2008年07月24日

もののあわれ254

御心ざしの所には、こだち前栽など、なべての所に似ず、いとのどかに、心にくく住みなし給へり。うちとけぬ御ありさまなどの、気色ことなるに、ありつるかきね、おもほし出でらるべくもあらずかし。

今日の、目当ての所は、木立も、前栽も、そのほかも、ありふれた場所と違い、とてもゆったりとして、奥床しく、住んでいる様子。
女主人の端正な様子なども、並々ではなく、先ほどの、夕顔の垣根などは、思い出されようもない。


つとめて、少し寝すぐし給ひて、日さし出づる程に出で給ふ。あさけのすがたは、げに人のめで聞えむも、ことわりなる御さまなりけり。けふも此の蔀の前わたりし給ふ。きしかたも過ぎ給ひけむわたりなれど、ただはかなき一ふしに御心とまりて、いかなる人の住みかならむとは、行き来に、御めとまり給ひけり。

翌朝、少し寝過ごして、日の光の射し始めるころに、お出かけになる。
朝見る、お姿は、いかにも、皆が、おほめ申すも、もっともな有様である。
今日も、また夕顔の蔀の前を通りかかる。
今までも、通っていたが、扇のことがあり、気にかかってしまったのである。
どんな人の、住処なのかと、行き来につけて、気になるのだった。


惟光、日ごろありて参れり。惟光「わづらひ侍る人、なほ弱げに侍れば、とかく見給へあつかひてなむ」など、聞えて、近く寄りて聞ゆ。惟光「おほせられし後なむ、隣のこと知りて侍る者、呼びて問はせ侍りしかど、はかばかしくも申し侍らず。「いとしのびて、五月のころほひより、ものし給ふ人なむあるべけれど、その人とは、さらに家の内の人にだに知らせず」となむ申す。時々中垣のかいまみし侍るに、げに若き女どものすききかげ見え侍り。しびらだつ物かごとばかり引きかけて、かしづく人侍るなめり。きのふ、夕日のなごりなくさし入りて侍りしに、ふみ書くとて居て侍りし人の顔こそいとよく侍りしか。物思へるけはいして、ある人々も忍びてうち泣くさまなどなむ、しるく見え侍る」と、聞ゆ。


惟光が、何日かして来た。
病人が、その後も、元気がでませんから、看病していました。と、申し上げ、さらに、近づいて、お言葉がありましてから、隣家のことを、知る者を呼んで、尋ねてみました。
しっかりしたことは、申しません。
ごく内緒で、五月頃から、来ている方があるようです。どういう人とは、同じ家の者にも、解らない様子。と、申します。
時々、垣根ごしに、覗いてみますと、いかにも、若い女どもが、御簾ごしに影が見えます。
羽織のようなものを、ひっかけていますので、主人に当たる者が、いるようです。
昨日は、夕日が家に、差し込んで、中が、よく見えました。
手紙を書くと、座っていた人は、顔が、とても、美しい人でした。
憂いに沈んだ風情で、その場にいる、女どもなどが、忍び泣きする様子が、見えました。
と、申し上げる。


夕日のなごりなくさし入りて
夕日に、照らされて、すべてが見える
これは、夕日を、擬人化に近く表現する。
夕日に、あたかも、主体性があるように、言うのである。
自然描写が、心象描写に高まる。


君、うちえみ給ひて、知らばや、と思ほしたり。おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、御よはひの程、人のなびきめで聞えたるさまなど思ふには、好き給はざらむも情けなく、さうざうしかるべしかし。人のうけひかぬ程にてだに、なほ、さりぬべきあたりの事は、このましうおぼゆるものを、と思ひをり。

源氏は、にっこりして、よく知りたいものだと、思った。
惟光は、世間の名声など高い身分だが、お年のほど、また皆が、御意を迎えて、ちやほやと、誉めることなど考えれば、堅くていたら、つまらない気がする。誰も、問題にしない身分であっても、やはり、恰好な女のことになると、気が動くものだと、考える。

好き給はざらむも 情けなく
世間の人の思いは、好色でも、無風流であり、面白くない。
さうざうしかるべしかし
物足りない。
人のうけひかぬ程にてだに
女のことで、騒ぐ身分ではないと、世間が考える卑しい者。


惟光「もし見給へうる事もや侍ると、はかなきついで作り出でて、せうそこなどつかはしたりき。書き慣れたる手して、口とく返り事などし侍りき。いと口をしうはあらぬ若人どねなむ侍るめる」と聞ゆれば、君「なほ言ひよれ。尋ね知らずはさうざうしかりなむ」と宣ふ。かのしもがもと、人の思ひ捨てし住まひなれど、そのなかにも、思ひのほかに口惜しからぬを見つけたらば、めづらしく思ほすなりけり。


惟光が、万一、見かけることもありましょうと、ふとした、きっかけを作り、手紙などを、遣わしました。書きなれた、筆跡で、ずくに返歌などいたしました。大して、悪くない女どもが、おりますようです。
と、申し上げると、源氏は、もっと、言い寄って御覧と言う。
調べ上げなければ、気が済みません、とも。
馬の頭が、下の品の下のぎざみとして、無視した家だが、そうした中にも、相当なものを、見つけたならと、思うのである。

源氏の、好色さを、表す。
馬の頭とは、女の品定めをした、馬の頭の話からのことである。

私は、それらの、話を省略した。

この、夕顔の巻は、非常に、ミステリーじみていて、面白い。
当時の、感覚が、よく解るものである。
何を、恐れているのかということ、である。

紫式部は、憂き世を、嘆き、必死で、この物語を書くにつけ、しばし、その、憂きを、忘れていたのであろうと、思われる。
才能があり、頭脳明晰で、想像力に長けていたのである。
表現によって、昇華する意外にないのである。

