2008年07月29日

神仏は妄想である 149

生死の中に仏あれば生死なし。又曰く、生死の中に仏なければ生死にまどわず
道元

道元の生きた中世では、戦や疫病で、貴族も武士も農民も、みな死に直面していました。冒頭の言葉から、中世の宗教家がぎりぎりまで死について考え抜いた、その重みが、ずっしりと感じられます。
栗太勇


人間の最大の問題は、死ぬことだと、私は、考える。
一日も、死というものから、逃れられない。
それを、踏まえて、道元の問題意識は、当然である。ましてや、宗教であるから、普通の人以上に、死に対して、敏感であろう。

結論から言う。
いかにせよ、人は死ぬということである。
これから、道元の多くの、死に対しての思索の言葉を、読むが、どうしても、こうしても、人は、死から逃れられないということである。
例え、悟りや、解脱というものを、得た人でも、そうではない人でも、アホも、馬鹿も、チョンも、すべての人は死ぬ。

私も、あなたも、死ぬ。


生死は、生と死という二つのことを論じているのではありません。仏教では生死は、生き死にのあるこの煩悩の現世をいうのです。生死の中にもともと仏がある、すなわち絶対的な真実をつかんでいれば、すでに現世を超えているというわけだから、今さら生きる死ぬということを迷うことはない。また逆に、生も死も、ただそれだけの事実で、ことさら悟りや救いがあるわけでのものではないと観念していれば、生だ死だと迷い疑うこともない。
ずいぶん突っ放した言い方ですが、ずばり俗説に水をかけています。
栗田勇


しかし、それを言う限り、道元も、生き死にを、迷っていたのである。

人は絶対に死ぬ。
それで、いい。
生死の中に仏あれば生死なし。などとは、詭弁である。
そんなことは、言うほどのことではない。

何度も言う。
誰もが死ぬ。
一体。何故、それを、何程か、重大に説くのか。


もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかい、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。
道元

栗田氏は、このエッセイの副題に、現世のほかに夢の国は存在しない、とつける。

この現実のほかに、たとえば夢のような極楽浄土や、なにか永遠の生命というものを求めて死を直視することから逃れようとすれば、それは車を引っ張る轅、長柄でほある、を北の方に向けて、越、今のベトナムのこと、すなわち南へ向かおうとするのと同じでし、同様に、顔を南に向けて北の北斗星を眺めるようなもので、とうてい救いの途とは正反対だ。
栗太勇

つまり、道元は、念仏門のような、お遊びのような、極楽へ生まれるという妄想や、救いというものは、そんなものではないと、言うのである。
しかし、道元自身が、迷いに在る。
つまり、救いという、迷いである。

われわれは、死のことを忘れようしすればするほど、ますますそのことにとらわれてしまって、離れようと思えば思うほど、とらわれて気が狂いそうになる。まして、解脱、それから抜け出す道を、かえって失ってしまう。
栗太勇

解脱から、抜け出す道というが、それが、迷いである。

何度も言うが、気が狂いそうになっても、何でも、死ぬのである。
悟りに至った人も、悟らない人も、死ぬのである。
その死に、何ほどの違いがあるのか。

泣いても、笑っても、死ぬというのが、現実であり、事実である。


ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとうべきもなく、涅槃としてねがうべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり
道元

何を言うのだろうか。

生死すなわち、涅槃と、心得ずとも、死ぬのである。
涅槃として、願うべきもなし、と言いつつ、結果は、死ぬのである。
道元は、自分に、言い聞かせているのである。


栗田氏も、
生や死から離れようとすればするほど、その離れようと思うことにとらわれる。もう現実を受け入れて、徹底的にそのことを認めてしまう。すると、逆に、もう生か死かと考える余地はなくなる。このときはじめて、生死をはなれることの可能性が生まれる。
と、言う。

嘘である。
特攻隊の若者は、まだ、十代、二十代で、今、特攻攻撃で、死ぬという、逃れられない運命に身を任せて、死んだ。
迷うも何も、死ぬしかないのである。
死とは、そういうものである。
そこで、救いやら、仏やら、解脱、悟りなどという、妄想に、浸っている暇は無い。

つまり、暇なのである。
暇潰しの、ご苦労な、思索である。

問答無用に、人は、死ぬ。

生死を、離れる可能性も、何も無い、あるわけが無い。
確実に、死ぬ。

さらに言う。
一時間後に、死ぬ可能性がある。

道元は、生きたから、言えた。
死んだら、言えない。
ただ、それだけである。

ちなみに、このような、道元の言葉を読んで、実に、悟ったような気分になった者、多数。私は、それらを、否定しない。
何ほどかの、妄想は、精神衛生に良いのである。
ただ、それだけである。

人は、黙っていても、何事か言っても、死ぬ。
確実に、死ぬ者であることに、理屈を言うものではない。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ260

君「いざ、いと心安き所にて、のどかに聞えむ」など語らひ給へば、女「なほあやしう、かく宣へど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」と、いと若びて言へば、げに、と、ほほえまれ給ひて、君「げにいづれか狐なるらむな。ただはかられ給へかし」と、なつかしげに宣へば、女もいみじくなびきて、さもありぬべく思ひたり。


