2008年08月16日

神仏は妄想である 117

日本人だからこそ、仏教を後にも、思索できるほどに、高みに上げたと、言った。

仏教という、当時の学問は、多くの思索の方法を教えたが、それはまた、観念の産物であった。

一番の、観念は、厭離穢土という、考え方である。
つまり、この世は、厭離すべくの場所、穢土だというのである。
一体、仏教以前に、日本にそのような、考え方はあったろうか。

何故、この世が、汚い、厭うべき場所なのか。
そして、欣求浄土といい、清い、浄土を望むという、観念である。

この、考え方は、今でも、すべての仏教が、取り入れている考え方である。

また、新興宗教系も、例えば、この世を、現象の世界といい、あの世を、実相世界とするのである。

この世の思想と、あの世の思想である。

この世は、移り行く世界であり、あの世は、完全無欠な世界であるとする。
この観念から、抜けてはいないのである。
どれほど、科学的な宗教観を持っても、そこから、逃れられない。
何故か。
つまり、あの世を、前提に置かなければ、教えに、迫力が、欠けるのである。

要するに、相手が、知らない、解らない世界を持って、語り掛けるという、手品を行うのである。
現世利益という、方法をとっても、それでもなお、あの世行きを、提言する。
天国に行く、極楽に行く。

源信の、往生要集は、地獄の様を、ありありと描いた。それを、絵にして描いて見せた。それはそれは、恐ろしい世界である。無智な者は、畏れたであろう。そして、今度は、極楽の様を見せる。
何と言う、低俗な感覚であろうか。
それも、すべて、想像である。

文学的価値としては、十分に納得するが、それをもって、信仰を促すという根性は、ただ事ではない。

それは、仏教の、厭離穢土欣求浄土という、観念から出ている。
日本の伝統には、そんな考え方は無い。

万葉の世界には、そんな世界観は、無い。

仏教が、根を下ろしてから、暫くして、そのような、観念に覆われたのである。
お勉強するならば、よかったが、それをそのまま、信じてしまった。
ところが、調べてゆくと、仏典は、事実であると、信じていたというから、驚いたと、共に、さもありなんと、思った。
ある時期まで、仏典は、事実を書いているものとして、扱われていたのである。

いずれ、禅などを書く時に、明らかにする。

この世を、厭い、浄土を願うから、往生を願うという。
往生は、浄土門の人々が、使い、成仏とは、自力の宗派聖道門が、使う言葉である。

もともと浄土への欣求は穢土への厭離の念を去ってはいない。浄さへの求めと、穢れへの厭いとは結ばれねばならなぬ。だから往生を遂げる得るのは、往生も能わぬ自らを省みることでなければならぬ。それ故浄土の国に往いて生まれるのは、自らに資格があって往けるのではない。仏が来り迎えるので浄土に往けるのである。往生の真意は浄土への到達ではなくして、浄土からの引接なのである。この引接が来迎である。それ故来迎なくしてどうして凡夫に往生が出来よう。この事実をまざまざと眼に浮かべる時、来迎の図相が生まれたのである。これより真実な仏の慈悲の描写があろうか。
柳宗悦

引接、いんじょう、という、あちらからの働き掛けを言う。
実に、驚くべき、蒙昧である。

厭離穢土という観念も、蒙昧だが、来迎という考え方も、蒙昧である。
その、来迎を、ありありと、目の前に見るという、観想をまた、善しとする、修行とは、単なる妄想の様を、促すのみである。
確かに、死者の心は、想念に任せられるが、思い描いた、来迎の妄想に、心を、浸らすというのは、あまりにも、馬鹿げている。

さらに、来迎とは、仏の側から、来ることであれば、念仏なども、しなくていいのである。仏の慈悲は、念仏申さんとしても、しなくても、あるものであれば、来るのである。

つまり、ここに至ると、キリスト教の、恩寵の思想に似る。
神は、善人の上にも、悪人の上にも、日の光を与える、というのと同じである。

特に、親鸞の場合は、キリスト教の、神の愛の思想に、実に近く、こういう自虐的信仰を持つこと自体、彼が、病んでいたことを、教える。
罪人こそ救われるというのは、イエスが、私が来たのは、健康な人のためではなく、病にある人のためである、という言葉を、思い出させる。

絶対帰依というより、すべて、投げ捨ての信仰である。
よく言えば、与えられた信仰、賜りたる信仰であるが、悪く言えば、お任せの信仰、捨て身の信仰であり、それは、一見して、深さのあるようなものに、見えるが、単なる、限界の様である。
何が限界か。
我に対する、罪意識の妄想である。

弥陀の本願は、親鸞一人がためなり、という言葉を、浄土信仰の面目のように、解釈するが、それは、誤りである。
あの時代だから、受け入れられるが、今の時代は、浄土信仰も、一つの情報である。
更に、仏典は、事実ではないという、証明がなされたのである。

迷いを、深さと、勘違いする時代は、過ぎたのである。

更に、禅では、まだまだ、深いと、思わせる言葉に溢れている。
文学として、残るのは、禅の文学である。

さて、親鸞は、来迎の様まで、捨てた。
法然も、親鸞も、共に、一切の、既成仏教の祈りの様を捨てた。
しかし、浄土宗は、来迎まで、捨てなかった。
浄土真宗は、来迎までも、捨てるという、徹底さである。

念仏の、六文字さえあれば、足りるとした。
来迎も、自力の有り様だと考えた。
日蓮宗の題目を、ご本尊として掲げるのと、同じように、念仏の文字だけで足りた。
往生というものを、平生とした、平生業成の教えである。
これは、その瞬間、その刹那、往生しているという、考え方である。

つまり、今救われていると、考えることである。
臨終に救われるのではない。今、救われている。
しかしそれは、親鸞によって、成った、考え方ではない。
皆、そのような、考えに至ったのである。

前回も、書いたが、一遍のように、仏教、浄土門という、迷いを通して、元の、大和心に戻ったと、同じように、結局は、念仏などいらない世界に立ち戻るのである。

弥陀の本願というものが、あるならば、念仏などしなくしても、救われるのである。

なんとなれば、弥陀の四十八願というものは、皆、仏の世界に生まれなければ、仏にならないという、願なのである。

人間であってしかも人間に縛られない時が、覚りの姿なのである。
柳宗悦

覚りに関しては、禅のところで、検証するが、上記、人間であって、人間に縛られない時とは、いつか。
人間に、縛られないという観念は、実に愚かである。
人間は、人間であることに、意味があり、人間というものに、縛られて、というより、何故、縛られると考えるのか、である。

厭離穢土と同じように、厭離人間と、何故、考えるのであるのか。
実に、病んでいるのである。

万葉は、人間讃歌である。
それが、大和心であった。
この、無常にある、人間であるからこそ、尊く、高いものである。
人間であるから、善しなのである。

人間の持つ、欲望等々を、厭うという思想は、実に、病む思想である。
欲望を、恵みとして捉えた、万葉の時代は、実に、健全であり、それが、大和心、大和魂といわれるものである。

浄土思想は、学ぶに足るものであるが、信仰に上げてはいけない。
それは、迷いである。



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2008年08月17日

性について 17

勃起も、射精も、自律反射である。

骨格筋にきているのを、体制神経といい、内臓筋にきているのを、自律神経という。

自律神経とは、神経が、感覚や意志がなく働く神経という意味。
胃腸、性器のように、自律神経がきている、臓器には、すべて、二つの自律神経がきている。

副交感神経と、交感神経である。
この、神経は、互いに、反対の働きをしている。
以前にも、書いたとおり。

勃起反射、射精反射も、自律反射と、呼ばれる。

この二つの反射で、特に射精反射では、性感、オルガスムが伴う。

仙髄第三分節から、上にゆく神経、そして、亀頭、その他の、性器皮膚から上にゆく、皮膚感覚の神経を伝達し、間脳の視床と、大脳の、辺縁系へと、流れて、快感となる。

女にも、男と同じように、勃起反射、射精反射に対応する反射はあるが、それが、男のように、明確ではない。

神経の働きは、男と同じだが、陰核、つまり、クリトリス、及び、その周辺の皮膚や、粘膜からの、刺激が、陰部神経を上がってゆく。
そして、男と、同じく、仙髄第三分節までゆき、そこの勃起中枢で、切り替えられて、反射中枢として、副交感神経で下る。また、交感神経で、下る。
下腹神経叢で、両方が継続して、卵巣、子宮、膣に分布する。

