2008年07月08日

もののあわれ238

ははき 木

光る源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふとが多かなるに、いとど、かかるすきごとどもを末の世にも聞き伝へて、かろびたる名をや流さむと、しのび給ひける隠ろへ事をさへ、語り伝へけむ人のものいひさがなさよ。さるは、いといたく世をはばかり、まめだち給ひけるほど、なよびかにをかしき事はなくて、交野の少将には笑はれ給ひけむかし。

光源氏、その名で、見事な、人生を、謳歌したように、思われる。自由奔放な恋愛、好色な生活が、世の中に伝えられるようである。
しかし、実際は、それとは、別に、地味な心持、生活であった。
それに、恋愛に関して、後に、誤って伝えられることを、恐れ、異性との関係を、人に知られぬようにしていた。
ここに書くようなことが、伝わっているのは、世間の、噂が、激しいのである。
いといたく世をはばかり
世の中を、憚り、自重して、恋愛、好色には、遠い。
好色物語の、交野少将などには、笑われていたことであろう。

書き出しである。
作者は、実在の物語であると、強く語るのである。
創作の物語を、更に、強く、実在にあるかの如くに、説得する。

ここで、紫式部は、この物語を、すべて作り上げて、書き始めたと想像出来る。
余裕、たっぷりである。

あたかも、人に聞いたかのように、順々に、物語する。
誰かに、話をするようにである。

まだ中将などにものし給ひし時は、うちにのみさぶらひようし給ひて、おほいとのにはたえだえまかで給ふ。しのぶの乱れやと疑ひ聞ゆる事もありしかど、さしもあだめき目なれたるうちつけのすきずきしさなどは、好ましからぬ御本性にて、まれには、あながたちにひきたがへ、心づくしなる事を、御心におぼしとどむる癖なむあやにくにて、さるまじき御ふるまひもうちまじりける。

中将時代は、宮中の宿直所に、暮らして、時々、舅の左大臣の家にゆく。
それで、他に、恋人を、持っている疑いを掛けられたが、世間にあるような、好色な男の生活は、嫌いだった。
まれには、あながたちにひきたがへ
稀に、風変わりな、恋をして、手ごわい相手に、心を打ち込んだりする、癖はあった。

しのぶの乱れやと疑ひ聞ゆる事もありしかど
春日野の 若紫の すり衣 しのぶの乱れ 限り知られず
伊勢物語

素性も知れぬ女に、一目惚れすることを言う。

この巻は、女の品定めをする。非常に興味深い巻である。
当時の、女性観を知ることが出来る。
少し、深入りする。

なが雨はれまなき頃、うちの御物忌さしつづきて、いとどながい侍ひ給ふを、おほいとのにはおぼつかなくうらめしくおぼしたれど、よろづの御よそひ、なにくれとめづらしきさまに、調じ出で給ひつつ、御むすこの君たち、ただこの御とのい所の宮仕へを勤め給ふ。

長雨とは、梅雨時期である。
帝のご謹慎が、幾日かあり、臣は、家に帰らず、宿直する。
このような日々が続き、源氏の御住まいも、長くなった。
大臣の家では、来ない源氏を、恨めしく思っていたが、衣装や、贅沢な調度品を御所の、桐壺へ運ぶ。
左大臣の、息子たちは、宮中の用をするより、源氏の宿に、通うことが、楽しいのである。


宮腹の中将は、なかに親しくなれ聞え給ひて、あそびたはぶれをも、人よりは心やすくなれなれしくふるまひたり。右のおとどのいたはりかしづき給ふ住みかは、この君もいとものうくして、すきがましきあだ人なり。里にても我がかたのしつらひまばゆくして、君の出で入りし給ふに、うちつれ聞え給ひつつ、よるひる、学問をもあそびをももろともにして、をさをさたちおくれず、いづくにてもまつはれ聞え給ふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふ事をも隠しあへずなむ、むつれ聞え給ひける。

中では、宮腹の中将は、最も源氏と、親しくなった。
遊戯をするのも、何をするのも、多の物に、及ばないほど、親交を深めた。
大事にしてくれる、右大臣の家へ行くことも、この人は、嫌いである。
結婚した男は、誰も妻の家で、過ごすのだが、この人は、親の家に、立派な居間や、書斎を持っていた。
源氏か出る時は、昼も夜も、学問をするのも、遊びをするのも、一緒だった。
おのづから かしこまりも えおかず
謙遜することもなく、敬意を、表することも忘れた。
むつれ聞え給ひける
仲良しである。
しかし、これは、尋常ではない。

睦み合うということである。
誰も言わないので、私が言う。
同性愛行為も、あるという。

当時の、交接は、男女の関係のみではない。実に、曖昧である。
それに、関しては、未分化であり、更に、そのような行為は、自然容認されていて、特別なことだとは、思わないのである。

美貌の源氏であるから、男も、放っておかないのである。

恋とは、女とするもの。
それを、好色という。
男同士の、睦み合いは、自然、当然として、書くこともない。

さて、この巻では、女の多様な姿を、皆が披露するのである。

その前に、

つれづれと降り暮らして、しめやかなるよひの雨に、殿上にもをさをさ人ずくなに、御とのい所もれいよりはのどやかなる心ちするに、おほとなぶら近くて、文どもなど見給ふ。

上記の文、大和言葉である。源氏物語は、すべて、大和言葉である。
物語は、女子供のものという意識があったのは、正式文書、男が書くものは、当時は、皆、漢語である。
漢字平仮名交じりの文は、女房文学といわれ。そして、その、女房文学は、源氏物語で、幕を開けたのである。更に、日本の文学の幕開けでもある。

一日中、雨が降り続き、何もできない様子である。
その、しめやかなる、夕方である。
殿上の役人たちも、少ない。源氏の桐壺も、静かである。
そこで、灯を点して、書物を見ていると、その本を取り出した、置き棚にあった、色の紙に書かれた手紙を、中将は、見たがった。

さて、これから、源氏と、中将の女についての、語りが始まる。
物語は、中将の女の品定めを語る。

更に、そこに、左の馬の頭と、藤式部の丞が、加わり、女談義に、花が咲く。

様々な女の姿を、源氏は、聞くことになる。
特に、左の馬の頭の、中流の女の話に、興味を惹かれる。
これが、源氏の、恋愛遍歴の、始まりになるのである。



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神仏は妄想である 127

而今の山水は、古仏の道現成なり。
じこんのさんすいは、こぶつのみちげんじようなり。
道元

自然における人間のあり方を、とことん突き詰めた道元の、結論がここにあります。
栗太勇

栗田氏は、その前に、
われわれ日本人は、自然というのはもともと存在するありのままのものだと思う。しかし、ヨーロッパで自然―――ネイチャーといえば、神の被造物だから神の秩序の下にあると考える。神の秩序の中にないものは、これはカオスです。カオスとは、混沌であり悪魔です。自然ではありません。
だから西洋においては、自然は神が造った秩序であり、人間も同様である。つまり、人間と自然とは、神様を仲立ちにして、同じ被造物として対立の関係にあるということになる。
と、言う。

この手の話は、多い。
欧米人は、自分たちが、理解出来ないものは、悪と、考える。
それは、キリスト教による。
理解出来ないものは、皆、悪魔から、出ると、信じる。

チューク諸島、エモン島に、慰霊に出掛けた時に、若者の葬儀を見た。
島の人は、ブラックマジックに、掛かったと、理解し、島の、方法で、彼を助けようとした。しかし、教会は、それを、悪魔的方法であると、両親に言う。信仰深い、両親は、島の方法を、断った。
島の一人が言う。
誰でも、それを、行うことが出来る。
山に入り、草の新芽を採り、それを、煎じて飲ませれば、治るのだと。
グアムの病院、ハワイの病院を回り、それでも、治らない。それで、島に戻して、亡くなったのだ。

このように、キリスト教により、彼らの理解出来ないものは、悪魔のものと、判断すると言う、非常に短絡的思考なのである。

日本人は、自然を、もともと存在する、ありのままのものだと、思うと、栗太氏は、言うが、それは、どこからのものかを、言わない。
古代からの、日本人の感性であり、それが、現されているのは、万葉の歌である。

さて、道元の言葉である。
有名な、山水経の中にある。
而今の山水とは、その中に、過去、現在、未来を、通じて、絶対的な、今の存在としてあるというのである。

ということは、とりもなおさず、かつて釈迦なら釈迦のような真理に到達した人が見た山水である。対立する人間と自然というような差別もない。自分を捨てきったときに、そこに現れてくる全宇宙というものがある。
「古仏」の仏とは真理ということです。古とは昔ということではない。かつて釈迦や悟りを開いた人がはっきり体験した瞬間のことであって、それは永遠の瞬間です。自分が悟りを開いた瞬間もまた同様で永遠です。したがって仏道の先輩たちが見た山水の姿は、いま自分が目の前にしている山や水に、そっくりそのまま現れている。
栗太勇