物語の中に、書かれる歌は、万葉、古今からの、教養が、滲み出るものである。
その、伝統の流れにあって、創作というものが出来る。
何もなければ、何も起こらない。

あはれ、という、風景は、さらに、広がるのである。



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神仏は妄想である 144

道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。故に常に無はもってその妙を観さんと欲し、常に有はもってそのキョウを観さんと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄は、衆妙の門なり。
老子


これこそ真の道であるといえる「道」は、絶対不変の固定した実とではない。これこそ真の名であるといえる「名」は、絶対不変の固定したなではない。
徳間書房 中国の思想 老子 以下、この訳を記す。

常の道とは、永久不変の固定した道、ではない。
常の道を、肯定するか、否定するかで、意味が、全く逆になる。
老子は、それは、否定されなければ、ならないという。

つまり、万物は流転する。
それが、宇宙の根本原理である。
普遍存在としての、それは、「道」の運動形式である。
この、変転する巨大な動きの中に、人間が、何ほどの力を持つのか。
むしろ、進んで、この変化の中に、身を投じて、必然の動きに順応し、一体化して、はじめて、限りない自由を得る、という。

更に、道の、無限定な、その姿を、玄という言葉で、表した。
玄とは、赤みを帯びた黒という色である。


そして、更に、老子は、相対的な物事に、囚われず、無為、を行為の基準とし、不言を、教化の基準とした。

これは、そのまま、禅に至るのである。

中国禅の、多くは、この老子、壮子の思想に、多く依る。


しかし、老子は、一切の、超越したモノ、神や、仏を、置かない。
この、根底にあるのは、自然である。冷徹な、自然観である。
自然は、不断にして生起しては消滅していく非情な物理的自然として、把握されていた。かれは自然を変化においてとらえようとし、宇宙間の事物の変化を通じて、そこに一定の通則を見出す。それは万物の根元、つまりあらゆる現象の背後にひそむ時空を超越した本体と、その運動法則とである。
この本体を、かれは「道」と命名する。道は知覚を超越した「無」としかいいようのないある物である。
徳間書房 中国の思想

この、老子の、無という思想が、仏教の、空に、置き換えられた経緯がある。

無の思想と、空の思想との、出会いである。
中国禅は、その、交じり合いにより、生まれたものである。

しかし、老子は、単なる、無ではない。
そこに、有という対立を置き、無は、時間的空間的に制約された現象、つまり、万物として、あわられる、有をも、無に帰るのである。
無は、極微を示し、有は、極大を示す。
それは、無から生じ、無に帰る。
道の統一体として、老子は、一と呼ぶ。

無は、常に、有に転じようとし、有は、常に、無に転じようとする。
このような、理屈である。

老子の、人間観を、禅は、取り入れた。
それは、人間の知である。

人間を自覚に導く、知の働きは、同時に人間を、過誤に陥れる両刃の剣である。
人間は、生成発展する自然必然的に過程にありなかせら、知によって、作為を起こして、誤るのである。

知に対して、いかにあるべきかが、老子の問題であった。
それを、禅も受け継ぐのである。

知の、限界を知ること、それによって、真の認識が、あるとする。

再度、中国へ仏教が、伝えられた経緯を、言う。
西域の仏教が、中国に伝えられたのが、はじまりである。
西域とは、チベット付近からである。

それは、後漢の初期、一世紀のはじめころである。
しかし、当初は、中国人に帰化した、西域人であったと、いわれる。
漢の時代の中国人は、無関心だった。
それが、中国の知識人たちに、受け入れられたのは、300年ほどを、経た当たりである。
六朝時代、四世紀の、東晋初期の頃である。

永嘉の乱と呼ばれる、大動乱が起こる。
華北の地が、イテキ部族によって、占領された。
多くの中国人は、南方に逃れた。
現在の南京を都として、王朝を建設するのである。

今まで、仏教に冷淡だった、中国の知識人たちが、異常なまでに、仏教に関心を示すようになるのである。
その訳は、仏教に対するものは、中国人の中華意識である。
中華意識とは、世界は、ここが、つまり、中国人がいる場所が、中心であるというもの。それは、現在もある。

しかし、大乱は、その意識を低下させた。
イテキ部族の威力を知る中国人は、彼らが信じる、仏教というものに、興味を抱いたのである。

それ以後、仏教は、六朝から、隋、唐の時代、700年間ほど、全盛を迎える。

中国特有の、三論、天台、法相、華厳などの、諸宗が、成立し、とりわけ、禅宗と、浄土宗という、宗派の、誕生である。
インド仏教ではない。あくまでも、中国仏教である。

さて、それと、時を少し先にして、老荘思想が、知識人たちに、流行するのである。

六朝時代に、老荘思想が、盛んになったのは、王朝の存在である。
王朝時代が、盛んな時は、上下の差別を重んじる、儒教が、盛んだったが、それが、衰退すると、自由な思想である、老荘思想が、流行するようになるのだ。

さらに、この時代の、知識人たちは、老荘思想と、仏教を共に、信奉するという、状態になる。

僧侶の中でも、老荘思想に、通ずる者が多くなるのである。
中国仏教の成り立ちで、忘れはいけないことは、老荘思想なのである。
特に、禅宗に、多くの影響を与えのである。

実に、禅宗の語録などは、老荘思想かと、思えるようなものが、多い。

私見であるが、実に、老荘思想の方が、仏教より、勝れているのである。
それは、仏、という、存在を置かないからである。
人は、仏になれるというが、中国仏教での、また、日本仏教での、仏という存在は、一神教の神という、存在に近い。

禅では、仏に会えば、仏を殺せ、などと、詭弁を吐くが、それならば、仏というものを、テーマにせずともよい。
老荘思想の方が、すっきりしている。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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