2008年07月30日

神仏は妄想である 100

称名は無観でありたい。無観たるべきなのである。有観ならば、まだ至純な称名とはいえぬ。称名にはどこまでも純他力の声質がなければならぬ。称名とはわれを棄て去って、仏に一切をまかせきることである。それが南無阿弥陀仏の一声である。
柳宗悦

念仏の至境を尽くしたとして、一遍上人の和歌を載せる。

主なき 弥陀の御名にぞ 生まれける となへすてたる 跡の一声
あるじなき みだのみなにぞ うまれける となへすてたる あとのいっせい

我を無くして、称える念仏には、主は無い。
称え捨てたるとは、我を捨てた、跡の南無阿弥陀仏なのである。
要するに、すべてが、念仏になるという心境である。

我を捨てるという、心境を、理想とした、時代である。

確かに、我を失う程、のめり込む念仏はあるだろうが、我を捨てるというのは、詭弁である。

捨てるのではなく、失うのである。
それを、我を捨てたと、思い込む、病である。

一つに、仏典を、歴史書と同じように、認識した、過ち。
事実ではない、創作の物語を、事実と、信じて、阿弥陀仏というものの、世界である、極楽があると、信じた過ち。
我を捨てるという心境を、失うと、認識しなかった、過ちである。

事実ではないが、真実であるとは、詭弁である。
確かに、そのような、真実観というものが、あってもいいが、この場合は、信じさせるための、根拠としているのである。
衆生を、貶めるものである。

我という、意識、我執とも、言うが、それを、捨てるというが、我を、捨てて、果たして、何事かの、行動が、取れるだろうか。
我を、捨てるとは、精神病である。
まして、阿弥陀仏に、すべてを任せきってしまうという、心境は、如何にしても、責任能力の無い、病にあると、いえる。

ただ、私が、理解するに、茶の湯の手前をしている時に、手前に没頭する故に、手前をしている、自分というものの、意識が、無くなる、失う場合がある。
忘我の感なのであるのか。

それでは、鮨職人が、無意識のうちに、握りを作る時、我というものを、忘れているのであろうか。
客と、歓談しつつ、手は、自然に握りを作るという、行為にある、時、我というものを、捨ているのであろうか。

それらは、皆、勘というものである。
これは、甚だしい力と、書く。

人間の、素晴らしい能力として、あるものである。

そのような、状態を、我を忘れると、表現するのならば、理解する。

しかし、念仏を称えるという行為に、我を捨て切るという、境地は、それとも、違うのであろう。
つまり、一種の悟りの境地を言うのである。

念仏を称え続けることは、自力である。
だが、絶対他力でなくなては、ならない。

ここで、空しい、他力、自力の、議論というものがあるが、実に、机上の空論となる。

だから、称えさせていただく。
そして、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を称えるなどという、へんてこりんな、心境になる。

人間は、瞬間的に、我を忘れたように、思える時が、あるといえる。しかし、我を忘れることは、出来ない。
我を失うことは、できる。

更に、ある病理に、拍車をかけるのである。

・ ・・それ故には、選ばれざる者、許されざる者、天才ならざる者、弱き者、愚かなる者等々、無数の大衆があろう。これらの者たちは、ほとんど宿命として聖道の門をくぐることができぬ。だが仏の慈悲はこの悲嘆をそのままに放置するであろうか。これに答えて建てられたのが浄土の法門である。それ故この教門は須らく易行の道でなければならぬ。そうして他力の教えでなければならぬ。
柳宗悦

聖道の門とは、自力の法門である。

次第に、病が深くなる。

選ばれざる者とか、小さく哀れな者とか、脆さ、弱さ、愚かさ、そして、罪に泣く者というのである。
更に、救われる値打ちの無い者とくる。
むき出しの貧しさ、全く無力な、自分というものを、意識する者。


自我を立てぬのが称名である。そのことは何を意味するのか。衆生を済度しようとする慈悲そのものに、凡てを働いて貰うことである。その慈悲を素直にそのまま受け取ることである。称名はここで自力の行ではなく、全く他力の行だと分かる。称えるというより称えさせて貰うのであって、どこまでも受身である。ここで受身とは小さな自己が捨てられたことを意味する。そのことはまた残りなく他力が働いていることを意味する。
柳宗悦

この方の、南無阿弥陀仏という、書は、この繰り返しである。

自分が悩んでいることに、人を引き込もうとする、念仏行者であることに、気付いていない。

我の中で、勝手に、七転八倒している様を、持って、他力というのである。

江戸時代の儒学者の中には、それを見て、彼らは、無きものに、屁理屈をつけて、人を騙すと、見抜いた者もいる。

阿弥陀も、観音も、何もかも、仏教のモノ、存在しないものであると、喝破した。

我が念仏の力で往生が出来ると思うのは間違いである。往生は念仏自らに備わったおのれなりの功徳なのである。


このように、考えることを、迷いと認識しない、病である。

良く解釈すれば、思索を深めていると、いえる。
しかし、それは、策士策におぼれるが、如きものであり、思索に溺れるのである。つまり、それは、迷いである。

念仏自らに備わった、おのれなりの、功徳なのである。
おおよそ、法然から親鸞、一遍までに至る、道である。

この上に、罪悪感という、観念が積み重なり、浄土門は、益々と、病深く、迷いの境地に達するのである。

一人相撲で、七転八倒している様、実に、哀れである。

妄想の、阿弥陀仏、ミーアミダーバという、観念である。
極楽を拓いた仏であるという、観念。
勿論、浄土という、ものも無い。
人の頭で、捏ね繰り回し、作られた観念である。