見ている自然、見られている自然、という、概念を超えた、それらを、すべてひっくるめた永遠の世界というもの、それが、今、そこに、姿を現すというのが、山水経であると、栗太氏は、言う。

道元の文は、名文である。
心に迫る質が、他の文とは、違う。
文学として、日本が、誇れるものである。

しかし、だか、と言う。
道元の、発見は、すへでに、日本人の、持つものである。
道元は、漢語を使い、見事に表現したが、それは、日本人が、もともと持っていた、感性である。

いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいずる 春になりにけるかも
志貴皇子

ただ、自然の様を歌う。
春が来たと、歌う。
その春は、永遠の春である。
今、春しかないのである。
歌は、多くを説明しない。
しかるに、仏教は、延々と説明する。そして、更に、何とでも言う。
理屈に理屈を、重ねる。
人は、それに翻弄される。

道元の見事な、文に、感動するのは、理解するが、それは、元々、そのように、あった、日本人の感性による、捉え方であった。

連続している時間の中の昔ではなく、昔の釈迦が生きていた瞬間の真実ですと、栗太氏は言うが、昔の釈迦が、生きていた瞬間の真実ですという、感覚は、どこからのものか。

今、目の前の山水は、悟りを開いた釈迦が、見た瞬間の山水だという。

これは、発見ではなく、確認である。
日本人は、そのように、自然を観ていたのである。

古今の絶唱といわれる、万葉、舒明天皇の御歌。

夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
ゆうされば おくらのやまに なくしかは こよいはなかず いねにけらしも

何事もない、沈黙と、静寂を歌う。
すでに、時間を超越し、さらに、自然との、対立なく、和している。
それは、今が永遠なのである。

しかし、ここで、道元と違うことは、そこには、神も仏の無いということである。あるのは、自然のみである。
しかし、道元は、釈迦とか、仏を持ち出すのである。

神も仏も、置かない、歌というもの、それが、日本の伝統である。

道元も、そこから、逃れ得なかった。日本人である。
ただ、仏という、方便を置いたのである。

天智天皇御歌

わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 あきらけくこそ
わたつみの とよはたくもに いりひさし こよいのつくよ あきらけくこそ

そのまま、生命力の歌である。
しかし、それを、説明しない。

海上遥かに、大きく豊な雲が、旗のように、たなびいている。その雲に、夕日が射している。今夜の月は、清明であろう。と、歌う。

神や仏を、置かない。
自然のそのままを、歌う。
数万語を超えて、三十一文字に託すのである。

私は、道元を、世界に通じる、実存哲学であると、言う。
しかし、万葉は、実存という言葉も、超えて、つまり、説明せず、そのままを歌い、それで、完結する。
その、完結は、ただ、広がり行くばかりである。
無限である。そして、永遠である。

而今の山水は、古仏の道現成なり、と語らなくても、万葉の歌は、それを、軽々と超える。

道元の求めたところは、仏ではなく、大和心である。しかし、それに行く着く前に、坐禅で、止まった。

それでは、名も無き人の、万葉の歌である。

大海の 島もあらなくに 海原の たゆたふ波に 立てる白雲

大海の 水底とよみ 立つ浪の 寄らんと思へる 磯の清けさ

海原の 道遠みかも 月読の 明すくなき 夜はくだちつ

主観、客観を超えて、貫流するもの。
多くの言葉を、使用せずに、歌い上げる、あるがままの、姿。

どこにも、神や仏を、持ち出さないのである。

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アボリジニへの旅 8 平成20年7月

トンガ出身の運転手さんは、トラさんと言った。
すぐに、覚えた。トラさんである。寅さん、であると、私は、勝手に覚えた。

トラさんとは、連絡先を、交換して、次に来る時には、あらかじめ連絡して、ダリンブイに滞在すべく、手配してもらうことになった。

私たちは、街の図書館まで、送ってもらい、別れた。
図書館には、インターネットの設備があるからだ。
無料サービスである。
ところが、日本語での書き込みが、出来ない。
折角だが、ただ、見るだけである。

私たちは、図書館から、歩いてモーテルに向かった。
買い物をしていたので、それを、持ってである。
とぼとぼと、歩いた。

そして、広い芝生の前に来た時、二人の女性を見た。
ヨーと、声を掛ける。
ヨォルングの人である。

それが、また、話し掛けてくる。
何と、ジャルーの娘さんと、孫娘である。

私たちに、ジャルーは、午後から、家にいるよ、というのである。
何も、彼女たちは、知らないはずである。
これは、何としても、ジャルーの家に行けということである。

すでに、昼を過ぎているのである。
もう、ジャルーは、家にいるであろうと、推測した。

私たちは、モーテルに戻り、簡単に食事をして、出掛けることにした。

そこは、イースト・ウディ・ビーチという海岸であるから、私は、そこで、追悼慰霊の儀を行うと決めた。
野中が、何か、お土産を持って行きたいと言うので、それなら、お供え物として、持って行き、それを、最後にプレゼントするといい、ということになった。

早速、裏のスーパーに向かった。
牛肉や、飲み物、紅茶などを、買った。すべて、野中が、選んだ。
それを持って、モーテルに戻り、タクシーを呼ぶ。
来たタクシー運転手は、あのイラン人である。

今度は、どこ、である。
ジャルーの家だと言うと、すぐに、発進した。
有名人であるから、知っているのだ。

15分程で、到着した。
砂浜である。
何件かの家が、建つ。更に、テントも、二つある。
そこには、ジャルーの家族が住んでいた。

私たちは、最初の家に入った。
あっちと、その先を指差す。
何も説明していないが、ジャルーに逢いに来たと、思っている。

後の家が、ジャルーの家だった。
そこに、入った。
ジャルーの娘の一人が、絵を描いている最中だった。
挨拶して、自己紹介した。

その絵は、聖地をイメージしたもので、真ん中に、蛇、そして、周囲に睡蓮の花である。
蛇と、睡蓮の花の組み合わせは、ヨォルングの伝承である。
実に、意味深いものである。

あの、聖地の下には、先祖霊が、蛇の姿で眠っているというものだった。
そして、睡蓮の花の咲く時期は、とくに大切な時期なのである。
先祖の夢が、目の前のすべてのものだという、考え方をする、彼らの、最大のドグマを、象徴した絵である。

彼女の口から、意外な言葉を、聞いた。
本当は、ジャルーは、いるはずだったが、突然、ジャルーの妹が亡くなり、儀式のために、出掛けたというのである。

ここまでの経緯を、考えると、当然、ジャルーに逢うものとばかり、思っていた。それが、違った。

しかし、落胆した表情は、見せなかった。
私は、本来の目的を、野中に、通訳させた。

日本から、先の大戦で、被害を受け、犠牲になった、アボリジニの人々の霊を、慰めるために、ここに来たと説明した。

彼女は、何の違和感もなく、それを、受け入れた。
彼女の、夫や、子供たちも、集ってきた。

説明して、すぐに、私たちは、海岸に出た。
砂浜が続く。その先が、海である。

少しばかり高い場所を選び、供え物を置いて、慰霊の準備をした。
いつもは、供え物は、置かない。

神道の祭壇には、多くの供え物が、並ぶ。すべて、決まっている。
神様に、捧げる、地の恵みである。そして、お神酒である。
しかし、私は、一切、置かない。
あちらが欲するものは、ただ、真心だけであるからだ。

ちなみに、土地の霊位などには、供え物を上げる。産土の神々である。

今回は、お土産として、持ってきた物を、供えた。
それは、また、差し上げる、相手にも受け取りやすいと、思った。

一本の枝を折り、御幣として、捧げた。
そして、神呼びをする。
即座に、祝詞が口を付いて出た。
ここでは、祝詞が、唱えられた。

更に、清め祓いの時に、兎に角、飛び跳ねたい気持ちになった。
それを、抑えて、四方を清めた、そして、追悼慰霊の心を持って、神遊びの、音霊をしばらく発した。
素晴らしく、心が、解放される。

そう、私は、このために来たのである。このためだけに、来たのである。

すべてを終わり、後片付けをして、供え物を、再び袋に入れて、ジャルーの家に戻った。
私たちの行為を、見ていた子供が、すぐに、真似て、拍手を打つ。
小さな子は、全裸である。

供え物を、娘さんの前に置き、報告した。
彼女は、じっと、私を見つめた。
理解している。

儀式を、最も大切にしている、アボリジニである。
説明はいらない。

彼女は、何度も、私たちに礼を述べた。
供え物も、喜んだ。

しかし、皆、一応に、ジャルーが家にいると、私たちに教えたのである。
何故か。
そして、そのジャルーは、妹さんが亡くなり、儀式のために、出掛けた。

皆と、写真を撮った。
子供たちが、楽しそうに、私たちの周りに集う。
写真を撮ると、私の膝に、乗った子もいた。

そして、もう一軒の、娘さんの家に行った。
野中が、娘さんに、話しかけている。
子供たちも、出て来て、私たちに、挨拶する。

ジャルーの孫娘たちは、皆、可愛い。年頃の子は、美人である。
おかあさんが、私に、スピリットは、どうなったのかと、訊く。
野中が、通訳してくれた。

私は、天にあると、答えると、深く頷き、納得した。

実は、この行為も、皆、何の抵抗もなく、受け入れているのである。
その時、車が到着した。
ジャルーの奥さんが、帰って来た。
野中は、奥さんに初めて逢うので、感激していた。
白人男性も、降りて来た。
そして、私たちに、日本語で、挨拶した。
妻と娘が、日本語教師をしているという、日本通の白人だった。

