2008年07月18日

アボリジニへの旅 18 平成20年7月

朝、六時半少し前に、タクシーが、到着した。
準備万端にしていた、私の耳に、クラクションの音がした。

さあ、出発という段になり、電話代の、清算をしていないと、気付く。
あわてて、フロントに行く。
約、10分かかった。
前日の夜に、言うべきだった。

次のときも、私泊まる、と英語でいい、おばさんに別れを言う。おばさんも、何やら、よく喋り、別れる。

それにしても、高い電話代である。一度のコールでも、200円である。総計、2000円以上であった。

タクシーに乗り込み、出発である。
車は、私たちの一台のみ、道を走る。
すぐに、ゴーブ空港に到着した。

空港に入るチェックを、受ける。それが、ケアンズでは、簡単だったが、異様に、丁寧である。色々とチェックされた。
鞄の中に、何かある。刃物のようなもの。
必死で、探した。爪きりである。
すると、今度は、ライターがあると言う。
また、鞄の中を、くまなく、探す。ようやく、一つのライターを、見つけた。
一人、一個だけであると、言う。

今までは、どこの検査でも、指摘されないことを、言われた。
要するに、職務に忠実で、客が少ないので、暇なのである。

私たちは、早く来たようである。その後、続々と、人が来た。
問題なく、ゴーブを離陸した。
朝ごはんは、機内食である。丁度分量が良い。

ケアンズに無事到着して、次は、国際線乗り場に移動である。
もう二度と、来ないと、写真を撮る。
そして、少し、ラウンジで、コーヒーを飲み過ごした。

出国手続きの前の、手荷物検査は、スムーズである。
私は、来た時の、着物に、着替えていた。
白の夏大島である。足袋は、履かない。素足である。

日本では、変だが、海外では、平気である。
素足が、一番よい。

待合室で、休む。
私は、ソファーに寝た。
飛行機が、落ちない限りは、生きて日本に帰る。飛行機が、落ちるか否かは、私の問題ではない。
戦時で、兵士が、死ぬために、出たのと、訳が違う。
予定時間より、早く案内があった。

飛行機に、乗り込む。そして、飛び立つ前に、私は、座席移動した。と、男性乗務員が、元の席に戻ってくださいと言う。安全ベルトのサインが消えた後で、移動してくださいと言うのだ。

今までにはない、対応である。
何でも、座席は、離陸するために、バランスを考えて配置しているとのこと。
満席ではないから、最もである。
片方だけに、客を、乗せたら、離陸する時のバランスが悪い。

私は野中の横に戻り、また、シートベルトを締め直した。

お客が、全員乗ると、出発するのである。そこが、日本と違う。日本では、時間通りである。待つのである。しかし、あちらは、もう全員乗った、出発ということになる。

一度、千歳空港で、とんでもないことをやった。
搭乗手続きも過ぎ、登場時間も過ぎて、出発10分前に、飛行機に乗ったことがある。

知人と、食事をしていて、時間を勘違いした。
バスに乗ってから、気付き、もう、その飛行機には、乗れないはずの時間と、なった。
しかし、私は、やった。
航空会社に電話し、バスが遅れたせいで、ギリギリになってしまう。しかし、それに、どうしても、乗りたいと、言った。

相手は、どうなるかは、到着してからと、私の名前を訊いた。
受付カウンターに行くと、一人の社員が待っていた。
その人に、着いて、そのまま、飛行機に乗った。
諦めるには、早い。ギリギリでも、何とか成ることもある、と、知った。

海外に出た場合は、言うことなのである。
言わなければ、解らない。
以心伝心は、通用しない。
兎に角、言う。特に、クレームの場合は、言う、言う、言う、のである。

私は、日本語で、まくし立てる。
そして、ジャパニーズであると、言う。日本語の出来る人を呼べ、と、言っているつもりだが、単に、私は、日本人を、繰り返しているのである。

