2008年08月02日

神仏は妄想である 103

さて、浄土門について書いている。

私は、法然という人間を見る。
彼の最も、肯定したい思想は、専修念仏というより、女人往生である。
つまり、男女平等を、宣言したことである。

時代性と、時代精神は、念仏を必要としたことは、その時代、歴史を眺めると、解る。

下界は保元、平治の乱後の政情不安が年ごとにつのり、山上の宗門では宗徒僧兵が権力争いに明け暮れている。そこへ自然災害も加わった。記録を覗いても、承安三年には延暦寺と、興福寺の僧兵が戦い、平家が軍勢を繰り出してこれを鎮圧する。翌年は大風が洛中に吹き巻いて家屋の倒壊が続出。これにともなって飢餓状態が全都にひろがった。
人災天災に苦しむ庶民大衆に救いの手をさしのべねばならない。他力門、易行念仏をひろめることで心に安定を与えるのである。
寺内大吉 法然讃歌

修行僧としての、問題意識である。
念仏を称えて、活動した聖は、数多くいた。
民衆の中に入り、様々な福祉に、手を染めた者、多数。

それは、個々人の活動であった。勿論、その後を慕い、師弟の関係を持つ者もいただろうが、明確に、宗教団体として、活動するという意識は無い。
私は、それらを、否定する何物も、持たない。

私が、ここで、取り上げるものは、宗教団体としての、宗教である。
個人的な活動に、その人の信仰が、関わっていても、何の問題もない。
それは、極めて個人的なことである。私は、それを、情緒と、呼ぶ。

さて、ご多分に漏れず、仏教も、女人は、救い難しと、言う。

過去の諸仏典はすべて女人往生をまともに取り上げようとはしていない。女性の死後は冥府をさまよって定着できる場所がない。「六趣」という暗黒の世界を放浪する。六趣とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の巷を指す。この「人間界」とは幽鬼や幽霊がさまよう世界である。
寺内大吉

冥府とは、死後の世界である。

旧約聖書にも、女は、家畜と同じであるという観念であるが、仏教もまた、人間の数には入れないのである。

中国僧の、道宣は、南山律師と呼ばれた名僧である。596年から667年の人である。
その言葉に、「十方世界に女人がある処そこは地獄である」と、断定するのである。
これが、当時の仏教の、女性に対する認識だったと、思えばよい。

法然は、弥陀の本願四十八の第三十五願は、女人の往生が主になるといわれる
「たとい我れ仏を得たらんに、その女人にあって我が名字を聞き、歓喜信楽して菩提心を発し、女身を厭い、寿終の後未だ女像たらば正覚を取らじ」とある、それを、否定したのである。

上記を訳すと、女の命が尽きて、往生を遂げる時に、我が名を称え、喜んで、菩提心、つまり、悟りたいと思う心を、起こし、なお、女の身であるなら、自分は仏にならないという。女の身を、男の身に変じて、救うというのだ。

それを、否定した。女は女の身のままで、往生するという。
法然は、弥陀の本願を信じたが、この一点に、法然の、オリジナルがある。
だから、私は、法然を、否定しない。
単に、盲目とした信仰ではない。
実に、偉大な、問題意識である。

女人往生するというのは、画期的であり、既成仏教との、決別である。

空海というのも、オリジナルを数多く生んだが、法然も、そうである。
もう一人は、道元である。
あとは、その他大勢である。

犯しては、いけない、仏典の、無量寿経の箇所に、疑いありとは、素晴らしい業績である。

念仏往生は、男女を問わず、死に望んで、来迎する諸仏諸菩薩も男女に差別なく及ぶ。第二十願では、十方の衆生が、南無阿弥陀仏の名号を聞き、思いを浄土に懸け、この仏と結縁した者は、必ず極楽往生を遂げると、誓うのであると、言う。

故に、第三十五願は、疑いありなのだ。

法然は、明確に、女人往生を掲げた。
これが、実に評価できる、オリジナルである。

ただし、弥陀の本願というものは、創作であることは、免れない。
それは、別にして、男女を等しく、扱うという、考え方に、法然の面目がある。

私は、それを、評価する。

しかし、歴史を眺めれば、女の人生は、まだまだ、苦難、苦渋の人生であった。
矢張り、男のために、男に従い、弄ばれて生きる道を、辿る。
それは、日本の場合、戦後まで、続いたのである。
長い道のりであった。

鎌倉仏教と、いわれるもの、法然のよって、始まったと、言ってよい。
そして、女性は、最初に、男女を平等に、扱った歴史的人物として、敬意を表してよい。

あの時代、35年もの、長きに渡り、仏法を学び、智慧第一と言われた、法然の、世界の中では、それ以外の方法しかなかったのである。
仏法という中での、思索である。

しかし、それを、現代に持ち込んで、更に、信仰を強要するものになったら、どうだろうか。それは、完全に誤りである。

その、法然の精神を、見るというなら、解るが、信仰として、信ぜよということは、僭越行為の何物でもない。

次に、阿弥陀如来というものの、その姿を、見ることにする。
あまりのことに、仰天する。
結局、ハリーポッター並の、とんでも、お話なのである。
ただ、その想像力には、感服する。