私たちが、奥さんに、事の顛末を説明すると、その男性は、シントーと、言った。
イエス、オールド神道である、と、私は答えた。

奥さんは、大変喜んでくれた。
丁度、イダキの材料となる、ユーカリの木を切り倒してきたと言う。
先ほどの家にも、造りたての、イダキが、何本も置かれていた。
奥さんは、野中に、あなたが欲しいなら、分けて上げると言う。それが、野中の、悩みになるのであるが、後で書く。

男と、女の儀式は、区別されていると、書いた。
夫の、妹が亡くなっても、彼女は、ここにいる。その儀式は、別グループのものである。

また、車が来た。
今度は、ジャルーの後継者である、息子さんだ。
野中も、初めて逢う。
皆が、集い、大変な賑わいになった。

彼は、ジャルーから、すべてを、伝承されている。
つまり、次の長老である。

私は、素晴らしい出会いをした。

ここで、余計なことを書く。
奥さんと一緒に、同行していたのは、キリスト教の、ミッション系ボランティアである。アボリジニたちを、助ける組織を作っている。
そこまでは、よい。
私が、奥さんの、膝を心配して、手を当てて、祈りますと言うと、横から、ここの人々は、キリスト教徒ですと言う。
カトリックかと、訊くと、違うという。
プロテスタントの一派である。
実は、カトリックと、プロテスタントの、ボランティア縄張りの、暗黙の、確執がある。

それぞれが、アボリジニを、信者に、取り込むために、様々な、ボランティア活動を行うのである。

彼は、私を牽制したのである。
他の宗教に、対する態度は、一神教は、特に激しい。

彼らは、それが、偽善であるとは、気付いていない。
非常に、有意義なことをしていると、信じている。
アボリジニの伝承と、伝統を破戒したのも、彼らである。そして、アボリジニの精神を、破壊する行為を続けて、今は、それらを、助けていると、信じているのである。

その、矛盾にすら、気付いていないのである。
重病である。

彼らは、自分たちが、理解出来ないものは、悪であり、悪魔からのものであると、考える。
勿論、悪魔的なのは、彼らである。

自分たちの価値観以外のものを、受容出来ないのである。

彼は、私たちに、非常に好意的だったが、それと、これとは、別物である。

私は、野中から、ジャルーは、カトリックのアボリジニの、まとめ役をしていると、聞いていた。
キリスト教と、上手に付き合っていかなければ、アボリジニの生活が、成り立たないのである。そこまで、追い詰めたのも、キリスト教徒である。

アボリジニたちは、表向きは、キリスト教徒となり、伝承と伝統は、守りつつある。苦肉の策である。
それは、見ていて、痛々しい。

タクシーを呼んでもらい、モーテルに戻ることにした。
その間に、息子さんや、奥さんと、写真を撮った。
息子さんは、少しアホのように、見せる演技をしている。多くの摩擦を、避けたいのであろう。それも、心が痛んだ。
ジャルーの後継者であるということでの、ストレスは、大きいはずだ。
ジャルー亡き後、彼は、すべての重責を負うのである。

様々な、思惑を持った者、大勢いる。
アホを演じていなければ、ならないほど、辛いことはない。
私たちにも、今、サッカーの練習をして来たという。

私の肩を抱き、写真に収まった。

タクシーに乗り、私は、野中に言った。
慰霊の時、どうしても、飛び跳ねたくなった、と。
それは、彼らは儀式の時に、飛び跳ねるからだよ、と言う。
あっ、そう。
posted by 天山 at 17:07| アボリジニへの旅 平成20年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月09日

神仏は妄想である 128

太陽山偕和尚、示衆云、青山常運歩、石女夜生児
たいようさんかいおしょう じしゆうにいわく せいざんつねにうんほし せきじょよるこをうむ

これはすごい言葉です。動かない山(青山)というものは、実はつねに歩いている。子を生まない石女が、実は、夜、子を生むのだというのです。ずいぶん無茶苦茶で矛盾した言い方です。私たちの常識を著しく衝撃します。
いつも道元は、まず結論を出して人を驚かして、それからそのいわれを説いていくのですが、道元の解説によると、つまり、山にはすべてのそなわるべき真実が、まったく欠けることなく、そこに存在している。そういう意味で言えば、山はつねに安らかにそこに住んでいるのである。
しかし、山が歩くということも、人間が動くということも本来は同じであるから、人間が歩くように目に見えないからといって、山が歩いているということを疑ってはいけない。
栗田勇

それから、解説に入るのだが、それが、事後預言のような、話になるのである。

禅というもの、実に、不思議である。
言葉を、手品のように、扱う。そして、それを、そうそう、解説せずに、悟り云々というのである。
さらに、それを理解しない者、出来ない者は、欄外となる。

不立文字、つまり、語らないと、言いつつ、語る、語る。

確かに、山が動くと、云われれば、皆、驚くに決まっている。その、衝撃に、期待して、何事かを、教えるというのである。
それは、考える手引きとなるものだが、単なる手品のようなものである。

一時期、私も、禅の言葉に、心酔したことがあった。
勿論、若い頃である。
そして、あろうことか、何事かを、理解したと思っていた。
何のことは無い。言葉遊びであった。

問題は、動くということと動かないという矛盾したことが、どうして一致するのかということです。「運歩」とは、つねに歩く、言い換えれば、つねに、刹那刹那に動いている、変化しているということ。つまり、山というのは細かく見れば変わっている。・・・・・
何億年という単位でみれば地殻も変化するし、地震も起こす。太平洋トラフトがトラフトの下にもぐっていく。すなわち山は動いているわけです。
しかし、そのように変化しているからこそ、山というものはつねにさまざまな形は変えるけれども、永遠の山は不変であるとくる。
栗田勇

山中とは世界裏の花開なり
さんちゅうとはせいかりのけかいなり

山の中にいるということは、実は、世界裏―――世界の中で花が咲いているということだ。
花開くとは、刹那、瞬間の現象を意味します。たとえば一輪の花が開くという現象の中に、実は山全体というものが姿を現しているのだというのです。
栗太勇

この調子で、進んでゆく。
さらに、道元は、山の中に、そのような宇宙の真実を見ることができない人間は、悟らず、知らず、見ず、聞かず、まったく真理を知ることができない、という。

ある人が、私のエッセイを、読んで言う。
言うことは、よく解るが、私の考えと違うと。
それは、大いにあり得ることである。しかし、道元の文になると、それが言えなくなる。道元という、権威があるからである。

これらは、実は、小学生の、物を考えること、という時間などで、教える程度のものである。
急死された、ある女性哲学者の方も、禅は、残りえる宗教だという。
それは、考えるヒントになるからである。

問題は、それからである。
道元は、山の寺に籠もり、規律正しい生活の中で、僧として生きられた。
後々、道元の、規律についても、書くが、結局、娑婆、現実世界とは、離れた場所にて、生きることができた。
ただ、それだけの違いである。

禅の、言葉を、生きるとしたら、現実社会の中では、生きられない。
それは、道元も言う。
出家することなのである。

話を、元に戻す。

だから、何だと言うのかという、言葉の数々である。

石女、うまづめ、が、子供を生むという。
うまづめは、子供が産めないから、石女と、呼ばれる。
それを、石女が、子供を生むと、脅す。

仏法から、見れば、石そのものは、不変であるかのようだが、実は、生き生きと活動していると、こういう、話になる。

であるから、何でも、いい訳である。
思考の転換を、促す言葉であれば、何でもいいのである。

女が、子供を生むのではない。因縁が、子供を生むのである、と、言ってもいい。
一人の人間が生まれるには、膨大な人の縁あればこそである。
そのように、いくらでも、言葉遊びができる。

青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。

その境地は、もはや人でもなければ山でもない、山でもなければ人でもない。そういう山や人間という差別を超えたその奥にある深い、永遠から今につながる真実の姿というものが見えてくる。あるいは、そういう境地に立ち至っている。
栗太勇

これは、フランス文学者の書いた、道元の言葉の解説であるから、よく解るが、禅の僧たちの、解説になると、さらに、そのための、解説が必要になってくる。
いかに、深いのかということを、書く、書く、書く。

自分と山が、一致しているという実感を、味わうというのである。
それでは、何故、源氏物語から、それを、知ることが出来ないのだと言う。
大和言葉の世界は、それ、に、満ち溢れている。しかし、それを、殊更のように、言うことはない。水のように、さらさらと、流している。