いつか、バンコクの悪徳タクシー運転手と、やり合う時がくると、今から、準備している。
コレ、もしかして、生き甲斐なの、と、思いつつ。

最後まで、粘ること。諦めない。
スカーレット・オハラのように、決して泣きません。明日、タラに行き考えるという、心境にならなければ、駄目である。

なんーで、乗せないの。どうして、行けないの。何々だって、言ってるでしよー
それでも、バンコクの、トゥクトゥクのおじさんは、首を縦に、振らない。
後で、解るのだが、私の発音が悪くて、行き先が、解らないのである。それで、行けないと言うのである。

気付いて、愕然とする。
今に、私は、バンコクで、有名日本人になると、思う。
大声の、気違い日本人として、である。

飛行機の、揺れが気持ちよく、よく寝た。
着陸、30分前に目覚める。
機長が、英語で、何やら、挨拶している。
その後、日本語のアナウンスが流れる。
要するに、また、カンタスに乗れということである。

ドンという衝撃で、着陸。
死ななかった。
また、生きられる。

これは、奇跡だ。
こんな重いものが、空を飛ぶのである。
落ちない方が、おかしい。しかし、落ちずに、到着した。
奇跡だ。

入国審査の前に、検疫というものが、書かれてある。
今度、調子が悪い時、お世話になろうと思う。
血液検査などしてもらう。
健康診断の代わりである。
しょっちゅう、行き来するのである。検疫検査の人とも、仲良くなろう。

最後の、税関通過である。
用紙に書き込むようになった。
検査官に、何か訊かれる。
観光ですか。
国際ボランティア、テラの会です。
ご苦労様です。
それで、終わる。

追悼慰霊と、言うと、きっと、怪しまれるので、そう言うことにしている。

そういえば、ケアンズで、犬に迎えられた。思わず、頭を、撫でようと思ったが、犬に無視された。
何だーと、怒ると、野中が、無視されなければ、とんでもないことになるよと、言われた。麻薬を見つける犬なのである。

あっ、そ、と、昭和天皇のように、答えて、撫でるくらい、いいだろうと、思いつつ、出たことを、思い出した。
麻薬犬と、仲良くしたいと、思う。しかし、仲良くすると、とんでもないことになる。この、ジレンマである。


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もののあわれ248

君は入り給ひて、ただひとり臥したるを、心安くおぼす。ゆかのしもに二人ばかりぞ臥したる。きぬをおしやりて寄り給へるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、思ほしも寄らずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはし給ひて、あさましく心やましけれど、「人たがへ、と、たどりて見えむも、をこがましく、「あやし」と思ふべし、ほいの人を尋ね寄らむも、かばかりのがるる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と、おぼす。かのをかしかりつるほかげならば、いかがせむにおぼしなるも、わろき御心浅さなめりかし。

君は、入っていらして、女が一人だけで、寝ているので、ホッとする。
一段下の庇の間に、女房が二人ばかり、寝ている。
衣を押しのけて、お寄りになったが、この間よりは、大柄のようだと、思われる。
しかし、気付くことがなかった。
ぐっすりと、寝ている様子は、妙に変わっていて、次第に、気付いてきたのである。
呆れてしまい、情けないと思うが、人違いだと、まごまごしていると、感づかれたりしては、気が利かないことになる。
それに、この女は、変だと思うだろう。
目的の人を、追い回しても、こうまで、逃げるというなら、望みは、叶わない。馬鹿にされるだけだと、思う。
あの、火影で見た、可愛らしい人なら、それでもいいと思うが、それは、けしからぬ、分別であろう。

最後の
わろき御心浅さなめりかし
とは、作者の言葉である。源氏を、評している。
けしからん、ことだと言う。

女に逃げられて、別の女だと、気付いたのである。
源氏が、焦る。
しかし、もし、人違いでも、火影で見た、可愛い人ならば、それでも、いいかと、思う。

凄まじき、好色の様である。
とは、言うものの、面白い話である。

面白いので、続ける。

やうやう目さめて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、なにの心ふかくいとほしき用意もなし。世の中をまた思ひしらぬ程よりは、ざればみたるかたにて、あえかにも思ひまどはず。「われとも知らせじ」とおぼせど、いかにしてかかる事ぞと、のちに思ひめぐらさむも、わがためにはことにもあらねど、あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御かたたがへにことづけ給ひしさまを、とうよう言ひなし給ふ。