子宮にも、膣、その他にも、内臓筋がある。男の場合と同じ。

上行刺激が、反復すると、腰髄第一分節にいった、伝導が重合して、射精中枢から、発火を起こす。

その、発火は、交感神経を伝わり、下腹神経叢から、卵巣や、子宮にゆき、オルガスムを起こす。
しかし、射精のように、目立った現象ではない。

更に、それが、連続して、何度も起こるというのは、男とは、全く違う。

男は、一度の射精で、オルガスムを終わる。
次は、また、時間を、置いて、である。

勿論、若い頃は、抜かずの、何とかといい、一度、二度と、短時間に、続けられることもあるが、射精時の快感は、その一度で終わる。

ペニスに対する、一種の快感はあるが、射精の快感は、一度のものである。

ここである。
他の、動物の場合は,:決して、射精を引き伸ばして、ペニスの快感を、楽しむということは、ない。人間だけが、射精に至る前の、様々な快感を、楽しむ。

また、女も、連続する、オルガスムを何度も繰り返し、求めることが出来る。
これは、つまり、性感の、大脳化でもある。

ここから、ハウツー物の、性感セックスの、出番になるのである。

時代や、国を問わず、その性感を、求める試みの多くが、記録されている。

今、どんな性の方法論を、持ってきて、それを、説明しても、面白い。
いずれ、そこにも至ることになる。

少し、繰り返すことになるが、矢張り、人間の場合は、脳の働きが、他の動物とは、違うということ。

大脳辺縁系とは、皮質辺縁系と、皮質下で、同じ辺縁系に属する、核群、すなわち、背中核、扁桃核、視床下部諸核、そして、中脳橋の諸核などを、含めた部分を言う。

性欲の働きは、この辺縁系の内にある。
そしてそれは、本能というより、進化した心の働き、私は、情緒と言う、それによって、成り立つ、人間の性である。

性は、命であり、脳であり、そして、今、情緒になった。
情緒とは、喜怒哀楽、笑い、泣く、そして、様々な心の綾である。
これが、性欲、更に、快感に、大きな影響、深い関与があるということである。

それは、また、食欲にも、影響を与え、深い関係を、持つ。

そして、忘れてはならないことは、内蔵、肺、心臓、肝臓、胃腸、内性器、それらが、協調して、働くようにするのも、辺縁系であるということ。

この、辺縁系から出る、信号によって、大脳皮質、つまり、辺縁系に対立するものとしての、大脳外表質系の、働きである、前頭回という、脳の外側、皮膚に近い部分が、行動を起こさせる。
よく考えて、断固として、行動するというのは、ここの働きである。

そして、高等動物である、人間には、複雑な、多くの欲望を持つに至るのである。

性行為、性行動一つにしても、実に、複雑な欲望を起こし、更に、行動するのである。

その、大きな一つが、マスターベーションである。
他の動物も、それに似た行為をするが、人間のように、複雑ではない。

前立腺刺激をして、男も、女のような、快感を得るというようなもことを、考えるのは、人間のみである。

また、マスターベーションの、様々な、試みをして、楽しむというのも、人間ならでは。

脳の、進化と、発展が、人間を、他の動物から、そして、本能から、解放したといえる。

現代の、マスターペショングッズから、古代のマスターベーショングッズから、眺めて見ると、驚くべき、創意工夫がある。

遠い昔、最古のマスターベーショングッズは、エジプトの神官に、行き当たる。
板を、刳り貫き、更に、直径五センチほどの、穴を作り、そこに、ペニスを出し入れして、楽しんだという。

ヒトに近い、道具を作るサルも、マスターベーションの、道具を作ることはない。
人間だけが、それを、する。
性とは、マスターベーションなのである。
マスターベーションの、豊かさが、性を突き抜けてゆき、芸術にまで、高まるという、手法である。

性の快感ではなく、より、高度な快感を、求めて、芸術活動が、成り立つのである。

更に、私は、スポーツというものも、芸術の一つであると、考えるのである。

体の限界を超えるという、快感は、性の快感を、超えることもある。

人間とは、凄いものである。

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もののあわれ279

少将のなき折りに見すれば、「心うし」と思へど、かくおぼし出でたるもさすがにて、御返し、くちときばかりをかごとにて、取らす。


ほのめかす 風につけても したをぎの なかばは霜に むすぼほれつつ

手はあしげなるを、まぎらはし、ざればみて書いたるさま、しななし。ほかげに見し顔おぼし出でらる。「うちとけで向ひ居たる人は、え疎みはつまじきさまもしたりしかな。何の心ばせありげもなく、さうどき誇りたりしよ」とおぼし出づるに、憎からず。なほこりずまに、又もあだ名たちぬべき、御心のすさびなめり。



少将のいない時に、見せると、困ったことと、思いつつ、思い出してくれたことを、嬉しく思い、お返事だけは、素早いという取り得である。
小君に、歌を渡す。


風のお便りにも、萩の下の葉は、霜のせいで、思い萎れております。

筆は、下手なのに、上手めかして、洒落て書いたつもりが、品がない。
女に対する、作者の、容赦ない、感想である。
源氏は、燈の光で見た顔を、思い出す。
取り繕っていた人は、とても忘れられないが、若い方は、何の嗜みも感じなくて、はしゃいで、得意になっていた。と、思うのである。
そう思えば、まんざらでもなく、やはり、懲りもせず、またも、事件をおこしそうな、浮気心のある、様子であると、最後に、作者は、付け加える。

源氏という男、どうしようもない男である。
作者が、そのように、思っている。

しかし、作者の、女に対する、言い分は、容赦がないというのが、面白い。



かの人の四十九日、しのびて、比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめて、さるべき物どもこまかに、誦 などさせ給ふ。経仏の飾りまで、おろかならず、惟光が兄のあざり、いと尊き人にて、になうしけり。御ふみの師にて、むつまじくおぼす文章博士召して、願文つくらせ給ふ。その人となくて、あはれと思ひし人の、はかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に譲り聞ゆるよし、あはれげに書き出で給へれば、博士「ただかくながら、加ふべき事侍らざりめり」と申す。しのび給へど、御涙もこぼれて、いみじくおぼしたれば、博士「何人ならむ、その人と聞えもなくて、かうおぼし嘆かすばかりなりけむ、宿世の高さ」と言ひけり。しのびて調ぜさせ給へりける、装束の袴を、取り寄せさせ給ひて、

源氏
泣く泣くも けふは我がゆふ 下紐を いづれの世にか とけて見るべき

この程まではただよふなるを、いづれの道に定まりて赴くらむ、と、思ほしやりつつ、念誦をいと哀れにし給ふ。頭の中将を見給ふにも、あいなく胸さわぎて、かの撫子のおひつたつ有様、聞かせまほしけれど、かごとにおぢて、うち出で給はず。


かの人とは、あの女、夕顔である。
四十九日を、人目を忍んで、比叡山の法華堂にて、諸事を略さずに、僧たちへの、布施の衣装をはじめ、必要なものを準備して、読経なども、頼むのである。
経巻や、仏前の装飾まで、丁寧にされる。
惟光の兄の、あざりが、実に高徳の僧であって、またとないほどに、勤めた。
文学の先生で、親しくしていた、文章博士を呼び、願文を作らせる。
誰とは、言わず、情をかけていた女だということで、阿弥陀仏に引き渡す旨を、哀れを催すほどに、書き綴られていた。
博士は、全くこのままで、一字も、加える所は、ございませんと、言う。
我慢していも、涙がこぼれる。
たまらない様子の源氏に、博士は、誰なのだろう。だれそれと噂にのぼらず、しかもこんなに、悲嘆にくれるとは。果報の高い人ですと、言う。
内々で作らせた、布施の袴を、手元に取り寄せて