どちらが、上級なのかは、一目瞭然である。

道元は、日本人として、禅を理解したのである。
それは、インド哲学、中国哲学を、超えていたものである。
彼、自らの内に、あったものである。

主観も、客観も、無い世界が、開けるのである。とは、言うが、それを、実生活で、生きるとする時に、どのようなことになるのか。
何の変化もない。

それを、和歌にして詠むのが、日本人である。

実生活の中で、それを、生きるべきく、先祖たちは、和歌を詠んだ。

もっと極端に言えば、逆に、山が歩くというよなことを手がかりにして、山のことなんか忘れてしまえ。あるいは、山を見ている人間がいるという考えも捨ててしまえ。あるのは山だけだ、あるいはその山もないのだというような境地、心持を体験しなさいと言っています。
栗太勇

こうして、尽きることの無い、深み、深さに至るのである。
本当だろうか。

それを、日々の生活に生かすとしたら、どういうことになるのか。
そんなことを、感じていたら、空気の読めない人になるだろう。
だから、禅を語らせたら、暇な人に限る。
延々と、繰言のように、話し続ける。

それで、よく解らないと言うと、兎に角、座れという。坐禅のことである。

もう一人、フランス文学者である、森本和夫という人も、道元をよく読んだ人である。

なるほど、「世界」に「水」があるということは事実だといえるにしても、それは一面的なとらえかたにすぎない。世界の水だけを考えていたのでは、「水」そのものを考えたことにならないのである。そのような偏見を捨て去って、絶対普遍的な立場から「水」というものをとらえてみるならば、「水」の場所に「世界」があるということもいえるのだ。
森本和夫

こうして、道元の言葉から、迷いの道に踏み込んでしまうのである。

絶対普遍的な世界、それは、すなわち、仏の世界である。
要するに、すべては、仏の世界を、現すというのである。

それでは、私も、一変に飛躍して、芭蕉の句を言う。

有名な、駄作がある。
しずけさや いわにしみいる せみのこえ
である。
禅をする者、どのように、解釈するのか、訊いてみたい。

静けさと、蝉の声である。
さて、どうする。
蝉の声が、静けさを、現す。
それ、仏の世界ではないか。

人を、惑わす仏の世界が、その句にあるではないか。

蝉の声が、静けさというものを、より一層、讃えているのであろうか。
蝉の声も、静けさも、一緒、つまり、同化している世界、つまり、仏の世界であろう。

要するに、何でもいいわけである。

古仏云、「山是山、水是水」
こぶついわく、やまこれやま、みずこれみず

道元は、それを、解説して、
やまはこれやまというにあらず、山これやまというなり。しかあれば、やまを参究すへし。山を参窮すれば山に功夫なり

やまこれやま、という、日常レベルではなく、目の前にある山は、無限絶対という、仏の世界と、一体化した、やまなのである、ということである。

目の前の山が、カラーフイルムが反転するように、バッと飛躍してひっくり返ると、絶対的な真実が見えてくる。これはひじょうに美しい文章で、道元の面目躍如といえましょう。
栗太勇

後で、禅語録を、読むが、そのような、飛躍した、言葉に溢れている。

飛躍しているのか、イッてしまったのか、解らないが・・・

思想としての、禅は、非常に評価できるものである。
何気ない言葉に、新しい息吹を吹き込むのである。
そして、楽しい。

粘土から、美しい、陶芸が、出来るのである。陶芸品でよし。
それが、仏に至ると、誤る。

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もののあわれ239

源氏に、女談義を、聞かせる、男たちの話は、面白いが、私のテーマは、もののあわれについて、であるから、省略して、中に、もののあわれ、について、触れる話があるので、抜き出す。

それは、左の馬の頭の論にある。

事が中になのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知りすぐし、はかなきついでの情あり、をかしきにすすめる方、なくてもよかるべしと見えたるに、またまめまめしきすぢをたてて、耳はさみながら、美相なきいへとうじのの、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして、朝夕の出で入りにつけても、おほやけわたくしの人のたたずまひ、良き悪しき事の、目にも耳にもとまるありさまを、うとき人に、わざとうちまねばむやは。

事が中に なのめなるまじき人の
妻に必要なのは、家庭を預かることです。
もののあはれ知りすぐし
ここでは、文学的才能とか、文学趣味とか、才気のことを言う。
書き物、物書きを、よくする事を、もののあはれ知りと、解す。
それは、また、歌をよくするという意味でもある。

はかなきついでの情あり をかしきにすすめる方、なくてもよかるべしと 見えたるに
儚きついでの情あり、とは、矢張り、そのような素質のあるという。
それを良くすることであるが、そんなものは、別に、無くてもいいのだ。

真面目で、形振り構わず、髪を煩がり、耳の後に、はさんでばかりいる。
ただ、物の世話だけを、やってくれる。でも、そんなんでは、少し、矢張り、物足りない。
勤めに出れば、出るで、帰れば帰るで、公のことなど、友人や先輩のことなど、話しすることは、多くある。
それは、他人に言えません。
理解ある、妻にしか話せないのでは、つまらない。要するに、話を聞いてくれる妻がいい。


近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに、語りも合わせばやと、うちもえまれ、涙もさしぐみ、もしはあやなきおほやけはらだたしく、心ひとつに思ひ余る事など多かるを、なににかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひで笑ひもせられ、あはれ、ともうちひとりごたたるに、「なに事ぞ」など、あはつかにさし仰ぎ居たらむは、いかがは口をしからぬ。

この話を、早く聞かせたい、妻の意見も聞きたいと思う。
そうすると、一人でも、笑みが湧いてくる。また、涙ぐまれもする。
また、公のことで、怒りをもっても、我が心に、しまえぬ時、それを話す妻ではないと、思えば、一人で、思い出し、笑う。哀れだと、独り言を言う。
そんな時に、何ですか、と、平然として、こちらの顔を、見るような、妻では、たまらない。

そうして、暫くの談義が、続くのである。
それは、明かし給ひつ、というように、朝まで、続いたのである。

中でも、源氏が惹かれた話は、左の馬の頭の、中流階級の女の話である。
それに、興味を持ち、源氏の、恋愛遍歴が始まるのである。

この巻の、後半に、年上の人妻である、空蝉という女性との、やり取りがある。


からうじて、今日は日のけしきもなほれり。かくのみこもりさぶらひ給ふも、おほい殿の御心いとほしければ、まかで給へり。大かたの気色。人のけはひも、けだかく、乱れたる所まじらず。「なほこれこそは、かの人々の捨てがたく取りいでし、まめ人には頼まれぬべけれ」とおぼすものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひ静まり給へるを、さうざうしくて、中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、たはぶれごとなど宣ひつつ、暑さに乱れ給へる御ありさまを、「見るかひあり」と、思ひ聞えたり。

ようやく、今日は、晴天である。
このように、宮中にいることばかりでは、左大臣の家の人々に、申し訳ないと、思いつつ、家に行った。
人の気配も、乱れなく、こんなことが、真面目だという、昨夜の談義の者たちは、気に入るだろうと、思った。
源氏は、今も、作法通り、打ち解けない夫人であることを、物足りなく思う。
中納言の君は、中務などという、若い女房たちと、冗談を言い、暑さに、部屋着だけになる、源氏は、それを見て、美しいと思い、それを、幸せだと、思った。


おとどりも渡り給ひて、うちとけ給へれば、御凡帳へだてておはしまして、御物語聞え給ふを、源氏「あつきに」と苦み給へば、人々わらふ。源氏「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いと安らかなる御ふるまいなりや。


大臣も、娘の方へ出て来た。
部屋着になっているので、凡帳を隔てた席に着こうとするので、「暑いのに」と源氏が顔を、しかめると、女房たちが、笑った。
「静かに」と、脇息に、寄りかかった様子に、品の良さが伺える。

人間描写が、もののあわれ、である。
文芸的センスに溢れる。

源氏の立ち居振る舞いが、状況にて、自ずと知られるように、描かれるのである。

大和言葉による、風情というものもある。
言葉にも、雅というものがある。
この、雅の中に隠す、あはれ、という、心象風景は、源氏という人物を通して、自然と、沁みてくるのである。

文中では、もののあはれ、とは、文の嗜みなどを、言う。
生活の中に、息づく、歌心である。
それが、いつしか、人の心の、有り様となって、静かに、もののあはれ、というものを、成長させるのである。

歌道とは、和芸の大元である。
文学というものに、まだ、目覚める前の、原始の状態である。
文の学びはあるが、体系としての、文学という意識は、まだ、希薄である。しかし、私がいうのは、明治期に、西洋の文学を取り入れて、文学として、意識したものとは、違う。

和芸としての、文学、つまり、文習いである。

漢籍を、学ぶことで、文というものを、それに、合わせて、学んだが、歌を詠むのは、漢籍を能くする者も、大和言葉による。

源氏物語は、分岐点でもあった。
歌道への、道と、文芸への、道と、まさに、今、生まれでようとしていた。
だが、文芸の中にも歌道は、しっかりと、取り込まれているのである。