君は、さあ、少しも気のおけないところで、お話しましょうと、言う。
女は、でも、やっぱり少し変です。お言葉ですが、普通ではない、ご様子です。怖いような気がしますと、言う。
源氏は、微笑んで、頷き、そうですね、どちらかが、狐なんですよ、黙って化かされましょうと、言う。
なつかしげに言うので、女は、素直に、お言葉に従う。
さもありぬべく、思うのである。


世になくかたはなる事なりとも、ひたぶる従ふ心はいとあはれげなる人、と見給ふに、なほ、かの頭の中将のとこなつ疑はしく、語のし心ざま、まづ思ひ出でられ給へど、「しのぶるやうこそは」と、あながちにも問ひ出で給はず。けしきばみて、ふとそむき隠るべき心ざまなどはなければ、「かれがれに、とだえおかむ折りこそは、さやうに思ひ変はる事もあらめ。心ながらも、少し移ろふ事あらむこそ、あはれなるべけれ」とさへ、おぼしけり。


世になく、変なことだと、思っても、そのまま、従うのは、実に可愛いと、思うのである。
繰り返して、思うのは、あの、頭の中将の話である。
常夏という、女の性質かと、思うが、その性質を隠して、どうなるということではない。
無理に、聞くことはないと、思う。
突然、身を隠して、離れるということはないだろうと、思う。
長くいるならば、心変わりも、あろうが、自分は、そんなことはないから、大丈夫だ。
自分も、心変わりなどあれば、更に、面白いが、と、思うのである。


この辺りになると、源氏という男が、老練な恋のチャレンジーだと、思うが、それにしても、変わり身が、早い。
トントンと、話が進む。

少し移ろふ事あらむこそ あはれなるべけれ
少し、移ろいやすいと、面白いというのである。
そこでの、あはれ、の使い方である。

あはれ、とは、面白いとも、言うのである。


はづき十五夜、くまなき月かげ、ひま多かる板屋、残りなく漏り来て、見ならひ給はぬ住まひのさまも、めづらしきに、暁ちかくなりにけるなるべし、隣の家々、あやしきしづのをの声々、目さまして、隣人「あはれ、いと寒しや。今年こそなりはひにも頼む所すくなく、いなかの通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ。聞き給ふや」など言ひかはすも聞ゆ。いとあはれなるおのがじじのいとなみに起き出でて、そそめきさわぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。


八月十五日の夜。
中秋の名月である。
冴えた月光が、隙間の多い、家に差し込んでくる。
見慣れない、家の様子が、はっきりと見える。
それが、珍しい。その上、明け方近くであろう、隣の家々から、賎しい男どもの、声が聞こえる。
それぞれ、目を覚まして、いやいや、寒い。今年は、商売も不景気で、田舎の商いも、望めない。心細いことだ。北隣さん、聞いているかい。と、言う。
細々した仕事に起き出している。
女は、いたく恥ずかしいと、思うのである。


あはれ、いと寒しや
この、あはれ、は、感嘆符である。あはれ、と、嘆息したり、感動したり、するときも、使われる。

そぞめきさわぐもほどなきを
現代訳するより、そのままが、ぴったりする、表現である。
そぞめき、次第に、徐々に、と、訳せるが。


艶だち気色ばまむ人は、消え入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきも、憂きも、かたはらいたきことも、思ひ入れたるさまならで、わがもてなしありさまは、いとあてはかにこめかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなることとも聞き知りたるさまならねば、なかなか、恥ぢかがやかむよりは、罪ゆるされてぞ見えける。



体裁屋の、気取り屋なら、気絶しそうな家である。
そんな、風景の中、のんびりした性格で、辛いこと、嫌なこと、気恥ずかしいことも、女は、気にする風でもなく、本人は、まことに、上品で、あどけなく、騒々しい隣の騒ぎを聞いても、よく解らず、恥ずかしいと思わない姿が、罪の無いものに、思えるのだった。


実に、面白い、庶民の生活振りである。
そんな、場所に、身分を隠して、女と二人で、居るという、源氏の姿を、想像する。
しかし、これは、始まりなのである。
この、何気ない風景の中に、当時の、不思議な、現象を、作者は、起こす。


ごほごほと、鳴る神よりもおどろおどろしく、踏みとどろかすからうすの音も、枕がみとおぼゆる。「あな耳かしがまし」と、これにぞおぼさるる。何のひびきとも聞入れ給はず。いとあやしうめざましき音なひとのみ、聞き給ふ。くだくだしき事の多かり。


ごろごろと、雷よりも、おどろおどろしく、踏み鳴らす、臼の音も、枕の下からかと、思う。
ああ、やかましい。と、その音である。
しかし、君も、何の音かを、知らないのである。
まったく、変な煩い音としか、解らない。
くだくだしき事が、多いのです。と、作者は、付け加える。


擬態語が、面白い。
ごろごろが、ごほごほ、である。
からうす
臼で、土中にある。それを、長い杵の端を、足で踏むのである。
私は、それを、カレン族の村で見た。
米を、脱穀する時に使うというものである。

当時の、生活の様、いと、おもしろい、のである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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