女は、次第に目が覚めて、事の真相を知る。
思いもよらぬ、事態であるが、心構えもなく、手出しを控えさせる、心づかいものない。
つまり、男女の事を、まだ知らないのである。
おてんばで、ういういしく、うろたえる訳でもない。
我だと、知らせまいと、思ったが、どうして、こんな事が、と、女が後で考えた場合、自分は、構わないが、あの薄情な人が、むやみと、評判を憚るのも、気の毒なので、何度も、方違えを、口実にして、お越しになったのだと、うまく嘘を、つくのである。

なにの心ふかく いとほしき 用意もなし
その行為を、受け入れるような、心づもりも、まだ、出来上がっていない、のである。
それを、拒むことも、知らないという。

源氏も、うろたえだであろうが、何とか、繕って、嘘を言うのである。
その嘘も、目的の人のことを、考えてのこと。

この辺りは、一歩誤れば、エロ小説に堕落するのであるが、見事に、描いている。

読んでいるだけで、恋の楽しさというもの、いいものだと、思う。
恋は性である。
そして、性は生である。

気付いてみたら、人違い。でも、こうなった以上はと、生涯を共にした男も、多いであろう。実に、楽しい。


たどらむ人は心えつべけれど、まだいと若きここちに、さこそさしすぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。憎しとはなけれど、御心とまるべきゆえもなきこころして、なほ、かのうれたき人の心を、いみじくおぼす。

気の回る者なら、気付くはずだか、まだ、若く、さこそさしすぎたる、やうなれど、ある人は、こましゃくれてはいる、と、訳すが、難しい。
風情がなく、とでも訳す。
考えが及ばないのである。

憎いとは、思わないが、さりとて、気に入るところも、見当たらない。
プレイラブが、終わり、熱が醒めると、冷静になり、そんなに好きじゃないと、思うのである。

それよりも、あの、逃げた人のことを、いまいましいと思う。
逃げられると、なお、追い掛けたくなるのである。


「いづくにはまぎれて、かたくなしと思ひ居たらむ。かくしふねき人はありがたきものを」とおぼすにしも、あやにくに紛れ難う思ひでられ給ふ。

何処に隠れて、今頃は、馬鹿な男と、笑っているのただろうと、源氏は、想像する。
こんな、強情な女は、他にあるまいと、思いつつも、なおさら、忘れにくく、胸に浮かんでくるのである。

かくしふねき人は ありがたきものを
執念から出る言葉であるという。
それなのに、ありがたきものを、と言うのである。

ありがたきもの
それは、忘れえぬこと。

この人のなま心なく、若やかなるけはひもあはれなれば、さすがになさけなさけしく契り置かせ給ふ。源氏「人知りたる事よりも、かやうなるは、あはれも添ふ事となむ、昔人も言ひける。あひ思ひ給へよ。つつむ事なきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなむありける。又さるべき人々も許されじかし、と、かねて胸いたくなむ。忘れ待ち給へよ」など、なほなほしく語らひ給ふ。


無邪気で、若々しい、この人も、愛しいので、情を込めて、お約束をする。
世間が知っている仲よりも、こういうのは、ずっと嬉しいことだと、昔の人も言いました。
あなたも、私同様に、愛してください。
人目を、憚る訳では、ありませんが、我が身ながら、思うに任せません。
おうちの方々も、お許しがなかろうと思うと、今から、心配です。
忘れず、待っていて、下さい。
もっともらしく言うのである。

天才的、恋心の持ち主であろうか。
やってしまった以上は、好色の男として、捨てることはしない。
好色を貫くのである。
これは、私の解釈である。

一度、契ったからには、恋を続けましょう。
嘘つきのように、思えるが、そうではないと、私は思う。恋は、妄想であるから、より楽しく、楽しんだ方がいい。

なほなほしく語らい給ふ
通り一遍にという意味であるから、男の、常套手段なのであろう。
現代でも、やる時には、今度は、どこそこに行こうだの、次は、何を食べようだのと、言う。更に、結婚まで、ほのめかす男もいる。