歌道無くして、文芸は無いのである。
歌は道であるが、文は、芸の道として、新たに、生まれ出るである。

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アボリジニへの旅 9 平成20年7月

16世紀半ばである。
ヨーロッパの様々な、航海者、冒険家たちが、国や王の命を受けて、オーストラリアにやってきた。

当時は、テラ・オーストラリアスと呼ばれて、知られざる大陸、巨大な富みに埋もれる大陸という、幻想を抱いていたようである。
1515年から1607年にかけては、ポルトガルと、スペインが、黄金の島と、幻の国を求めて、ジャワの南と、東を航海している。

ポルトガルは、1521年から、翌年にかけて、大陸の東海岸に来たが、何も見つけることがなく、引き上げる。
また、1567年に、スペイン人のアルバロ・デ・メンダーニャ、1605年には、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスが、黄金伝説の夢と、更に、カトリックの伝道活動に加え、スペイン領にするために、ペルーから、航海に出たが、どちらも、オーストラリアには、辿り着いていない。

1606年以降、オランダ船が、北部と、西部の海岸を航海し、この地を、ニュー・ホランドと、名づけた。
彼らが、見つけたのは、砂と、ハエ、そして、裸の野蛮人と、奇妙な動物だった。

その後も、何度か、大陸を見つけ出したが、利益になりそうなものを、見出せず、そのまま、置き去りにされる。

価値の無い大陸と、見られた大陸に、目をつけたのが、イギリス人だった。
イギリスが、欲しかったものは、移住者を送ることが出来る、新しい支配地だった。

面白い記述がある。
海賊だった、ウイリアム・ダンピアーという男が、書いた、日記である。
それは、後々、オーストラリアと、原住民に対する、偏見の元となるものだった。

この土地の住民は、世界で一番みじめな人々である。
背が高く、肢体が真っ直ぐ伸び、手足は痩せて、小さく長い。大きな頭、丸い額、隆起した眼を持つ。
顔は長く、不愉快な表情で、決して上品ではない。髪は、ニグロのように黒くカールしている。
肌の色は、ニューギニアの住民同様、石炭のように黒い。
衣服は、身につけていない。腰の辺りにガードルのような木の皮をつけたり、長めの草、三、四本の大枝を、ガードルの中に突っ込んで、裸体を隠している。

特に、彼は、二度に渡って、先住民に関して、生まれつきの醜さとか、今まで出会った多種多様な野蛮人の中で、最も不愉快な外見と最悪の顔の造作をもった人々であると、書く。

これが、アボリジニに対する最初の、そして、以後続く、偏見のはしりとなる。

この当時の、ヨーロッパの考え方が、如実に理解出来る、記述である。
つまり、文明、というもの。
文明人とは、産業世界に生きる人なのである。
そして、最悪なのは、キリスト教徒であること、なのである。

裸でいることは、ヨーロッパの人にとっては、貧しさの何物でもなかった。

彼らには、多く、アボリジニの真実が見えない、見ない思想を持っていたと、言える。
アボリジニたちの、食生活の豊かさなど、思いつきもしないのである。

今でも、そうであるが、欧米、特に、キリスト教徒たちは、自分たちが、理解できないものは、悪であると、考える。更に、推し進めて、悪魔からのものであると、考えるのである。
勿論、悪魔は、彼らの神なのであるが。

時代性というものがある。
野蛮という定義も、変化する。
いつしか、野蛮というものも、文明の悪に侵されていない状態であると、考えられるようになると、高貴な野蛮人という、へんてこな、言葉が生み出される。

1769年から1770年にかけて、ジェームズ・クック大佐の、遠征隊が、海岸部に接触し、正確な地図を作ることになる。

1770年の四月、タヒチから、南に向かったクックは、西に進み、ニュージーランドに着いた。そして、オーストラリアの東海岸に、向かう。
結果、東海岸部を、英国王室のものであるとする、領有宣言をする。

クックの記述を見る。
ニュー・ホランドの先住民は、地上で一番みじめな人々である。
しかし、現実には、我々ヨーロッパ人より、はるかに幸福である。必要以上の情報を得るわけではなく、ヨーロッパで追求されすぎる便利さというものに、惑わされることもない。
彼らは、静寂の中に暮らしている。
地上と海との調和のなかに生きているのだ。
生きるためにすべのものをもっている。むやみに望んだりはしない。
暖かく素晴らしい気候のなかに住んでいるし、空気というものを満喫しているので、衣服の必要性などほとんどない。彼らはこのことをよく知っている。
たとえ衣服を与えたとしても、ただ無造作に砂浜や森の中に、置いておくであろう。
端的にいえば、我々が与えるものなどに、何の価値も見出さないであろう。
自分たちに必要なものは、すべて与えられてあると感じているからだ。
生活は漁業と、狩猟に頼っている。耕作地というものが、ほとんどない。

18世紀の、ヨーロッパの思想は、自然に生きるということは、ロマンティズムとなった。
それが、高貴な野蛮人という、思想である。

しかし、ヨーロッパ文明の傲慢は、その土地を、無主の土地として、イギリス領有宣言し、ジョージ三世国王に、捧げるという、矛盾したものである。

ドリーミング
独自の世界観の中で生きてきた、アボリジニの伝承を、ドリーミングという。それは、文字で、表されるのではなく、絵や、儀式にて、表される。

その中で、白人が来たことを、暗示させるものが、残されている。
私は、学者ではないから、省略する。

結論を言う。

アボリジニの世界観、自然観は、こうである。
目の前にあるものは、すべて、先祖の夢である。

すべては、調和する。

従って、白人に対する態度も、最初は、受け流す、そして、一度拒否する。そして、最後は、受容しようとする。
すべてのものは、調和して、全体の中で生きている、それが、アボリジニの世界観であり、自然観である。それは、また、人生観でもある。

と、このうよに、書くこと自体にも、無理がある。
それは、言葉にできないほどの、強烈なものであると、思うからだ。

私は、日本人として、それを、理解する時、言挙げせず、という、古神道の、考え方に、非常に近いものだと、思う。

白人が来たことを、受け入れるならば、それも、先祖の夢であるから、先祖が、戻ってきたと、考える場合もあるということだ。

だが、白人が来たことは、アボリジニの悲劇の記憶になってゆくのである。

クックの領有宣言の後、イギリスは、使い道のないまま、大陸を放置していたが、フランスの学術隊が、オーストラリア航海をするという報を受けて、俄かに、活気づくのである。

1786年二月、東海岸と、隣接した島々の植民地宣言をするのである。
現在の、ニュー・サウス・ウェールズ州である。
八月には、流刑植民地をつくることを、発表する。

1787年、五月、初代植民地総督、アーサー・フィリップのもと、囚人約780人を含む、1200人を乗せた11隻の第一次流刑船団が、ポーツマス港を、出航した。

1788年、一月二十日、ボタニー湾に到着し、その後、船団は、二十六日、シドニー・コープに、上陸した。

産業革命による、急激な社会の変化に、伴い、犯罪者の増加である。その処置に困り果てた、イギリス政府は、大陸を、最大なる監獄にしようとした。
当初は、犯罪者を、アメリカに、売りさばいていたというから、驚く。ただし、独立戦争後は、不可能となった。
いや、驚くにあたらない。アフリカの黒人を、奴隷として、売りさばいていたのであるから、何とでも、する。

囚人の種類は、二級市民であり、教育を受けていない者が多く、アボリジニの複雑な文化などを、理解出来るような人々ではなかった。
これが、より一層の、悲劇を生むのである。
posted by 天山 at 17:07| アボリジニへの旅 平成20年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月10日

神仏は妄想である 129

さて、
道元の禅は、最初、栄西による、臨済宗の禅からはじまり、中国に渡り、曹洞宗の禅によって、覚醒した。
しかし、本人は、宗派にあらず、名前もないという。
これが、仏陀への唯一の道であると、考える、信じるのである。

それでは、少し、禅というものを、歴史的に、俯瞰してみる。

禅と、一口に言っても、広い、インド禅、中国禅、そして、日本禅がある。
健康法として、知られるヨガも、インド禅の一つである。

東南アジアの、仏教では、別の瞑想法を、行ずる。
北方仏教も、小乗禅と、大乗禅がある。

実は、天台宗の止観、真言密教のユガというものも、浄土宗の念仏も、禅の一部と、みなすのである。

この、禅という言葉は、中国語である。つまり、漢訳の言葉である。
インドでは、瞑想を意味する、ドヒャーナ、または、ジュハーナという言葉であり、禅とは、漢字で、音写した時に、生まれた。

ドヒャーナは、ヨーガと呼ばれるもの、精神統一法の、心の制御の一つの段階である。
ちなみに、ヨーガとは、結合という意味で、心を、しっかり、一つの対象に集中させるべくの、方法だった。

中国では、禅定という言葉が、使われることになるが、それは、サマードヒーといわれるもので、禅よりも、深く心が安定した状態を言う。
三昧という、境地を言う言葉は、それを、音写したものである。

それでは、禅という文字は、最初、どのような意味を持っていたかと言えば、譲る、奉るである。
中国初期の、翻訳が、禅という言葉に、訳したのには、政治的、宗教的心情があったと、言われる。

