2008年08月01日

もののあわれ263

御車入れさせて、西の対に、おましなどよそふほど、高欄に御車ひきかけて立ち給へり。右近、艶なるここちして、来しかたの事なども、人知れず思ひ出でけり。預かりいみじくけいめいしありく気色に、この御ありさま知りはてぬ。


御車を引き入れて、西の対に、ご座所などを、設ける間、高欄に、ながえ、を、持たせて、車を立てる。
右近は、味な気がして、過去のことなども、思い出したことである。
留守役が、懸命にお世話をする様子に、君が、どなたであるか、解ってしまった。


ほのぼのと物見ゆるほどに降り給ひぬめり。仮りそめなれど、きよげにしつらひたり。預り「御ともに人もさぶらはざりけり。ふびんなるわざかな」とて、むつまじき下家司にて、殿にも仕うるまつる者なりければ、参り寄りて、預り「さるべき人めすべきにや」など申さすれど、源氏「ことさらに、人来まじき隠れ家、求めたるなり。さらに、心より外に漏らすな」と、口がためさせ給ふ。御かゆなど急ぎ参らせたれど、とりつぐ御まかなひうちあはず。まだ知らぬ事なる御旅寝に、「おきなが川」と契り給ふ事より、ほかの事なし。


ほのぼのと、物が見える時間に、車を、お降りになった。
間に合わせだが、さっぱりとした、ご座所が、設けてある。
留守役は、お供に、誰もいませんが、不都合なことですと、言う。
下家司の、大臣宅にも、出入りする者なので、お傍近くに、来て、しかるべき人を、お呼びしましょうかと、右近を通して、申し上げる。
源氏は、誰も来ることのない場所を、選んだのだ。絶対に、誰にも、言うなと、右近に、口止めを命じる。
お食事などを、急いで、差し上げるが、給仕するのも、揃わないのである。
今までにない、外泊である。
「おきなが川」永久に、語り合うという意味。
と、誓うより、他にないのである。

契り給ふ事より
誓うと、契るとの、二つの意味であろう。
語り合うとは、情交することでもある。
物語するというのは、男女の仲では、情交することである。


日たくるほどに起き給ひて、格子、手づから上げ給ふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見どころなく、木立いとうとましく物古りたり。け近き草木などは、ことに見どころなく、みな秋の野らにて、池もみくさにうづもれたれば、いとけうとげになりにける所かな。べちなふのかたにぞ、曹司などして住むべかめれど、こなたは離れたり。源氏「けうとくもなりにける所かな。さりとも、鬼なども、我をば見ゆるしてむ」と宣ふ。


日も高くなった頃に、お起きになって、格子を、ご自分で、お上げになる。
庭は、とても荒れて、人影もなく、広々と見渡されて、植木は、気味悪く、古色を帯びている。
間近の、前栽の草木などは、別に見栄えもなく、一面は、秋の野原である。
池も、水草に埋もれて、なんとも、恐ろしい雰囲気である。
離れ屋の方には、部屋を構えて、住んでいる人もいるらしいが、こちらは、離れている。
源氏は、なんとも、恐ろしい場所だ。でも、鬼でも、私なら、許してくれそうだと、言う。


いとけうどげになりにける
大変、恐ろしい雰囲気である。

廃墟のような、所である。
この巻に、相応しい場所を、作者は、用意した。


顔はなほ隠し給へれど、女のいとつらしと思へれば、「げにかばかりにて隔てあらむも、事のさまにたがひたり」とおぼして、

源氏
ゆう露に ひもとく花は 玉ぼこの たよりに見えし えにこそありけれ

露の光りやいかに」と宣へば、しりめに見おこせて、


光ありと 見し夕がほの うは露は たそがれ時の そらめなりけり

と、ほのかに言ふ。をかしとおぼしなす。げに、うちとけ給へるさま、世になく、所がらまいてゆゆしきまで見え給ふ。源氏「尽きせず隔て給へるつらさに、あらはさじ、と思ひつるものを。今だに名のりし給へ。いとむくつけし」と宣へど、女「あまの子なれば」とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。源氏「よし。これもわれからなめり」と、恨み、かつは語らひ、暮らし給ふ。


