2008年08月09日

性について 9

大脳辺縁系は、かつて哺乳類時代は、臭脳と呼ばれていた。
原始感覚の脳であり、女は、ここが、実にしたたかに出来ているという。
それは、命を生むからである。

視覚、聴覚、味覚、触覚の、四感は、視床下部という中継点を通るが、臭覚だけは、別行動をする。
直接、大脳辺縁系の梨状葉に達する。ここは、扁桃核の皮質にあたる。
臭覚情報の最終地点は、前頭葉なのである。
そして、不思議なことに、臭覚は、他の感覚が休んでいても、ずっと活動している。さらに、臭覚記憶は、何年にわたっても、保存される。

ある女性が、相談に来た。
時々、眩暈がして、突然、動けなくなるというのである。
勿論、精神科にも、通っていた。
原因が解らないという。

何か言葉を交わしているうちに、私は、過去の記憶に、何か問題があるのでしょうということを、話した。
複雑な家庭環境である。
彼女は、養子である。

突然ではなく、何かそれには、訳がある。
昔の嫌な思い出を、突然、何かで、思い出すのでしょう。
すると、人に、初めて言いますと、家庭内、性的暴力のことを、話し出した。
聞くことに、耐えられないような、話だった。

養父に犯され、兄に犯され、更に、弟にも、犯されていたという、話である。

高校を卒業して、すぐに、家を出た。

彼女の最初の、相談内容は、彼氏が部屋から出て行くと、不安で堪らなくなるというものだったが、根本に、そのような問題があった。

思春期を、とんでもない環境の中で、過ごしたのである。

そして、最後に、匂いに至った。
思い出の匂いを、嗅ぐと、突然の眩暈がはじまる。
匂いを、思い出すと、という言い方もできる。

女性は、原始感覚が、生まれつき、強靭であるが、別なことで、狂うと、それは、精神的苦痛になるというものである。

臭覚は、性欲の、キーポイントである。
男の場合、前回も書いたが、視覚である。

性的関心を司るのは、前頭葉であると、言える。

コンピューターが登場して、その技術者が、テクノストレスというものに、晒されるようになり、それは、前頭葉のストレスであるが、ここが、ボロボロに疲労することで、とんでもない状態になる。

食欲も、性欲も、狂うのである。
前頭葉が、スピードと、正確さ、そのコントロールに振り回されるのである。

食欲、性欲が、あることは、実にありがたいことなのである。

さて、男である。
視覚により、性的感覚を、呼び覚ます脳の働きとは、何か。

見るという行為は、目である。
目には、網膜がある。
網膜には、光を感じる細胞が、一億以上もあるといわれる。
細胞が処理した情報は、100万個もある、神経節細胞によって、視床下部の中の、外側膝状体を介して、新皮質の視覚領に伝達される。

しかし、そこが、終点ではない。
視覚領からの情報は、性欲中枢のある、大脳辺縁系に送られて、性的情動となり、興奮させ、脳裏に、留め置く。

大脳辺縁系とは、脳の中心にある髄液で満たされた、脳室をとりかこみ、新皮質との境界を形成している、海馬、扁桃体などの組織である。

この、大脳辺縁系は、視覚のみならず、感覚情報を、すべて、処理する中心的機構である。

また、そこは、体と、心のつなぎ目である。

ストレス、マイナスイメージの、情報が、送られると、つなぎ目が、混乱し、ストレス症候群とか、心身症、神経症に陥る。
つまり、性欲も、食欲も、おかしくなる。

さて、男は、見て刺激を受ける。
女は臭覚、男は視覚である。

人間が、他の動物と、違うところは、性欲が、甚だしく拡大し、歪曲してゆくということである。
生まれ、育ち、習慣、教育などにより、性欲の表情が違う。
本能としての、性欲は、同じだが、文化を抜きにして、性欲の表現、行為は、語れないのである。

ヌード写真を見て行うという、実に基本的な、マスターベーションの行為がある。
視覚に訴えて、興奮する。
ところが、それに、飽き足らなくなり、色々と、考案する。
涙ぐましい、マスターベーションの歴史が、一人一人の男にはある。

ところが、ある頃から、マスターベーションを知らないという、世代も出た。

十年程前、私の知り合いが、ある大学の、講師として、講義をしていた頃である。
性についてを、語り始めて、一人の男子学生が、部屋に尋ねて来て言うには、マスターベーションの仕方を教えてくれというものだったと、言う。
彼は、知らなかったのである。
受験、受験に明け暮れて生活しているうちに、自然発露の、性欲を、忘れた。

以前に書いた、性欲嫌悪のことではない。

講師は、丁寧に、マスターベーションの仕方を伝授したという。

男の子の、マスターベーションは、想像力を鍛えるものである。
いかに、楽しむか。楽しめるか。
いずれ、文化的、マスターベーションというものを、見ることにする。
要するに、マスターベーションも、その背景には、文化がある。



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もののあわれ271

日暮れて惟光参れり。「かかるけがらひあり」と宣ひて、参る人々も皆立ちながらまかづれば、人しげからず。召し寄せて、源氏「いかにぞ、今はと見はてつや」と宣ふままに、袖を御顔に押しあてて泣き給ふ。



日が暮れて、惟光が、やって来た。
こういう穢れがあると、仰ったので、参上する人も、皆、退出し、お宅は、閑散としていた。
惟光を、呼びよせて、源氏は、どんな、最後を見定めたのか、と言う。
そのまま、袖にお顔をおしあてて、お泣きになるのである。



惟光も泣く泣く、「今は限りにこそは物し給ふめれ。ながながと籠り侍らむも便なきを、あすなむ日よろしく侍れば、とかくの事、いと尊き老僧のあひ知りて侍るに、言ひ語らひつけ侍りぬる」と聞ゆ。源氏「添ひたりつる女はいかに」と宣へば、惟光「それなむ又え生くまじく侍るめる。右近「われも遅れじ」とまどひ侍りて、けさは谷に落ち入りぬとなむ見給へつる。右近「かのふるさと人に告げやらむ」と申せど、「しばし思ひ静めよ。事のさま思ひめぐらして」となむ、こしらへおき侍りつる。と語り聞ゆるままに、いといみじとおぼして、源氏「我もいとここち悩ましく、いかなるべきにかとなむおぼゆる」と宣ふ。


惟光も、泣く泣く、もう最後で、ございました。
長いこと、籠もりますのも、不都合ゆえに、明日の日が、よろしゅうございますから、それのことを、尊き老僧で、懇意にしている者に、頼んでおります。と、申し上げる。
源氏は、付き添っていた女は、どうした、と尋ねる。
惟光は、あれは、また、生きられそうにも、ございませんようで。
自分も、一緒にと、正体もなく、今朝など、谷に、飛び込みかけました。
あの、五条の家に、知らせようと言いましたが、しばらく気を落ち着けて、事情を十分考えてからと、慰めました。
そう、報告するのを、源氏は、ただ、悲しくて、たまらず、私も、とても、気分が勝れず、どうなることか、という、気がすると、仰る。

