2008年07月31日

もののあわれ262

老人「南無当来導師」とぞ、をがむなる。君「かれ聞き給へ。この世とのみは思はざりけり」と、あはれがり給ひて、


うばそくが 行ふ道を しるべにて 来む世も深き 契りたがふな

長生殿の古きためしはゆゆしくて、羽をかはさむとは引き変へて、弥勒の世をかね給ふ。行く先の御頼め、いとこちたし。


さきの世の 契り知らるる 身のうさに 行く末かねて 頼みがたさよ

かようのすぢなども、さるは心もとなかめり。

いさよう月に、ゆくりなくあくがれむ事を、女は思ひやすらひ、とかく宣ふほどに、俄に雲隠れて明け行く空、いとをかし。はしたなき程にならぬさきにと、例の急ぎ出で給ひて、かろらかにうち乗せ給へれば、右近ぞ乗りぬる。


南無当来の、導師と拝むのである。
君は、あれを聞いて、あの老人も、この世だけとは、思っていないのだと、哀れをかける。


うばそく、僧侶の、修行を道案内として、来世も、二人の堅い約束を、破らないように

と、長生殿の故事は、死んで別れるという、不吉ゆえ、比翼の約束とは、違い、弥勒菩薩の出現の、来世を、契るのである。
将来の、約束とは、実に、大袈裟であるが。


前世での、約束も、知らない私の不運さゆえに、未来まで、頼むわけには、参らぬようです

このような、返歌の歌も、実は、心細く思うのである。

たゆたう月とともに、行くへも、知れず、出て行こうと、女の決心は、つかず、あれこれと、説得するうちに、月は、雲に隠れて、明け行く空は、美しい。
見苦しくならふようにと、例のように、急いで、お出になり、女を、軽々と抱き寄せて、車に乗せると、右近が、同乗した。

ゆくりなくあくがれむ事を
ゆくりなく、とは、何気なく、目の前に見える風景である。
あくがれむ事を
行動しようとする、思い。
何となく、行動する思いは、あるのだが、今ひとつ、決心が、つきかねるのである。

実は、人生とは、このようなものであるとも、言える。
何となく、そちらに、曳かれて、着いて行くのである。

私は、この、夕顔の巻に、ゆくりなくの、人の人生を、感じるものである。
ゆくりなくが、如くに、人生というものが、あるのかもしれない。
その、時代に、翻弄されて、ゆくりなく、生きるのである。

それは、誰の意思だろうか。
前世の宿縁という、仏教の思想は、実に、それに、マッチしたのである。
解らないことは、前世の宿縁なのであるという、一見、無責任に、思える、ものの考え方に、もののあわれ、というものの、心象風景も、広がるのである。
というより、解らないことを、解らないものだと、容認するのである。



そのわたり近きなにがしの院におはしまし着て、預かり召し出づるほど、荒れたる門のしのぶ草、茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く露けきに、すだれをさへ上げ給へれば、御袖もいたく濡れにけり。


その近所の、某の院に、到着されて、留守居役をお呼び出しになる間、手入れもしていない、門を見上げると、忍ぶ草が、茂って、えもいわれぬ、木の下の闇である。
霧も深く、露じみている。
御簾を上げていたので、気付くと、袖まで、濡れていた。


君「まだ、かやうなる事を慣らはざりつるを、心づくしなる事にもありけるかな。


いにしへも かくやは人の まどひけむ わがまだ知らぬ しののめの道

慣らひ給へりや」と宣ふ。女、恥ぢらひて


山のはの 心も知らで 行く月は うはの空にて 影や絶えなむ


心細く」とて、物おそろしう、すごげに思ひたれば、「かのさしつどひたる住まひの心慣らひならむ」と、をかしくおぼす。


君は、まだこんな事は、知らなかった。気のもめる話だと言う。

昔の人も、こんな風に、うろうろしたのか。私は、経験したことのない、明け方の道だ。

ご存知かと、仰る。女は恥ずかしがって、

山の端の、心も知らず渡り行く月は、大空の途中で、消えてしまうのでございます。
それは、私のこと。

心細く思いますと、言う。
怖そうに、気味悪く思っているのだ。あの、家に慣れてのことだろうと、おかしく、思う。

あの家に、慣れるというのは、現在の慣れるではなく、逆に、慣れないと、考える。
多くの訳は、慣れたとするが、慣れないがために、そのように、気味悪く思うのだと、言う。それを、源氏が、おかしく思う。

あのさしつどいたる住まひの心慣らひならむ と をかしくおぼす
あの、さしつどいたる、家に、住み、心慣れたゆえに、と、おかしく思うのである。
さしつどいたる
これを、訳すことが出来ない。
圧縮したような、家という意味であるが。難しい。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 101

実はいつの時代だとて、末世でない時代はない。どの時代にいようが、まさにその時代が末法の世であり、極悪の世である。如何なる時世に住むとしても、これい以上の劣悪な時世があろうはずはない。この意識なくして宗教は成り立たぬ。
柳宗悦

最もなことである。
この世は、地獄である。
しかし、この意識なくして、宗教は、成り立たぬというのは、認識不足である。
宗教があっても、なくても、この世の姿に変わりない。逆に、宗教によって、益々、この世は、劣悪になっているのである。

さて、仏教徒が言う、末法とは、何か。
それは、中国と、日本仏教のみが、言うことであろう。
何故なら、末法思想は、中国から起こったからである。

中国の、仏教家、慧思、えし、によって、成ったものである。
西暦、500年代の人だ。

その思想は、仏陀の死後、500年間は、仏説が正統に実践される、正法の時代。
以後の、千年間は、仏果と、仏証を体得する者は皆無となるが、教えと、行法だけは、存続する時代。像法の時代という。
仏果とは、修行を積んで得られる成仏のことである。