顔は、隠していらっしゃるが、女が、それは、酷いと思っている。
こんなことになっても、隔てを置くのは、変なことだと、

源氏
夕露に、ほだされて、堅い蕾が、紐を解いて、顔を見せる花は、道の通りに、逢った縁なのです。

露の光は、どうだと、おっしゃると、流し目に、見て、


光り輝くと、見ました、夕顔の上に置く露は、暮れ方の、見誤りでした。

と、微かに言う。
それも、良いと、思う源氏である。
場所が、場所ゆえ、いっそう美しく見える。
源氏は、いつまでも、隠しているのは、酷すぎる。顔は見せまいと、思っていたが、この上は、名前を、言いなさい。とても、気味が悪いと、言う。
女は、海女の子ですと、答える。
それでも、言うなりに、ならないのが、甘えているのである。
源氏は、しょうがない、これも、自分のせいだと、思う。
恨んだり、話し込んで、その日が、暮れた。


男と女の関係に、身分も、名前も、どうでもいいのである。
しかし、当時は、それは、タブーである。
あえて、紫式部が、この巻を書くのは、何故か。
人生の、一場面に、そういうこともある。
一夜限りの、契りを結ぶ者もいる。
恋とは、そういうものである。そして、更に、説明は、無い。
説明できるような恋など、恋というものではない。
恋とは、セックスであると、何度も書いた。
セックスというものを、どう認識するのかである。
性というものを、どのように、取り扱うのか。

それを、単なる欲望、煩悩として、扱うものだろうか。
私は、それは、恵みであると、古代の人と共に、思う者である。
それに、悩み、煩悶するという様を、迷いというのであれば、そのように、考えることが、迷いである。

万葉が、無ければ、源氏物語も、無かったのである。



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性について 1

性について、書くと、決めてから、一週間を経て、書き始めることにした。

戸惑いがあめのは、終わりのないものになるのではないか、という、不安である。
これで、お終いという、お話ではない。
延々と続くのが、性であろう。

古来から、性については、多くの人々が、書いてきた。今も、そうである。
私の、少ない書籍の中にも、性について、扱ったものが、多々ある。
生物学、心理学は、ともかく、様々なタイプの、性についてが、ある。

どれを、取り上げて、性を、書き始めても、いいと、思われる。
私は、素人だから、ランダムに、気の向くままに、書くことにする。

何故、性を書くのかと、言われれば、性は、死と共に、人間の、最大のテーマである。

ただし、性を書くのであり、性行為についてを、書くのではないということである。
性行為に、関して書いても、それは、性を、語るためのものである。

性とは、何か。
終りの無い旅を始める。

性の歴史は、人間の歴史である。

最初に、旧約聖書の、レビ記から、引用する。
「女と寝るように男と寝る者は・・・
必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう」
故に、今でも、同性愛者を、死刑にする国がある。

特に、アラビア・イスラム圏である。
西洋も、キリスト教により、死刑を、行っていた時期もある。

新約聖書、パウロの、ローマ人への手紙には
「女との自然な関係を捨てて、互いに情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなす」
と、書かれている。

つまり、それは、こういう行為、同性愛行為が、実に、多かったことを言うのである。

ユダヤ、キリスト、イスラム教では、何故、それほどまでに、執拗に、同性愛というものを、排除しようとしたのか。

矢張り、それが、多かったためである。
そして、もう一つは、教義である。

それらの、宗教以前に、何が行われていたのか。
同性愛というものを、その、恐るべき、生殖能力を、神に捧げるという、古代信仰によるものである。
つまり、神のみ使いいである、神官に、それを、捧げたことから、始まると、思われる。

それは、聖書の教義、同族の結束を砕くものになった。
その、結束の元とは、偶像崇拝という、言葉に置き換えられる。

それほど、聖書の中に、禁止項目として、載ることは、それが、広く行われて、さらに、流行していたと、いうことである。

人類が、宗教の芽生えを、感じはじめた頃である。
神々は、自分たちと、近い存在であり、しかし、自分たちより、力の強いものであるという、単純な意識である。
そして、その神たちは、男女両性であった。
男も女も、両性の神を崇めていた。
しかし、そのうちに、両性の神が、それぞれに、分かれて、それぞれの、性の偶像となり、男は、男神を、女は、女神を、拝むのである。

神の住まいと、される、神殿にて、同性の神が、礼拝され、巫女と、神官が、神を引き寄せる役目を、帯びる。
更に、巫女も、神官も、神と、近いものという意識が、芽生え、彼らに、捧げるもの、それが、性となった。

世界の至るところに、見られる、男性器、女性器の、崇拝が、行われる。
それは、しかし、偶像なのであり、聖書の神は、偶像を嫌った。
純粋な、一神教の信仰とは、相容れないものとなった。