こしらへおき
慰める。
心の有様を、こしらへる、のである。



惟光「何かさらに思ほしものせさせ給ふ。さるべきにこそよろづの事侍らめ。人にも漏らさじと思ふ給ふれば、惟光おりたちて、よろづは物し侍り」など申す。源氏「さかし。さ皆思ひなせど、浮かびたる心のすさびに、人をいたになしつるかごとおひぬべきが、いとからきなり。少将の命婦などにも聞かすな。あま君、ましてかやうの事などいさめらるるを、心はづかしくなむおぼゆべき」と、口がため給ふ。惟光「さらぬ法師ばらなどにも、みな、言ひなすさま異に侍り」と聞ゆるにぞ、かかり給へる。



惟光は、何を、今更、ご心配あそばすのですか。因縁によりてのことです。誰にも、知らせないようにと、惟光が、すべていたしました。と、言う。
源氏は、そうか、そう思ってみるが、浮気心の、遊びから、人を死なせてしまった非難は、避けられないのが、実に、たまらない。少将の命婦などにも、知らせるな。尼君なら、いっそうに、喧しい。知られたら、会わす顔もない。と、口止めする。
惟光は、その他の、僧などにも、いずれも、皆、違ったように話しています、と言う。
源氏は、それを聞いて、力強く思う。

命婦とは、惟光の、姉妹のことである。
尼君とは、惟光の、母親のこと。

ましてかやうの事など いさめらるるを
まして、こんなことは、諌められる、喧しく言われる。

源氏は、女が、死んだことを、
いとからきなり、と言う。
からき、とは、堪らない気持ちである。



ほの聞く女房など、「あやしく、何事ならむ。けがらひのよし宣ひて、内にも参り給はず。又かくささめき嘆き給ふ」と、ほのぼのあやしがる。源氏「さらにことなくしなせ」と、そのほどの作法宣へど、惟光「なにか。ことごとしくすべきにも侍らず」とて立つが、いと悲しくおぼさるれば、源氏「便なしと思ふべけれど、いま一たびかのなきがらを見ざらむが、いといぶせかるべきを、馬にて物せむ」と宣ふを、いとたいだいしき事と思へど、惟光「さおぼされむはいかがせむ。はやおはしまして、夜ふけぬさきに帰らせおはしませ」と申せば、このごろの御やつれにまうけ給へる狩りの御さうぞく着かへなどして出で給ふ。



小耳にする、女房などは、変ですね、何事でしょう。穢れに触れたと、おっしゃって、参内もあそばさず、それに、ひそひそ話で、お嘆きになっている、と、不審がる。
源氏は、この上は、手抜かり無く、はからえ、と、葬式のやり方をおっしゃる。
惟光は、仰々しくいたすべきでは、ごささいません。と言い、席を立つのが、とても、悲しく思われる。
源氏は、不都合と、そちは、思うだろが、もう一度、あれの、亡骸を見ないでは、いつまでも、気がかりになるので、馬で行く、と、仰る。
それは、とんでもないと、思うが、惟光は、そう思われるならば、いたしかたありません。早く、お出まして、夜の更けぬうちに、お帰り遊ばしませと、言う。
このほど、作られた、御狩衣に、御召しかえなどなさり、お出かけになるのである。


ことごとしくすべきにも侍らず
身分の高い女ではないから、それほど、仰々しくしなくても、いい。

いといぶせかるべきを
いぶせ、気分が、晴れないのである。

いとたいだいしき事
そんな、ことは、源氏の身分では、してはいけないのである。

さおぼされむは いかがせむ
そのように、思われるならば、しかたがない。

このごろの御やつれにまうけ給へる 狩りの御さうぞく
微行、びこう、である。
人に知られず、行為すること。
そのために、作った、狩衣である。
御さうぞく、は、装束である。

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神仏は妄想である 110

多くの人、親鸞は、法然の念仏信仰を、深めたというが、私は、そうは、思わない。
単に、方法の問題である。

それを、専門的には、行と信だという。
法然は、念仏行を、親鸞は、ただ、信だというのである。
その意味は、法然は、念仏するという行為に、親鸞は、それ以前の心、つまり、歎異抄にある、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、と、言うのである。

文章としては、見事だが、その真実に迫ってみる。
結論から言えば、親鸞は、考えすぎであり、ノイローゼの気質である。更に、法然と、比べて、劣るのは、言わずと知れた、物を書いたということである。
私も、含めて、物を書くということは、妄念であり、妄執であり、妄想である。

物を書かない者、こそ、実に、真っ当である。
その、第一の人は、言わずと知れた、仏陀である。

法然も、自筆の物を、書くことがなかった。
実に、言えば、嘘になることを、知っていた。

親鸞は、文章がお上手であり、歌も詠む。
その、和讃は、有名である。

ここで、少し、親鸞に触れる。

一番最初に、親鸞の、精神不安定を、示す事実は、19歳の時の、夢告である。
度々、聖徳太子が現れる夢をみたという。

当時、聖徳太子は、大乗仏教の日本の開祖のように、考えられていた。
更に、救世観音の化身だとされている。ただし、伝説である。その、伝説が、そのまま、太子信仰に、結びつくほど、愚かであったと、言う。
今は、それ以上、余計なことを書かないでおく。

親鸞は、9歳から、29歳の20年間を、比叡山の堂僧として、修行研鑽していた。
夢は、19と29歳の時が、特徴的だ。

19歳の夢では、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、我が教令を。汝の命根まさに十余歳なるべし。命終わりて速やかに清浄土に入らむ。善信、善信、真の菩薩」である。
上記、読みやすくしてある。

命根とは、命の長さである。
まさに、十余年とは、いかなることか。
後、十年の命ということなのか、今なのか。
ただし、夢である。

当時の、比叡山の様子は、親鸞の晩年の和讃から、見ると、
「この世の本寺・本山のいみじき僧とまをすも法師とまうすもうきことなり」
である。

うきことなり、と言うのである。
うき、とは、憂きである。
親鸞は、彼らの行状を、憂いでいるのである。それほど、酷かったのである。

比叡山は、天台の教えも、理想も無くして、ただ、学閥と政略に、満ちて、世間と、変わりない有様である。
要するに、堕落していたのである。
僧たちの、堕落は、今と同じく、甚だしいものがある。面倒なので、書かない。

さて、夢である。
その中に、聖徳太子が、救世観音として、登場するというもの。
真っ当に、それを、鑑定など出来ない。
後の人は、その夢告を、後生大事に、解釈するが、何のことは無い、ノイローゼである。

真面目な人ほど、そうなる。
まして、人並み以上に性欲に、悩んでいれば、同然のこと。

夢分析なるものを、する必要も無い。
願望の、雑夢である。
何せ、命終わりて清浄土に入らむ。と、言われている。つまり、浄土に往生すると言われるているのである。

善信、善信、真の菩薩。
よいかな、よいかな、真の菩薩である。
自らを、菩薩にしてしまった。
自分が、自分で、自分を菩薩と、言わしめるほど、フラフラ、朧に、迷っていた。
この宗教的な、夢に象徴されるように、宗教とは、迷いなのである。

その、迷いを、超越したものに、転化して、救われたと思い込むモノが、信仰である。

自問自答の、自業自得である。

さて、次の夢は、もっと、悩ましい。
救世観音と、交わるのである。
29歳の、六角堂参籠の時である。

後の、正統伝の作者が、言う。
「行者しふほうにて、たとひ女犯すとも、われ玉女の身となりて、犯せられん。一生のあひだ、よく荘厳して臨終引導して極楽に生ぜしめん」

簡単に言う。
夢で、女と、交わる。朝目覚めると、仏像に、精液がついている。
アア、と、ため息をつくが、後になると、菩薩が、私は女になって、あなたとセックスするというのである。