そして、次の時代が、末法である。
つまり、仏陀の死後、千五百年後から、末法の時代となるというものである。

しかし、その根拠は、無い。全く、思いつきとしか、言いようが無い説である。

それを、日本の仏教家たち、すべてが、無反省に、取り入れた。

末法とは、仏法の滅ぶ時である。
その、滅びる時に、仏法としての、新仏教が、起こるのだが、まともな神経なら、滅びる時代の、仏教が、何故、起こるのかと、疑問に思う。
しかし、彼らは、平然として、末法思想を、掲げているのである。

これも、一人相撲であると、言っておく。

ちなみに、親鸞の和讃にも、歌われる。

釈迦の教法ましませど
修すべき有情の無きゆえに
悟り得るもの末法に
一人もあらじと説き給う

と、法然が説いたと、歌う。

だから、他力信仰なのであるという、言い分になるが、いい気なものである。

法然は、我が事を言う。
我はこれ烏帽子もきざる男なり、十悪の法然房、愚痴の法然房が、念仏して往生せんといふなり。

ただし源空ごときの玩愚のたぐひは、更にその器にあらざる故に、悟り難く惑い易し。

これが、親鸞になると、益々、切迫して、
誠に知んね。悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまず、恥ずべし、痛むべしかな。

書き写すのが、ほとほと、嫌に成る程の、言葉である。

自分を、愚鈍だの、愚痴だの、しまいに、十悪の者だのと、何を、酔っているのだろうか。

いや、彼らに言わせれば、衆生は、凡夫は、酔狂の如し、という。空海の言葉である。
凡夫の心は、物狂い、酒に酔いて、善悪につけて、想い定めたる事なし、となる。

自虐も、ここまでに至れば、立派な、ご病気である。

あの、最澄まで
是において愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、低下の最澄
であるから、やりきれない。

偉い人は、謙虚になるというが、これは、謙虚ではなく、鼻持ちなら無い、顕示欲である。

こちらが、具合が悪くなる。いや、胸糞が、悪くなる。

いずれにせよ、自作自演の、下手な芝居を、見ているような、気がする。

それを、更に、人に説くという。
この、自虐を、人に説いて、人々を、抑鬱に追い込むのである。
そして、最後の手は、念仏により、救われると言うのである。

これを、迷いと、言う。

救いようのない者、救われざる者、アホ、馬鹿、間抜けを、だからこそ、救う弥陀の本願である、念仏。

ここまで、追い込んで、強迫し、更に、強迫観念を、植え付けて、念仏させる。
この、強迫を、今も、持ち付ける念仏宗である。

更に、言わせてもらえば、死後も、その強迫観念を、持ち続けて、念仏を称えて、さ迷う霊、霊、霊である。

成仏も、往生も出来ずにいる面々である。

何故なら、成仏も、往生も、単なる観念であるからだ。

霊は、成仏も、往生もしない。
次元移動をするだけである。
その、次元移動を、妨げるものは、仏教の、胸糞悪い、観念である。

ただし、否定はしない。
時代性と、時代精神というものがあるからだ。
その時代であるから、善しとする。
しかし、現代では、最早、単なる、繰言である。

だから、私は、文学として、尊重する。

世阿弥の、花伝書を、文学として、貴んでも、拝むことしない。
世阿弥を、超越した者として置かない。
それと、同じである。
もし、誰かが、世阿弥を、神として、宗教を建てたら、アホと思うであろう。

ところが、念仏は、ついに、宗教となっているという、仰天である。

信仰とは、極めて個人的情緒であるから、個人的な、営みの中で、一人で、成しているうちは、いいが、それを、他人に説くということになると、それは、甚だ迷惑であり、小さな親切は、大きなお世話になる。

この、罪意識というもの、宗教の、定番である。

キリスト教も、最初は、罪意識を、強烈に植え付けることから、はじまる。
罪人だから、救ってもらわなければ、ならない。
そのための、主イエスの十字架である。

この、罪悪感というもの、何ゆえのものか。
それは、人間を支配するのに、手っ取り早いのである。
自らを、責めさせ、その、責めが大きければ、大きいほど、我の意識を、厭い、何かの手に委ねようとする。
特に、愚かな者は、そうである。

そして、嵌る。
嵌ると、支配者の思う壺である。
すると、如何様にも、騙せる。
とこが、悪いことに、騙すという意識が無い宗教家がいる。
法然である。

本当に、信じてしまったのである。

この、信仰を、蒙昧という。
つまり、さ迷うことから、解放された途端に、更に、大きく、迷いの道に、入り込んだのである。

頭脳明晰も、こうなると、手がつけられない。

浄土門の道においてはただに自分が悪いということだけではなく、自分こそ悪しき者、自分独りが悪しき者だと分かりきることである。だから全く出離の縁がないと言い切るより他に言いようがない。ここまで達してのみ、またここに徹する時のみ、始めて罪の意識となるのである。
柳宗悦

上記、マジである。

このように、書く、書ける、ということが、最早、私にすれば、嘘である。

こんなことを、書ききれないのである。

鬱病患者が、自分独りが、悪いと、考えて、自滅を願うのである。
兎に角、自分が悪いと責める。責めて、責めて、責めまくる。
大鬱という、病である。

すべての、宗教に言えるのである、この罪悪感という、歪な感情。
それを、指導者は、セッセと、信者に植え付ける。

さらに、悪いことに、一番、弱い部分を、狙う、
欲望である。
誰もが持つ、健全な、欲望を、罪として、認識するという、呆れた行状である。

それは、親鸞を、見れば、良く解る。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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