それは、最初、西暦紀元前後に、シルクロードから、やってきた仏教の、禅とは、神秘的な力、超能力に対する信仰と、共に始まったという。
それは、当時の、道教や、神仙の信仰が、盛んであったことと、関連する。

古代のインドは、禅の実践によって、つまり、ヨガによって、天に生まれることが、出来ると、信じた。
現世では、五種、六類の、神通力が、得られると、信じられた。

仏教が、中国人の心を捉えたのは、おおよそ、それである。
後漢末に、安息国から来た、安清高という僧は、天文、医術、鳥獣の声を聞き分け、彼が、伝えた、経典は、禅に関するものが、大半だったという。

西域と呼ばれる、中央アジアは、中国人にとって、神秘の宝庫だったという。
中国最初の、仏教史書は、高僧伝として、仏典を伝えた翻訳者、学僧などは、皆、神通力の持ち主であったと、書かれたのである。

しかし、漢文に翻訳された、小乗、大乗の仏典の研究により、それらの、神秘的なものが、失われ、文学的空想、哲学的思惟の世界へと、向かう。

六世紀末になると、多くの経典を、組織化し、禅の実践によって、体系づけた、天台宗が、生まれる。
それが、天台チギと、言われる者である。
さらに、ここから、禅と、念仏の二派に、分かれて、思想、宗派を、形成する。
インドでは、禅も、念仏も、仏教にあっては、根底にあるもので、それぞれが、独立するような形は、無い。
中国に至って、そのようになった。

さて、一方、この天台宗の成立より前に、北魏に来た、西域の僧、ボダイ・ダルマを、始祖とする、禅がある。
その、伝記は、明らかではない。
この、禅宗が、今日言われる、禅宗である。

この、禅宗と、天台宗の、大きな違いは、インド仏教の、残滓を全て捨て、完全に払拭したことである。
つまり、新しい、宗教活動の誕生である。
この辺り、ダルマのことが、不明というのが、何とも、不安である。
つまり、何かの作為があると、思う。

ダルマの方が、中国的であるという、点である。
インド仏教以前に存在したと、その弟子たちが、創作していったと思われる、経緯がある。

この、ダルマの禅は、神秘的能力などの、超能力は、一切認めない。さらに、坐禅によって、心の安定さえ求めないという、徹底した、ある、考え方を、持つに至る。

ちなにみに、禅を、ゼンと読むのは、日本人であり、中国では、チャンと、読む。

世界に広がる、禅は、日本禅のことである。

中国で、翻訳された、仏典に、多くの、道家の言葉が使用されたと同じように、日本が、西洋思想を、取り入れて、翻訳する際に、多くの禅の言葉を当てた。それが、後々、禅というもの、哲学として、語りえるものになる。

つまり、言葉の誤魔化しである。
そこに、問題意識のある者の、存在を見ることもない。

西田幾多郎という、哲学者は、禅の悟りを、哲学したといわれる。そして、それを、言葉に書いたとするならば、である。
もし、本当ならば、禅というものは、在り得ないのである。
言葉で、悟りが、語れるということは、禅の堕落である。

無とか、空など、それは、道教による言葉だった。しかし、今では、仏教のもののように、思われている。
それは、日本も同じくである。
西洋哲学と、禅の伝統は、全く違う。
しかし、その違いを忘れて、西洋哲学の中で、平気で語られるという、ザマである。

それは、実は、話にならないのである。
和歌を、英語に翻訳する、俳句を、英語やフランス語、イタリア語に、翻訳することと、同じになり、決して、和歌や、俳句の、微妙繊細な、情感は、得られない。
日本語により、和歌や、俳句の意味がある。

それと、同じことである。

日本禅を、西洋哲学が、語り始めて、堕落した。
更に、禅家の皆々である。
西洋哲学に、おもねるように、行為したから、終わっている。

さらに、西洋哲学をする者の方が、禅を、理解するのに、易しい語り方を、するというのである。

実は、結論から言うと、禅とは、実践の何物でもない。
語れば語るほど、嘘になる。
大嘘になる。

それでは、どのような、行為になるのか。
追々書くことにする。

一つ、道元は、その実践に賭けたと、評価することが出来る。
戒律である。
後で書く。

仏陀にはじまる、修行生活が、今なお、継続されているのは、セイロン、タイ、ビルマなどの、上座部、つまり、小乗仏教といわれるグループと、日本の禅専門道場であると、いわれる。
確かに、日本の禅、専門道場にては、そうであろが、そこを出ると、元の木阿弥である。
僧侶という、仕事に、堕落する。

仏陀最大の、教えは、出家者は、ペニスを膣に入れてはならない、である。

これほど、厳しい掟は無い。
悟りの前に、それに、やられる。
仏陀が、それの、経験者である。
そこから、逃れるのは、至難の業である。

ところが、禅のアホに言わせると、男女の仲を知らずに、何が解ると、豪語し、それも、禅の心のように、言う。
つまり、禅とは、何とでも、言えるものだと、私は、悟った。

それならば、源氏物語の、創作の、好色の物語の方が、ずっーと、仏陀に近いのかもしれない。
あれ程、好色の様を、描きながら、もののあわれ、という、心象風景に至るのである。

仏陀の観たもの、それは、心象風景である。
それ、もののあわれ、という、風景に尽きる。

神仏は妄想である、という、エッセイを書いている。
禅は、実に、神も仏も無いという、究極に至ることが、出来る。
だから、このエッセイの本意にはないのであるが、仏を、持ち出すので、書くのである。

禅には、仏という存在すら、無くていいのである。
これを、天山禅と、呼んでも、いい。
禅とは、そういう、可能性を持つ。

行為以外に、修行は無いとは、仏陀の究極の教えである。
人は、行為によって、成る者に、成るのである。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ240

守、「にはかに」と、わぶれど、人も聞き入れず。寝殿のひんがしおもて払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の音ばへなど、さるかたにをかしくなしたり。いなか家だつ柴垣して、前栽など心とめて植えたり。風すずしくて、そこはかとなきき虫のこえごえ聞え、蛍しげく飛びまがひて、をかしき程なり。

紀伊の守が、急なことと、言うのを、他の家来は、耳に入れないで、寝殿の東の座敷を、掃除させ、主人に提供した。
宿泊の準備が出来たのだ。
庭に通した、もずの流れなど、地方官級の家としては、凝っている。
わざと、田舎の家らしく、柴垣などがあり、庭の植え込みも、よくできている。
涼しい風が、吹き、どこからともなく、虫の音が聞こえ、蛍が、多く飛んで、たいそう、面白いものである。

人々渡殿より出でたる泉にのぞき居て酒のむ。あるじもさかな求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかにながめ給ひて、「かの中の品にとりいでて言ひし、このなみならむかし」と、おぼしいづ。

源氏の、従者たちは、渡殿の下をくぐる水の流れを、眺めて、酒を飲んでいる。
紀伊守が、主人を待遇するために、奔走しているとき、一人でいた、源氏は、家の中を眺めて、前夜の話にでた、中の品に入る家であろうと、その話を、思い出しいてた。

思ひあがれる気色に、聞き給へる女なれば、ゆかしく、耳とどめ給へるに、この西おもてにぞ、人のけはいする。きぬの音なひ、はらはらとして、若き声ども憎からず。さすがにしのびて笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。

思い上がった娘だと評判の、伊予の守の娘、すなわち紀伊守の妹であるから、源氏は、はしめから、それに興味を持っていた。
どのあたりの、座敷にいるのであろうと、物音に、耳を立てていた。
この西に続いた部屋で、女の絹ずれが、聞こえ、若々しい、なまめかしい声で、しかも、さすがに、声をひそめて、物を言うのに気がついた。
わざとらしいが、悪い気はしなかった。

格子をあげたりけれど、守、「心なし」と、むづかりて、おろしつれば、火ともしたるすきかげ、障子の紙よりもりたるに、やをら寄り給ひて、「見ゆや」と居たるなるべし、うちささめき言ふ事どもを聞き給へば、我が御うへなるべし。

はじめは、縁の格子が、上げたままになっているのを、紀伊の守が、不用意だと、叱って、今は、戸が下ろされている。
その部屋の、火影が、唐紙の隙間から、赤く、こちらに射していた。
源氏は、静かに、そこに行き、中が見えるかと、思ったが、それ程の、隙間はない。
少し聞いていると、低いさざめきは、源氏が、話題にされているらしいのである。


「いといたうまめだちて、まだきにやむこどなきよすが、定まり給へるこそ、さうざうしすめれ。されど、さるべきくまには、よくこそ隠れありき給ふなれ」など言ふにも、おぼす事のみ心にかかり給へば、まづ胸つぶれて、かやうのついでにも、人の言ひもらさむを、聞きつけたらむ時、など、おぼえ給ふ。ことなる
事なれば、聞きさし給ひつ。