なんとも、勝手気ままな、解釈である。

勿論、これを、まじまじと、屁理屈を捏ねて、親鸞の信仰の、云々という話になるから、空いた口が、塞がらない。

その、夢を、見た年に、法然に出会い、念仏信仰、一本に、絞るのである。

私の疑問は、念仏に生きていもいいが、何故、農民や、漁民になって、ごくごく自然の普通の生活をして、信仰しなかったのかということである。

ところが、悲壮感たっぶりに、出家道より、在家道を、選び、肉食妻帯であり、我は、罪人なりという、神経である。

そして、教えを、垂れるという、傲慢である。
つまり、結局、仏教という、枠から、離れられなかったということである。
そして、それは、いい。しかし、何故、宗教家として、生きるのか。

そうそうに、足を洗って、在家信者になり、妻を娶り、普通の生活をして、市井の人として、信仰を深めていいのである。
結果は、浄土真宗であるから、がっくり、くる。

勿論、最初は、浄土新宗である。つまり、法然の、浄土宗から、新しく生まれたものという意識である。その後、真宗に、改めた。政治的匂いがする。

文学として、彼が作家であるならば、私は、言うことも無い。
宗教という、迷いを、平然として、掲げたから、批判する。

法然の門に入り、更に、結婚をして、親鸞は、日本仏教に、大きな影響を与えた。今は、僧たち、皆々、結婚をするようになった。
真宗だけではなく、すべての、宗派である。

ここ、ここに至っては、本当は、言葉も出ないことなのだが、私は、書くことにする。

仏陀は、きっぱりと、出家者は、女の膣にペニスを入れるなと、言明している。

これに、誰か、反論は、あるだろうか。

大乗仏教なるもの、誠に、嘘である。
大乗起信論に、大きな舟に衆生を乗せて、彼岸、極楽へと、運ぶ教えと言う。
嘘である。
決して、そんなことは、あり得ない。

自業自得が、宇宙の法則である。

催眠術に似たような、大法螺である。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月10日

性について 10

女は、臭覚、男は、視覚だと、書いた。
それでは、女の臭覚について、もう少しみてみる。

臭覚は、視覚、聴覚、触覚、味覚とは、別に、匂い分子が、鼻の嗅上皮細胞に入ると、電気信号に変化して、臭神経を通り、臭球核という臭覚の、第一次中枢へゆく。
そこから、大脳辺縁系の扁桃核に対する、皮質である、梨状葉という、第二次中枢へゆく。
そして、前頭葉の外側の、後へ行き、そこではじめて匂いを、識別する。

匂い情報は、人間の、最も高度な働きをする、前頭葉に達するのである。
つまり、原始的感覚である匂いと、大脳辺縁系という、最高級の脳の、働きに至るのである。

そして、以前書いたが、性的関心は、前頭葉にあるということも、書いた。

非常に、興味深いところである。

女は、臭覚で、性的興奮を得るということは、原始感覚と、最新の脳の働きによるということである。

ただし、男にも、臭覚はあり、時に、視覚より、甚だしく、性的刺激を受ける場合がある。

極端な例であるが、結婚して、性生活がない男が、いた。
原因は、妻の腋臭であった。
強烈に匂う腋臭が、彼の性欲を、奪った。
結婚する前は、それほどでもないと、思えた腋臭が、強烈なものだと、ベッドで、知ったのだ。

勃起することが、出来なくなった。

その逆も、ある。
強烈な、腋臭で、性的興奮を得る男もいる。
その、好みの、問題は、胎児期から、幼児期にかけて、作られるものである。

つまり、人間の、最も人間といわれる、大脳の前頭葉の基本的神経回路が、出来上がるのは、九歳なのである。
生まれてから、九歳までの、心の風景を、私は、原風景と呼ぶ。
この、原風景が、以後の人生を、すべて、左右するのである。

性欲、性的刺激、性なるものも、すべて、である。

とすると、男、女というもの、その、感覚も、それまでに、出来上がるということである。

つまり、男と、女とは、何かという、問題になる。

子供が大好きだという、男の大人の中には、潜在的、幼児性愛がある。
誤解されないように言う。
子供は、中性である。

およそ、九歳までの、子供は、中性と、認識するべきである。
まだ、男、女の地図が、脳の中で、定まっていないのである。

ジョンズ・ホプキン大学精神ホルモン研究所長、ジョン・マネーという人の、性倒錯に悩む人々の研究成果が、九歳までに、作られた脳の性地図によるものとの、報告がある。

世の中には、様々な性の姿がある。
男と、女だけではない。
男と女しかいないという、認識は、おそらく、能天気なアホであろう。
人間は、そんな単純なものではないことは、脳の働きを、見ても解る。

つまり、100パーセントの、男や、女は、いないのである。

脳だけではない。体も、稀に、性器が男と女という、場合も有る。

百人百様の、性があると、認識することから、性というものの、姿を知るのである。

もう一度、セックスという、語源を尋ねると、ラテン語の、分割された部分という意味から、転じて、分断するという意味の言葉から、生まれた。
性という、言葉の意味である。

それでは、日本の場合は、性という言葉は、男は、ギ、であり、女は、ミ、である。共に、母音が、イである。
イ音は、受け入れるという、音霊の意味がある。
共に、相手を受け入れるという意味である。
そこには、男、女の区別はない。
受け入れる相手がいれば、男でも、女でも、受け入れる。

同性、異性に、関わらず、である。
同性を受け入れるから、同性愛というわけではない。
武士道に見られる、男同士の関係は、精神的同性愛、プラトニックとしての、同性愛という、認識である。
勿論、肉体関係が、伴っても、構わないのである。
それが、重大なことではない。

要するに、相手のために、命を投げ出す覚悟の、問題である。

ここから、同性愛、ホモ、そして、バイセクシャル、更に、ジェンダーというものを、考える。
しかし、ジェンダーという言葉は、日本語にないものであり、まだ、誰も訳語を提唱していない。一応、性差ということになっている、が。

動物の世界では、雄と雌という、セックス、性が、一致している。
ジェンダーが、セックス、性と、分離するのは、脳が発達した、人間のみである。

動物の世界でも、同性愛行為は、あるが、人間の場合とは、意味合いが違う。

ジェンダーとは、男の体でありながら、女として、生きたいという者である。
その逆も、また、同じく。
そして、男の体で、愛する相手が、男であるという、同性愛。その、逆も、あり。

そして、問題は、ジェンダー、ホモセクシャル共に、自分で、選択できるものではないということ。

昔は、倒錯といったが、現代では、通常にあるものと、認識される。
それは、胎児期から、九歳までの、間に作られる性向である。

人間であるが、故に、性という、セックスを、超えた、ジェンダー、及び、ホモセクシュアルがあると、言っても、よい。

そして、それこそ、人間存在の、根源的な、カテゴリーとなるものである。

人間的なもの、それが、ジェンダーであり、ホモセクシュアルである。故に、それを、理解し、包括しなければ、性というものの、姿は、見えないのである。

ちなみに、ジェンダーの語源は、ラテン語の、ゲヌス、フランス語にある、ジャンルに当たる。
一つの、分類された、グループという意味である。
実に、彼らを差別する、何物も無いのである。
彼らも、一つのグループである。

