2008年07月14日

アボリジニへの旅 14 平成20年7月

アボリジニの、土地権運動が、はじまった、きっかけは、1966年である。

ノーザンテリトリーに住む、グリンジの牧夫たちの、ストライキからである。
多国籍企業の、ベスティ社を相手取り、給与と、労働条件の改善を要求した。
牧場労働を拒否し、ウエーブヒル牧場の一部を占領して、約一年間を、かけた戦いだった。
それが、次第に、自己決定権と、土地権へと、発展したのである。

そして、二年後の、1968年、東北部アーネムランドにある、イルカラのアボリジニが、鉱山開発を行っていた、ナバルコ社を相手取り、訴訟を起こしたのである。
私たちが、出向いた、イルカラである。

1931年に、アーネムランドが、保護区指定されているにも、関わらず、首相が、一部の鉱山リースを許可したことを、受けてのものである。

しかし、この訴訟は、1971年、ノーザンテリトリーの最高裁の判定で、敗訴するのである。

裁判所は、土地が、アボリジニに属しているとは、認めなかったのである。
先住民の、土地所有権という、思想は、オーストラリアの法律に含まれていないとのこと。
つまり、アボリジニの、土地権を否定したのである。

それから、イルカラのアボリジニの、運動がはじまる。
首相への、嘆願である。
政府は、しかし、鉱山採掘は、アボリジニの経済発展にも、寄与するという、認識を示した。
その時代背景で、行われた、1972年の選挙で、アボリジニの土地権が、重要な争点の一つとなったのである。
労働党の、ウイットラム政権が、成立した。

早速、首相は、アボリジニの土地権に関しての、調査機関となる、王立委員会を組織する。

そこで、調査された、報告書で、アボリジニ保護区の土地管理局への信託、鉱物採掘についての、アボリジニの拒否権、伝統に基づく、土地権要求のための、調査委員会設立、アボリジニの土地購入を可能にする、団体の設立という、四の提言がされた。

それを、実行したのは、1975年に、政権を担当した、自由党フレーザー政権である。

翌年に、アボリジニ土地権法を、成立させたのである。

長年に渡り、痛めつけられてきた、アボリジニとっては、画期的な法律である、等々の、アホな学者がいるが、何のことは無い。当たり前のことである。
元はといえば、誰の土地だったのか。

しかし、歴史の、流れである。もう少し、見てゆく。

ノーザンテリトリーのアボリジニは、これにより、安定した土地権と、経済の発展の可能性を得ることになった。

これも、本当ではない。

しかし、歴史の流れである。もう少し、みてゆく。

この法律に基づいて、1980年までに、約9800キロメートル、ノーザンテリトリーの、約7,3パーセントの広さが、アボリジニに返還されたのである。
その動きは、さらに進み、現在では、約30パーセント以上を、アボリジニが、所有しているという。

実に、馬鹿馬鹿しい限りの、話である。
何故、すべての土地にしないのか、である。

1990年代までに、オーストラリア全土の、15パーセントが、アボリジニの所有となったという。
私が滞在した、ケアンズのある、クイーンズランドは、最後まで、認めなかったのである。

アーネムランドは、悠久の時から、先祖が住んでいた土地である。
それが、1977年に、所有を認められたというのだから、呆れる。

私が、出会った人々は、そのアーネムランドのアボリジニの中の、北東に住む、ヨォルングの人々である。

ヨォルングとは、彼らの言葉で、人間という意味である。
お解りか。
彼らは、人間であると、認識しているのである。

その彼らの、文化は、イギリス人の頭の程度では、決して、理解し得ないほどの、複雑なシステムを、持つ。

ヨォルングは、伝承と、伝統を基にした、まとまりのある、地域集団を、構成するが、その定義は、不明で、困難を極めると、心ある学者は言う。

外部の者が、見て、違いの明確さは、言語体系であるという。

ヨォルングとは、同じく、ヨォルングという言語を共有する人の集団を意味する。
その、言語は、約50の言語に区分けされる。方言と、考えると、解りやすい。
方言は、誤解される、というから、それらを、まとめて、ヨォルング言語と読んでもいい。

アーネムランドの中の、アボリジニの中でも、ヨォルングは、特に複雑な、社会構成を成している。
更に、その神話である。独特な精神文化を持ち、それらは、すべて、神話で語られるのである。