泣きの涙で、今結ぶ、この紐を、いつの世にか、また相逢って解き、また、打ち解けよう。

とけて見るべき
これは、セックスをしようということである。
打ち解けようとは、そのまま、性行為のことである。
大胆な歌を、詠ませるものである。

この時分までは、中有に、迷うとのこと。
六道の、いずれに、行くのであろうか。
それを、思い、念仏を熱心にするのである。
頭の中将と、お会いされても、わけもなく、胸が、どきどきして、あの、撫子の育つ様子を、聞かせたいと思うが、怨み言を、言われるのが、嫌で、口に出さないのである。

あはれと思ひし人の はかなきさまになりたる
愛しいと、思う人が、亡くなってしまった、それを、言う。

ここで、面白いのは、比叡山の法華堂にて、念仏である。
平安期は、浄土思想が、花盛りである。
中国浄土宗である。
まだ、鎌倉仏教には、遠い時世。

当時の人、皆、阿弥陀仏という、仏の世界を憧れた。
それを、極楽という。
死後の世界というものを、明確にしていた時代である。
しかし、それは、それ以前の伝統があることを、忘れては成らない。
全く意識にないものは、受け入れないのである。
しかし、浄土思想を、受け入れたということは、受け入れる余地、器があったということである。

矢張り、紫式部も、出家することを、考えることがあった。
しかし、結局は、在家に留まる。

死の救いというもの、阿弥陀仏の世界へという、安心を、得ることで、逃れたようである。
それも、一つの、死の様である。

後に、仏教の説話集などに、紫式部の迷い霊などの、話が、出て来る。都合の良いように、人間の欲望の様を、描いたことを、悔いているというのである。

仏教が、次第に、庶民にまで、定着すると、欲望は、煩悩とされて、嫌われるが、そこから、人間は逃れられないし、逃れては、生きて行けない。
その、どうしようもないものを、取り上げて、仏教家たちは、大手を振るのである。

人間の、欲望を手玉に取り、あることないことを、吹聴して、脅し、布施を要求し、自分たちは、欲望のままに、行動するという、堕落の、日本仏教が、出来上がってゆく。
勿論、今も、その続きである。

自分たちは、欲望三昧の生活をし、信者には、欲望は、煩悩である、それから、救われるには、云々と、愚にもつかない、説教を演じてみせるという、もの。
大いに、笑う。

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神仏は妄想である 118

600年に当時の、隋から大量の書物が届いている。
その中には、多く仏典もあったと思われる。
厩戸皇子、聖徳太子は、いち早く、仏典を学んでいる。
そして、日本を仏教の国にすべく、仏法の精神で国造りを考える。更に、漢字をもって、文字とすることもである。

天皇まで、仏法に帰依するという国である。
天皇は、日本の祭司であるが、仏教を取り入れて、今に至る。
神道といわれるものの、許容範囲が、如何に広いかが解る。

更にである。道教、儒教に関しても、受け入れているのである。
兎に角、無批判に向け入れるという、体質が日本人である。
明治にも、ヨーロッパの文化を、兎に角、取り入れて、近代化を急いだ。

学ぶべきものは、学ぶという、精神は、強くなければ出来ないことである。
いや、強いというより、しなやかな精神である。

戦後は、アメリカを取り入れた。咀嚼する力がある。
日本は、アメリカの十年前を行くと、言われた。
今のアメリカは、十年後の日本ということになる。ただ、この頃は、少し変化している。

兎に角、受け入れて、我が物にするという、才能に長けている。

仏典に関しても、無批判に受け入れて、最新の情報とした、古代の人々は、賢い。

インドから中国、半島、そして、日本へと、仏典は、渡ってきた。
最後の到着地で、仏教は、花開いた。
現在、インドは勿論、その仏典が、通ってきた道は、今は、仏教が廃れて、久しい。多くは、イスラムに取って代わられた。

また、別ルートで、伝わった仏教がある。
インドからビルマやタイ、そして、マレー半島からインドネシアに流れたものは、小乗といわれたものである。チベットも、その土着の信仰に仏教が合流して、チベット仏教となった。

日本に伝わったものは、大乗といわれる。それは、隋から唐へと移行した時期に、天竺に出掛けた、三蔵法師玄奘に多く、依る。
現在使用される、仏典の翻訳ものは、玄奘によるもの、多々あり。

さて、大乗仏教といわれるものは、いつ頃から始まったのか。
まず、最初は、釈迦の遺骨を祭る仏塔、パゴダという塔に人々が集い、出家者も、在家の者も、一緒に、仏陀を慕った行為から、始まった。

仏塔崇拝から、始まったのである。
そこに、出家者や、指導的立場の者が現れる。
そこから、新しい経典製作が、始まることになる。
初期の仏典、阿含経などの解釈、更に、その中の一部を、拡大して新しい形にした、経典製作を始めるのである。

それらは、非常にドラマチックなお話になったものもある。
それは、仏陀滅後、500年を経た、紀元前後である。

それから、インドには、大乗仏教の、二派が出来る。それは、五世紀頃である。
その一つ、中観派といわれる、「中論」に基づき、空観と中道の実践を主にするグループから、ナーガールジュナ、龍樹という、者が現れる。
南インドの人で、150年から、おおよそ100年に渡って活躍した。

龍樹以前に、ずてに、般若経が、編纂されていた。
その般若経に、龍樹が、一つの理論を打ち出す。
無所得空である。
無所得とは、あらゆるものに、捕らわれないという考え方であり、更に、空という言葉も、無執着ということになる。

日本の仏教の基本は、この龍樹の書いたものから、理解される。
今では、大乗の哲学の祖といわれる。

大智度論、中論を始め、膨大な書物がある。

仏陀の思想の中心は、中道である。
苦行でも、快楽でもない、中道という道を目指した。
当時のインドでは、様々な考え方により、修行する者、多々いた。仏陀のような人も、多々いた。
しかし、仏陀の教えが、残った。
というより、仏陀を慕う人々によって、語り伝えられたのである。

私は、龍樹の大智度論に、目を通したが、実に、くどい。否定の否定の否定という、文章には、辟易した。

そこで、少しばかり、龍樹に関して、調べると、彼は、最初、欲望のままに暮らしていた。そのまま、欲望である。
だが、私が不審に思ったのは、霊的能力があり、宮殿に夜な夜な、飛んで行き、その中にいる、女たちを毎日、犯し続けたという話である。
そして、ある時、忽然として、その生き方に、空しさを感じて、生き方を、改めたという。

そのきっかけは、一緒に行動していた、友人の死である。同じような、ことを一緒にしていた者の死である。

私見である。
インドは、魔界の支配する土地である。
今でも、ヒンドゥーという、バラモンから出た、カースト制という、差別を持って、人々を、縛っている様は、魔界関与であると、思っている。
仏陀が、画期的な、平等を説いたが、それも、呑み込んで、更に、仏陀まで、ヒンドゥーの中では、一人の神として、取り込まれたのである。

霊的能力を、持って、その欲望を満たしていたという、龍樹に、私は、納得できないのである。彼は、基本的に、魔界関与の者であると、判断する。

彼の書き物の、くどさは、それを、証明する。
哲学の一つとして、学ぶことには、異論はないが、果たして、彼の理論が、仏陀を、理解するもになるかは、別である。

無批判に、龍樹の思想を受け入れた、仏教の面々である。

阿弥陀仏の、称号を唱えるという、称号念仏も、龍樹の無所得空、という考え方を、その境地を得て、悟りというものを、開いてゆこうとするものである。

所得を得ない、さらに、空も無いという。
それを、有無の見を推破せん、と親鸞は歌う。

仏の位は、五十二番目であり、阿弥陀の本願に基づく念仏の、教えによって、この世で、不退転の位に位置する。
そして、仏の候補者になって、命終わり、浄土に生まれ、仏になることを得るであろうという。
その、不退転の位が、菩薩道からいえば、十地の位の最初であり、全体の仏の位からは、四十一番目ということになる。