もう一つ、オマケに、フランス語では、男性、中性、女性名詞と、分けている。

ちなみに、もう一つ、オマケに言う。
バイセクシャルである。両刀使いと、言われる。
これも、一つのグループである。
アメリカでは、バイセクシャルを承知で、結婚する、カップルが、実に多い。

日本では、江戸時代まで、結婚と、恋の遊びは、別物だった。
恋は、玄人の遊郭の、遊女と、遊び、結婚は、別である。
そして、更に、男色という関係も、また、結婚とは、別である。

妻がいても、男の相手がいて当たり前である。
井原西鶴、好色一代男に、すべて、描かれている。

火付けで、磔にされた、八百屋のお七の相手も、あれほど、お七が、慕った男には、男色の相手がいたのである。
それが、当然のことだったという、時代もあるのである。

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もののあわれ272

御ここちかきくらし、いみじく堪へがたければ、かくあやしき道に出で立ちても、危かりし物懲りに、「いかにせむ」と、おぼしわづらへど、なほ悲しさのやる方なく、「ただ今のからを見では、またいつの世にかありしかたちをも見む」と、おぼし念じて、例の大夫隋身を具して出で給ふ、みち遠くおぼゆ。



その、お心は、暗く、酷くたまらないもので、更に、このような、如何わしい場所に出掛けることは、危険であり、昨夜のようになるかもと思い、引き返そうかと、思案にくれる。
しかし、悲しみの、晴らしようがなく、女の亡骸を見ないでは、二度と、いつの世に、女の姿を見られようと、我慢して、いつものように、惟光、隋身を連れて、お出かけになる。
道が、遠い気がするのである。


おぼし わづらへど
考える、思案する、煩うのである。

わづらえ おぼし、と、つまり、敬語になるのだ。



十七日の月さし出でて、かはらのほど、御さきの火もほのかなるに、鳥辺野のたかなど見やりたるほどなど、物むつかしきも、何ともおぼえ給はず、かき乱るるここちし給ひて、おはし着きぬ。あたりさへすごきに、板屋のかたはらに堂たてて、行へる尼の住まひ、いとあはれなり。



十七日の月が出て、加茂の河原の辺に、先駆の松明も、微かに、鳥辺野の方を、見ると、気味が悪いのである。
君は、胸が、一杯で、何とも感じなく、やっと、辿り着いた。
そこら辺り一帯の様子は、凄い様である。
板屋根の小屋の傍に、堂を建てて、尼が住んでいる様は、実に、あはれ、である。

この場合の、あはれ、は、物寂しいのであろう。

東山の、麓の、寂しい場所に、出掛ける源氏の、心境である。
普通ならば、夜に、そんな場所に、出向くことなどない。

何故、女が、あっさとり、死んだのかということが、まだ、語られていないのである。
六条御息所の、生霊として、明確に意識されるのは、いつか、である。
源氏は、狐の類と、思っている。



御燈明の影ほのかにすきて見ゆ。その屋には女ひとり泣く声のみして、外のかたに、法師ばら二三人、物語しつつ、わざとの声たてぬ念仏ぞする。寺寺の初夜も皆おこなひはてて、いとしめやかなり。清水のかたぞ、光り多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼ぎみの子なる大徳の、こえ尊くて、経うちよみたるに、涙の残りなくおぼさる。



お燈明の火影がかすかに透いて外から見える。
その家には、女が一人泣く声のみ、聞こえて、法師たちが、二三人、話をしながら、小声の念仏をしている。
寺寺の初夜の、勤行も皆、済んで、ひっそりとしている。
清水の方には、光が多く見える。
大勢いる様子である。
庵主の尼君の子である、お上人が、尊い声で、読経している。
それを聞いて、源氏は、涙を、とめどもなく流される。


涙の残りなくおぼさる
涙を、流すのであるが、残りなく、とは、止め処もなくということ。


当時の様が、目に見えるようである。

初夜とは、午後十時頃。
東山の、寺とは、現在の清水寺である。
十七日は、清水寺の、観音の縁日である。



入り給へれば、火とりそむけて、右近は屏風へだてて臥したり。いかにわびしからむ、と、見給ふ。


お入りになると、燈は、遺体に背けて、右近は、屏風の向こうに、横になっている。
どんなに、たまらないだろうと、御覧になる。

いかにわびしからむ
いかに、わびしい、という気持ちは、現在の心境にすると、やり切れない思いという、ことになるのか。
切ない気持ち。



恐ろしきもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたる所なし。手をとらへて、源氏「我に今ひとたび声をだに聞かせ給へ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに心を尽くしてあはれに思ほえしを、うち捨ててまどはし給ふが、いみじきこと」と、声も惜しまず泣き給ふこと、かぎりなし。大徳たちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひて、みな涙をおとしけり。



恐ろしい気持ちはしない。
実に、可愛らしい姿で、変わったところはない。
手を取り、私に、もう一度、せめて声を聞かせてくれ。どんな前世の縁であったのやら、わずかの間、愛情を注いで、愛しいと思った。
後に、残して、途方に暮れさせるとは、酷い、と、声も惜しまずに、限りなく泣く。
法師たちも、誰とは知らず、何か訳があるのだと、皆、涙を流すのである。



いとらうたげなるさまして
よく出てる表現である。
可愛らしい。愛らしい。

しばしのほどに 心を尽くして あはれに 思ほえしなる 昔の契りにかありけむ
美しい表現である。
昔の縁による、契りを、あはれ、に思う。
この、あはれ、は、愛したことを、言う。
あはれ、という言葉は、前後の表現により、広い意味合いを持つ言葉であることが、物語を、読むことで、解った。

定義できない、あはれ、という言葉である。
私が、ここに書いている、もののあわれについて、は、また、同じく、定義が出来ない。
自由自在に変化する、言葉なのである。
もののあわれ、とは、こういうものですと、書くことが出来ない、広がりを持つ言葉であり、それは、日本の精神、日本人の心の、在り方を察する、手がかりにも、なるのである。

この、あはれ、という言葉を、見つめ続けて、日本の伝統が、成り立つ。
すべての、伝統の文化的行為にあるもの、それが、この、あはれ、という言葉に、集約されるのである。

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神仏は妄想である 111

親鸞の信仰の深さについては、多くの人が、多くのものを、書いている。
現在でも、御用学者や、小説が書けない作家たちが、親鸞様について、書いて、名声を上げ、さらに、本を信徒に買われて、金にもしている。

確かに、物思う人として、見ると、その通り、親鸞は、実に深く物を考えた。

妄想は煩悩に発するにちがいないが、煩悩から離れようとする信仰自体のうちに、実は最も深い妄想がひそんでいるのである。救いについてのそれは自己計量(はからい)である。親鸞はこれと徹底的に戦った人だ。
亀井勝一郎 日本の精神史

私も、そう思う。

そのことがおそらく彼を人々から孤立させた。晩年の彼をはるばる京都までたづねてきてくれた関東の人々に対して、「総じてもて存知せざるなり」と答えたのである。
亀井勝一郎

いづれの行も及びがたき身
地獄は一定すみか

自己の計量したあらゆる救済観念を破壊すること、これが親鸞の戦いである。換言すれば、罪の自覚の深さに応じて、そういう救済観念の空しさを身に沁みて経験してきたということである。
亀井勝一郎

上記、実に理解する。
しかし、それとて、実は、大きな観念の中でのことである。
一番大事な、その観念の枠から、逃れられなかったという。
どんな観念か。
救いとか、罪人という観念である。