仏典が、書かれた当時の、ファンタジーであり、壮大なフィクションである。
人間の想像力というもの、ホトホト感心する。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

性について 2

水棲動物には、挿入器官としての、ペニスは、無い。
故に、接触することはない、のである。

陸上の高等動物になって、昆虫でも、ペニスがある。
そして、雄と雌の、複雑な、接触が行われる。

空気中では、生殖液が、乾燥してしまうため、雌の体内に、精子を送り込むという、作業が必要になる。
これが、人間に続く、基本的な、性行為に、至るのである。

それでは、雄と雌を、強烈に曳き付けるものは、何か。
そのままでは、接触は、行われない。
人間以外の、動物は、性行為を、快適なものと、認識しているのか、どうか、解らないし、また、快適な、状態を維持しない、動物もいる。

人間だけが、明確に、性行為に、快楽が、付くのである。

これが、性の、正体なのであるが、話を続ける。

雄と、雌を、強力に、曳き付けるものは、匂いである。
すべての、動物の、性的欲求を、刺激するのは、匂いであるということ。

蛾や、蝶などの仲間は、何十キロ離れた場所からでも、雌の匂いを、知る。
雌犬の、膣にある、分泌腺からも、何マイルという遠くの犬に、それを、知らせるものがある。
この、匂いを、雄犬が、嗅ぐと、狂うように、興奮する。
だが、人間は違う。

ここである。
他の動物との、大きな違いである。
それを、進化というのか、私には、解らない。

人間は、臭覚でも、触覚でも、聴覚でもないのである。
人間の、最大の、性的興奮は、視覚である。

つまり、人間の性の、刺激は、視覚によるといえる。

ということは、性というものは、視覚によると、言えるのである。
性の前に、視覚という、働きがある。

しかし、それを、語る前に、再度、原始のヒトに、戻らなければならない。

性というものを、認識する以前の、ヒトの、歴史である。

それの、手掛かりは、未開部族にある。

これから、暫く、人類学者、性科学者の、論文を、見ることにする。

ポリネシアのトロブリアンド諸島の、原住民たちは、性交と、妊娠の間に、因果関係があることを、全く知らなかった。
性の欲望が、種族保存の本能であるという、説は崩れる。

原住民は立派な婚姻制度をもってはいるが、子供の出生に男があずかることを全くしらない。彼らにとって父という言葉は明瞭な定義があるけれど、その定義は全く社会的なものにすぎない。父は母と結婚し、母と同じ家に住み家族の一員となる男を意味する。
未開人の性生活 マリノウスキー

更に、驚くのは、
父はトマカバすなわち「見知らぬ者」より正確には「よそ者」の意味で呼ばれたりしている。この表現は、相続の問題を論じたり、あの種の行為に筋をとおそうとする時や、あるいは争いごとで父の地位が下がってしまった場合などにさいしての会話に、しばしば用いられる。

私は、暫し考え込んでしまった。

生殖が、妊娠と関係ないと、考えた場合は、関係あると、考える人たちとは、その、性に関する考えたから、あらゆる秩序が、全く違う、常識で、考えられ、行為されることになる。

これは、性というものを、考える上で、実に、参考になる、考え方である。

性と、生殖を別にすると、性行為の、乱れが起こるなどという、考えは、起こらないのである。
もし、今、文明社会という中に、性は、生殖と、別ものだとすると、どのようなことになるであろうか。
性の乱れ、甚だしく、収拾がつかなくなるであろう。
性が、生殖、妊娠と、結びつくから、抑制が、働くのである。

ここで、考え方を、実に、柔軟にしなければ、いけないことが、解る。

父が、こちらの、観念では、測れないとして、彼らの生活を見ると、今までにない、新しい、社会が、見えてくる。

これは、私には、開眼というようなものである。

性というものの、捉え方で、父や、母に対する観念が違うということ、当たり前であるが、驚きになる。

私がここで用いる「父」という言葉は、われわれの場合と異なって、法的、道徳的、生物的などの各種の意味内容をもっているのではなく、トロブリアンド社会での特殊な意味にとらなければならない。混乱を避けるために、父という単語のかわりに原住民の「タマ」を使い、また「父関係」のかわりに「タマ関係」といった方がよいと思われるが、実際にはあまりに不便である。そこで以後「父」という単語にぶつかった場合には、英語の字引にあるものとしてではなくて、原住民の生活の諸事情に照らして解釈すべきであるということを忘れてはならない。
マリノウスキー

ここで、私は、思考の柔軟性というものを、事実知った。
違うモノを、理解する時、その言葉自体の観念も、柔軟にして、切り替えることであると。

これは、異質なモノ、例えば、イスラム社会などを、理解する時にも、必要である。

私の常識は、私のモノであり、他者のモノではない、という、当たり前のことに、気付くのである。

故に、実に、学ぶべきなのである。
知らないことは、無いことであるから、出来る限り、学ぶことにより、異質なモノ、違うモノを、理解し、柔軟な姿勢に、立って、理解というものを、必要とするということ。
これは、国際化といわれる、世界に対処するためには、必要不可欠である、心構えとなる。

