざましくつらけれ」とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見給ふ。ものにおそはるるここちして、おどき給へれば、燈も消えにけり。


宵過ぎる頃、少し寝入りなさった時、枕元に、美しい女がいた。
その女が、ご立派だと、思い申している私を尋ねることなく、こんな取りえの無い女を連れて、大切にしてること、見ていられません、たまりませんと、言い、傍の女を、引き起こそうとする。
そんな夢を見て、うなされる気持ちがして、驚き、起きると、燭台の燈も消えていた。


長い前段階があり、いよいよ、この巻の、本ストーリィーである。

ちなみに、霊的なもの、ここでは、怪しきもの、は、夢という、意識と、無意識の狭間で、揺れる意識に、コンタクトするものである。
その有様は、夢だとしか、認識することが出来ない。
しかし、本当は、その、たゆたう意識の、中で起こることである。
心理学では、自分が起こしていると、考える。



うたておぼさるれば、太刀を引き抜きて、うち置き給ひて、右近を起こし給ふ。これも、おそろしと思ひたるさまにて、参れよれり。源氏「わた殿なるとのい人おこして「紙燭さして参れ、と言へ」と宣へば、右近「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、源氏「あなわかわかし」と、うち笑ひ給ひて、手をたたき給へば、山びこのこたふる声いとうとまし。


不気味に感じて、太刀をそっと引き抜いて、そっとそこに置く。
右近を呼ぶ。
右近も、怖がっているようである。
源氏は、渡殿にいる宿直を起こして、紙燭をつけて参れと、言えと、命じた。
右近は、どうして、参れましょう、暗くて、と言う。
源氏は、笑い、子供のようじゃと、言い、手を叩いた。
その音が、山彦のように、響くのが、実に、不気味である。

いとうとまし
大変、疎ましい、とは、嫌な気分であり、それが、更に、気味の悪いものに、思えるのである。



人え聞きつけで、参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、「いかさまにせむ」と思へり。汗もしとどになりて、われかの景色なり。右近「物おぢをなむわりなくせさせ給ふ本性にて、いかにおぼさるるにか」と右近も聞ゆ。「いとかよわくて、昼も空をのみ見つるものを。いとほし」と、おぼして、源氏「われ人を起さむ。手たたけば、やまびこのこたふる、いとうるさし。ここにしばし近く」とて、右近を引き寄せ給ひて、西のつま戸に出でて、戸をおしあけ給へれば、渡殿の燈も消えにけり。



人の耳には、入らず、誰も来ない。
この女は、ひどく震え、怯えて、どうしていいのか、解らない有様である。
汗も、びっしょりとかいて、正体もない様である。
右近が、むやみに怖がる性格です。どんな気持ちで、いられますやらと、言う。
とても弱々しく、昼間も、空ばかりを、見ていたのであると、思い、源氏は、私が、誰かを、起こす。手を叩くと、山彦が、響いて、うるさい。さあ、ここに来て、傍にいてくれ、と、右近を引き寄せる。
源氏は、西の妻戸に出て、戸を開けると、渡殿の燈も、消えていた。



風すこしうち吹きたるに、人は少なくて、さぶらふ限り、みな寝たり。この院の預かりの子、むつまじく使い給ふ若きをのこ、またうへわらはひとり、例の隋身ばかりぞありける。召せば、御こたへして起きたれば、源氏「紙燭さし参れ。隋身も弦打ちして絶えずこわづくれと仰せよ。人隠れたる所に心とけて寝ぬるものか。惟光の朝臣の来たりつらむは」と問はせ給へば、男「さぶらひつれど、おほせごともなし。あかつきに御迎へに参るべきよし申してなむ、まかで侍りぬる」と聞ゆ。


風が、そよめいているが、人は少なく、控えの者は、皆、寝ている。
この家の、留守役の子で、身近くお使いになる、若い男、そして、殿上童が一人、いつもの、隋身がいた。
お呼びに成ると、返事をして、起きてきた。
源氏は、紙燭をつけて来なさい。隋身も、弦打ちして、声をかけて、回れと、言う。
人気無しと思い、気を許し、寝る者があるか。惟光の朝臣が、来ていたであろうと、問うと、控えておりましたが、命もなく、明け方に、お迎えにまりると、申して、退出しました、と申し上げる。