この自虐は、どこからのものか。
彼の生まれ育ちにもあろう。
虐待を経験した親は、自分の子供を、虐待する。自分の子供に向かわない場合は、自分に向く。自虐である。

法然は、疑いつつ、念仏すると言う。

崩壊しつくした人間と、弥陀の本願との、どん底における出会いに、信仰の純粋性を見ようとした。
亀井勝一郎

美しい表現であるが、崩壊しつくした人間は、崩壊したのであり、信仰の純粋性を、求められるだろうか。
美辞麗句に、聞こえる。

信仰の純粋性とは、絶対帰依の心であろうか。

多かれ少なかれ、人間は、アホでない限り、人生の一時期に、自分の、どん底を観る時期がある。
親鸞ばかりではない。
ただ、多くの人、語らないだけである。

信仰の純粋性というならば、道元の方が、まともである。
彼も、同じく、文を多く書いたが、親鸞のように、くねくねと、していない。
文においても、一本筋が通っている。

私は、日本の哲学書として、一つを上げれと、言われれば、即座に道元という。
ただし、道元にも、言いたいことは、多くある。後で、それは、書く。

兎に角、阿弥陀の呪術から、阿弥陀というものの、観念から、抜けられず、七転八倒しているのが、親鸞であり、それは、ぐるぐると回る、車に入れられて、同じところを、回っている、ネズミに似ている。

亀井勝一郎も、信仰の最も重要な面は罪の自覚にあることは言うまでもない、という。

ああ、この罪の自覚というものに、振り回されて、今の今までやってきたが、本当だろうか。
当の本人たち、仏教者たちが、本当に罪の自覚を、持ち続けたとは、到底、思われないのである。

仏教者たちであり、仏教家たちではない。
宗教という、団体に、胡坐をかいている僧たちは、話にならない。私の言う、仏教者たちとは、市井に生きる、信仰深い人たちのことである。

罪の自覚に、震え慄いていれば、生活など出来ない。
昔、言われた、不安神経症である。
信仰の深さというもの、精神病理に、どうしても、関わる必要がある。

この話ばかりを、続けていると、嫌な気分になるので、少し、寄り道する。

心が病むということは、どういうことなのであろうか。
大和言葉を、見る。

やむ やアむウ
アウという、母音にゆく。
病むは、止むとも書く。
心の何かが、停止する。思考停止状態でもある。同じ思考を、ぐるぐると、回る。

それでは、日本の伝統は、どうあるのか。
そういう時こそ、自然に向かった。
山川草木に、心を、向けて、樹や、石や、山川海に、カミ呼びをした。
自然を回復し、自然を清め祓い、そして、その自然の前に、祈りを上げた。額ずいたのである。

心、止まる時こそ、自然の恵みを頂いた。
八百万、千代万の神々と、飲み食いし、歌い踊った。

依り代を、作り、つまり、カミの場を作り、ひと時、その場で過ごす。
そして、自己回復を図った。

依り代とは、自分を突き放す場である。樹に、注連縄を張り、樹を依り代として、そこに、我が心を置いた。それを、カミと共に、自然と、共に、共感させた。
真っ当な自己回復である。

人間が生きるのは、自然の中である。
人間が、人間として生きるのは、自然と共にあるときである。
それを、日本は、伝統として、有する。
解りやすく言う。
エコという言葉があり、あたかも、それが正しい行為のように、思っている。また、それを、前提にエコという行為をする。
あれは、自然支配の欧米の傲慢な、考え方であること、明々白日である。

自然は、どんな状態でも、回復する。
台風の大きな被害の後でも、サイクロンから、竜巻の後でも、自然は、自己回復する。その、エネルギーたるや、計り知れないものがある。

その、自然対して、人間がするという、エコロジーという、考えたは、あまりに、浅はかである。
日本の伝統を、もってすれば、まず、自然の清め祓いを成し、自然と、飲み食いすることから、始まる。

対立したものが、自然ではなく、飲み食いする相手が、自然なのである。

木を植え続けた人の話は、感動するが、自然と、飲み食いする人の話には、感動しないという、アホ馬鹿、間抜けの多くなった日本である。

病むことが、回復するのは、自然の中にあってである。

それが、出来ないという人が、便宜上、精神薬を飲むのである。

仏教が、自然と離れた処で、語られ始めて、おかしくなった。
伽藍という、馬鹿馬鹿しい空間である。
それは、寺院という、中にある。

昔、人は、宇宙という、空間にいて、太陽を、主として、カミの懐にあることを、知っていた。


道元は、福井の山に籠もり、ようやく、大地雪満々と、観た。
だから、道元は、健康であった。
なよなよした、文は、見当たらない。

仏教家で、最も自然に対座したのは、田舎に籠もった、道元である。
結果、親鸞も、都に戻り、悩み続けた。
勿論、それも、否定しない。

信徒が、多くなると、その土地を、離れて、出て行く。
語れば語るほど、言いたいことが、遠のくからである。

言いたいことが、遠のく時は、沈黙しているに限る。

言挙げ、しないという、古神道は、それを、知っていた。故に、言葉にしない。沈黙したままである。
人は、言葉という、観念に縛られることを、知っていた。
だから、あーーーー、いーーーー、うーーーー
というように、一音に、思いを託すという、言霊、いや、音霊の所作を、尊んだ。

それは、まさに、自然の様である。
だから、自然と、同化、共生した時、病は、癒える。

自己の罪をかぞえて、救いを計る。人間の妄想にはきりがないのだ。妄想と格闘しつつ、別の妄想にふけるのである。
亀井勝一郎

マスターベーションは、罪であると、教えられてする、マスターベーションは、そうではない場合と、格段の差のある、快感になる。
人の妻と、セックスするなと言われれば、逆に人の妻との、セックスが、通常の何倍にも、快感になる。
技巧を凝らした、セックスをしなくても、罪の意識が、快感を増幅する。

西洋の文学には、そういう話題で、持ちきりである。
それを、深みだとして、日本には無い、精神の云々という、アホの紹介者を、鵜呑みにして、有り難がるという、これまた、アホの皆々である。

日本に、神は、いない、神の不在の文学などという、アホも多かった。
神など、いる訳がないのである。
日本の方が、真っ当であったが、兎に角、白人に弱い。

勿論、白人に弱いのは、日本人だけではない。
中国など、日本に対しては、徹底的に、交戦態度であるが、イギリスに対しては、尻尾を丸める。
白人に弱いのである。
侵略と言うなら、イギリスは、中国の怨敵である。
しかし、白人であるから、頭を上げない。

そうして、アジアの中で、威張り腐っているのである。
日本と中国である。
アホか。
以下省略。
寄り道し過ぎだ。

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2008年08月11日

性について 11

もう少し、脳を見る。

脳下垂体は、頭部の真ん中にある。眼の奥である。
大脳の前面に、付着している、小さなものである。
やや、前頭よりに、下方に垂れている。

前葉、中葉、後葉と、茎がある。

後葉は、神経下垂体ともいい、茎を通って、間脳視床下部に、つながる。
それは、視床下部から、神経を受け取るということ。

後葉には、多くの、無髄神経線維が集まる。
その、神経は、有髄神経と、無髄神経に分けられる。

有髄の方は、髄鞘という物質があり、無髄には、それが無い。

髄鞘は、脂肪質の物質で、保護するためにある。

後葉は、内分泌液を分泌するという説だったが、そうではなく、視床下部の神経細胞が分泌して、それを、神経線維が運んでくるという、しくみが、解った。
神経分泌現象と、呼ばれる。
それは、神経線維と、神経線維の間を、運ばれてくるのである。