それを、歓喜地といい、正しく悟りが開けると定まっている人々ということになる。

これは、仏陀の教えに遠い。
自分という意識を、探る行為は、素晴らしいものであるが、それを、上記のように、定めて、いるということが、私には、解せない。
解せない私が、誤っているのか、龍樹の考え方に、誤りがあるのか。

それは、いずれ、天竺に、その教えを求めていった、玄奘三蔵法師の、教えを、見ることにする。

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2008年08月18日

性について 18

もう少し、生理学的に、性的快感というものを、俯瞰する。

皮膚感覚である。
人は、皮膚に対する意識が低いようである。
この、皮膚感覚が、実は、性感というものと、密接に関わっている。

皮膚は、絶えず成長する。
体温を調整し、防水壁となり、発汗させて、細菌の侵入を防ぐ。太陽光線を取り込んで、太陽の栄養素を、受け取る。
太陽の栄養といっても、ピンとこないかもしれないが、体に必要な、栄養は、太陽から来ると、思っても良い。
一つだれ、例を上げる。
カルシュウムを摂取しても、太陽の光がなければ、体に取り込まれないのである。つまり、ビタミンDである。それがあって、はじめて、体に、カルシュウムという、栄養素が、出来上がる。
今は、ビタミンD配合の、カルシュウムが、健康食品で、売られているが、本来は、太陽の光を、浴びた方が良いに決まっている。
ただし、紫外線というものもあり、程度である。

欧米人が、太陽の下では、兎に角、裸になるのは、日射時間が少ない地域で暮らすからだ。

皮膚は、頭髪や、腺、神経部分などの、付属器官と共に、性的調節と、密接な関係を、持っている。

皮膚の表面にある、感覚受容器の数は、100平方ミリメートルの中に、約50の受容器がある。
皮膚から、後根を経て、脊髄に入る感覚線維の数は、50万本以上である。

これに対応する、脳の、触覚領域も、広いといえる。

例えば、髪を触られて感じるのは、毛根のまわりの、皮膚感覚の、受容器・リセプターである。
この器官は、毛に刺激があったことを、知らせる働きをする。
圧感を受容する、パチニ小体は、長さが、一ミリメートルで、皮膚のかなり深いところにある。

その、皮膚感覚というものが、変形して、くすぐったさ、かゆみ感覚、そして、性感というものがある。

脇の下や、足の裏に、刺激を与えると、くすぐったくなるのは、特別なリセプターがあるわけではない。
心理的な感受性が、変動して、同じ刺激でも、気持ちのあり方によって、くすぐったくも、快感にもなるのである。

かゆみ、というものは、痛感のリセプターに対して、弱い刺激が続くと、起こる。
外傷や、炎症のときには、遊離される、ヒスタミンなどによって、神経終末を刺激するため、かゆみ、が起こる。

しかし、これが、曲者である。
かゆみ、というものの、本体が、性的不満によって、起こる場合がある。

愛情不満、欲求不満が起こると、皮膚に、かゆみ、が起こる。
触れて欲しいという、むずむずとした、欲求が涌いてくる。
酷くなると、長引く湿疹ということにも、なる。

これは、人間のみの、感覚である。
情操である。
性的情操が、満たされない時に、かゆみ、となって、現れるのである。
特に、女性である。
性欲障害とでもいう、状態になると、かゆみ、が、酷くなる。

性欲が、かゆみ、という感覚で、表現されるという、実に、面白いことである。

専門家に言わせると、大半の、長期的かゆみ患者は、そのようである。

甚だしい場合は、性器の、かゆみ、にもなる。
原因が無いのに、アソコにかゆみが生じるのであれば、欲していると、考える。

これを、深めていくと、性感覚とは、ペニス、膣、クリトリスによる、摩擦である。

愛は、摩擦の深さであると、私は言う。

リセプターは、パチニ小体と同じ構造であり、触覚系の変形である。
つまり、接触摩擦が、快感というものを、生み出すのである。

準じて、乳房、そして、体全体が、性感帯となり、触覚刺激によって、性感というものを、高める。

それは、人間だけが、持つものである。
故に、人間とは、性感という感覚を、有するモノであると、言える。

性的交わりは、皮膚が、全面的に関わりを持つのである。
オルガズムに、達するのは、男女共に、皮膚刺激、摩擦である。

性は、皮膚である、とも、いえるのだ。

性的接触の、最大の触覚感覚は、当然、粘膜である。

特に、ペニスは、それに寄り、絶大な快感を得る。
であるから、粘膜感覚に近いもの、オイルなどで、作り出すと、膣挿入でなくても、十分に性的満足感を得て、更に、射精する。
要するに、男の場合は、それを、つまり、射精商売というものが、成り立ち易いのである。

生理学的に、言うと、人間の性交は、運動筋の働き、言語、皮膚と同じ、外胚葉性の、視覚、味覚、臭覚と、深部感覚の、付随的な刺激によって、補強される。
実に、複雑になっているのである。

性交するために、出来た体であるとも、いえる。
適度な、セックスが、生きるエネルギーを、生むということである。

更に、セックスの、喜びは、人生の、喜怒哀楽を超えることもある。
どんな、辛い状況でも、セックスの喜びで生きられる。

この、刺激に対する、感受性は、胎児、乳児、幼児期の、皮膚感覚経験によって、決まる。

この時期、性感帯としての、役目を担う皮膚の表面が、子供の成長に、多様な機能を果たしているといえるのである。

接触による、コミュニケーションが、人間にとって、実に大切であるか、ということだ。

霊長類に広げると、サルの場合は、毛づくろいという、行動。それは、社会的、絆でもある。毛づくろいの他に、軽く体を叩く、鼻を擦り付ける、キスをするなど。

下等哺乳類のように、舐めることから、キツネザルのように、歯で梳き取る、指での、毛づくろい、撫でるという、愛撫まである。

接触という行為にも、進化がある。

皮膚は、脳に次いで、最も重要な、器官であるといえる。

皮膚感覚のうち、接触感覚は、すでに胎児の最初に発達する。
ヒトの新生児の、体重の全体に対する皮膚の、重さの割合は、19,7パーセントである。成人では、17,8パーセントである。
それほど、変わらないというところに、生理的な重要さがあると、いえる。

さて、動物の場合は、相手の体に対する、攻撃という行動に、一種の性行動のパターンを形成している。
それが、問題である。

ヒトの場合も、相手に苦痛を与えることによって、性的興奮を得るといえる。
それが、人間が行う場合は、サディズム、その逆の、マゾヒズムといわれるものになる。

それは、すべての人間に内在しているものであると、言い切れる。
それを、どのように、表現するかで、人間としての、質に関わってくると、思うのである。

叩くことによって、作り出される苦痛と、性的快感とのつながり、という、それも、幼児期における、条件づけになるのである。
専門的に言うと、残忍性性欲倒錯という。

さらに、それが、永続的になると、一つの病理として、対処しなければならない。

苦痛と、残忍性が、挑発的性的快感を、引き起こす、異常行動である。
マゾヒストは、苦痛、嫌悪、屈辱の体験を、身につけ、性的興奮を、導き出す。
サディストは、苦痛、不快、恐怖、屈辱を他人に課して、性的快感とする。

共に、倒錯と言われるが、その基準は、無い。
二人の間で、許される範囲での、行為であれば、それは、愛の行為であり、相手が、それを、求めることがないのに、強制すれば、倒錯であろう。

歴史上の人物を、検証すれば、政治に、その、性的感覚、性的快感を持って対処した例が多い。その、大半は、倒錯と呼べる、残忍性である。

また、そのような、事件を起こし、人を殺害する者は、残忍的性欲倒錯と、判定してもいいと、思われる。

更に、弱者に対する、性的興奮というものも、ある。
幼児、児童に対する、性的欲求である。
一般に、幼児性愛と言われる、ロリコンである。
これは、上記の、残忍性のあるものと、同じく、病理であり、治療が必要であると、言う。

幼児期から、親の性的虐待にあった、女性の相談を、多く受けたが、それは、後々まで続く、精神的苦痛となり、甚だしくは、自分の性を、投げ捨てるような、性行為を望む。

そこから、解放されるために、本人は、血の滲むような、苦労を重ねる。
しかし、それから、逃れならなかった人は、神経症を持続して持ち、或いは、抑鬱を続け、通常の性行為を、持てない者もいる。

