2008年07月17日

アボリジニへの旅 17 平成20年7月

ドリーミングについて、書く前に、予備知識として、その社会組織について、書く。

ヨォルングは、全体で、単一の集団ではない。
細かく、複数の父系出自集団である、クランに分かれる。
クランとは、神話的な祖先の精霊を、共有する集合体である。

その、神話的な祖先はまた、複数いて、様々な場所で、多様な活動を行った。
神話的祖先たちは、アーネムランドを、縦横無尽に旅をしたのである。彼らの、行く先では、道が川になり、谷になり、彼らが、留まった場所は、くぼ地になったり、泉ができた。
彼らが、血を流したところは、土が赤い粘土になった。

以上を見ると、日本の神々に似るのである。

祖先たちは、歌を歌い、踊りを踊って、儀礼を行った。
そして、旅の進行と共に、言葉さえも変えたという。
それぞれの、土地に生み出した人々に、その地でできた言葉、地形と、自然現象、動植物を含む特定の地域に、そこに関する、歌と踊りを伝え、それぞれに、責任を持たせたのである。

特徴的な、地形は、それぞれのクランの聖地となった。

クランの、聖地を生み出した神話的祖先の物語全体が、クランの神話であり、そこに、現れた、自然現象、動植物は、トーテムとなるのである。

そして、その場所で、話していた言葉、方言が、それぞれの、クランの言葉となった。

クランは、父系であり、子供は、すべて父親と、同じクランに属する。
ヨォルングの人々は、父系を辿り、神話的祖先にまで、つながっているのである。

ヨォルング全体では、約50の、クランがいるとされる。
クランは、言語、つまり、方言の、単位と、考えてもよいのだ。

どのクランに属しているのかが、自己のアイデンティティになるのである。

さて、それを踏まえて、もう一つの、組み合わせがある。

ヨォルングの、神話的祖先の中に、重要な存在がある。
ジャンカウ姉妹と呼ばれる二人と、その兄である。
そして、バラマと、ライジュンと呼ばれる、二人の男がいる。

この二つの、祖先の神話が、それぞれの、クランの聖地を作る。
そして、それぞれの、祖先の道筋の土地に住むクラン同士は、強いつながりがある。
大きな儀式は、その単位ごとに行われ、この単位を半族と、呼ぶ。

ジャンカウの道筋に土地を持つ、クランは、ドゥワ半族に、属し、ライジュンの道筋に土地を持つクランは、イリチャ半族に、属する。

つまり、ヨォルングは、父系のつながりと、二つの半族の、いずれかに、属して、自己のアイデンティティを持つということだ。

実に、複雑である。

さらにである。
この、半族の、ドゥワと、イリチャというのは、人間だけではなく、動植物を含めて、すべてのものが、この二つに、区分けされるということである。
つまり、二組の、神話的祖先の旅に従って、分類されるという、複雑さである。

それを、子供の頃から、身につけさせられるのである。

私は、それを、聞いて、すぐに理解が、出来なかったのである。
さらに、結婚相手の、関係については、複雑過ぎて、未だに理解できず、ここに書くことが出来ない。

この、アボリジニの、深い、洞察力は、ドリーミングという、行為において為される。

森羅万象は、祖先の夢である。

つまり、祖先の霊的存在が、夢を見たものを、目に見える形にしたものが、今、目の前にあると、考える。
それは、過去であり、現在であり、未来である。
だから、今、なのである。
祖先の夢は、今、実現されているのである。

ここで、禅宗を持ち出すが、あれらの、空論が、ここでは、現実なのである。

知的遊戯ではないのである。
アボリジニには、今現在、ただ今が、祖先の夢の現われなのである。

ドリーミングを、まとめると、祖先の神話と、神話で語られる自然と聖地、神話の中の出来事による、社会的規律、儀礼、そして、神話を通して関係づけられる、それぞれのクランとの、関係と、特定の自然物との、関係である。

この、複雑さに、耐えられるだろうか。
そのような、常識の無い、西洋人に、理解が、出来るだろうか。

私は、八百万、千代万の神というものを、日本の伝統から、知り、さらに、神話というイメージも、持つゆえ、かろうじて、理解の端に立つことが出来る。

勿論、これらの、多くの研究は、西洋人の学者によっても、検証された。

しかし、検証して、知ることと、理解することは、別物である。

私が出掛けた聖地は、ジャルーの娘さんが、描いていた、蛇と、睡蓮のイメージのある、聖地である。
だから、それを、私は、見せられたと思った。
それを、見るために、ジャルーの家に行くことになったと、思えた。