さて、前葉は、胎児が発生してくるとき、本来は、口を形成する細胞からくるが、それが、腺となり、後葉、つまり神経からきた部分と一緒に、脳下垂体となったのである。

中葉は、色素の出来かたで、三種の細胞は、分かれる。
後葉を、ニューロ下垂体、前葉は、アデノ下垂体と、呼ぶ。

ニューロ下垂体は、働きとして、いくつかの、ホルモンを分泌して、血液に送り、臓器の働きを、促す。

一つに、抗尿ホルモンADHを出す。これは、腎臓にいって、尿量を調節する。あまり、尿を作らないように、作用する。

もう一つは、ADHが、ワゾレッシン、オキシトチンという、物質を含んでいる。
ワゾフレッシンは、抗尿に、オキシトチンは、乳腺に作用する。

アデノ下垂体は、二つの細胞群を含んでいる。
一つは、クロモフォーデ細胞で、染色性のないもの、もう一つは、クロフィル細胞で、色素に染まる細胞である。

この細胞は、酸性色素エオジンや、酸性フクシンに、よく染まる細胞と、塩基性色素であるヘマトキシリンによく染まる細胞との、二つに分かれる。
この、酸性細胞が、成長ホルモンを出し、泌乳ホルモンと名づけられていた、プロラクチンを、出す。

塩基性色素に染まる、細胞は、向性腺ホルモン、向甲状腺ホルモン、向副腎皮質ホルモンを出す。

アデノ下垂体の働きは、諸ホルモンの働きのことである。

次に、向性腺ホルモンの、ゴナドトローピンという総括名で、二種類あり、一つは、卵細胞刺激ホルモンFSHで、もう一つは、黄体形成ホルモンLHである。

これらは、女性のもつものだが、男性では、FSHとLHをかねた間質細胞刺激ホルモンICSHである。

LHとICSHは、化学的には、同一物質であり、男性も、女性でも、LH、ICSHと、呼ばれる。

これ以上になると、専門的になるので、省略して、次に続ける。

脳下垂体から出る、ゴナドトローピンは、男性では、睾丸の成熟と、その機能や活動を調節している。

卵胞刺激ホルモンである、FSHは、脳下垂体から、直接、精子の生成を促す。
脳下垂体は、また、逆に、睾丸からの、影響を受けている。

前葉ホルモンは、睾丸が外に出るのを、促進する。
睾丸は、最初、卵巣と同じように、腹腔の中にあったものだが、それが下がり、陰嚢の中に入った。これは、自然の発育で、外に出る。

男らしさ、女らしさを作るものは、脳下垂体の、ゴナドトローピンが元だ。
ゴナドトローピンは、男では、睾丸のテストステローンを、女では、卵巣のエストラジオールと、プロジェステローンを分泌させ、それが、全身に回り、男、女らしさを、作る。

ところが、副腎皮質の内分泌により、男らしさ、女らしさに、変化することが、わかった。

副腎皮質とは、左右の腎臓の上についている、小さな臓器である。

腎臓は、尿をつくるが、副腎は、それとは、何の関係もない。

副腎皮質は、二層に分かれ、外側を、副腎皮質、内側を、副腎髄質と名づけている。

この、副腎髄質の出す、内分泌物質は、アドレナリン、ノンアドレナリンである。
性の問題には、関係ない。
性に関係があるのは、副腎皮質である。

副腎皮質の、出すホルモンは、性ホルモンと、よく似ている。
すべて、ステロイドで、八つホルモンがあり、それらを、一括して、コルチコイドと、名づけている。

更に、コルチコイドは、五十種にも、及ぶのであり、その働きは、三種に、分けられる。

オキシコルチコイドといわれ、三大よう素の新陳代謝に関係するホルモンである。
デスオキシルコルチコイドは、体内のミネラルの新陳代謝に関係する。
副腎皮質の性ホルモン。性腺の作用がある物質である。

いかに、複雑な構造で、性が、成り立つかということである。
それは、脳と、密接に関係しているのである。
性が脳であるという、理由を書いている。

そこから、見えるものは、結果的に、人間の性のあり様である。
脳科学、大脳生理学、心理学、文化人類学、哲学、思想、宗教、民俗学等々、様々な分野を見渡して、性というものを、見るという、試みをしているのである。

勿論、私は、素人であるから、気が楽である。
勝手、気ままに、性を探るのである。

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もののあわれ273

右近を、源氏「いざ二条の院へ」と宣へど、右近「年ごろ、をさなく侍りしより、かた時たち離れ奉らず、慣れ聞えつる人に、にはかに別れ奉りて、いづこにか帰り侍らむ。いかになり給ひにきとか、人にも言ひ侍らむ。悲しき事をばさるものにて、人に言ひさわがれ侍らむが、いみじきこと」と言ひて、泣きまどひて、右近「けぶりにたぐひて慕ひ参りなむ」といふ。源氏「ことわりなれど、さなむ世の中はある。別れといふもの悲しからぬはなし。とあるも、かかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひなぐさめて、我を頼め」と宣ひこしらへても、源氏「かくいふ我が身こそは、生きとまるまじきここちすれ」と宣ふも、頼もしげなしや。



右近に向かって、源氏が、さあ、二条の院へ行きましょうと言う。
すると、右近は、長年、小さな時分から、少しも離れることなく、親しくしていましたお方に、急にお別れして、どこに、帰れましょう。どうなったと、皆に申せましょう。悲しいことは、ともかく、皆に、色々と言われることが、辛いです、と言う。
おろおろと泣き、あの方の、煙と一緒に、私も、後を追いたい。
源氏は、誠に、もっともなことだが、世の中は、こうしたもの。
別れが悲しくないということは、ない。
先に死ぬのも、後に残るのも、みな寿命として、決められたこと。
悲しみは、静めて、私に頼りなさいと、言う。
源氏は、そういう自分の方が、生き永らえることが、出来ないという気持ちがすると、仰るのも、頼りないことである。


けぶりにたぐひて慕い参りなむ
煙と、一緒に、私も慕い、参りたい。

かくいふ我が身こそは、生きとまるまじきここちすれ と宣ふも 頼もしげなしや
これは、作者の思いである。

とあるも かかるも
ああなのも、こうなのも
様々な姿である。



惟光、「よは明けがたになり侍りぬらむ。はや帰らせ給ひなむ」と聞ゆれば、かへり見のみせられて、胸もつとふたがりて、出で給ふ。道いと露けきに、いとどしき朝霧に、いづこともなくまどふここちし給ふ。

惟光が、夜は明け方になります。早々に、お帰りあそばしましょうと、言う。
源氏は、後を振り返り、振り返りして、胸いっぱいになり、お立ち出でになる。
君の、お目には、涙の露、そして、道は朝露で濡れ、さらに、朝霧で立ちこめた道である。
いっそう、見えにくく、何処とも知らず、さ迷うような気がするのである。


美しい、情景である。
道いと 露けきに いとどしき朝霧に いづこともなく まどふここちし
道は、朝露に濡れ、更に、朝霧が立ち込めて、何処のなのか解らぬ茫漠とした、風景の中を、惑う心持で、進むのである。