柳氏も、明確に、大乗経典は、創作であると、いう。
事実ではないが、それは、歴史の真実、人間の真実の姿であるという。

ここには、毛ほどの、説得力も無い。

架空のお話であり、議論のための、議論であり、言葉遊びの何物でもない。

私は、ただ、当時のものとして、それを、否定しない。
その世界しか、知らないのである。
それ以上を、求めることは、酷である。

知らないものは、無いものである。



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神仏は妄想である 150

生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらいにて、すでにさきあり、のちあり。
道元


生と死を分けて考えてはいけない。その事実を事実として徹底的に受け入れてしまえ、と道元は繰り返し言います。それは何故か。人間は生きている状態から、死んでいくという別の状態へ移っていくのだと考えるから誤りが生ずる。これは、いつも道元が好んで用いる考え方です。
栗田勇

春は春であって、春以外のものは何もない。秋は秋というもので、これが移っていく、つまり時間的な経過によって変化するということはない。春は春のうちに春以上のものがある。つまり空がある。花が咲き、鳥が歌うという現象の奥に、目に見えないある宇宙、絶対的な実相がある。
栗田勇

空という、実相というものがあるということを、言うのであろう。
それは、理解する。

その、空という、実相が、目の前の花になり、鳥が歌うということである。
それも、理解する。


それでは、もののあわれについてで、紹介した、古今集の仮名序を、再度見る。

和歌、やまとうたは、人の心を種として、万、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地、あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士、もののふの心をもなぐさむるは、歌なり。

とうであろか、私は、こちらの、心象風景を取るものである。

空とか、実相などという言葉はない。
この世の生きるものに、限りない慈愛の風景を抱くのである。
歌の道。
日本の歌道は、すでに、それらの、理屈を、超えていたのである。


そこで生は、「ひとときのくらい」だと言う。くらいというのは現象、位相のこと。ひとときというのは、しばらくの間という意味ではなく、全体、まるまるさそれで全部の時、つまり永遠のいまの意。生は生というものでまとまった様相であり、永遠の変わらぬ姿である。
だから、生きているということは、死と比べて生きているということではない。生きているということの中には、絶対的な今しかない。あるいは生以上のものしかない。空しかない。
栗田勇


歌道では、空などとは、言わない。
今、目の前にあるものを、慈しみ、歌い上げる。
それだけで、いい。
この世の、すべてを、受容する。

あえて、そのものを、超えたところの、空とか、実相などは、必要ないのである。

更に、言えば、絶対的な今、生以上のものしかないと、いうが、人は、確実に死ぬのである。

容赦なく、死ぬ。
必ず、死ぬ。
生が、今しかないというのと、同じく、死も又、今しかないという、その、死を、人は、確実に迎える。

理屈を言うのではない。
だから、それが、何だって言うのだということになる。
つまり、それは、迷いなのである。

生きとし、生ける、いづれか歌をよまざりけり、という方が、やさしいのである。
優しいのである。

人命とは、呼吸の間である、などと、アホにことに、感心しているより、歌の一つでも、詠むことである、と、私は言う。

吸う息、吐く息の間に、命というものがあるなどという、浅はかな、言葉の世界に酔っているうちは、悟りなど、開ける訳が無い。

明日とか、やがてそのうちということはない。今日の今、せっかくの今この今を、仏道に、つまり真理の道に身を投げ入れて、いつのときがあるだろうか。この覚悟が生死を超えます。
栗田勇

栗田氏は、道元を、理解しやすいように、紹介する。
私は、栗田氏の、文章に対して、敬意を表する。

さて、真理の道に、身を投げ入れてというが、人には真理というものが、人の数だけあるということを、知らないらしい。
仏道を、真理とは、笑わせる。

たかが、仏の道である。
たった、一つの道である。
それ以外に、真理というものが無いというならば、それは、浅はか、愚かというものである。

道元が、芸術家であれば、許せる。

松尾芭蕉は、今日の発句は、今日の辞世という心持で、俳句を、詠む。
それならば、おおいに、納得する。

歌は、すべて、挽歌である。
皆々、歌詠みは、その心持で、歌を詠む。
そこに、この人の世の、儚いという、明確な、意識がある。
儚いとは、はかないのであり、あはれ、なのである。

必ず朽ちる肉体を、持つ人間の、そのままの、姿をこそ、見つめ続ける行為こそ、真っ当な、生きる道であろう。
この世は、無常でよし。
儚くて、よし。
あはれ、で、よし。
生死に、七転八倒するも、よし。