子供の悲劇は、大人の欲望によって、成るということである。

この、性的残忍性のある、性的倒錯者を、侮ってはならない。
つまり、一度や二度の反省では、治らない。
人権の問題もあるが、治らないものは、治らないのである。

西洋の一部地域では、去勢という、刑を採択したところもある。
当然である。


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もののあわれ280

かの夕顔の宿りには、いづかたに、と思ひまどへど、そのままにえ尋ね聞えず。右近だにおとづれねば、あやしと思ひ嘆きあへり。たしかならねど、けはひを、さばかりにや、と、ささめきしかば、惟光をかこちけれど、いとかけ離れ、気色なく言ひなして、なほ同じごと、好き歩きければ、いとど夢のここちして、「もし受領の子どもの好き好きしきが、頭の君におぢ聞えて、やがていて下りけるにや」と思ひよりける。



あの夕顔の宿では、女君は、どちらに行ったのかと、心配するが、探すことが出来ないでいる。
右近までも、便りもしないので、変なことであると、皆、悲しんでいた。
はっきりとはしないが、ご様子から、この方ではないかと、ひそひそとして話し合っていたが、惟光にも、ほのめかしてみるが、丸っきり、知らない様子であり、関係がないように、話す。
やはり、今まで通りに、惟光は、からかって回るので、変な夢のような気持ちがして、もしや、受領の子で、女好きな者が、頭の中将を怖がり、女君を、連れて国に、下向したのかと、考えたりするのである。



この家のあるじぞ、西の京のめのとの娘なりける。三人その子はありて、右近はこと人なれりけば、「思ひ隔てて、御ありさまを聞かせぬなりけり」と泣き恋ひけり。右近はまた、かしがましく言ひさわがれむを思ひて、君も、いまさらに漏らさじ、と忍び給へば、若君のうへをだにえ聞かず。あさましく、ゆくへなくて、過ぎ行く。


この家の、主人が、西の京の乳母の娘であった。
三人、乳母の子があり、右近は、他人だったゆえに、分け隔てして、女君の様子を知らせないのだと、涙を流して、忍ぶのである。
右近の方も、やかましく、騒ぎ立てられると、君も、今になって、我が名を出したくないと、お隠しになるので、若様の事さえ、聞けないでいる。
呆れたことに、行くへも、知らぬままに、時は、経てゆく。



君は「夢をだに見ばや」と、おぼしわたるに、この法事し給ひて又の夜、ほのかに、かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じようにて見えければ、「荒れたりし所に住みけむものの、我に見入れけむたよりに、かくなりぬる事」とおぼしいづるにも、ゆゆしくなむ。



君は、せめて、夢にでも、見たいものと、思い続けているが、四十九日の法事をされた、その翌日の夜、かすかながら、あの事件の起こった、院そのままに、枕元に立った、女の姿もそっくりな、夢に見えた。
荒れ果てたところに、住んでいた魔物が、自分に見入ったついでに、こんなことになったのだと、思い出すと、寒気がするのである。

ゆゆしくなりむ
寒気がする。気分が悪くなるのである。



伊予の介、神無月のついたちごろに下る。女房の下らむにとて、たむけ、心ことにせさせ給ふ。またうちうちにもわざとし給ひて、こまやかにをかしきさまなる、櫛、あふぎ、多くして、ぬさなど、わざとがましくて、かの小うちぎもつかはす。

源氏
逢ふまでの 形見ばかりと 見しほどに ひたすら袖の くちにけるかな

こまやかなる事どもあれど、うるさければ書かず。御使ひ帰りにけれど、小君して、小うちぎの御返りばかりは、聞えさせたり。

空蝉
蝉のはも たちかへてける 夏衣 かへすを見ても ねは泣かれけり

「思へど、あやしう人に似ぬ心強さにても、ふり離れぬるかな」と思ひ続け給ふ。けふぞ立つ日なりけるもしるく、うち時雨て、空の気色いとあはれなり。ながめ暮らし給ひて、

源氏
過ぎにしも けふ別るるも ふた道に 行くかた知らぬ 秋の暮れかな

なほ、かく人知れぬ事は苦しかりけりと、おぼし知りぬらむかし。



伊予の介は、十月の上旬に、任国に下る。
女房が、一緒に下るはずとて、別れの品を、贈る。
別に、女たちにも、特別に贈りになった。
細工の良い、美しい櫛や扇、幣などは、特別に仕立てたと、見えるもの。
そして、あの、空蝉の、小うちぎ、も、返した。

源氏
また逢う日までの、形見と、見ているうちに、落ちる涙に、袖がすっかり、朽ち果ててしまったことだ。

色々とあったが、うるさいから、書かない。
お使いは、帰ったが、小君を、使いに、小うちぎの、返歌だけは、差し上げた。

空蝉
衣替えも、終わり、今、お返しくださった、夏衣を見ると、声を上げて、泣きたい気持ちです。
いや、泣いたのである。

考えても、不思議なほどの、強情さで、拒み通して、離れていったものだと、源氏は、感慨深い。
今日は、立冬である。
いかにも、冬らしく、はらはらと、時雨が降る。
空が、実に寂しい。
一日、物思いに、浸り、

源氏
死んだ女、離れる女、共に、遠くに行く。今日が、最後の秋の日と、同じように。

こんなような、人に隠しての、事は、やはり、苦しいものだと、思い当たりなさったことであろう。
と、最後は、作者の言葉、感想である。

そして、最後の段。


かやうのくだくだしき事は、あながちに隠ろへ忍び給ひしも、いとほしくて、皆もらしとどめたるを、「など御門の御子ならむからに、見む人さへかたほならず、ものほめがちなる」と、作り事めきてとりなす人、ものし給ひければなむ。あまり物言ひさがなき罪、さりどころなく。



こんな、ゴタゴタした、お話。
努めて、忍び隠していたのも、お気の毒なことなので、すべて、控えていたのに、なぜ、御門の御子だからと、知っている者までが、短所はないと、何かにつけて、誉めてばかりなのか、と、作り話のように、思う人がいるようなので、あえて、申しました。
無遠慮な、お喋りの、非難は、免れないことでしょう。
と、作者である、古女房は、言う。


夕顔の巻が、終わった。
これ以上の、詮索は、しない。


けふぞ冬立つ日なりけるもしるく うち時雨て 空の気色いとあはれなり

しるく
その日である。
うち時雨て
密かに時雨れる。
空の気色いとあはれ
空の気配は、大変に、あはれ、である。
この、あはれ、を、何と訳すか。

前後の、文章から、この、あはれ、の意味を、探る。
あはれ、の表情が、無限に広がる。

ここには、この、物語には、観念というものはない。
あるのは、大和心である。
人の世の、ただそのままに、生きることにある、心の様を、大和心として、受け入れている。
仏教の救いという、観念があっても、行くかた知らぬ 秋の暮かな となる。
もう二度とない、人の世を生きているのである。

もののあわれ、とは、行くかた知らぬ 秋の暮れ なのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 119

八宗の祖といわれる、龍樹である。
その、考え方の、バックボーンを、般若経、そして、浄土三部経とした。

要するに、解釈である。
それが、大乗仏教の教義の、始めである。

そして、理論としては、無所得空を、実践としては、阿弥陀仏の本願に基づく、念仏の教えによって、不退転の位に住するという。
不退転の位とは、仏の候補者になって、命終わり、浄土に生まれて仏となるというものである。

ここで、仏教家は、仏陀から、龍樹へと、教えが伝えられたと、信じたことである。
仏陀滅後、七百年後の人が、仏陀の教えを、受け継いだというのである。

それが、更に飛躍して、日蓮などは、仏の教えが、東より西に帰るだの、道元のように、これこそ、仏陀の教えを継いだものだと、言うのである。

青年の主張である。

仏陀在世当時、様々な、考え方があった。その中で、仏陀は、極端を嫌った。それゆえ、中道という、考え方を勧めた。
勧めたのであり、強制ではない。

多くの偏った見解にある、当時の様である。
快楽主義も、禁欲主義も、苦行主義も、運命論者も、道徳否定者も、不可知論の者も、ありとあらゆる、考え方があった。
その中で、仏陀のオリジナルな、考え方は、中道だった。

