2008年07月28日

神仏は妄想である 148

さて、道元に戻る。

「無」の思想の、森三樹三郎氏は、
道元が、無為自然から、有為自然への転換をとげているということは、確かである、という。
直接的、自然の立場から、只管打坐によって、再び、自然に帰ってきている。

自己をはこびて万法を修証するを迷とする。万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
道元

人為の主体である、自己の力によって、法を明らかにするのは、迷いであり、法のほうから、自己が、照らし出されるのが、悟りである、という。

作為の主体である、自己というものを、忘れて、法の光に照らされるという、受身の境地になったときに、悟りというものが、現れるのである。

完全な主体性の、放棄であり、無為自然の境地である。
つまり、老荘思想に戻るということである。


ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏の家になげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ、仏となる
道元

美しい、大和言葉である。

無為自然の境地である。
それは、自力を捨てることであった。
つまり、浄土門と同じく、他力である。
自力の極みまで行き着き、他力の本性に至る。
ただ、春の畑の蛙のように、念仏しては、それを、得られない。
血の滲むような、精進にあって、得られた境地である。

さて、面白い話がある。

若き日の道元を、悩ませた、問題がある。
それは、一切の衆生は、皆法性、つまり、仏性を持つ。
天然自性身、てんねんじしょうしん、というが、それなのに、何故、三世の諸仏は、菩提を求める必要があったのかという。

すべての人間には、生まれつき、自然の仏性をもつといわれる。それならば、人間は、何もしなくても、そのまま、仏であるはずだ、というものである。
何故、過去の仏となった人は、精進努力をする必要があったのか。

これは、老荘思想の無為自然という立場から、仏というものを、理解したと思われる。

しかし、道元は、有為自然から、無為自然へと、変更してゆくのである。

上記の、疑問は、道元の真面目な性格を、実に、よく表す。

つまり、仏教というものは、屁理屈の極みを行く。
誰が言ったのか、悉皆仏性である。
そんな、頭で捏ね繰り回した、理屈に、真面目に取り組むという、道元である。

結局、中国仏教が、大きな影響を受けた、老荘思想というものによって、悟りへの、道筋を得たと、言える。
または、老荘思想に、食われたのである。

それは、老荘思想の、器が大きい故である。

では、道元は、何故、老荘思想に、転向しなかったのか。
それは、仏教というものしか、目に入らなかったからである。
要するに、それしか、見えない、見ないのである。
心にあるものしか、人間は、見ない、見えない。

完全に、仏の教えというものに、目くらましにあったのである。

ところが、開けて見ると、何と、老荘思想の無為自然の境地に、至っているという、結末。

道元の、名文は、老荘思想の、核となる、思想の只中に身を置いたといえる。
仏、云々は、余計であった。
折角、無為自然の境地に至り、それを、仏というもの、実は、方便なのであるが、それに、表現を託した。

だから、今まで、見てきた、道元の言葉が、見事に理解できることになった。
老荘思想である。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり
道元

これを、道元は、精進して、気付くのである。
ご苦労様である。

先の、仏の家に投げ入れて、と、同じ心境であろう。

しかし、道元が、それを、知るために、あれほどの、規則作法を作り上げて、更に、十分真面目に対処したのは、性格であり、日本人であったからである。
日本人の禅というものを、創作した。

ここで、再度、老荘思想を持ち出すことはしないが、一つ、実に、不思議である。

自然を、仏のそのままの姿であるだの、やまは是山などという言葉、端的に、境地を、語るようであるが、詞である。
文章として、最大限削除して、そのもの、すばり、を、書くが、単なる青年の主張の、詞である。

永平寺が、無ければ、ただの、若者の、戯言になる。

宗教行為が、芸術行為になっている。そして、その方が、聞きやすい。

宗教は、芸術の母という宗教家もいるが、戯言である。
宗教は、芸術に、適わない。

更に、言えば、主体を捨てて、更に、自己を捨てて、悟るというが、そんなことは、有り得ない。
自己という、主体を捨てるという意識は、迷いである。
あくまでも、自己という主体があってのものだね。

捨てるという、自己の主体性があるからこそ、客体という、主体を、意識出来るのであり、仏法から、照らされると、感じる主体的な自己が、無ければ、何故、それを、感じ取れるのか。
つまり、言葉遊びに、堕落しているのである。

荘子は、不立文字を言った。
そして、それ以外は、多くを語らない。
語れば、嘘になる。
何故、道元は、あれほど、多くを語ったのか。
何度も言うが、妄執である。

語った事実は、道元が、悟りを得ていない証拠である。

悟りを得ていない、私は、こうして、書くのである。
書くという行為は、そういうものである。

道元は、自分のために、書き続けた。
一瞬も、我を忘れぬように、書き続ける必要があった。

絶えず、自分を縛り付けていなければ、ならなかった。
それだけ、自己に厳しい人だった。
しかし、それが、囚われなのである。

文才があることが、禍した。
あの、親鸞もである。
堕落したのである。

和歌も、風情のあるものだが、結局、仏という、囚われから、奪することが、出来なかった。
仏は、無為自然ではない。
無為自然を、仏の家と、確信したこと、実に、誤りであった。
自然の内に、隠れるという、感性を、日本人は、持っていたはずである。
そこに、辿り着く前に、仏の家に辿り着いて、安堵した。