あの、聖地の底には、祖先の思いであるモノが、蛇の形をして、いるのである。
そして、睡蓮の花。

まさしく、ドリーミングである。

しかし、「白人」側は、あくまでもアボリジニとその文化は西洋型理論に頼った学問分析で定義されなければならないと考えていました。アボリジニ側が主張するように、知性に頼る理論だけが浮遊して、身体をとおして学ぶ知というものが置き去りにされていました。身体をもって経験することにも、ひとつの大きな意義があることが見過ごされていたのです。
青山晴美

ここで、身体を通して、学ぶ、知、というもの。
それを、知らないという、西洋型学問の、知、の様である。

それは、西洋思想と、東洋思想との、ギャップでもある。
西洋の、知と、東洋の、知とは、違うのである。

同じ知性と、言っても、全く、その姿が、違う。

キリスト教、聖職者が、禅を理解するのに、理屈を求める。
そして、理屈で、納得すべくの、問いを発する。しかし、答えられないものがある、知、というものを、知らないのである。

更に、同じ言葉の遊戯による、禅と、キリスト教の、知、というものも、全く違うものである。

さらに、日本の知性というものは、間合いの知性である。
文で言えば、行間の、知性である。
行間を、読むという、芸当が、出来るのは、日本人である。

西洋型、知性を、叩き込まれると、行間を読むという感性を、間抜けなものと、認識するという、愚である。
愚、というしかない。

完全完璧に、説明するという、知性というものは、果たして、ありえるのだろうか。

そのために、アボリジニが、ドリーミングをするように、日本では、芸というもの、所作というものに、託したのである。

所作である。
知性を、所作に託すなどとは、どこの民族も、出来ることではない。

アボリジニの、身体を通して、学ぶ、知、というもの、実に、日本人として、理解する。

更に、簡単に言う。
目に見えないものは、信じませんと言う人がいる。
しかし、目に見えない空気を吸い、目に見えない、太陽光線からの、栄養を頂いて、生きているのである。

愚、としか、いいようが無いのである。

霊は、目に見えないから、信じません
お前には、見えない、感じないだけである、と、いいたいが、言わないで置く。

私は、見えないが、存在を知っている。
何故か。
身体を通して、見えるからである。

だが、である。
その違いが、実に楽しい。
何と、世界というものは、楽しさに、充ちているのか。
それが、平和であれば、更によい。

神話を、持たなくなった、日本人の中には、30代で、使えないほどの、金を得て、40前に、癌で、死ぬという者、多数。
憐れである。
極めつけは、お金は、すべて、棺桶に入れてくれと言うのである。

こーんな、男に、誰がー、したー、というところだ。
憐れな、日本人という、エッセイを書いてもいい。
だいぶ、情報を得た。


posted by 天山 at 17:07| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 136

いま現象している存在を否定するものではない。ものは幻だ夢だというが、ものの存在を否定してしまっては話にならない。ものは幻のごとしといっても、それも幻や夢の存在を現象の上で認めているからいえるのである。現に形あるものの存在を無いというのではない。
田上太秀  仏陀のいいたかったこと

ものに、執着する心を、作るなという、仏陀の教えは、宗教であろうか。
生きること、生活することの、実践的倫理である。

私が、カトリック教会に、通っていた頃、カトリックの司祭たちは、仏教は、宗教ではなく、道徳だと言っていた。確かに、そのようである。
しかし、宗教という、団体になると、無明である。
迷いである。
存在することのない、神や仏を、拝むという。

在ると、想定して、拝むという行為を、宗教というのである。
そのために、膨大な、教義や、教理を作り上げたのである。
ご苦労さんである。


さて、更に、仏陀は、ものだけではなく、人間というものも、観た。
体は、色や形という、肉体で成り立つ。そして、心である。
心は、感受作用と、表象作用と、形成作用、識別作用とによって、構成されると、考えた。
それを、五つとして、五蘊という。