さぶらう限り
全員ということ。

弦打ちして絶えずこわづくれ
弓の弦を弾き鳴らすことで、魔を祓うのである。
こわづくれ
声を出せ。名を言うとか、時刻を言う。

単なる夢のことで、これほどに、なるという、当時の感覚である。
夢というものも、一つの現実なのである。
単なる、夢では、終わらない。

感受性の違いである。
豊かに富んだものだった。



このかう申すものは滝口なりければ、弓弦いとつきつきしく打ち鳴らして、男「火あやうし」と言ふ言ふ、預かりが曹司のかたにいぬなり。内をおぼしやりて、「名体面はすぎぬらむ。滝口のとのいまうし今こそ」とおしはかり給ふは、まだいたうふけぬにこそは。


このように、申す者は、滝口の士である。
弓を、いかにも、それらしく鳴らし、火の用心と言いながら、留守居役の部屋の方に行く。
源氏は、その声に、宮中を思い出し、名体面は、済んだであろうか。滝口の、宿直、とのい、申しが、と推測する。
では、夜は、それほど、更けていないのである。
と、作者が、付け加える。


滝口とは、清涼殿の東北である。
御溝水の流れ落ちる場所にいる警備の、侍をいう。
蔵人所に属する者である。

宮中では、午後九時頃に、宿直の者が、名を名乗るのである。
その、名体面、つまり、名を名乗りあった後に、弓を鳴らし、更に名を名乗るのである。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 104

阿弥陀仏の姿を、見る。
観無量寿経に出ている、その姿は、背丈が、六十万憶なゆたごうがしゃゆじゅん、という、想像を絶する高さである。
平仮名で書いた部分は、漢字であり、すべて、長さを表す語であるから、とてつもなく、大きい。大きいというより、想像だに出来ない。

ちなみに、なゆた、那由他とは、一千憶の数単位で、恒河沙、こうがしゃ、は、ガンジス河の砂粒の数である。
それを、由旬、ゆじゅん、の区分で、一千億倍の長さに並べただけの高さということになる。

インドの、壮大な数の想像である。

この、身体の容積は、眉間にある、白いホクロだけでも、スメール山五つの大きさである。

その身体は、八万四千の毛穴でおおわれ、全毛穴から、まばゆい光を放っている。
その光は、どんな微小な物も、隅々まで照らし出すという。
光を浴びて、浮かび出た、微小な物は、一粒一粒が、仏の姿に、変化する。

寺内大吉氏は、これを、以下のように、分析する。

突然、純粋なエネルギーの塊が誕生し、想像を絶する輝きが空間を満たす。この火の玉の宇宙が広がって冷却し、数分後には最初の物質粒子が溶鉱炉の中で凝結する金属粒子の滴くとなって現れる。

これは二千余年を経た現代の物理学者ジャストロウの「宇宙創成のすべて」からの引用である。

更に、続けて
散り散りになっている粒子は集合して、まず原子核となり、ついで原子になった。初期の宇宙を満たしていた高温度、目もくらむような輝きも弱まって、冷たい水素のおだやかな雲となる。水素雲の中では、巨大な銀河が形成され、それぞれの銀河の中では次々とおびただしい数の星が誕生する。これらの星の多くは惑星に囲まれている。そんな惑星の一つである地球上には生命が発生し、長い発展の歴史をたどって人類が出現した。

大多数の学者が 正しいと認める宇宙創世から進化への壮大な物語は、およそ二百億年に始まる。科学は聖書と異なり、この偉大な創成の原因を何も説明していない。宇宙の空間と時期とが始まって以来、そこで起こったすべての出来事は、最初の原因はわかっていないが、何かがもたらした壮大な結果なのである。

寺内氏は、
浄土の経典は科学書ではない。だが生命の本質を宇宙という大自然と直結してとらえている点で近代科学に近似するのであろう。しかし、科学が「わかっていない」という「この偉大な創成の原因」を浄土教は明確に教え説いている。
と、言う。

阿弥陀仏も、最初は、最初は、小さな惑星上の、微粒子の一粒に過ぎなかった。つまり、法蔵菩薩である。
それが、誓願が、満たされて、法蔵は、阿弥陀仏となり、一粒だった生命の核が、視界を絶する大きな姿に変身し、強烈な光を全身から、発するというのである。

ここから、
仏との対面において、ちっぽけな生命が巨大に広がってゆく。また、単なる生命の消滅であった「死」を超えて、仏の世界に往って生まれる「往生」という永遠性が与えられることになる。
と、寺内氏は言う。