創世神話に現れる、祖先の霊が、ヨォルングを旅して、あらゆる存在を、創造してゆく。
その、祖先の霊を、ここでは、特別に区分けして、精霊と呼ぶ。
その精霊は、さらに先祖たちに、言語、神話、踊りなどの、必要なすべての、ものを、与えた。
その神話に基づいて行われる、儀礼は、ヨォルングの人々に、共有される。

人類学者たちは、彼らを呼ぶのに、色々な名称を使ったようである。
ご苦労さんである。

ここで、面白いことは、神とか、仏とかいう、人間と、隔絶したものではなく、祖先の霊を精霊として、さらに、その精霊が、彼らの先祖に、色々と、教えたという。つまり、先祖崇敬の、民族であるということだ。

先祖の前を、祖先と呼んで、別にしておく。
すぐの、先祖は、祖先に、色々と、教えられて、こうして生きてきたのである、という、考え方である。

だから、目の前にあるものは、すべて、祖先と、先祖の姿なのである。

私が、それを、すぐに理解できたのは、日本民族が、そのようだからである。
つまり、先祖を神として、御祭りし、自然の、あらゆる働きも神と、観て、先祖と、自然の共鳴により、成り立つ、我々の人生であるという、考え方である。

総称して、大和心と、言う。
彼らは、目の前のもの、祖先と先祖であると観る。
私たち、日本人も、同じく、自然との共生、共感によって、生きるのである。
更に、日本の祖先と、先祖は、自然の中に、お隠れになるのである。

彼らと、同じではないか。

彼らは、それを、目の前のもの、先祖の夢であるという。
私たち、日本人は、目の前のもの、神遊ぶというのである。自然の様のことである。

さらに、深く、ヨォルングの精神と、その組織を、語れば、終わらなくなるので、以下、省略することにする。

ただ、ドリーミングということに、ついては、もう少し、説明したと思う。
それもまた、日本の、事挙げせずという、心得に通じていて、語らずに、ドリーミングで、伝えるという。それは、所作で、伝えていた、大和民族と、同じである。

言葉で、伝えると、誤るということを、十分に知ってのことである。

どうであろうか。
言葉で、何事かを伝えた、民族の有り様は、すべて、言葉にかき消されて、しまいに、解釈の仕様で、いかようにでも、相成ったという、ザマである。

彼らは、絵によって、伝える。
日本は、所作と、最低限の言葉、和歌の伝統、歌道によって、伝える。

絵によって伝えた民族の代表格は、ケルト民族である。
私が、このアボリジニ追悼慰霊の旅の前に、出掛けた、カレン族の村も、所作によって、伝えていた。

最も、象徴的だったのは、注連縄である。
日本では、神の領域としての、結界の意味がある。
カレンの村も、それである。
更に、年中、家の玄関に、注連縄が張ってあるのだ。
祭りの時の、場所にも、注連縄が、張られて、その中で、儀式が、行われる。

そして、それらの、民族に共通するものは、自然観である。
自然を、支配するという、傲慢不遜な、考え方は無い。
自然の内に、生きるというものである。

更に、深まると、私は、自然なのであるという、極みに至る。

日本が、滅びる、更に、滅びているのは、中国と、同じく、自然を破壊しても、金に目が眩むということである。

いつから、日本の、特に為政者たちが、中国人のようになったのか。
厳密に言えば、漢民族のようになったのか。
もう一つ、おまけに、あの、西洋の、自然支配の、思想を、いつから、受け入れて、傲慢不遜に、自然を破壊し始めたのか。

自然は、私であるから、自然を破壊するめことは、私を破壊することなのである。

ほんの百年たらずしか生きられない者が、何ゆえ、使い切れないほどのお金のために、土地を転がし、自然を破壊し、先祖の夢を、無残に壊すのか。

こういう、状態を、自害して、果てよという言葉になるのである、私の中では、である。

ちなみに、私が、出掛けた聖地の、ドリーミングには、蛇と、睡蓮の花というのは、彼らのトーテム、つまり、ご神体のようなものであった。
先祖を、蛇としたものは、生命力のものであり、睡蓮は、その精神だと、私は、勝手に、想像する。


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もののあわれ244

この程は大殿にのみおはします。なほ、いとかき絶えて思ふらむ事の、いとほしく、御心にかかりて、苦しくおぼしわびて、紀の守を召したり。


この頃は、左大臣家に、源氏はいた。
あれ以来、何も言わないことは、愛しく思われ、女のことを、憐れに思うのである。
それが、心にかかり、苦しくて、紀伊の守を、招いた。