この身を、構成する、五蘊も、本来は、空、と見た。
私の物という、実体も、永久、恒久なものでは無いと。

ゆえに、その体にも、囚われるなと、教える。

ものの、本来性は、空であると、正しく考察し観察すれば、それは、智慧となる。
この智慧を、持つこと、持つ人を、仏陀と呼ぶ。

従って、仏陀の教えは、仏陀になるための、教えである。

原始経典を見ると、釈尊は、人とは何か、人は何によって構成されているのか、人はどうして苦しむのか、なぜ迷うのか、人の根本悪は何か、などについてしきりに述べている。
人の老死の現実的苦しみについて問うのが、釈尊の立場である。かれは、すべてのものはみな苦(思うようにならないこと)である、と喝破している。老いるという苦しみ、死ぬという苦しみはわれわれに切実な問題である。その苦しみは何が原因であるのか、それは人がもっと知りたいところである。
田上太秀


その苦しみは、感覚的欲への囚われと、世界のあり方についての、無知であると言う。
そこには、霊魂の存在について、少しも介在することがないのである。

霊魂の存在を否定しては、宗教として、成り立たなくなる。
その通りである。
仏陀の、教えは、宗教ではない。


見事な、現実主義、合理主義である。

私が、宗教は、迷いであるというのは、そういう意味である。

無いものを、有るとしては、迷いなのである。

それでは、転生輪廻とは、何か。
仏教では、転生輪廻を教える。

ここからは、私の言葉で書く。

生まれ変りということは、有り得ないと言う。
前世というものは、前世で終わった。
以前に、行為によって、すべてのものが、決まるという、仏陀の、教えを書いた。
行為によって、輪廻するのである。

輪廻するような、行為を続けているのである。
その、行為から、逃れられないでいる。
故に、その行為が、繰り返されて、輪廻となる。

下手糞な、霊能者が、転生輪廻を言うが、前世は、何であったと言う、お話は、妄想である。

古代インドでは、輪廻を、サンサーラと呼ぶ。
つまり、流れる、という意味である。
それが、人生観、世界観となっていった、経緯がある。
輪廻の、最初の考え方は、人の行為を、業と結び付けて、考えた。
現在言われる、輪廻は、それである。
古代インドの、そのままを、言うのである。

過去の行為の結果として、今の存在があると、考える。


仏陀は、当時の人々に、教えを述べるために、在俗の人には、善を行えば、天に生まれると説いたが、方便である。
出家者には、一言も、そんなことを、言わない。

当時の善という、観念は、祭祀する行為を、善と言う。
仏陀は、そうではないと、言う。
仏陀の言う行為は、身、口、意の、三つである。その行為が、善であるということ。
その行為に、よって、因縁となり、次の生を、もたらすというのだ。
しかし、輪廻の、主体というものは無い。

ものの、生起は、すべて因縁による。
持続して、過去、現在、未来への存在する、不滅の主体があるのではない、と言うのだ。

行為(業)によって世界はあり、
行為によって人々はある。
生存するものは行為に束縛される。
ちょうど車がくさびに結びつけられているように。
スッタニパータ

人は愛執によって何かの行為を起こし、その善悪の積み重ねを繰り返し、習慣力としての業をつくる。その業が世界をつくり、人を形づくるというのである。輪廻は、すべて業に促されて、いろいろな因縁の助けを得て現象化するというのが、釈尊の輪廻説であった。
田上太秀

私の行為が、業となり、次の生をつくる。
しかし、私という、意識の私は、いないのである。
つまり、私は、無いのである。
あるのは、行為によって、繰り返される、因縁という、業のみである。

輪廻の主体は、因縁である。
それは、火である。
火が燃え尽きる。
火が、他方へ転移した時に、輪廻するというのは、有り得ない。
一つの体から、他の体に、主体が転移することは、無い。

因縁、業によって、ただ、生まれるのである。

私の、今世の意識が、輪廻するのではない。
私の因縁、業が、ただ、生まれるのである。

絶えず変容する個人主体は、前後の時間にわたって同一としてでもなく、また別の異なった者としてでもなく生存しつづける・・・
田上太秀

10歳の、私と、20歳の私は、違う者だが、同じ人間である。
10歳の私は、私として有り、20歳の私は、私として有る。
それと、同じことを、輪廻は言う。

そこから、脱却するのである。

転生輪廻とは、前世が、何か云々の話ではないのである。

生まれ変りの記憶というものは、主体が空なのであるから、それは、単に記憶なのである。
記憶を、私だと言うのが、前世云々である。

二度と、そんな記憶を、持たないこと。
つまり、行為によって、繰り返すような、愛執を、つくらないことなのである。

愛執という記憶によって、苦しみの、この世に、縁するのである。

霊魂というものも、作り出した、幻である。
本来は、空なのである。

霊魂とは、記憶である。

インドで、生まれた仏陀の思想は、インドに縁しているため、インドの価値観と、言葉による。
空とは、膨らんだもの、という意味だった。
つまり、空という記憶も、膨らんだものという、妄想である。