さて、如何にも、最もらしいが、経典と、科学を結びつけて、云々するというのは、よくあることで、単なる、事後預言と、変わらない。
如何様にも、後で、解釈できるということである。

インド人の、妄想を、科学で、解釈、当ててみた。
また、それにより、飛躍して、死を超えて、仏の世界に生まれる、往生という、永遠性が、与えられるというのである。

科学を持ち出して、撹乱させ、経典の真実性を、言うのである。

科学者が言う
そこで起こったすべての出来事は、最初の原因はわかっていないが、何かがもたらした壮大な結果なのである。
という言葉に、宗教は、それぞれ、自らの神を、当てる。

お粗末過ぎるのである。

実証の科学を、持ち出し、それに、裏付けられているという、その経典、聖典の数々である。

勿論、科学が、まだ、何も成しえない時には、何も言わないのである。
科学が、実証を始めると、科学が、計り知れないところに、つけ込んで、我らの、経典には、それが、書かれているということになる。

追伸。
JA・パウルスという著者による、数学者の無神論という本は、科学からの、無神論の提言であり、実に、真っ当な感覚の、論理である。
いずれ、それも、紹介する。

宗教とは、如何様にも、解釈できるし、如何様にも、語ることが、出来る。つまり、何でもありなのである。神や仏を、信じるためには、手段を選ばないのである。何故か。何故、そんなに、人を騙したいのか。
これこそ、仏教が言う、人間の無明である。
嘘でもいいから、兎に角、安心したいのである。

生きるに、不安だから、何でもいい、安心させるものが、あればいい。
鰯の頭も、信心からと、昔の人は、言う。
信心してしまうと、気が楽だ。
何かに、お任せして、それに乗って行けばいい。
正に、大乗仏教である。

要するに、阿弥陀仏を、宇宙であるというのである。
それが、たまたま、インドの数の思想というか、インド人の妄想を、そのように解釈したのである。

ちなみに、科学者が、般若心経を、科学で説くいう、本なども出ている位である。

どんな、ファンタジーでも、御伽噺でも、如何様にも、解釈出来るのである。
桃太郎でも、一寸法師でも、浦島太郎でも、である。

朝日新聞、15日夕刊に、花園大学教授である、佐々木閑氏の、エッセイがあった。

仏教には「お経」というものがある。釈迦が弟子たちに語った、悟りのための手引きだ。今も、インド語、漢文、チベット語など、いろいろな言葉で書かれたものが残ってる。・・
これがすべて釈迦の言葉ならいいのだが、残念なことに、実際にはほとんどすべてが、釈迦の死後、長い時間の中で大勢の人たちがつくりあげてきたものだ。お経というのは、「釈迦の教え」というスタイルをとりながら、その実は、教え切れぬ無名の著者が自分の思いを説き表していく、その千数百年間にわたる活動の集積なのだ。大乗仏教も、その流れの中で現れてきた新しい運動だ。

その膨大な量のお経を調べると、古いものと新しいものが区別できる。そこでそれを時代順に並べてみれば、一番古いところにくるものが、釈迦に一番近いということになる。それが釈迦自身の言葉かどうかは不明だが、仏教のおおもとであることは間違いない。私が惹かれるのは、その時代のお経である。

実は、このような「お経の歴史」が分かってきたのは近代になってからのことで、それ以前は、「お経は全部、釈迦の教えだ」と信じられていた。全部が釈迦の教えなのに、比べると食い違う点がいっぱいある。今ではあたりまえのことだが、昔の人は困ってしまった。

そこで一番気に入ったお経を選び取り「私はこれを信じる。これこそが本当に釈迦の言いたかったことだ」とそれぞれに主張した。どれを選ぶかは人の個性によるから、結果としていろいろな流派が現れた。・・・一口に仏教といっても、内実は千差万別ということが分かる。・・・その「お経の違い」を正しく理解して初めて、仏教世界の全体像が見えてくるのである。

以上である。

異色の、神学者である、田川建三氏は、それで、仏教の教義は、支離滅裂であると、いう。
聖書批判も甚だしいが、仏教の教義を、そのように、言う人は、また、少ない。

しかし、仏教家は、また、面白いことを言う。
仏に至る道、八万八千の門がある。
どれでもいいのである。仏に行き着けばである。

矢張り、鰯の頭も信心からである。信じてしまえば、また、信じさせてしまえば、何とかである。
更に、浄土門を、眺めて見る。

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