源氏「かのありし中納言の子は、えさせてむや。らうたげに見えしを、身ぢかく使ふ人にせむ。うへにも我たてまつらむ」と宣へば、守「いとかしこき仰せごとに侍るなり。姉なる人に宣ひみむ」と申すも、胸つぶれておぼせど、源氏「その姉君は、朝臣の弟や持たる」守「さも侍らず。この二年ばかりぞ、かくてものし侍れど、親のおきてにたがへりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ聞き給ふる」源氏「あはれの事や。よろしく聞えし人ぞかし。まことによしや」と宣へば、守「けしうは侍らざるべし。もて離れてうとうとしく侍れば、世のたとひにて、むつび侍らず」と申す。


源氏は、このあいだ見た、中納言の子供を、よこしてくれないか。可愛い子だったので、私の元で、使おうと思う。御所へ出すことも、私がしようと、言う。
それは、結構なことです。あの子の姉に相談してみましょうと、守が、答えた。
姉が、引き合いに出されただけで、源氏の胸は、高鳴った。
その、姉は、君の弟を、産んでいるのか、と、源氏は尋ねる。
いや、ありません。二年ほど前から、父の妻になっていますが、亡くなった父親が、望んだ結婚ではなく、不満らしいということです。と、守は、言う。
源氏は、可愛そうに。評判の娘だったようだが、本当に美しいのか、と、尋ねた。
さあ、悪くはないでしょう。年のいった、息子と若い継母は、親しくしないものだと、申します。私は、それに従い、何も、詳しいことは、解りません、と、紀伊の守は、答えた。

何気なく、源氏は、女のことを、守に、聞きだそうとしたのである。


さて、いつかむゆかりありて、この子いて参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて人と見えたり。召し入れて、いとなつかしく語らひ給ふ。わらはごこちにいとめでたく嬉しと思ふ。

五六日して、紀伊守は、その子を連れて来た。
こまやかにをかしとはなけれど
整った顔というわけではないが
なまめきたるさまして
艶な風情を備えた
あて人と見えたり
貴族の子らしい雰囲気である。

源氏は、傍に呼び、親しく話しかけた。
童心地に、源氏に、相手にされるのが、嬉しいのである。

いとなつかしく語らひ給ふ
大変、懐かしいように、話すというが、それを、懐かしいと、言う。
一つの、愛情表現である。

この子を、手元に、置くのは、その姉との、関係を持つためである。

源氏は、その子に、姉のことも、詳しく聞いている。
そして、早速、姉に手紙を持たせるのである。

みし夢を あふ夜ありやと 嘆くまに 目さへあはでぞ 頃もへにける
ぬる夜なければ

と、書く。

ぬる夜なければ
眠られない日々が続き、夢も見られないという。

夢で、逢うことを願うが、眠られずに、夢で逢うことも出来ず、嘆いている、この頃です。

めもおよばぬ御かきじまも、きりふたがりて、心えぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて、臥し給へり。

目もくらむほどの、美しい文字である。
涙で、目が曇り、何も読めなくなって、苦しい思いが、満ちる。この世の、運命を思い、臥すのである。

またの日、小君召したれば、参るとて、御返り請ふ。女「かかる御ふみ見るべき人もなしと聞えよ」と宣へば、うちえみて、小君「たがふべくも宣はざりしものを、いかがさは申さむ」と言ふに、心やましく、「残りなく宣はせ知らせてける」と思ふに、つらきこと限りなし。女「いで、およずけたる事は言はぬぞよき。さば、な参り給ひそ」と、むつかられて、小君「召すにはいかでか」とて参りぬ。

翌日、源氏から、小君、こきみ、が召された。
出掛ける時、小君は、姉に、返事を欲しいと言う。
あのような、お手紙をいただくような人は、いませんと、申し上げればよい、と女は言う。
間違いなくと、申されたのに、そんなお返事は出来ない、と小君が言う。

心やましく
疾しいのである。
残りなく宣はせ知らせてける
きっと、小君は、すべてを聞いているのであろうと、想像するのである。
つらきこと限りなし
そう思うと、源氏を、恨めしく思うのである。