お疲れ様です。ということになる。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ258

「仮にても宿れるすまひの程を思ふに、これこそ、かの人のさだめあなづりし、下の品ならめ。その中に、思ひのほかにをかしき事もあらば」などおぼすなりけり。惟光、「いささかの事も御心にたがはじ」と思ふに、おのれも、くまなき好き心にて、いみじくたばかりまどひありきつつ、しひておはしまさせそめてけり。


例え、仮住まいでも、住んでいる家の程度を、思うと、これこそ、あの佐馬の頭が、軽蔑した下の品であろう。その中に、予想外の、素晴らしいものがあるかもしれないと、思われるのであった。
惟光は、些細な事も、ご意思に添って、と、思いつつ、自分も、抜け目ない程、熱心に、あらん限りの、工夫をして、うろつき回り、無理やり、通わせる、きっかけを、作った。

しひておはしまさせそめてけり
そこのところは、あえて、うるさいことなので、いつも通り、省略します。

お互い様である。
源氏が、興味を持つように、惟光も、興味があるのだ。


女を、さしてその人と尋ねいで給はねば、我も名のりをし給はで、いとわりなくやつれ給ひつつ、例ならずおりたちありき給ふは、「おろかにおぼされぬなるべし」と見れば、我が馬をば奉りて、御供に走りありく。

女を、誰と、はっきり聞き出さず、自分も、名を名乗らず、無理に、粗末な服をお召しになって、いつにもなく、車にも乗らずに、徒歩で行かれるのは、並々ならぬ、熱心さで、惟光は、自分の車を差し上げて、御供で、走り回るのである。


惟光「けさう人の、いとものげなき足もとを、見つけられて侍らむ時、からくもあるべきかな」など、わぶれど、人に知らせ給はぬままに、かの夕顔のしるべせし隋身ばかり、さては、顔むげに知るまじきわらは一人ばかりぞ、いておはしける。もし思ひよる気色もや、とて、隣に中宿りをだにし給はず。


惟光は、懸想人の、つまり、色事師のような、情けない極みの徒歩を、相手に気付かれたら、辛いことでしょうと、迷惑くがるが、誰にも、知らせないように、夕顔との、橋渡しをした、隋身だけに、それとなく言い、そして、顔を全然知らない、少年を一人だけ連れて、お出でになった。
万一、思い当たる気配も、あろうかと、隣の乳母の家にも、お休みにならないのである。


今まで、経過から、源氏は、まだ、女の顔も知らないのである。
しかし、妄想逞しく、夕顔の家に、歩くという、有様である。
そこのところの、心境を、作者は、語らない。
惟光の、思いに、任せている。

結果は、女との、やり取りを、省略して、付き合いの様子を、描くという、手法である。

時間の経過が、飛ばされている。
しかし、これこそ、紫式部の、手法なのだろう。

次は、女の思いから、始まるのである。


女も、いとあやしく、心えぬここちのみして、御使ひに人を添へ、あかつきの道をうかがはせ、御ありか見せむと尋ぬれど、そこはかとなくまどはしつつ、さすがにあはれに、見ではえあるまじく、この人の御心にかかりたれば、びんなくかろがろしき事と思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。


女の方も、奇妙な、不思議な気持ちがするばかり。
お使いに、人をつけてやり、朝方は、お帰りの道を探らせ、住まいを見届けさせようとするが、どことなく、姿をくらます。
それでいて、可愛く思い、逢わずにいられない。
女のことが、心から、離れないのである。
いけないことだ、軽はずみだと、思っても、また、思い直し、しげしげと、お出かけになるのである。

身分を隠して、源氏は、女の元に通うというのである。
身分を隠すというのも、一つの遊びである。

当時、男は、朝、女の家を出るのが、礼儀である。
長居はしない。


さすがにあはれに
ここでは、可愛い、という意味になる。
あはれ、というものの、表情が豊かに広がる。


かかるすぢは、まめ人の乱るる折りもあるを、いとめやすくしづめ給ひて、人のとがめ聞ゆべきふるまひは、し給はざりつるを、あやしきまで、今朝のほど、昼間のへだてもおぼつかなく、など、思ひわづらはれ給へば、かつは、いと物ぐるほしく、さまで心とどむべき事の様にもあらず、と、いみじく思ひまし給ふに、人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。「いとやむごとなきにはあるまじ。いづくにいとかうしもとまる心ぞ」と、返す返すおぼす。


こういうことでは、堅物でも、分別を無くす時もあるのだが、君は、体面を傷つけず、自重なさって、世間が、咎めるような、行動はしなかったのである。
しかし、不思議なほどに、別れてきた、朝の道を思い、晩に行くまで、昼間、逢わずにいる時でさえ、気が気でない。
気になって、しょうがないのである。
また、こんなことは、気違いじみている。そんなに、執心することではないと、思いつつも、冷静に、考え直しもする。
女の様子は、あきれるほど、おとなしく、鷹揚であり、分別や慎重さがない。
まるっきり、子供のようであるが、男を、まだ知らない訳でもない。
大した身分でもないのに、どこに、こんなに曳かれるのかと、繰り返し考える。

いと物ぐるほしく さまで心とどむ事の様にもあらず
気違いじみている。それほと、執着することもないだろう。

恋とは、そういうものである。
しかし、恋する心の、どこかに、冷静な目がある。
何故、こんなに、相手に曳かれるのか。
誰もが、一度は、佇む心境であろう。

ところが、没頭してしまう。
行き着くところまで、没頭するのである。
恋は、そこまで、人の心を、追い込むものである。

そして、そのエネルギーは、性、である。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。