源氏の、心模様を、その風景で、表すのである。
目の前の、風景が、心の姿なのである。
紫の、筆は、いつも、人の心模様と、風景を対にして、描く。
これを、一言で、言うとき、あはれ、という言葉になる。



ありしながらうち臥したりつるさま、うちかはし給へりしが、我が御くれないの御ぞの、着られたりつるなど、いかなりけむ契りにかと、道すがら思さる。


あの夜の、姿のままに横なっていた様。
着せた、自分の紅の、御衣が、そのままかかっていた。
どうした、前世の縁で、このようなことになったのかと、道々、お心に、浮かぶ。


当時の、浄土思想によるもので、前世の因縁と、考える。
これは、その後も、日本人の、基本的感情になった。
何ゆえの、前世の因縁かという、考え方である。
それを、理由として、考える方が、易いのである。


御馬にもはかばかしく乗り給ふまじき御さまなれば、また惟光そひ助けておはしまさするに、堤の程にて御馬よりすべり降りて、いみじく御ここちまどひければ、源氏「かかる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ。さらにえ行き着くまじきここちなむする」と宣ふに、惟光ここちまどひて、「わがはかばかしくは、さ宣ふとも、かかる道にいて出で奉るべきかは」と思ふに、いと心あわただしければ、川の水にて手を洗ひて、清水の観音を念じて奉りても、すべなく思ひまどふ。君もしひて御心をおこして、心のうちに仏を念じ給ひて、又とかく助けられ給ひてなむ、二条の院へ帰り給ひける。



お馬にも、うまく乗れない様子である。
惟光は、助けつつお連れするが、途中、加茂川の堤の辺りで、滑り落ちてしまった。
源氏は、酷く、気分が悪くなり、こんな道端で死んでしまうのか、とても、帰り着けそうにないと、仰る。
惟光は、惑い、そう仰るが、それは、自分が、こんな所に、お連れしたからだと、思い、川水で、手を洗い、清水観音に、祈願する。しかし、途方に暮れる。
惟光の、様子に、君は、力を絞り、気力を出して、心に、仏を念じる。
それゆえか、何とか、二条の院に、辿り着いた。


いみじく 御ここちまどひければ
酷く、気持ちが、動揺するのである。気分が悪くなる。

はふれぬべきにや あらむ
ここで、死んでしまうのか。

いと心あわただしければ
大変、気持ちが、落ち着かない。慌ててしうのである。

互いに、観音や、仏を、念じるという。
人知を超えたところのもの、それは、観音や仏であった。
平安の頃より、そうして、観音信仰、仏信仰に、頼るのである。

日本人の原風景は、万葉であるが、平安期になって、仏の法、ほとけののり、としての、仏教に、大きく影響されている。
当時の、仏教は、天子、貴族の、仏教であり、ハイカラな、ものだった。
信仰という、観念は無い。
拝むべき、もの、という意識である。
人間を超えた存在という、意識である。

庶民には、手の届かない、仏の教えだった。
ただし、平安貴族の、退廃振りは、この仏教の、無常観というものが、大きく影響した。
一種、インドのバラモン、ヒンドゥーに近い感覚である。
すべては、因縁により、起こる。
人間は、それに手出しは出来ないという、諦観である。

その、良し悪しは、別枠の、エッセイ、神仏は妄想である、で、お読み下さい。

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神仏は妄想である 112

親鸞を、貶めるつもりは、毛頭ない。
多くの人、親鸞の思索によって、更に、思索を深めたことであろう。

何度も言うが、私は、人の信仰を否定しない。
極めて個人的な、情緒であるから、それに介入することはない。

私が、書いているのは、批判である。
更に、宗教が無くなる時が、来たことを言うのである。

人間の知性と、感性が、目覚め、知性によって、行為行動する時が来たというのである。

勿論、一人の人が、今までの宗教行為を続けても、何も問題は無い。
極めて個人的なことである。

頭の悪い人のために、再度言う。
私は批判をしている。

そして、この批判も、妄想であると、言われることを、知っている。

一つの例を上げる。
定方晟さんという方が、「憎悪の宗教」という本を書いた。
ユダヤ、キリスト、イスラム教と、聖なる憎悪という、副題がついている。

聖書を徹底批判している。
その内容は、実に、見事なものである。
そして、最終的に、仏教の慈悲の思想による、提言と、最後のページ、あとがきで、こういうのである。

私はユダヤ教、キリスト教、イスラム教を批判したが、本文でも言及した青鬼の役割を演じたつもりでいる。人々から愛されない赤鬼は愛されたくて、友人の青鬼に悪役を演じてもらった。青鬼は巷に出て暴れまわった。赤鬼がそこに現れて、青鬼を追い払った。人々は赤鬼は自分たちの友人だと考えて、かれを愛するようになった。わたしは仏教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒がこぞってわたしの批判を批判し、そのことによってたがいに赤鬼となり人間となって近づきあい、仲良くなることを望んでいるのである。

仏教の慈悲の思想に、精通している方である。
上記の意味は、痛いほど解る。

しかし、私の立場は、違う。
私も、批判するが、彼らが仲良くなることを、望むのではなく、私は、宗教の終焉を言うのである。

先にも、言ったが、それぞれが、それぞれの宗教的行為を行ってもかまわないが、それは、伝統としてあるべきなのである。

更に、その伝統は、強制力の無いものである。
極めて個人的な、行為としての伝統である。

教えを説くということの、誤りをいう者である。

人に自分の信じているモノを、拝めという、傲慢極まりない行為を、断罪するものである。

おおよそ、宗教というものは、上記の通りであろう。
自分の幸せが、何故、人の幸せになるのか。そんなことは、有り得ない。勿論、アホならば、そうであろうが、自分の頭で、考える人、知性ある人、そして、感性を磨く人、知性により、行動する人に、それは、必要ない。

22世紀は、そういう時代である。
時代性と、時代精神に、習うものである。

私の批判は、そこにある。

定方氏は、あくまでも、宗教の保存を願うものであり、更に、仲良くという、全く希望の無い、希望を持って、終わる。

批判に批判して、仲良くなるというのは、仏教家の、陥りやすい、慈悲の思想である。

それならば、ヘロドトスの時代に、そうなっていたはずである。
それから、どれ程の、時を過ごしたか。

神仏という、人間の妄想力が、作り上げたものに、そろそろ、お別れする時が、きたのである。私は、それを、言う。
個が、最大限に、生きられる時、集団は、輝く。

自由と平等と博愛の思想が、それを、成したとは、思えない。それは、宗教から出ているからである。
宗教から出るモノは、魔物である。
御覧の通り。

どれ程多くの、無理、無駄、むら、つまり、無用を成してきたか。
真っ当な、仏陀の生活指導の教えが、根こそぎ、無視されてきた事実を、歴然として、見ているではないか。

幅広い許容範囲の仏陀の、教えも、不可能だったのである。それは、宗教になったからである。

かえりみて、日本の古神道を見れば、良く解る。
教義も、教祖も無く、ただ、先祖が築いてきた、所作を通して、平らけく、平和を望んできたではないか。

ここで言う、古神道は、宗教団体が、勝手に名乗る、古神道ではない。

かんながらのみち
それを、唯神の道と、漢字で書くから、おかしくなった。
神という、文字から、観念を生む。

かんながらのみち、を、現代訳すれば、自然と共感、共生する道ということである。
そして、アフリカから出た、小数の人の集団が、最初に、その自然の大元である、太陽を拝したことから、畏敬の思い溢れて、出来た、情緒が、それ、である。