そんなことを言うものではありません。大人が言うようなことを、子供が、言っては、いけない。お断りが、出来なければ、お屋敷に、行かなければいい、と、無理なことを、女は言う。
御呼びがかかったので、伺わないわけにはいかない、と、小君が言う。


君、召し寄せて、源氏「きのふ待ち暮らししを、なほ、あひ思ふまじきなめり」と、怨じ給へば、顔うち赤らめて居たり。「いづら」と、宣ふに、しかじかと申すに、源氏「いふかひなの事や、あさまし」とて、又も賜へり。

昨日も、一日待っていたのに、出て来なかったね。私だけが、お前を愛している。それなのに、冷淡だ、と、源氏が小君に言うと、小君は、顔を赤らめた。

お前は、姉さんに、頼む力がないのだ。返事をくれないとは。
そして、再び、文を、小君に、渡す。

この段で、私が、注目するのは、女との、橋渡しをする、小君という、少年に対する、源氏の思いである。

小君を、あこ、と呼ぶのである。
つまり、あこ、とは、我の子供という意味である。
それも、特に親しく思う、呼び方である。

この子をまつはし給ひて、うちにもいて参りなどし給ふ。わがみくしげ殿に宣ひて、装束などもせさせ、まことおやめきて扱ひ給ふ。

いつも、傍に置いて、御所へも、連れてゆくのである。
小君の、衣服を作り、親らしく、世話をしている。

源氏は、小君も、愛しているのである。
それは、女の、橋渡しだけではない。

ここに、今までの、源氏物語の、解釈の、不明を見るのである。
源氏は、女たらし、女好き、色好みの、最たる者としての、解釈である。

私は、違うと、言う。
当時は、もっと、性というものが、曖昧であった。
ここで、男性同性愛を言うのではない。

美しきもの、なまめきたるさま、それは、愛するものなのである。

ここで、訳を、愛するという言葉は、相応しくない。

あひ思ふまじきなめり
相思う交わりの関係である。

室町期になると、それが、明確に表現される。
世阿弥などは、将軍に寵愛された。勿論、当時の、能役者の、美少年は、皆、将軍と関係を、持っている。性的関係である。

それを、男性同性愛という、ひとくくりにすると、誤る。

美しいものは、あひ思ふまじきなめり、なのである。

島原の乱の状況を、書いた宣教師は、日本の武士が、女よりも、少年を性的対称にしている様を、驚愕を持って書いている。

男色とか、男に体を売る者を、陰間ともいう。
しかし、それは、微妙に違うのである。

これは、井原西鶴になると、もっと、明確になる。
色というものは、男も女も、知って、はじめて、解るものであるとするのである。

色好みとは、何か。
再度、考察する必要がある。

性別の、云々ではない。

隠棲する者たちも、少年と共に、あった。
何故か。

これを、見落とせば、色好みを、誤る。

源氏の女との、やり取りから、もののあわれ、というものを、観た、本居宣長の、一つの、欠陥は、それである。

紫式部は、美しきものということを、最重要課題にしている。

この、長い物語にある、もののあわれ、というもの、複合的、様々な要因によって、成り立っている。

私が、風景や、自然描写から、もののあわれ、というものを、観るというのは、それらも、含めてのことである。
風景、自然描写が、いかに、美しく描かれているか。

それは、人間の様を描く以上に、美しいのである。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 133

生というは、たとえば人のふねに乗れるときのごとし。このふねは、われ帆つかい、われかじをとれり、われさおをさすといえども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ
道元 全機より


禅が、生き残るべきは、宗教という、看板を下ろし、哲学道場として、活動することだと思うのは、このような、名文を見ると、強く思う。


人生というのは、たとえば人が舟に乗っているようなものだ。この舟は確かに自分が帆を使い、自分が動かしているにはちがいない。しかし、おれが生きているのだ、おれがおれがと言うけれど、逆に言えば、いくら自分がかじを取っていると言っても、しょせんは人生という舟に乗せられているにすぎない。舟がなければ川におぼれる。舟に乗せられてはじめて自分が成り立っている。とすると逆に、本当は人間を操っているのは船だということもできる。だから厳密に考えると、舟のほかにわれというものはない。
栗田勇


