2008年07月04日

神仏は妄想である 123

宋の時代の宝慶元年五月一日、道元は、初めて如浄を天童山妙高台に焼香礼拝しました。師匠の如浄もまた、はじめて道元を見ました。そのときに言うには、仏から代々伝わってきた仏法、すなわち唯一の正しい仏法が、いま顔を見合わせた瞬間に、ここに実現しました。”現成”とは、潜在的にあるものが、はっきりと姿を現して、そこに現実的になることをいいます。
栗太勇

そのとき、道元に指授面授するにいわく、仏々祖々の法門現成せり
道元

ぶつぶつそそ めんじゅのほうもん げんじょうせり

道元も、顔と顔を見合わせた瞬間に自分が受けた感動は、これこそ釈迦が霊鷲山で花を拈じていたとき、迦葉者だけがにっこりと笑ったという、いわゆる拈華微笑という以心伝心の話そのものだと感じた。釈迦が迦葉尊者に微笑で伝えた、本当の悟り、真理を自分も受け継いだという喜びが身のうちから湧いてきました。
栗太勇

こうして、道元は、釈迦の正しい教えを受けたと、信じたのである。
ということは、他は、間違いであるということである。
唯一の、正しい教えである。

これが、後々、勘違いの元となるのである。

道元が、悟ったとされるのは、27歳の年である。

道元の悟りは、師匠の、身塵脱落から、心身脱落へと、行くものだった。
つまり、師匠は、身と、塵の脱落を言う。
身と、心の塵を払うことである。
それを、道元は、心身脱落と、体も心も、すべて、なくなるのだという、全否定の境地を表したというのである。

それは、坐禅の時に、一人の僧が、居眠りをして、師匠の如浄に、只管に打睡して、インモを為すに堪えんや、と言うのを、聞いて、忽然として、悟ったと言うのである。

インモの文字が無いので、仮名にした。
その時、参禅はすべからく心塵脱落なるべし、と、師匠が言ったのを、聞いての、悟りである。

以後、道元の教えは、この心身脱落にある。

すべて無くなるという、全否定というから、凄い。
また、驚く。

道元は、初めて、如浄の元で、悟り、五年間の修行の旅を終わり、翌年、28歳の時に、帰国したのである。

ここで、躓くことは、唯一の教えということである。
多くの仏法の方法があるが、唯一と、信じた道元の、思い込みである。
勿論、思い込みがあって、始めて、信じるという行為に至るのだが、若いのである。

その、情熱に、青春の一瞬は、輝くが、その輝きは、持続するものではない。もし、持続するというなら、それは、単なる、思い込みである。
若い時に、決心して、何事かに向かうことはある。それを、持続して、求め続けるということはある。また、その時に、知りえたことを、更に追求するということはある。しかし、心身脱落という、妄想がかった勘に近い、悟りを、持続するのは、余程の、没入である。
その、没入は、果たして、そのままにして、いいのか。

他を受け入れない、頑固な、悟りの人になってゆくのである。

それは、彼の著作を、読めば解る。
そして、その著作は、文学として、最高レベルのものであるから、誤る。

仏を、私の都合に合わせて、知ったのである。
それを、唯一の正しい釈迦の教えと、信じ込むあたりは、若気の至りである。

帰国した道元は、言う。
本郷にかえりし、すなわち弘法救生をおもいとせり。なお重担をかたにおけるがごとし。

弘法救生、ぐほうぐしよう
つまり、布教である。

法を広めて、生を救うのである。
要するに、衆生を救うというのである。

一体、どうして、皆々、このように、人を救うという言葉を吐くのか。
人を人が救えると、思う心が悲しい。

しかし、それは、私が救うのではない、仏が救うと、信じるから、手がつけられないのである。

それでは、道元は、仏を、どのように見たのか。
仏というもの、道元にとって、何だったのか、である。

念仏が、他力だとすれば、こちらは、自力である。

勿論、両者は、同じ境地に行き着くのである。
同じく、仏を見つめているのである。同じ境地に至って当然である。しかし、仏教家は、同じではないらしい。
宗派によって、違うというのだから、また、手が付けられない。

どちらにしても、妄想の仏という存在である。

日蓮などに、言わせると、末期的表現である。
題目のみが、仏に至る道なのである。
他を、メタメタに、攻撃、否定するのである。

正法というから、笑う。
皆、正法という。
故に、皆、正法ではないことが、解るのである。

昔、内観指導をしていた者に会う。
彼曰く、私は唯一、釈迦の方を継ぐ者であると、言うのである。
内観指導は、浄土宗から出たものであるが、彼は、唯一、私が継ぐという。
よくよく、見ると、単なるアル中であった。
妄想である。

しかし、彼が、よく物を書く者ならば、人は、誤って彼を見たのかもしれない。実際、彼の元に、多くの信者のような者たちが、集っていた。

時代性と、時代精神という、目が、いかに必要なことか。

道元は、時代が求めていた、か。
時代精神が、求めた、か。

道元は、その弘法に、失敗し、福井の山に籠もることになる。
その名も、高き、永平寺である。



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アボリジニへの旅 4 平成20年7月

日本の、21倍の大きさの、オーストラリアは、広い。

ケアンズから、飛び立ち、アーネムランドのゴーブという街に向かう。
その、果てしない、大地である。

資料では、四万年前から、アボリジニ民族が、住んでいたと言われるが、新しい学説を出す、学者もいて、人類の発祥とも、言えるという。
アフリカではなく、オーストラリアが、人類の発生の場だとしたら、これは、大逆転の、学説となる。