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もののあわれ264

惟光尋ね聞えて、御くだものなど参らす。右近が言はむ事さすがにいとほしければ、近くもえ侍ひ寄らず。「かくまでたどりありき給ふ。をかしう、さもありぬべきありさまにこそは」と、おしはかるにも、「我がいとよく思ひよりぬべかりし事を、譲り聞えて、心ひろさよ」など、めざましう思ひをる。


惟光が、探し出して、御くだものなどを、差し上げる。
右近に会ったら、聞かれるだろうと思うと、気の毒で、お近くに、居候もできない。
こんなにまで、うろつき回るということ、実に、また、面白いのである。
我が君を、こんなに、熱中させるほどの、女かと、思われて、自分が、手に入れることのできたものを、お譲りしたという気持ちは、度量が広いと、呆れ返る、思いでいる。


めざましう思ひをる
これは、作者の感想である。
自画自賛していると、作者が、呆れるのである。
あたかも、本当の話のように、である。


たとしへなく静かなるゆふべの空をながめ給ひて、奥のかたは暗うものむつかし、と、女は思ひたれば、端のすだれをあげて、添ひ臥し給へり。夕ばえを見かはして、女もかかるありさまを、思ひのほかにあやしきここちはしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆくけしき、いとらうたし。


譬えようもない、静かな夕方の空、目をやり、部屋の奥は、気味が悪いと思う女なので、君は、縁側に近い、御簾を巻き上げて、横になった。
夕映えに、映える顔と顔を、見合って、女は、思いがけないことと、思うが、辛さも、苦しさも、忘れて、少しづつ、大胆になってゆくところが、可愛いと思うのである。



たとしへなく静かなるゆふべの空
言葉が、見いだせないような、静かな夕空である。
思ひのほかにあやしきここちはしながら
このような、心境は、どんな心象風景なのだろうか。
思いもよらない、あやしき心地という。
怪しい、とも、妖しいとも、書く。

うちとけゆくけしき
気色という言葉は、心の様を言う。
風景の、景色ではない。
心の気色である。
しかし、風景の景色というものも、気色と書くのである。
つまり、目の前の、景色も、心の中に写る気色というものに、なって、はじめて、景色が、気色になるのだ。

二つの意味を、兼ねる時に、けしき、と書く。


つと御たかはらに添い暮らして、物をいとおそろしと思ひたるさま、若う心ぐるし。格子とくおろし給ひて、大殿油参らせて、源氏「名残なくなりにたる御有様にて、なほ心のうちの隔て残し給へるなむつらき」と恨み給ふ。



お傍に、一日中いる間、何となく、怖そうにしている様などは、子供のようで、いじらしいと思う。
源氏は、格子を、早めに下ろし、燭台に火を点させて、言うままになっているのに、名を言わないとは、ひどい、と、恨み言を言う。



「うちにいかに求めさせ給ふらむを、いづこに尋ぬらむ」と、おぼしやりて、「かつはあやしの心や。六条わたりにもいかに思ひ乱れ給ふらむ。恨みられむも苦しうことわりなり」と、いとほしきすぢは、まづ思ひ聞え給ふ。なに心もなきさしむかひを、あはれとおぼすままに、「あまり心深く、見る人も苦しき御有様を、すこしとりすてばや」と、思ひくらべられ給ひける。


宮中では、どんなにか、探していることだろうと、思う。
使者に当たった者は、どこを、探しているのだろうかと。
そのように、思えば、我ながら、変ではあると、思うのである。
六条の御方も、どんなに、案じておいでであろうか。
恨まれるのは、苦しいことだが、まず、六条の方を、思うのである。
目の前の、女が、何の躊躇いもなく、向かい合っているのを、見て、可愛く思う反面、あのお方を、お相手するのは、息苦しく、感じると思う。
それを、少し取り除けばと、思いつつ、目の前の女と、比較するのである。


うち、とは、宮中、つまり、天皇である。源氏の父帝のことである。
そして、その命を受けた者たちである。

隠れて、女と、一緒にいるという、妖しい思いを、楽しむのである。
しかし、それも、つかの間である。
物語は、一気に、妖しくなるのである。

もののけ、というものが、登場する。
それは、単なる、幽霊などではない。
女を、死に至らしめる、もののけ、である。

そこまで、至らしめるために、今までの、準備があった。
作者は、すでに、その結末を知って、ゆるやかに、物語するのである。

作者とは、語り手である。
紫式部は、語り手の、手法を持って、物語を書く。
以後の、小説、物語は、それを、手本とするのである。

また、多く、主語を省くという、物語の伝統を、築いたとも、言える。
心の様は、読み込んでゆけば、自然に理解出来るようになっている。
しかし、これは、日本文学の、特徴とも、言えるのである。

現代訳する時に、これは、誰の心境だろうと、思われる箇所、多々あり。
しかし、自然に、それが、理解されるのである。
それは、歌道の、教養のゆえである。

文学、とりわけ、日本文学とは、歌道の、学びが、必要不可欠である。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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