もし、人生を、このように、突き放して、観ることが、出来れば、実に有意義である。
これは、禅的に言えば、主観の客観性である。


栗田氏の、案内でゆく。
この場合、舟というのは人生のことです。つまり、人間は自分の生命、人生をああしようとか、こうしようとか、何とか自分の意志で動かせるものだと考えがちですが、実際は、自分で自分の人生を左右できるはずもなく、生という舟に乗せられているにすぎない。したがって、自分で自分の人生を自由にすることなど、できないのだというわけです。


宿命論のような、他力のような、気分になる。
ところが、道元の、捉え方は、違う。


栗田氏は、続けて
しかし同時に、「われふねにのりて、このふねをも舟ならしむ」。考えてみれば、私が乗っているからこそ、舟が舟なのだ。言い換えれば、自分なんてものはない。生きているという中に、ただ自分は乗せられているのだけれど、この自分が、私が生きているという事実を除いて、人生というものの実体はない。


これでは、また、元に戻っているようであるが、違うらしい。

要するに、生というものは、巨大な、それこそ宇宙爆発、また宇宙消滅のようなタイミングの一つの現れなのだ。宇宙と自分との間に生というものはある。あるいは、その両方が含まれたところにある。


青年の主張である。
そしてそれは、哲学である。
人生を、どのように、捉えるのか。


ところが、道元の「生死」というところに、書かれるのは、
この生死は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひてすてんとすれば、すなはち仏の御いのちを失わんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏の御いのちを失うなり。
と、ある。


その生死は、自己の生死ではない。「私」が「私」の生を生きるのではなく、「私」が「私」の死を死ぬのではない。だから厭ひ捨てても、執着しても、失われるのは仏の御いのちである。
亀井勝一郎


結果、仏というものに、転化する。
これでは、逆転の、発想であるが、大逆転である。
主体的でありながら、主体性を取り除き、仏に至るという。

この、仏に、神という言葉を、あててみると、キリスト教になる。
これが、宗教の迷いである。
それを、迷いではなく、真理だと、信じてしまうのが、信仰というものである。


いとふことなく、したふことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもて言ふことなかれ。ただわが身をも心をも、放ちわすれて、仏の家になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。
道元 生死より


美しい大和言葉である。
私も、若い頃、この言葉に、心酔した。
しかし、自我というものを、離れる、我というものを、突き放すという、行為によって、仏というものに、成る、成れると、思う心が、迷いである。

心を持ってはかるな、言葉を持って言うな
悟りや、救いについての妄想を完全に追い払うというのだ。
と、亀井勝一郎は、書く。

ところが、どうだろうか。
道元の、正法眼蔵は、全95巻もある。
よくよく、語ったものである。


一体、道元は、何を言いたかったのか。
仏と、仏で、向かい合っていれば、足りたものである。
しかし、何故、こうも、語るのか。
妄執である。
つまり、迷いである。

物を書くことによって、その、妄執から、逃れようとする。
書くという行為も、語るという行為も、妄執である。

仏陀は、語るが、実に易いのである。その多くは、例え話である。
道元は、中国思想の、中国禅の世界に入り、仏陀の本来の、目的、を、知らない。

もし、自分が、唯一の仏陀の法を継いで、それを、広告宣伝しなければならないと、考えたなら、京都から、離れずに、そこで、活動していたはずである。
都で、活動するのが、一番である。
しかし、失敗し、福井の田舎に、籠もる。

厳しい戒律、坐禅に生きるのである。
それで、良かった。
しかし、書くのである。
妄執である。それは、迷いである。

仏陀は、山に籠もらず、適度に、町から離れた場所で、行動した。
それには、意味がある。

少し、話は、逸れるが、仏陀の行動を、次に見る。
何度も言うのだが、日本の仏教は、中国を通してのものである。
特に、その思想は、漢語に訳された。

仏陀の、教えというものを、仏教、仏法というのなら、日本の仏教は、仏陀の、仏教ではなく、日本仏教であり、それは、創作である。

大乗になると、仏陀は、神格化されて、結果、各宗派の、開祖を、頼り、甚だしくは、その、開祖を、拝むという、真似までする。


考えるという、哲学の一つとして、あるのならば、理解するが、信仰するという、宗教という形にしてあるのは、実に、誤りである。
仏陀は、一言も、そんなことを言わないのである。

仏法とは、行為することである。
信仰することではない。仏陀は、一言も、信じよとは、言わない。

勿論、創意創作の、行為を、誤りだと言うのではない。
それを、信仰させるということが、誤りである。
だから、仏陀の、行為を、見ることにする。


posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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