苦と楽という、両極端を否定して、中道を得ることを教える。
また、面白いのは、あるとか、ないとかの、両極端を克服するともいうのである。
それを、後の人、仏教という、一つの枠に嵌めた。

さて、この中道という、考え方は、実に難しい。
私が、それを、解釈しても、中道にはならない。何故なら、中道の思想とは、百人百様の思想だからだ。

このように、書けば、仏教家は、もっと、深いものだと、批判するであろうが、書く。
その深いものだと、思い込む様が、実は、迷いなのであるが。

人により、丁度良いという、感覚は、それぞれである。
これが、良いというものは、無い。それは、人によるのである。

ロシアの夫婦は、一週間に、八回セックスして、当たり前である。それを、日本人の夫婦に、当てはめることが、出来るだろうか。
若いうちなら、何とかなるが、年老いてくると、無理であろうし、それほど、セックスをしなくとも、夫婦関係を続けていられる。

中道とは、何かである。

先に、龍樹が、不退転の位を得るためと言ったが、それを、歓喜地という。それは、仏になるための、位の一つであり、菩薩の段階から、言うと、十地の位の、最初であり、全体の修行の段階から、四十一番目であるという。
ちなみに、仏の位は、五十二番目である。
不退転であるから、退かない位ということである。

こういう考え方をするという、龍樹を、真っ当な感覚といえるのか。

仏の位を定めて、仏に至る修行をするという、矛盾である。
それそこ、仏陀の否定したものである。

仏教家は、悟りを、我自身を知るものであるという。
本来の私というものを、悟ることだという。
更に、仏の教えを聞くことは、同時に、自己自身の姿を見つめてゆくことだ、ともいう。

それを、また、我執の自己というものに、気付くという。そして、我執のままに、無所得空の、私が実現するというのである。

それが、深くなると、我執にとらわれている、自己で良かった。煩悩具足の凡夫で良かったということになる。
阿弥陀の御蔭で、ある。

そのまま、問題意識なく、聞いていれば、そんなものかなあと、思えるが、真っ当に、考えれば、あまりに、身勝手な言い分である。

面白いのは、仏陀在世当時は、その弟子たちが、悟りを開いて、多く、阿羅漢になったという。つまり、菩薩の位を得たと言う。
しかし、その、滅後は、そういう阿羅漢の位に到達するのが、困難になったという。
修行が難しいことと、それに耐える能力のある者が、減ってきたのであると。

仏陀在世当時に、悟った、阿羅漢になったと、誰が、知るのだろうか。

阿羅漢という、大乗で言うところの、菩薩になったかどうかは、本人にしか、解らないのである。
そう、本人の自覚である。
つまり、悟りとは、本人の、自己認識である。
更に、つまりは、自己申告なのである。

私も、菩薩であるということになる。
自己申告する。

それにである。
仏陀滅後、修行が難しくなった、それに、耐える能力のある者が、減ってきたというのである。
それでは、仏陀の存在している間のみ、菩薩になることが出来るというのと、同じである。
おかしい。
仏陀は、最後の言葉で、我を頼るな、己自身を頼り、真理の法を抱けというのである。

仏典の矛盾は、多くの人の、考え方により、様々な方法で、書かれたゆえに、支離滅裂になってしまったのである。

阿羅漢とは、直訳すれば、施しを受ける相応しい者、尊敬される者である。聖者四段階の、最高位であるという。
誰が、それを、認定するのだということになるのだが、気付かない。

ここにくると、キリスト教の、聖職者の段階に似てくる。
法王、枢機卿、大司教、司教、司祭、助祭等々である。

龍樹は、単に、頭が回った者であることが、解る。
私には、手の届かないほどの、頭の良さである。しかし、それ以上の何者でもない。
今に至るまで、この龍樹に対する批判が無い。
誰も、龍樹のように、頭が良くないのである。
また、その、ブランド名に、適わないのか。

西暦前後に、大乗を始めた人々は、仏陀が説いた一つの、信心を主にする、悟りの道を、大乗経典を編纂することによって、云々という。
それを、龍樹が、不退転の悟りの位を得ることを、明らかにしたという。

明らかにしたのではなく、創作したのである。

これこそ、龍樹の、顕示欲である。
仏陀の教えを、根こそぎ、奪い、我が物として、アレンジして、道の祖となるべくの、手はずである。

それを、日本仏教は、大乗として、伝える。

ちなみに、仏陀は、もう一つの悟りへの道を、示したといわれる。
それは、理論によって、悟るというものである。
それを、隋法行という。
信心を主にする悟りを、隋信行という。

それらも、後に、付け加えられたものである。

信心というが、西暦前後の人々は、仏陀を慕った心を、信心というのである。
今の信心は、信仰であり、それとは、別物である。
信じるという行為が、同じものだと、思うのは、愚かである。

理論で悟るという人と、信心で悟るという人では、その悟りは、全く違うものになる。
それでも、同じ境地に行くというから、困る。

そうして、今では、他宗教の者とも、同じ境地に行くという人がいる。
そんなことは、一切無い。

同じ境地に行くのなら、宗派の別は無い。
同じ境地ではない、顕示欲が、宗派となる。
見よ、馬鹿馬鹿しい限りの、宗派の争いである。
それを、見るだけで、それらが、嘘だと、解る。

仏陀を見よ。
彼の怒りを、私は受け取らないという。
私が受け取らなければ、その怒りは、彼自身に向くという。
実に、真っ当である。

相手に、説くが、それを受け入れなければ、そのまま、立ち去る。

やや、虚弱体質の仏陀は、無理、無駄を嫌った。
その身を慈しみ、その人生を、味わい尽くす。
生きていること、それが、恵みである。

この世を厭うという感覚は無い。
あの世は、あの世である。
今は、この世にいる。

仏教家の、何人が、あの世を知っているのか。
知るはずが無い。
知れば、僧を辞めている。

僧侶が、あの世で、良い場所に行かないことくらい、その姿を見れば、解るというもの。

どんなに、善行を行うとも、僧侶は、あの世では、幽界止まりである。
それは、読経をするからである。
読経は、言霊が大きく乱れる。

それは、漢語の棒読みからくる。
私は、声明というもの、魔界の音だと、知る者である。

大和言葉から、言えば、濁音が多すぎる。
濁音は、魔界関与の音である。

地獄ではない。
魔界である。

あれは、芸術。そう、芸術である。芸術とは、魔界から、発するもの、多い。
芸術、は、術である。

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2008年08月19日

性について 19

快感と、快楽は、違う。
快感は、他の動物にもあるが、快楽を享受できるのは、人間だけである。

快楽とは、高等な、快適気分である。
快感とは、本能が満たされた時、まっとうされた時に感じる、快、であり、まっとうされない場合は、不快、となる。

快楽は、生理的な快感を超えて、幸福感を伴う。
これは、大脳化ゆえである。
つまり、脳が介入して、精神的快感というものに、変容するからだ。

単純であった、快感情報が、大脳化によって、情緒溢れる、快楽の世界を生み出す。
快楽主義者というものが、いるほどである。
これは、精神性の高さである。

何故、宗教が、快楽を制したか。また、罪意識を、植え付けたか。
個々人の、快楽を許すと、支配するのに、障害が出るからである。
禁欲という、掟によって、思考を停止させる。

信じきると、思考が停止し、兵隊のように、上官の命令だけに、従うようになる。
実に、恐ろしい、洗脳である。

話を続ける。

動物の脳には、神経と神経をつなぐ、シナプスが存在する。
シナプスで、情報を受け渡しするのが、神経ホルモンであり、そのホルモンが、快感を誘うものであれば、その神経を、快感系と、呼ぶ。