源氏物語は、恋遊びの、手引きとして、読んでも、面白い。


娘「人の思ひ侍らむ事の恥づかしきになむ、え聞えさすまじき」と、うらもなく言ふ。源氏「なべて人に知らせばこそあらめ、この小さきうへ人に伝へて聞えむ。けしきなくもとなし給へ」など言ひおきて、彼のぬぎすべしたるとは見ゆる薄衣を取りて出で給ひぬ。

娘は、人がなんと思うやら、恥ずかしいので、とても、お便りを、差し上げられませんと、そのままを、言う。
源氏は、誰彼に言っては、困るが、この小さき殿上人に、言伝を頼もうと、言う。
そして、そ知らぬ振りをしなさいと、言うのである。
かの人が、脱ぎ捨てたと、思われる、薄衣を取って、お出になった。

うらもなく言ふ。
裏表の、裏である。嘘偽りなくである。素直に、そのののままに言うのである。
源氏は、秘密にしておくのだと、言う。
上手に対処する様、生まれつきの恋の名人か。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 137

月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず。ひとえに人間の少量にかかわることなかれ。日月なきところにも昼夜あるべし。日月は昼夜のためにあらず、日月しもに如如なるがゆえに、一月両月にあらず、千月万月にあらず
道元


月が出ているから必ず夜というわけでもないし、真昼の如き夜もある。夜は必ずしも位というわけでもない。そういう因果関係はものの本質と関係ない。人間のちっぽけな考えにとらわれてはいけない。月日というものと時間というものを結びつけて考えてはいけない。
栗太勇


これは、仏法というものを、言うのである。真理の法である、仏法とは、色々に姿を変えるが、それは、一つであるという。

だから、昨日、月があったと言っても、また今日、月が出ている。それは昨日の月ではない。今日の月は今日の月だ。昨日の月は昨日の月といっていい。いつもそのままなのだから、それが新しいしか古いとか言うことはない。月はつきそのものとして不変のものそのものである。それが仏心なのである。仏法に古い新しいはない。
栗太勇


日月の身になれば、昼夜とは関わり無いのである。日月は日月そのもので自足している。
自足とは、満足である。

一体、このような、物の捉えかたを、延々とするのである。
仏法というものを、理解する手引きとしているのであろうが、それは、価値観の転換というものを、引き出しているつもりなのだろう。

今なら、取り立てて、凄いというほどの、ものではない。
こういう言葉の遊びに、単純な人は、やられる。
何か、知ったような、気にさせる。


盤山宝積禅師の言葉を上げている。

心月孤円、光、万象を呑めり。光、境を照らすに非ず、境また存ずるに非ず。光境倶に亡ず、復た是れ何物ぞ

しんげつこえん ばんしょうをのめり ひかり きょうをてらすにあらず きょうまたそんずるにあらず ひかりきょうともにもうず またこれなにものぞ

それに、道元は言う。
いまいうところは、仏祖仏子、かならず心月あり。月を心とせるがゆえに、月あらざれば心にあらず、心にあらざる月なし

仏祖、仏弟子は月を心としている。心の月は独り空に澄み切っている、その光はあらゆるものを呑み込んでいる。だから、光はある限られた場所を照らしているのではない。限られた範囲というものがあるわけでもない。光があれば、光の照らすところがあり、光がなければ、その光の照らす範囲もない。では、いったい光とは何物か。
栗太勇

悟りを開いていれば、心の月があるという。
月を心としているからだ。月のように、澄み切って、すべてを映すということだという。

孤円とは、満月である。
万象、あらゆる姿は、月の光によって、生じるものである。その光は、万象を呑み込んでいるという、ものだ。

最後は、すべての、現象が月の光によって、そこに、存在する。
そして、光が、光を呑み込んでいるのだという。
それを、光呑万象という。

そして、月は闇も呑み込むというのである。

月のような心は、そのまま光によって明らかにされた、すべての、存在であり、万物は、光によって、示された月の心、そのままである。
それを、一心一切法、一切法一心、という。