聖書は、子を、もうけるためだけの、性を、正当化する。
他の目的の、性は、乱用であり、罪悪であるとの、意識を、持つことになる。

非宗教である、政治の法律でも、聖書の解釈に、則り、同性愛を、禁止するということで、それは、確定した、罪になった経緯がある。

さて、何故、私が、これを、最初に取り上げるのかは、性、というものの、本来の姿を、見るためである。

性は、性行為にのみ、あらず、ということを、言うために、これを、最初に取り上げた。

最初、人は、性と、生殖を、結び付けては、考えなかった。
全く、別物であった。

そこから、性について、が、はじまる。

更に、突飛だが、単細胞動物の、ゾウリムシを、言う。
一番下等な、動物といわれる。
分裂による、生殖を、行うものである。

しかし、時に、有性動物のように、二匹が、結びつくことがあるという。
その時、ゾウリムシは、水の中に、ホルモンのような液体を出し、互いに相手を、引き寄せる。
それが、生殖行為である。

ウニ、ヒトデのような、無脊椎動物は、どうか。
性の区別は、ある。
その生殖は、植物のようである。
雄と、雌が、接触しない。
成熟すると、それぞれが、生殖液を、放ち、それが偶然に、結びつくのみである。

魚は、どうか。
雌の、卵の上に、雄が、精液を、振り掛ける。
接触は、しない。

雄と、雌が、接触して、生殖行為を、行うのは、ミミズのような、環形動物から、はじまる。
ミミズは、雄雌の同体であり、二匹が、互いに逆方向に、接触して、それぞれが、精子を交換するというものである。



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神仏は妄想である 102

凡ての他力門の教えは、罪の場から始められる。しかも罪という観念は、何も抽象的な概念ではない。それ故他人の罪悪を挙げて、詰るがごときなまやしさいことではない。自分自らの現下の罪に、一切の注意を集めることである。罪とは「我が罪」ということに外ならぬ。自分の罪以外に考える余地を残さぬ時が、始めて罪なるものがまともに考えられる時なのである。
柳宗悦

上記、真っ当な感覚だろうか。
キリスト教の原罪という、罪意識も、実に、妄想であり、支配する者のために、あるような、教義である。
それは、アグスチヌスという、教父といわれる者に、よって成った、観念である。教父とは、教えの親という意味であり、カトリック教義の産みの親である。
以前に、キリスト教の時に書いたので、もう一度、読み直してほしい。

この罪意識を、持つことによって、信仰が深まると、考えるところが、病である。

何故、それほど、自虐的に、ならなければならないのか。

さらに、こうも、続ける。
それ故罪の意識は、自分が誰よりも罪深い者だという懺悔を伴うものでなければならぬ。この世にどんな悪逆な者がいようとも、自分の方がそれにも増して罪深い者だということが気付かれる時、始めて罪の意識が真実なものになるのである。

これを、多くの宗教家を、はじめ、識者、仏教擁護者、浄土門帰依者等々、さらに、評論、作家などの、仏教の太鼓持ちが、語るという、愚劣である。

何故、そんなに、我が身を責めることが、必要なのか。

原罪という観念に至っては、我知らずの、生まれたことに、対する罪意識である。
これは、健康的なことなのか。

果たして、仏陀は、そのようなことを、言ったのか。そのように、教えたのか。

生まれながらに、罪ある者という、その考え方は、一体、どこから出てくるものなのか。

太宰治の、生まれて済みません、では、ないだろう。
ただでさえ、人間が生きることは、苦悩である。
これさえも、私の観念である。

それに加えて、更に、自らを罪人だと、責めよというのか。

長年、宗教に関わって真っ当に生きる者、この罪意識によって、病むのである。無用の病である。

更に、この罪意識を、深めて、ある地点に達すると、顛倒が起こるという。
その自分に、見切りをつけて、全き、懺悔に至るのである。
そして、世界の光景は、一転して、我を捨てるという。
そこに、その捨てた時に、無限大なるものが、開ける。それが、弥陀の世界、弥陀の本願である、救いであるというのだ。

後に、禅宗の時にも、考えるが、兎に角、自分を捨てることだと、解くのだ。

心理学から、見れば、この自分を捨てるというのは、俗に言われる、客観性というものなのであろう。いや、彼らは、それ以上の境地だといううだろう。
そして、その境地の、解らない者には、解るわけがないとも、言うだろう。