その、ホルモン、快感物質が、脳に現れるのは、脊柱動物である人間である。

脳が、感覚し、行動に命令を出す。
そのために、脳内の快感物質の一つに、麻薬物質がある。
これが、人間の最大の特徴であると、私は、思うのである。

自分の脳で、快感物質である、麻薬物質が、作り出されるという、驚きである。

それは、感性によって、なされる。
その、感性の、働きを、感受性という。

忍耐力、創造力を駆使する時に、脳内の麻薬物質が、威力を発揮することが、明らかにされている。

また、脳内麻薬物質と、免疫系との間にも、直接的な関係があり、免疫細胞が、DNAにより、究極的に、副腎皮質刺激ホルモンとか、ベータ・エンドルフィンを、作るということも、照明されている。

快感中枢の発見は、1954年であり、麻薬レセプターが、脳内にあることが発見されたのは、1973年のことである。

この、神経系のシナプスに介在するホルモンが、ドーパミンであることが、発見された。

快感神経には、鞘、がかぶっていない、というものも、特徴の一つ。
鞘、をかぶっていると、漏電する。そして、情報電流が、早く流れ処理が、非常に早くなる。

しかし、鞘を、持たない、快感神経の伝達速度は、毎秒、0,5メートルである。つまり、快感は、ジワーッと、込み上げるのである。
ドーンと、快感がくるのは、オーガズムの時だけである。

だから、セックスが楽しいものになる。
ジワーッとくる、快感を楽しむことが、出来るのは、人間だけである。

一変にくる快感は、交感神経性反応である。
それが、何度も繰り返されれば、命が、いくつあっても、足りない。

ゆっくりと、くる快感は、副交感神経が反応し、それは、ストレスを解消させ、やすらぎ感が、優位になる。
その時に出る、脳波は、アルファ波である。

ゆらぎ、という、大和言葉に、表される、感覚。

その時に、神経伝達をする、ホルモンである、快感物質が、爽快な感覚をもたらす。
中脳に、発した、快感神経は、性欲、食欲中枢のある、視床下部をかすめて、怒り、警戒、探索という、攻撃性と関係が深い、扁桃核と、そして、学習記憶の、海馬に、線維をのばして、上昇する。

この、視床下部、扁桃核、海馬は、古い皮質に属する。
他の動物と、同じである。つまり、大脳辺縁系の本能が満たされるという、素朴な、快感である。

だが、人間は、さらに、新しい皮質系へと、上昇し、精神活動と、関係の深い、大脳新皮質系に、快感情報を、放射状に、広範囲に、広げるのである。

豊かな、セックスは、脳内に、麻薬物質を、作り出すといえる。
その、努力をせずに、薬物の麻薬を、取り込むという、暴挙は、実に、愚かである。

それは、脳内で、作り出すことの出来る、脳内麻薬を、作り出せなくなるということになる。
脳も、適応するものであるから、他から、麻薬物質を、取り込むと、麻薬物質を、作り出すのが、難しくなる。

安易に、薬物による、麻薬物質を、取り込むと、精神が荒廃し、脳内の機能も、混乱し、果ては、機能不全に陥る。
更に、他の脳内の機能が、不全になると、人格まで、破壊することになり、そうなると、廃人同様になる。

薬物麻薬を、用いて、セックスをすると、最初は、絶大な快感を得るが、次第に、量を求めるようになる。慣れるからである。
そして、通常の、人間らしい、セックスでは、満足しなくなり、最も人間の根源的な、快感感覚を、破壊してしまうのである。

自分で、脳内の麻薬物質を作るには、いくら作り出しても、いいのである。
それが、自然な麻薬効果なのである。

よりよい、セックスにより、麻薬物質を出して、有意義なセックス生活を送ること、それが、生きるということでもある。
性欲が、本能ではなくなり、実に、人間性溢れる、存在の確たるものになる。
快楽、それは、人間性の回復となるものである。

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2008年08月20日

性について 20

男の、エクスタシーは、射精である。
そして、それに至る、ペニスの摩擦が、快感である。
実に、簡単なもの。

しかし、マスターベーションにより、射精をいつも、遅らせている、つまり、摩擦の快感を、長い時間に渡り楽しんでいると、セックスでの、摩擦が、物足りなくなり、遅漏、ちろう、という状態になり、または、膣では、射精出来ないになることもある。

射精に至る楽しみ方も、色々あるので、実に個人差が激しい。

それでは、女の方はというと、実に、エクスタシーに達するのは、複雑である。

神経科医の、日向野春総さんという方が、エクスタシーに関する、医学的測定をしたレポートがある。それを、紹介しつつ、女のエクスタシーを見ることになする。

注目すべき、ポイントは、眼球の動きである。
女がピークに達し、脳波に、シータ波が現れると、眼球の動きが、二秒、ないし、三秒止まる。

もし、その瞬間に、女が、目を開けていると、放心して、一点を見つめる表情になる。瞳孔が開くのである。

つまり、これは、何も見ていない。二人の世界に浸りきっているということ。

眼球は、目が覚めている時も、たとえ熟睡している間も、ゆっくりと、時には早く動いている。
レム睡眠という睡眠の状態の時になると、昼間のように、目まぐるしく動く。
しかし、エクスタシーの時は、眠ってもいないのに、その動きが止まる。
興味深いのは、エクスタシーに達していない、興奮期や、単なる演技の場合は、こうした現象は、起こらない。

これは、自律神経系の麻痺、前頭葉の麻痺であろうと、いわれる。
男には、決して、そんなことはない。

二、三秒でも、神経経路がオーバーヒートして、瞬間的に、死人と同じようになっていると、考える。
つまり、快楽の中の小死である。

男の射精時には、そんなことはない。
セックスに没頭していても、意識は、ある。
瞬間の死も無い。
それは、長い間に培われた、男の性、さが、である。
この場合の、性、さがとは、そのように、仕組まれたという、性質のことである。
外敵などを、意識して行うセックスなのである。

男は、射精をしつつ、動くことも出来るのである。

さらに、女は、その間、呼吸も止まる。
死人であるから、当然である。

興奮期から、絶頂へ昇りつめると、つまり、シーター波が現れると、呼吸が止まる。
その時に声を出したのは、一割程度だという。

興奮が高まり、呼吸が大きくなる時に、自然に出る声が、よがり声である。
男は、あえぎ声や、呼吸の乱れに、気を取られて、女が感じていると、思うが、実は、一瞬の静かさに、なった時に、エクスタシーに達しているのである。

大声ばかりを上げる女は、ヒステリー体質であると、思っていい。
または、演技である。

さらに、殊更、声を上げるというのは、他に、欲求不満を抱えているとみてよい。

止まった呼吸が、そのあと反動のように、息を吹き返す。
そして、次第に普通に戻る。
その時、男は、ペニスを抜いてはならない。
男の射精に、余韻は、無いが、女は、その後の、余韻があり、それが、愛情を深くする。

男と、女の、性感の感性については、驚くほど、違いがある。
理解という言葉の意味は、それを、知る、知るように努めることである。
それぞれの、違いを、理解することが、愛情というものである。

女は、体で、愛情を感じるものである。
その一つに、汗がある。
汗は、感じた深さに比例するのである。

実は、この汗は、嘘をつかないのである。
眼球の動き、呼吸の停止は、手馴れた女になると、演技で、出来るが、汗だけは、演技で、出ないのである。

脳波と、発汗作用の、関係は、実験によって、示された。

女に、オナニーをしてもらう。
陰唇が、充血して熱く開き、分泌物も出る。つまり、濡れるのである。
呼吸も、乱れ、心拍数も多少増える。
ここまでは、セックスと同じである。
ところが、オナニーの場合は、発汗が無い。
その時、シーター波は、出ない。シーター波が現れて、エクスタシーを感じて、全身の発汗が、起きるのである。

その、汗は、薄く膜を張ったような、汗である。

発汗作用は、温熱性発汗と、精神性発汗がある。

温熱発汗は、通常の汗である。
精神性発汗は、感動、驚き、恐怖などによる。
それは、全身ではなく、手のひら、足の裏、わきの下など、局部に出るものである。

嘘発見器は、それを、利用したもの。

発汗作用について、大事なことがある。
発汗中枢は、脊髄にあり、上位中枢は、視床下部に位置して、ここで他の自律神経系と、連絡している。

エクスタシーの発汗は、実は、温熱でも、精神性でも無いのである。

エクスタシーによる、発汗は、視床下部にある性中枢と、発汗中枢が、非常に近い位置にあるため、性中枢の興奮が、発汗中枢を刺激するという。
エクスタシーの汗は、脳がかく汗なのである。