仏陀の、限界は、輪廻から、外れることというものだ。
それは、魔界の巣である、インドでの、究極の、選択である。

ただ、仏陀は、神などという、絶対的存在を、置かなかったことである。
世界は、すべて、縁りて起こることである。
よりておこる
つまり、世界に有るものは、相互に依存している。
そして、滅しているのである。

相互関係による、生起と、消滅、それは、縁起と、縁滅ということである、それによるのである。
神や仏という、絶対的存在は無い。

霊魂というものを、置けば、それが、絶対的なものになる。
霊魂も、空という、記憶、それは、妄想である。

ここで、飛躍すると、この世という、次元に生まれないこと。
次元移動してゆくこと。

仏陀は、インドの霊界に、天という場が無いと知るゆえに、天にも生まれるということを、考えなかった。
インドの天は、魔界の天である。
それらの、一切から、外れることを言うのである。

一人の人間が、100年後の、人間に、生まれることはない。
ただ、記憶が、引継ぎされるだけである。
それも、すべてではない。一部である。

ゆえに、誰が、前世という言い方は、誤りである。

前世の、記憶のあるという人がいる。
それで、前世は、誰々でしたという。
それは、強烈な、記憶の一部である。
その、前世と同じように、24時間を生きることは出来ない。

仏陀は、霊魂があるかどうかよりも、今の、行為を、正しくすることを、言う。
実に、真っ当な、対処法である。
生きるに、真っ当な対処法を、仏陀は、考え続けたのである。

これについては、また、別な形で、書くことにする。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ247

こたち、「あらはなり」と、言ふなり。小君「なぞかう暑きに、この格子はおろされたる」と問へば、「ひるより西の御かたの渡らせ給ひて、碁うたせ給ふ」と言ふ。「さて向かひ居たらむを見ばや」と思ひて、やをらあゆみ出でて、すだれのはざまに入り給ひぬ。この入りつる格子はまだささねば、ひま見ゆるに寄りて、西ざまに見通し給へば、このきはに立てたる屏風、端のかた、おしたたまれたるに、まぎるべき凡帳なども、暑ければにや、うちかけて、いとよく見入れらる。

女房たちが、開け放して、丸見えですという声が聞こえる。
小君は、どうして、こんなに暑いのに、格子を下ろすのですか、と言う。
昼間から、西の御方が、お出で遊ばして、碁をお打ち遊ばして、いらっしやる、と女房が言う。
源氏は、それなら、二人が向かい合っているところを、見ようと思い、ゆっくりと、歩いて、簾の間に、お入りになった。

小君が、入っていった、格子が、まだ上げてあるため、隙間があるので、近寄った。
西の方を、透かして見ると、そこに立ている、屏風は、端の方が、畳まれてある。目隠しの、凡帳も、暑いせいか、帷を上げてあるので、奥が、丸見えである。


燈、近うともしたり。「母屋の中柱にそばめる人や、わが心かくる」と、まづ目とどめ給へば、こき綾のひとへがさねなめり、何にかあらむ、上に着て、頭つき細やかに、小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは、さし向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つきやせやせにて、いたう引き隠しためり。

燈が、二人の傍に灯してある。
母屋の中柱に、寄り添って横向きに、なっている人が、我が思う人なのかと、目を止める。
濃い紫の、単重ねだろうか。
ひとへがさね
着物の裏地の無いものである。それを、上着に着る。

何か、よく解らないが、上に着て、頭の形は、ほっそりとして、小柄な人が、見栄えのしない感じである。
顔は、向かい合う人にも、見えないようにしている。
手つきも、痩せていて、それを、袖で、隠すようにしている。

こうして、源氏は、いつもは、見られない、女房たちの、姿を、色々と見ることが、出来た。
その有様を書く、紫の筆が、冴える。

優雅な、貴族の生活の様を、表現する。
しかし、実に、細かなことまで、書き続けている。

そして

見給ふ限りの人は、うちとけたるよなく、ひきつくろひそばめたるうはべをのみこそ見給へ、かくうちとけたる人のありさま、かいま見などは、まだし給はざりつる事なれば、何心ねなうさやかなるはいとほしながら、久しう見給はまほしきに、小君いでくるここちすれば、やをら出で給ひぬ。