「まじめらしく、早く、奥様を、お持ちになったのですから、お寂しいわけですね。ずいぶんと、隠れて、お通うところがあるようです」
源氏は、そんな言葉に、はっとした。
あるまじき恋を、人が知り、こうした噂を、流されたらと、思うのである。
しかし、話は、ただ事ばかりであり、それらを、聞こうとせず、興味が起きなかった。

式部卿の宮の姫君に、あさがほ奉り給ひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞ゆ。「くつろぎがましく、歌ずんじがちにもあるかな。なほ見劣りはしなむかし」と、おぼす。守いできて、燈籠かけそへ、火あかくかかげなどして、御くだものばかり参れり。

式部卿の宮の、姫君に、朝顔を贈った時の歌など、誰かが、得意そうに語っていた。
行儀悪く、会話の中に、節をつけて、歌を入れたがる人たちだ。
中の品が、おもしろいといっても、自分には、我慢ではないこともあると、思った。
紀伊守が、燈籠の数を増やしたり、座敷の灯りを、更に明るくした。
そして、主人に遠慮しつつ、菓子のみを、献じた。


源氏「とばり帳もいかにぞは。さるかたの心もとなくては、めざましきあるじなるらむ」と宣へば、守「なによけむ、とも、え承らず」と、かしこまりてさぶらふ。はしつかたのおましに、仮なるやうにて大殿籠れば、人々も静まりぬ。

源氏「我が家は、とばり帳をも、掛ければという歌。大君、来ませ婿にせん。そこに気がつかないのでは、主人の手落ちかもしれない」
「通人ではない、主人で、申し訳ありません」
紀伊の守は、縁側で、畏まっている。
源氏は、縁に近い寝床で、仮寝のように、横になっていた。
付き人たちも、もう、寝たようである。

何気ない、一こまの出来事である。

その中に、当時の風習などが、垣間見える。
源氏物語の、楽しさは、そうところでもある。
少し、見方を変えると、別の風景が、広がる。

庭に、水の心ばえなど、さるかたにをかしくなしたり。
庭に水を引いて、その様、涼しげで、風情ある趣である。

いかな家だつ柴垣
雑木の枝を編んだものである。
それを、田舎風という。

庭は、主人や、住む者の、心模様を、表す。

この後、源氏は、女房の部屋に、忍び込むことになる。

その顛末を書くかどうかと、考えている。
また、その後で、その女の弟を、使用人として、召すという。
この子は、小君というが、その小君と、源氏のやり取りが、面白い。

その小君の、姉との、やり取りに、小君を利用するのであるが、小君も、源氏に愛されるという。
勿論、それを、性愛という形にするのではない。
当時の、風習を見るものである。

源氏が、女性遍歴をしたという物語と、ばかりに、解釈されるが、そこには、裏から見ると、同性愛的、行為の多いのに、驚く。
流石に、紫式部である。
密かに、文の中に、忍ばせている。
最も、当たり前のことであるゆえ、当時の人が読めば、何のことはないのである。

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アボリジニへの旅 10 平成20年7月

白人種を最上層に置き、有色人種を、色の順に並べ、最も色の黒い人種を、最下層におく。
動物は、貝類を最下層にし、昆虫類、魚類、鳥類、獣類をへて、人間の最低の資質に近いとされる、犬、猿、、そして、野蛮な、ホッテントットなどが、くると考えられた。

この、概念は、ギリシャ、ローマ時代から、中世へと、続く。
すべての、生命体は、階層化されていて、その階層には、順列があり、互いに連鎖して、存在すると考える、偉大なる存在の鎖、といわれる、考え方である。

それが、17世紀以降になり、異なる人種を、階層化し、順列をつけるものと、発展した。

更に、私は、それに、キリスト教を、加えるものである。
キリスト教を信じる者が、最上層であるという、傲慢である。

アボリジニを、人間の中での、最下層であり、動物より、わずかに、上の存在として、認識したという。
人類の歴史の中では、もっとも、劣等で、知性は、猿と人の間であると。
物質的文化面でも、文明の度合いからも、ゼロに等しい存在であると、なるのである。

さらに悪いことに、ダーウィンの進化論、種の起源、人間の進化と性淘汰、という、考え方が、拍車をかけたのである。それを、悪用したということである。

この、概念が、当時の人種の概念に、上乗せされて、19世紀の、植民地政策を、推し進めたのである。

更に悪いことが、起こる。
イギリスの、社会学者である、ハーバート・スペンサーは、社会進化論を持ち出して、人種差別を容認する、意見を発表する。
そこでは、競争社会において、生活に失敗した者は、滅びの道を歩むことになるというものである。

私に言わせれば、何のことは無い、弱肉強食の、動物の世界のことであるが、学者となると、社会進化論ということになる。
アホか。

人類の進歩のためには、弱者は、強者に、道を譲るべきだとする、理論が、奴隷制、帝国主義を、推し進めたのである。

社会進化論は、勿論のこと、白人優越主義を、掲げるのである。

西洋文化は、進歩の自然法則に、従い、西洋文化は、世界を支配するように、定められていると、考えるのである。つまり、他の文化は、劣るものであり、滅びるものであるというのである。

ここで、文化人類学者も、よく書かないが、それは、キリスト教文化であるとも、いえる。

ちなみに、西洋文化が、いかに、遅れていたかは、歴史を見れば、一目瞭然である。

西洋が、言うところの、文明国とは、18世紀以降のことである。
それ以前は、世界で、もっとも貧しく、汚い国々であり、知的能力も、劣っていたのである。

文明という言葉は、都市化という意味の言葉の、訳である。
それならば、西洋は、最も遅れていたのである。
だが、都市化というのは、定義が定まらず、それは、つまり、文明というものも、何を持ってなのか、定まっていないということである。

オリエント文明とは、メソポタミア、エジプト文明を指すが、前3500年ほど前に、世界最初の文明と、西洋史は、記すが、誤りである。
それ以前に、アジア、アフリカ、南北アメリカには、文明が、存在していたのである。

ヨーロッパは、アラビアからの学問と、ギリシャ、ローマからの、考え方をもって、ルネサンスを起こした。そして、略奪によって、東洋と、同等に、相成ったのである。
ちなみに、ギリシャ哲学も、アラビアからの、逆輸入であるから、驚くのである。
すでに、アラビアでは、ギリシャ哲学が、翻訳されていたのである。

インダス文明が持つ高い文化が、ヨーロッパに現れたのは、18,9世紀なのである。

まだまだ、いいたいことはあるが、この辺で省略する。
ちなみに、イギリスに、小麦パンが、一般的に普及したのは、何と、18世紀に入ってからである。
つまり、中世では、農民は、小麦のパンを食べることが、出来なかったのである。

さて、社会進化論を、信じた、ヨーロッパ人は、植民地において、先住民に対して、好き放題である。
搾取は、勿論、残虐行為も、なんのその。
19世紀は、世界が、西洋によって、植民地化されてゆくなかで、西洋人以外は、人間性を、奪われるという事態に発展するのである。

アボリジニだけの、問題ではなくなってきたが、オーストラリアでの、アボリジニと白人の関係は、極めて悲劇的なものになったのである。

人種問題の根源は、社会進化論と、キリスト教の影響を、見逃すことは出来ない。

もしもヨーロッパ人がこの大陸に足を踏み入れなかったら、アボリジニは文明に達する道を閉ざされていたであろう。我々は彼らが消え去るのを嘆く必要はない。我々のできる最善のことは、せめて滅びる前の最後の日々を、なるべくみじめでない状況で見送ることである。

これ、学術書に書かれる言葉である。

アボリジニの滅亡は、単に、彼らが持ち込んだ、伝染病と、虐殺である。
劣等人種は、優劣人種に道を譲る。それが、自然の法則である。
それの行為が、何故、許されたのか。
キリスト教の、後ろ盾である。そして、武力と、偽物の科学である。

キリスト教、カトリック、プロテスタント、共に、手のつけられない、独善を持って、アボリジニに対処した。
政治の影に隠れて、今まで為したことの、謝罪など、全く無い。
さらに、今では、アボリジニ側に立つ者であり、彼らを保護していると、思い込む辺りは、救いようがないのである。

順に、彼らの行為を、検証するが、多くの学者は、この問題に触れないのである。
何故か。
チャーチと、チャペルを、敵に回すことが、出来ないからである。
だから、私が言う。

最も、今、ミッションたちの、助けがなければ、アボリジニたちは、困るのである。
そこまで、追い込まれてしまったのである。
だが、私は、真実を書く。
私など、書いたところで、何程のものでなし。
それで、アボリジニの皆さんを、苦境に陥らせることはない。

現在の、オーストラリアの問題は、国家を造るべくの、国家幻想の元であるところの、それは多く、神話による。
神話のある国は、それだけで、国家幻想と成り得るのである。

オーストラリアから、アボリジニを、無くせば、国家の幻想が、無くなる。つまり、神話を、持てないのである。また、新しく、創り出すことは、出来ない。
何故なら、それには、伝承と、伝統が、必要だからである。