つまり、女の性は、脳による。それは、体全体によると、考える。

男の、射精は、どこかの、トレイでも、行えるが、女のエクスタシーは、そういう訳にはいかないのである。

全身に、うっすらと膜を張るように出る汗が、つまり、エクスタシーの汗が続けば、続くほど、シーター波も、ゆったりと安定した、波を見せる。
それは、エクスタシーが、深いということである。

発汗が長く続き、大量の汗をかくほどに、女のエクスタシーが深いのであり、その時、男は、しっかりと、抱きしめることである。
そして、女の体が、ひんやりと感じたならば、最高のセックスをしたということが、言える。

膣からの、液を、愛液というが、それは、膣の汗である。
それにより、感じていると、勘違いする男が多い。

それは、エクスタシーの前段階のものである。

セックスにおける、女は、演技派である。
よがり、のけぞり、わめき、爪を立て、膣を濡らしても、全身に汗をかいていないなら、演技であり、それで、女も、イッたと思うならば、勘違いである。

女も、エクスタシーを知らない者、多々あり。

更に、セックスには、全人格が、投影される。
一人の女を満足させ得ないで、多数と、交わる、俗に言う、千人斬りなどと、豪語する男は、オナニーを女の体で、しているようなものである。

一人の女に、すべての女を観る男こそ、女を愛する男と、言える。

女に飽きるという男は、潜在性、同性愛を持つ。
勿論、本人には、そんな意識は、もうとう無い。
俺は、女好きな男だと、信じている。信じる者は、騙されるのである。
つまり、自分を騙しているのである。

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2008年08月21日

性について 21

もう少し、女のエクスタシーについて、書く。

エクスタシーに達した時の、顔の表情は、左右対称になるというものである。
大脳の目覚めた意識で、作られる表情は、けっして、左右対称には、ならない。

筋肉の自動運動に、移行してゆく、性交中の興奮期以降の段階では、自動運動が強いる、左右対称の筋肉運動に逆らって、口を歪めたり、身をよじるという左右非対称な動作が、出来ないと、多くの実験結果で、解っている。

エクスタシーに入る直前でも、それに近づいている場合は、筋肉が自動に動き出しているゆえに、右側だけ、左側だけが、収縮するということは、無いのである。

だから、女が、体をこわばらせて、口をへの字にしても、左右のどちらかに、傾いていれば、嘘である。
体を突っ張り、爪を立てている場合も、同じである。

ただ、それは、エクスタシーに達する前の、女の表現方法であるといえる。

エクスタシーの最中に、顔を片方にしかめたり、体を捩ったり、アーと、声を上げるのは、偽物である。

矢張り、それは、エクスタシー前の、女の表現であるといえる。

エクスタシー前に、感じて、体を、エビのように、張るなどの反応は、あくまで、その手前の表現であるということ。

日向野春総氏は、性交中の、脳と、体の変化を調べるために、次の四点を、行ったという。

脳波、脈波、発汗作用を調べるGSR、そして、筋電図である。

筋電図を測定することで、興奮期から、絶頂期へと続く、女の体の状態、筋肉の緊張と弛緩の繰り返しが、もたらす、膣の締まり具合や、体の固さ、重さが、どのように変化するのかが、解る。

興奮期に入ると、全身の筋肉が緊張、弛緩を繰り返す。
そして、絶頂期に至る前には、その度合いが強くなり、爪を立てる、足に力が入るという、動きがある。

それで、解ることは、興奮期の中ほど、絶頂期、エクスタシーに近づくと、柔らかかった肌が、固くなる。首筋が、張る。膣が締まる。さらに、正常位でも、体が重く感じられるのである。

興奮期の間、筋電図は、ゆるやかな波を描きつつ、大きくふれている。
ところが、絶頂期、エクスタシーに近づくと、突然、振幅が小さくなる。つまり、筋肉の弛緩である。

この時期になると、膣も緩み、表情も、固くなく、腑抜けたようになる。

要するに、すべての、性的動作が終わるのである。

男も、射精直前なると、筋肉の緊張が解けて、射精後には、完全に脱落する。
これに、同調するように、女の筋肉も、突然弛緩する。
そして、15,6間の、エクスタシーを迎える。

これが、一緒にイクということである。

ところが、ここで、男が射精しない場合は、女の膣が緩くなった、締りが無いということになる。
もう少しのところで、膣の締り具合が、緩くなると、男は、惜しく思う。

実は、女は、エクスタシーに達していると、共に、エクスタシーを感じられる相手であるということが、証明されているのである。
膣の緩みは、男を愛している証拠なのである。

膣も、弛緩するからである。
それは、男の精液を、受け入れるプールが、子宮の入り口が広がって、出来るということである。
女の体は、セックスの後では、妊娠を求めるのである。

これが、自然なのである。

商売で、セックスをする女の体は、いつまでも、緊張しているから、膣も、締まっている。それは、愛情ではなく、商売だからである。

ここで、少し主旨を替えるが、女が男を、受け入れるということについて、言う。

女の体は、男を受け入れるように、出来ていると、思うのは、誤りである。
矢張り、異物を、体に入れるという感覚があるのである。

男が、それを理解するには、アナルに挿入されることで、少しは、理解出来る。
アナルに、挿入される痛みを感じて、また、異物を挿入されるという感覚を、感じて、女のこと、その心理的な気持ちも、理解出来るのである。

女が、股を開くということは、実は、大変な勇気なのである。
相手を本当に、信じる、信頼する、愛情を持つからこそ、股を開けるのである。

現在、当たり前のように、性行為を行う年齢が、低くなっているという。
援助交際などと、マスコミなどで、アホな報道をしているが、要するに、売春であり、成人前の、女は、子供である。

買う大人の、男の精神年齢も、低いが、それを、許す社会も、精神年齢が、低いということである。

特に、幼児、児童買春は、死刑を宣告してもいい、重罪である。

自分の性的満足を得るために、社会の宝、いずれ、子供を生むべき、母親を、壊しているのである。
重罪であろう。

刑が軽すぎる。

高校生程度の、年齢までは、女は、性欲というものを、感じないのが、普通である。
それより、精神的成長を求めるのである。
だから、良い母親になる。

しかし、お金という、化け物によって、それが、揺るがされるという、馬鹿馬鹿しい事態である。

男も、どうしても、相手が欲しいと思うならば、高校生程度までは、同性愛で、やり過ごせばいいのである。
それは、歴史を見れば、歴然として、理解するだろう。

高校生での、性体験者は、九割に達するという。
勿論、それを、悪いとは、言い切れない。個人差があるからである。

だが、重大なことを言う。
女が低年齢で、性に溺れると、そこから、一生抜けられない。
男は、一度沈み込んでも、抜けられるが、女は、抜けられない。
淫乱は、生涯続くのである。

それも、個人的嗜好であれば、いたしかたないが、それを、望まないのに、強制的に、性に溺れる事態を、他によって、引き起こされた場合は、悲劇である。

セックス依存症の、女性の相談も、多く受けたが、最早、相手が、誰であろうと、構わないという程になる。
悲劇である。

数知れない男と関係し、数知れない、堕胎をした女は、手の施しようが無い。

助けを求められたが、あまりに無残であった。

女が、性を誤ると、それが、生涯に渡って続くということである。

自由恋愛という言葉の元に、女も、男と同じように、性の自由を持つのであると、意気を上げていた時期も、あるが、結局、性の処理は、女がするのである。

性差ということを、知らない不幸である。
自由というが、何によって自由なのかを、考えない、アホ、馬鹿である。

貞操観念などは、最早無い時代であるが、無くてもいいが、男がを知る、理解するには、知識と、教養が必要である。

更に、性を、見つめてゆく。

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