知っている限りの女の姿は、皆、くつろぐことなく、気取っている。
まともに、顔を、見せずに、そんなよそ行きの、顔ばかりを、見ていたので、こんなに、くつろいだ所を、垣間見るとは、はじめてのことである。
気もつかず、見られている女たちは、気の毒である。
もっと、見ていたいが、小君が、出て来ると、いけないので、外へそっと抜けた。

普段のままの、女房たちの、素顔を見たのである。
女房たちの、普段の姿である。

実に、興味深いものだったのである。

何心もなう さやかなるは いとほしながら
素のままの姿である。
その、さやかなるは
くつろいだ姿である。
いとほしながら
可愛らしくもあり、である。

覗き見の、楽しさを知った源氏である。
それもこれも、小君の、御蔭である。

どちらが、子供か、分からないような、次の文である。

わたどのの戸ぐちに寄りい給へり。「いとかたじけなし」と思ひて、小君「例ならぬ人侍りて、え近うも寄り侍らず」源氏「さて今宵もや帰してむとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」と宣へば、小君「などてか。あなたに帰り侍りなば、たばかり侍りなむ」と聞ゆ。「さもなびかしつべき気色にこそはあらめ。わらはなれど、物の心ばへ人の気色見つべく、静まれるを」と、おぼすなりけり。

源氏は、渡殿の戸口に、よりかかって、いらっしゃる。
こんな所に、恐れ多いと、小君は、珍しい客が来ていまして、傍にも、寄れませんと言うと、このまま、今夜も、帰そうとするのか。あまりに、酷いことだと、源氏が言う。
とんでもありません、客が、帰りましたら、何とか、工夫しますと、答える。
計画通りに、行きそうなのだろう。子供ではあるが、事情を察して、人の顔色も、読めるほど、落ち着いていると、源氏は、小君を、評価するのである。


などてか。あなたに帰り侍りなば、たばかり侍りなむ
子供であろうか。

どうして、あなたを、帰しましょうか。帰しません。
帰さないように、してみせます。そんな、気持ちである。

そして、何とか、女の元に行くことが出来るのであるが、女に、察せられて、逃げられ、別の女に、出会うのである。


女はさこそ忘れ給ふを嬉しきに思ひなせど、あやしく夢のやうなる事を心に離るる折りなき頃にて、心とけたるいだに寝られずなむ、昼はながめ、よるは寝ざめがちなれば、春ならぬこのめもいとなく嘆かしきに、碁うちつる君、「こよひはこなたに」と、今めかしくうち語らひて寝にけり。

女は、源氏が諦めてくれたことを、嬉しいと思おうとするが、怪しい夢のような、思い出が、忘れられない、この頃になっていた。
心から、眠ることができず、昼は物思い、夜は、寝覚めがちで、春ではないが、木の芽が成長して、休まることのないような、心境なのである。
碁を打った相手の人は、今夜は、こちらに泊めていただきますと、陽気に話して、寝てしまった。

春ならぬこのめもいと嘆かしきに

春ではないが、悩ましい。それは、このめ、木の芽の如くに、湧き上がる思いなのである。
このような、表現は、自然描写と、心模様との、共感である。
春の姿を、そのように、心模様に、見立てる。


若き人は何心なく、いとようまどろみたるべし。かかるけはひのいとかうばしくうちにほふに、顔をもたげたるに、ひとへうちかけたる凡帳のすきまに、暗けれど、うちみじろぎ寄るけはひいとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、すずしなるひとへをひとつ着て、すべり出でにけり。

若い人は、屈託なく、寝入ったようです。
すると、何か、気配がする。
衣擦れの音と、共に、かぐわしい匂い。
顔を上げると、単の帷を引き上げてある、凡帳の隙間に、暗いが、にじり寄る影が見える。
呆れ果てた、気持ちで、なんとも分別がつかず、そっと起き出して、すずしの単衣を一枚、羽織、抜け出した。

女は、源氏の影を見て、部屋を抜けた。

ともかくも思ひ分かれず
分別がつかないのである。

すずし
絹の意味。

かかるけはひの いとかうばしく うちにほう

うちみじろぎ寄るけはひ いとしるし

その気配の、香ばしく、薫る匂いである。
静かに、忍んで来る気配である。

非常に面白いのである。
いとおかしき、表現である。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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