すべての民族は、太陽を拝していた。
拝すると、漢字で書くから、また、観念になる。

あー
という太陽を、目指して、生きる場所を、求めて歩き、
いー
という、この身が、その中で、自然の中でしか生きられないことを、知る。
うー
という、相手という存在を、受け入れることから、集団の生活を知り。
えー
という、その場にあるものから、生きるとする、肯定的な姿勢を持った。
おー
という、その物事の、人の終わりを受け入れて、生きてきた。

お送りする、の、おー、が、死ぬことであった。

それで、すべてが、済んだ。
それを、古神道という。
いや、別に、古神道と、呼ばずともよい。
言葉に騙され続けてきた、人間の歴史である。

書けば嘘になると、知りつつ、書き付けてきた。
何ゆえに。
子供たちのために。
次に続く者、幸あれと、願いつつ。

私は、民族の伝統の中に、もし、救いというものがあるならば、それを、観る。

ただし、私見である。
人間に救いなどというものは、無い。全く無い。
救われるというならば、生まれる必要は無い。
救われないから、生まれるのである。
というより、救いという観念を、持つ方が、どうかしている。

そして、妄想の救いというものに、酩酊してきたのが、人間の歴史である。

神仏は、疲れた人の、蜃気楼である。
蜃気楼は、無い。幻覚である。
ただし、幻覚が、必要だというなら、それを、否定しない。

一つだけ、私にも、妄想がある。
次元の違いというものである。
それを、霊界と名づけて語る。しかし、それも、妄想である。
だが、便宜上使用している。

私が、この世に生まれる確率は、無に等しい。
それなのに、生まれて生きている。
これを、何かに感謝する以外にないのである。
誰に。
太陽である。

太陽が死滅すれば、すべてが、死滅する。

真実とか、真理というもの、実に単純明快なものである。

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2008年08月12日

性について 12

性と脳のことに関しては、また、追々と書くことにする。

その前に、一つ、私は、提案する。
性というものは、本能かということである。
性欲というものは、本能であるかというのは、今は、誰も疑わないようである。それは、性欲本能説である。

自然に、持って生まれたもので、それにより、子孫を作り、それは、自己保存の本能とも、言われる。
性欲に、関わるすべてのことは、本能である。
これは、一つの観念であるという、提案である。

私は、性欲即本能とは、考えられなくなっていると、思っている。
それは、人間の進化である。

後々で、また脳について書く時に、それを、説明するが、単なる本能であると、考えている人は、大きな間違いを起こしている。
子孫を作るから、自己保存だというが、子孫を生めない人もいる。
どうしても、子孫を作らなければならないとしたなら、一夫多妻でなけばならない。
一夫一婦制で、子孫が出来ない人もいるからだ。

本能とは、何か。
生まれつき自然に体に備わった、生理的反応のことである。
意思に反して、起こるものである。
それでは、男が性的に興奮して、勃起するのは、本能であると言える。
だが、それで、性交を求めるとは、ならない。
マスターベーションという、最高の方法がある。

もし、性欲が本能だとすれば、それを、罪と考えた、宗教の多くは、実に誤りである。
完全に、誤っている。
本能ではなく、人間の何かによって、なるものだという、考え方があって、性欲抑制を、心の修行のように、考えたのである。

実に、狭い考え方を持って、性欲を本能だと、観念してきた、長い年月がある。

自然科学、文化人類学の検討が、実に必要になってきた。
性欲とは、本能であるが、人間の性行動は、本能ではないと、いえるのである。

人間の性行動は、作られてゆくものである。
それが、脳の発達によるものであるということ。

私は、バーチャルセックスという言葉が出来た時に、いよいよ、人間の性が、変容すると、思った。

例えば、インターネットの画面を見て、その接続に、本物そっくりの、女性器を取り付けて、バーチャルセックスが可能になる。
あるいは、セックスロボットが、現れて、セックスの相手をしてくれる。
時代は、そのように、向かっている。
それは、また、人間だけが、出来ることである。

子孫を作るための、性から解放される時代が、来たのである。
更に、子孫は、別に、セックスが、無くても、作られる技術は、十分に発達した。
試験管ベービーなどは、当然になってゆく。
甚だしいものは、男同士、女同士でも、子供が、作られる時代になる。

生物学的のみに、進化しているのではない。
人間は、その脳と、精神も、進化しているのである。

再度言えば、性欲は、最早、本能ではなく、文化と進歩と共に、新しく拓かれるものなのである。

性教育の、あり方も変わってくる。といいうより、今まで、正しい性教育が、為されていたかという、問題もある。

今までの、性教育は、生理学的、機能的、性の教育であり、人間の総合性としての、性教育が為されていないのである。

つまり、教える者たちが、性というものの、本来の姿を知らないのである。
すべては、古い観念により、それを、信じたものである。
何ら、創意工夫がなく、また、人間性の、性ということも知らないのである。

食の栄養については、溢れる程の情報がありながら、性の情報は、実に、少ない。
極端に、医学的、極端に、エログロ的、極端に、宗教、道徳的。更に、極端に、差別的なのである。

四十代の男が、若い女と、付き合い、妊娠すると、子供はいらない、堕胎せよと言う。そして、結婚はしない。女は、泣く泣く子供を堕ろし、男との、別れを決意する。しかし、男は、少し熱が冷めると、また、女に、二人で楽しもうと、誘う。

これは、実際に、私が相談を受けたものである。
その、男の親も、男と、同じ考えであるというから、驚いた。
私は、激怒したが、道徳的な人なら、皆、激怒するであろう。

何故、激怒するのか。
女を道具、セックスの道具のように、扱うからである。
更に、無意味な堕胎を促す、という無謀である。

しかし、このような、男が、非常に多くなっている、現実がある。
果たして、既成の観念で、何か、導くことが、出来るのか。

もう一つ言う。
結婚する相手はいる。しかし、別にセックスだけの関係の女が、妊娠し、生むといわれたと、悩んだ男がいる。
友人には、一ダース程、女に、堕胎させた男もいる。一人位ならば、堕胎させても、というのである。

上記、道徳なるもの、何の影響も、いや、道徳などは、何もないのである。

果たして、このような、時代性に、今までの性の観念で、考えていいのだろうか。

そして、更に、ジェンダーの問題から、ゲイ、レズビアンの問題から、性に関しては、今までにない問題が、持ち上がっている。

一夫一婦制の、結婚制度に関しても、更に、検証しなければならない。

結論的に言うと、人間は、性欲大脳化が、完全に出来上がっている。
生物学的に言えば、性行動は、本能ではなく、実に、人間の文化的行動であるといえるのである。

人間の性のあり様は、文化というものを、抜きにして語れないのである。
それでは、文化とは、何かといえば、伝統、文明、その他諸々の、要因によってなるものの、総称である。

性は、文化なのである。

ちなみに、性活動は、成人した、男女であれば、例え、去勢されたにしろ、障害があるにしろ、性活動は、行われるのである。

実は、一夫一婦制というのも、性の大脳化によるものなのである。

ますます、性というものの、世界が、広がってくるのである。

posted by 天山 at 00:00| 性について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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