私が、追悼慰霊行為を、するのは、天皇陛下のためであると、言ってもよい。
天皇陛下に、お返しする行為と、言っても、問題ないのである。
何となれば、天皇は、日本の神話を、有し、さらに、国家幻想の、理想的な、在り方であるからだ。

今、2668年の伝統の、家系など、作ることなど出来ない。
あの、あのである。共産国の、ソ連が、崩壊し、ロシアと、移行する際に、最も、必要としたものは、神話であり、幻想だった。
それを、一部の知識人たちは、ロシア正教に、求めた。
日本の、国家神道のようなものに、出来ないかと、考えたのである。

ロシアに伝統があるとしたら、ロシア正教くらいだという、驚きである。

オーストラリア政府は、今年の新年に、アボリジニに正式謝罪をしている。
その、同化政策である。更に、親子分離政策にである。
親子分離政策については、後で書く。

オーストラリアは、ゲイパレードで、世界一である。
ゲイだけの村もあるほどだ。
さて、このゲイは、マイノリティーとされて、長い間、辛苦の差別を受けていた。しかし、ここ、ここに至って、政治家を始めとし、あらゆる分野の人々が、ゲイパレードに参加するという、事態である。

アボリジニの差別を、最も理解出来るゲイたちが、更に、気勢を上げると、オーストラリアは、変化せざるを得ない。

アボリジニの神話、つまり、伝承と伝統を、必要不可欠とするのである。
オーストラリアには、アフリカを超える歴史がある可能性もあるという、仮説を立てて、研究も出来る。その際に、アボリジニの、研究が、欠かせないのである。

日本には、古事記、日本書記以前に、国記が、編纂されていたという、事実がある。
聖徳太子が、それに、当たったといわれる。
しかし、それ以前からのものもある。
これが、国家幻想を育てる、神話と、成り得るのである。

私は、日本の古代史を、みるにつけて、一度、ペルシャに渡り、再度、富士山麓に、王朝を拓いた、富士王朝をみている。
その、歴史を加えると、現在の天皇までに、9100年ほどの、歴史がある。

神話を、言い伝えとも言う。
言い伝えを持つ、民族は、生きるに強い。
そして、それぞれの民族にある、神話を、それぞれが、認め、尊重すれば、和を持つことが出来る。

それのない、共産、社会主義の国々は、未だに、迷いにある。
しかし、民が、倒れないのは、それとは別に、伝統としての、行為、それが、宗教行為であっても、あるからである。

王朝が、変わっても、タイには、仏教と、ピー信仰の伝統がある。
タイという国を、作るのは、その、伝承と伝統である。
それは、至るところの、民族にある。国にある。

オーストラリアの、これからを、考えることによって、再度、自国の伝承と伝統というものを、意識してみる。

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2008年07月11日

もののあわれ241

あるじの子どもをかしげにてあり。わらはなる、殿上のほどに御覧じなれたるもあり。
伊予の介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二三ばかりなるもあり。

紀伊の守は愛らしい子供を幾人ももっていた。
御所の侍童を勤めている子もいる。
多くの中には、伊予の子もいた。
その中には、上品な、十二三の子もいる。

源氏「いづれかいづれ」など問ひ給ふに、紀伊の守「これは故衛門の督の末の子にて、いとかなしくし侍りけるを、をさなき程におくれ侍りて、姉なる人のよすがに、かくて侍るなり。才なども付き侍りぬべく、けしうは侍らぬを、殿上なども思う給へかけながら、すがすがしうはえ交らい侍らざめる」と申す。

源氏は、どれが、弟で、どれが、子供かと、問う。
紀伊の守は、ただ今通りましたのは、亡くなりました、衛門の督 えもんのかみ、の末の息子で、可愛がられていました。幼き頃、父親に別れ、姉の縁で、ここにいます。将来のためにも、御所の侍童を勤めています。姉の手だけでは、中々、うまくゆきません。


源氏「あはれの事や。この姉君や、真人の後の親」守「さなむ侍る」と申すに、源氏「似げなきおやをもまうけたりけるかな。うへにも聞し召しおきて、宮仕へにいだしたてむと漏らし奏せし、いかになりにけむと、いつぞや宣はせし。世こそ定めなきものなれ」と、いとおよずけ宣ふ。守「不意にかくてものし侍るなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も定まりたる事侍らね。なかについても、女の宿世は、浮かびたるなむあはれに侍る」など聞こえさす。

源氏は、あの子の姉さんが、君の、継母なんだと言う。
守は、そうですと、答える。
似つかわしくない、母を持ったものだ。その人のことは、陛下もお聞きになっていた。宮仕えに出したいと、衛門が申していたが、その娘は、どうなったのかと、いつか、お言葉があった。人生は、どうなるのか、解らない。と、源氏が言う。
不意に、そうなったのです。人というものは、今も昔も、意外な顛末を送るようです。その中でも、女の、運命は、実に、儚いものでございます。と、紀伊の守が、言う。

ここに、紫式部の、女に対する、考え方が見て取れる。
女の宿世は、浮かびたるなむあはれに侍る

宿世、すくせ
運命、定めと、訳すか。
宿業とも、言う。

女は、持って生まれて、浮かびたるなむあはれ、なのである。
関わる男によって、その人生が翻弄されるのは、今も昔も、変わらない。ただし、現代は、女は、女の道を、生きることができる。
要するに、主体的に、生きることができるのである。
戦後、ようやく、そのように女も、生き方を、決めることが出来るようになった。実に、長い間、女は、男の人生に翻弄された。

この世は、男の世であった。
勿論、そんな世の中でも、自由奔放に生きる女もいたには、いたが、少ない。
それてとて、当時は、和泉式部の程度である。

女の人生に、あはれ、という言葉を、用いる。
女の人生は、あはれ、である。
しかし、別の見方をすると、男の人生も、あはれ、である。

男と女の、区別による、それぞれの、あはれ、というものを、生きていると、当時は、考えた。

好色とは、恋愛であるが、恋愛は、セックスである。当然、子供が、生まれる。
当時は、女の実家で、子育てが、行われた。
男が、父親の意識を、強く持つには、それ相当の、思い入れがなければならないのである。

あはれ、の前に、浮かびたるなむ、と言う。
浮かびたるなむ
風に翻弄される、木の葉のような、情景である。

この、あはれ、という言葉の原型を、求めて、源氏物語を旅する。


源氏「伊予の介はかしづくや。君と思ふらなむ」守「いかがは。わたくしの主とこそは思ひ侍らずなむ」と申す。源氏「さりとも、真人たちの、つきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介はいとよしありて、気色ばめるをや」など、物語りし給ひて、源氏「いづかたにぞ」守「皆下屋におろし侍りぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞ゆ。酔いすすみて、皆人々すのこに臥しつつ、静まりぬ。

源氏は、伊予介は、大事にするだろう。主君のように、思うだろう、と言う。
介は、いかがは、と言う。さて、どうなのか、という。
私生活の主です。好色すぎると、私をはじめ、兄弟たちが、苦々しく思います、と言う。
源氏は、君などの、良い男に、伊予介は、譲らないだろう。あれは、年を取っても、風格があり、立派だ。など、話し合うのである。
源氏は、その人は、どちらにいるのかと、問う。
皆、下屋の方へ、やってしまいましたが、少しは、残っています。と、介が言う。
深く酔った、家臣たちは、皆、夏の夜を、板敷きで、仮寝をしていた。
源氏は、眠られないで、過ごす。

伊予の子が、紀伊の守である。
当時の、親子関係、女性関係は、複雑である。
父親の女と、息子が、交わることもある。
それを、明確にすると、罪の意識が生まれた。

眠られぬ源氏は、この後、その娘、女のいるであろう、部屋に向かう。

紫の、筆は、女心の、微妙繊細な、心境を、描き出す。

源氏と、女の、やり取りの中に、もののあわれ、というものを、観たのが、本居宣長である。
私は、それを、省略して、先に続ける。

あくまでも、風景描写、自然描写にある、もののあわれ、というものを、観ることにする。

その、人間の有様も、風景描写であるのは、当然である。
特に、会話の中に、当時の、人の心の様が、描かれているのである。

君は、とけても寝られ給はず。いたづらぶしとおぼさるるに御目さめて・・・

いたづらぶしとおぼさるるに
源氏が、眠られないのは、いたづらぶし、ゆえである。
それを、何と訳するのか。
一人寝を、寂しく思う時、男は、性の孤独を知る。
そして、その孤独を、埋めるごとくに、共寝をする相手を、探す。
それを、色好み、恋という。

いよいよ、源氏の、女遍歴が、はじまる。
人妻の、空蝉との、関係である。
しかし、二度目から、拒まれる。

紫式部の、本領発揮が、徐々にはじまる。

通常の、研究では、平安期の、色好みにある、物語と、言われるが、私は、全く、別の観方をしている。
紫式部は、勇ましく、物語を書いたのではない。
憂きことの、生きるというものを、見つめて書いたものである。

色好みに、ベールを掛けて、紫が、表現したいものが、何かを、問うてゆく。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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