息切れれば、死ぬ。
死人に口なしである。それで、よし。

問答無用に、人は死ぬ。
それで、よし。
言うことも無い。

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もののあわれ261

しろたへの衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空とぶ雁の声、とりあつめて、しのびがたき事おほかり。はし近きおまし所なりければ、やり戸をひきあけて、もろともに見いだし給ふ。程なき庭に、ざれたる呉竹、前栽の露は、なほかかる所も同じごと、きらめきたり。


状況、自然描写である。美しい語りである。

白妙の衣うち砧の、音も、微かに、あちこちと、聞こえてくる。
空を飛ぶ雁の、鳴き声も、一緒になり、耐え切れない事も多い。
端近い、ご座所だったので、引き戸を、開けて、女と一緒に、外を、御覧になる。
ざれたる呉竹
お洒落な、呉竹
植え込みに置く、露は、こんな所でも、輝いている。


虫のこえごえ乱りがましく、壁の中のきりぎのりすだに、まどほに変へておぼさるるも、御こころざし一つの浅からぬに、よろづの罪ゆるさるるなめりかし。白きあはせ、うす色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなるここちして、そこととりたててすぐれたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、あな心苦しと、ただいとらうたく見ゆ。


色々な虫の声が、混じり、壁の中に鳴く、こおろぎさえ、時々にしか、聞かないのが、常のお耳に、じかに、押し付けたように、しきりに鳴くのを、風変わりだと感じるのも、愛情が深く、すべてのもの、許される。
白い、袷に、薄紫の、柔らかな上衣を重ねて、目立たない、服装は、実に、可愛く、弱弱しい感じがする。
また、どこだという、美しさがあるのではないが、ほっそりと、また、弱げに、何かを言うところは、いじらしいと、思うのである。

あな心苦しと ただいとらうたく見ゆ
いじらしい、とか、可愛いという。そのように、見える。
この場合の、心苦しいは、我が心が、締め付けられるような、感覚である。
それは、恋から、発するものである。

心ばみたるたかを、少し添へたらば、と見給ひながら、なほうちとけて見まほしくおぼさるれば、君「いざ。ただ此のわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみはいと苦しかりけり」と宣へば、女「いかでか。にはかならむ」と、いとおいらかに言ひて居たり。


少し、気取ってもいいと思いつつ、二人っきりになりたいと、君は、さあ、この近所にて、気楽に、一夜を明かそう。こんなに、人の多い所では、たまらないと、言う。
女は、そんな、急なことを、と、おっとりと答える。

いとおいらかに言ひ
実に、おっとりと、言うのである。
おおらかに、という、ところであろう。


女は、源氏の身分を知らない。源氏も、女の、状況を、知らない。
知らない同士が、恋に嵌る。
恋、というものの、あからさまな、様子を描く。

男と、女の、結びつきに、何も、余計なものは、必要ではない。
曳かれるようにして、曳かれて、恋をする。
しかし、それは、また、ある種の、悲劇に通ずるのである。
紫式部は、それを、この巻で書くのだ。


この世のみならぬ契りなどまで頼め給ふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやうかはりて、世なれたる人ともおぼえねば、人の思はむ所もえはばかり給はで、右近を召し出でて、隋身を召させ給ひて、御車引き入れさせ給ふ。このある人々も、かかる御こころざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら、頼みかけ聞えたり。



この世だけではなく、来世までも一緒との、約束。
女は、それに、何もかも、任せる、心は、不思議なほどで、男を、知っているとも、思われず、君は、皆の思惑も、構わずに、右近を呼び、命じて、隋身をお召しになり、御車を、引き入れる。
この家の人々も、君の、女に対する、愛情が、普通でないことを、知り、不安になりつつも、従っていた。


うちとくる心ばえ
打ち解ける心の姿である。
あやしくやうかはりて
不思議なほど、従順である。
世なれたる人ともおぼえねば
世慣れたる人とも、見えない。つまり、男を、よく知っているとも、思われない。
それなのに、源氏の言葉に、従うのである。
抵抗しないのである。

随分と、旨い具合に、事が、進む。
しかし、それは、愛でたいことにはならない、のである。

結末を、急がずに、最初の通り、全文を訳すことにする。


明けがた近うなりけり。とりの声などは聞えで、御嶽精進にやあらむ、ただおきなびたる声に、ぬかづくぞ聞ゆる。立ち居のけはひ、絶えがたげに行ふ。いとあはれに、あしたの露にことならぬ世を、何をむさぼる身の祈りにか、と聞き給ふ。


夜明け近くになった。
鶏の声などは、聞こえないで、御嶽精進であろうか、いかにも、年寄りらしい声で、礼拝する声が聞こえる。
立ったり座ったりも、苦しそうな、勤行ぶりである。
かわいそうに見える。
朝置く露に、等しい、命短い人の世を、あの老人は、何を欲して、祈るのかと、お耳を澄します。


何をむさぼる身の祈りか
祈るという行為を、むさぼる、と表現するのが、実に、新鮮である。
祈りも、度を越すと、貪ることになるのだ。
貪る祈りというものを、始めて知った。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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