よくよく、考えて欲しい。
人間が、本当に、客観的になれるものだろうかと。
客観的に、物を見るという場合も、主観の内にあるのである。
つまり、自分の意識から、逃れて、外の意識になることは、出来ない。そし、それが、出来るというなら、それは、精神疾患である。

人間は、絶対主観の、何物も持たないのである。

境地という、境地は、単なる妄想である。

勿論、何事かを、知るという、瞬間がある。
その、瞬間に、悟りという言葉を、当てはめるならそれでもいい。
しかし、瞬間に知ることは、更にまた、瞬間に知ることを、続ける。

禅で言う、大悟という、境地があるというが、もし、本当に、そのような、大悟があれば、精神疾患というしかない。

つまり、宇宙と、一体に成ったとか、真理と、同体になったとかいうことである。
勿論、我が内に、宇宙的な働きがあると、感じることはある。だが、それが、宇宙との一体感云々ということになれば、妄想と言うほかはない。

仏陀が、悟った時に、仏陀の自我は、地球を越えて、宇宙に飛び出し、さらに、銀河系を、抜けて、さらに、宇宙を越えて行く。そして、大宇宙と一体になったという、アホがいるが、確かに、そのように、比喩として、語られることは、理解するが、だから、それが、何だというのか。

仏陀は、それで、ハイおしまいとならなかった。
仏陀は、人々に、生活指導を始めたのである。

すべては、心が作り出すものに、左右されている。
まず、その心の整えることが、大切である。
静かに、息を吸い、静かに、考えるべきだ。
心を、整えるということは、息を整えることである。
そのように、実際的な、ことを、教えたのである。

宇宙と一体になる等々の、お馬鹿な話はしなかった。
また、大乗仏典にあるような、誇大妄想も、言わないのである。

一体、このちっぽけな、人間というものに、何が出来るのか。
この人間は、生きるということを、徹底的生きることなのである。そして、徹底的に生きるとは、何かということを、問い続けて、仏陀は、生活指導をしたのである。

その良い例が、難行苦行というものを、捨てた。

自分を、自虐するものを、捨てた。
更に、自分の心を、自虐する思いを、捨てよというのである。

自分が、自分を苛めて、どうする。

それが、日本にての、浄土門になると、罪悪感を持て、懺悔することによって、世界が一転して、仏の世界が、広がるということになる。
これは、仏陀の教えの、変節である。

堕落である。

兎も角、そこまで、追い詰めて、追い詰めて、もうどうすることも出来ないという、状態に至って、救いの道が、見いだせるというのは、洗脳である。
自分を捨てて、弥陀の本願に頼るしかないという、その、根性は、どこからのものか。

更に、その弥陀というもの、人間の頭で、捏ね繰り回して、作り上げた妄想の存在である。

これを、迷いと言わずして、何を、迷いというのか。

親鸞に帰依する、知識人は、多い。
あれは、誤魔化しである。

親鸞は、愛欲の大海に溺れ云々というが、直訳すれば、セックスしたくて、セックスしたくて、たまらないというのである。
それなら、セックス三昧で、いいではないか。
ところが、親鸞の、偽善は、そんな罪深い者であるからこそ、弥陀の本願があるという。

何故、親鸞は、僧などやめて、一般人として、普通の生活をしなかったのか。
それは、名利の大山に迷いというのである。
つまり、有名に成りたいのである。

アホか。

そのような者だからこそ、弥陀の本願があるのだと。
いい加減にしろ、というだ。

私は、罪人、セックスしたいし、有名にもなりたいし。
なら、そうしたらいい。
しかし、僧として、妻を持って、周囲を、仰天させて、更に、僧を続けるという。然、有名にはなるし、妻も得られて、セックス出来るし。

更に、働かず、自分のこと、罪深さを、語り語りと、信者を集めて、一派をなしたという、結果。

さて、親鸞に帰依する者の、顔が見たいものである。
更に、面白いのは、その親鸞の行状に、激怒した、僧僧僧たちが、今は、皆、セックスしたいからと、妻を持つのである。

それが、日本の仏教である。

仏陀曰く。
僧、修行者は、女の膣に、ペニスを入れるな。

終わっている。
何が。
日本の仏教、僧たちである。
最後の砦の禅宗まで、今では、セックス三昧である。

その点、空海は、頭がいい。
女に触れるな、しかし、稚児に触れるのは、いい。
穴は穴でも、別の穴は良い。
稚児経にて、稚児の愛し方を、指南する。
空海の作なのか、どうかは、知らないが、その位の、度量は、空海にはある。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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