私は、若い頃、一つの本を読む際に、一端、批判する心を、捨てて、すべて、そのままを、受け取るようにと、読書した。
すべて、受動である。
しかし、今、このように、批判する気持ちになって、読めば、実に、多くの言い分がある。

禅というものは、中国にて登場したと、書いた。
中国の屁理屈の世界から、更に、また、飛躍して、屁理屈を生み出す様である。

普段、何気なく、見ているものに、新しい価値観を、求めたのであろうが、また、それを持って、仏法というものを、語るつもりなのだろうが、如何せん、言葉遊びに、堕落する。

表現する行為は、芸術行為である。
それには、異論は無い。
しかし、何ゆえ、仏というものを、語るのに、このような、価値の転換、こけおどしのような、表現になるのか。

もっと、面白いのは、
雲はしれば月運り、舟行けば岸移る
とくる。

くもはしればつきめぐり ふねゆけばきしうつる

雲が動くと、雲はじっと動かないで、月が雲間を走っているように見える。
舟が走れば、舟が動かずに、岸が動いているように見える。

雲が走るのも、月の運るのも、舟の行くのも岸の動くのも、皆同時に、全体として起こっている。AとBを比較して、原因と結果を分けて、それだけを取り出してはいけない。どちらが本当で、どちらが嘘だということを論じてはいけない。止まっているのも動いているのもひっくるめて、その瞬間はそのありのままが全世界なのだ、真実なのだ。
栗太勇

論じては、いけないというが、誰も論じている暇は、無い。
食う、寝る場所を確保するために、日夜、努力奮闘している。
そんな、馬鹿馬鹿しいことを、考えている暇などないのである。

しかあるを、愚人おもわくは、くものはしるによりて、うごかざる月をうごくとみる、舟のゆくによりて、うつらざる岸をうつるとみると見解せり。もし愚人のいうがごとくならんは、いかでか如来の道ならん。仏法の宗旨、いまだ人天の少量にあらず
道元

そういう永遠の今を直感的に体験することをしないで、愚か者は目先だけを見るから、雲が動くと、動いてもいない月を動くと見る。舟が動いているために、本当は動いていない岸を動いていると小賢しい分別を働かせて分かったような気になる。
栗太勇


いやいや、分かった気になっているのは、道元の方である。
そんなことは、どうでも、いいことである。
一体、そんなことを、何故、こうも、性懲りもなく、語るのだろうか。

理屈の理屈を、捏ねている、青年の主張である。

比較するな、相対主義に、陥ってはならない。
ただ、そのものは、如来、仏の真実の姿なのである。
と、一気に、飛躍する。

月の運行は、過去、現在、未来を超越して、始原の月である。
修行をする、これも、月だ。
供養をする、これも、月だ。

古来、仏教においては、「心月」とか「真如の月」という表現に見るように、心や悟りを、空に曇りなく輝いている月に託しています。
栗太勇

それは、勿論、中国式の仏教である。

栗田氏は、更に
突き詰めると、本当のものなんてないんだということになる。すべてが仮のものだから、それが偽物と分かるまえに、次の仮の嘘に身をまかせよう。これがいまはやりの「逃げろ、逃げろ」のスキゾ族というわけです。道元は、本当も嘘もない。ひっくるめて、そのままズハリが、おまえの真実だ。そこに、どんと腰を据えろ。いやなものも、自分に都合の悪いことも、ばっちり見つめろ。そのとき不完全な人間なら不完全なままで、欠点だけらの人間なら欠点のままで、大宇宙と一部となる。
と言う。

これ、大乗仏教の奥の手である。
煩悩即菩提などというのである。
煩悩は、そのままで、悟りの境地に至るということである。

こうして、魔界の、迷いの言葉の世界の、闇に陥る訳である。

無益な、理屈を、こうまでして、書き綴るという、道元の、心の病というものが、観える。

更に、そのように、考えられない人を、愚人というから、仰天する。

一体、悟りとは、何か。
仏というものを、目指す必要があるのか。

仏陀は、もう二度と生まれて来ないことが、救いであるという。
もう一度、仏陀に、戻り、検証する。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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