ゴーブという街は、実に小さな街である。
私の、田舎程度である。
しかし、空港があるという、驚き。

エアポートバスに乗り込む。
実は、飛行機の座席は、満席だった。それは、乗り継いで、ダーウィンに行く人がいるからである。

私たちは、予約していた、モーテルを告げて、乗り込んだ。
二つしか、モーテルはない。安い方のモーテルである。といっても、一泊、15000円以上である。兎に角、高い。
最初に、私たちが、降ろされた。

オーストラリアは、三つの時間帯がある。
ケアンズは、日本より、一時間早い。アーネムランドは、日本より、30分早いのである。
ケアンズと、ゴーブでは、30分の差である。
だから、到着したのは、ゴーブ時間で、八時近くになっていた。

飛行時間は、一時間半である。
東京、札幌間程度である。
しかし、私は、こんがらかって、よく解らないのである。

野中に、なんで、行きが、一時間で、帰りの時間が、二時間以上もかかるのかと、文句を言った。
時間差だといわれたが、私は、不機嫌だった。
疲れのせいもある。

モーテルは、素晴らしい部屋である。
こんな田舎町に、こんな素晴らしいホテルがあるという、驚き。

台所から、洗面所から、何から何まである。
電子レンジもある。冷蔵庫は、大型。
一番安い、ダブルの部屋にしたが、その他に、もう一つ、ベッドがあった。
それを、何と言う部屋かは、解らない。

モーテルの部屋の前は、蘇鉄などで、覆われて、森の中にいるようである。
部屋は禁煙で、外のベンチに、灰皿がある。

オーストラリアも、屋内は、すべて禁煙である。
勿論、空港もである。喫煙室もない。
それで、私は、一回一回、外に出て、タバコを吸う。そして、また、検査のブースを通り、中に入るのである。
毎度の、ことに、検査官も、笑う。私も、笑う。

これが、面倒だと、タバコ吸いの、負けである。
私は、意地でも、タバコを吸うために、外に出た。

タバコは、大半が税金である。国のために、吸う。愛国心である。
天邪鬼の私は、決して、タバコを止めないのである。
皆が吸えば、止める。

さて、夜の食べ物を買うために、モーテルの裏にあるという、スーパーに、走った。
八時に閉店すると、言われたからである。もう、5分ほどしかない。

缶ビールを買うために、走った。
ところが、あれである。アルコールは、売っていない。
店内を探し回って、店員に尋ねた。
無いと、言うのである。

しょうがなく、ジンジャーエールの炭酸水を買う。
そして、パンや、ソーセージなどなど。
ケアンズから、持ってきたものもあり、適度にした。

酒は、無くても、旅の間は、平気である。
疲れると、酒を受け付けなくなる。
ただし、水だけは、よく飲む。
オーストラリアの、水道水は、飲んでも大丈夫である。が、矢張り、ミネラル水を買う。
ゴーブの水は、美味しかった。

ベッドに就いたのは、十時であるから、実に早い。
日本時間では、九時半である。
朝、五時に起きる私は、そうすると、夜中に目覚めてしまうのである。

明日は、アボリジニの、聖地に行く。
ここの、アボリジニを、ヨォルングと呼ぶ。一つのグループである。
同じ伝承と伝統を、持つグループである。
その中でも、また、グループに分かれる。

その、ヨォルングの聖地、ガイガルンに行き、祈りを捧げる。
そして、イルカラ・アートセンターに行く予定である。
その、イルカラには、ヨォルングの人々が、住む集落になっている。

子供服支援は、それより先の、ダリンブイ・アウトステーションに行くはずであった。
しかし、結局、イルカラで、支援物資を、差し上げたのである。
その訳は、後で書く。

アボリジニに関しては、これから、じっくりと、書くので、ケアンズにて、作る歌を、載せる。

朝明けの 静寂を裂く 着陸の 飛ぶ七時間 無事を感謝す

神降りる 清しケアンズ 朝の陽に 一筋雲の 書の如くして

山と海 拓けし街の 歩みには 人の侵略 赦す如くに

歴史無き 街の悲しさ ケアンズの 原住民の 居場所なくして

今はただ 見世物のごと アボリジニ 寄せ集めたる 肉体美のみ

地の歴史 破壊し尽し 今はまた 価値ありとする 侵略の勝手

ただ今は、冬と人は言う 涼し風 冬は冬とも 涼し冬あり

我が英語 伝わることの 驚きは 皆訛りある 発音なりて

ハローとの 一言発す その後の 延々と続く 豪人の会話

白い人 白とは純と 成り得ずや その傲慢と その独善に

豪州は アボリジニの ものなれば イギリス王の 支配にあらず

海賊の イギリス王の やることは 略奪殺し ゆえもなきかな

これらの歌には、後々の、説明で、理解されると、思う。
兎に角、歴史は、凄まじいばかりの、同化政策である。
その、弊害が、今、オーストラリアを覆い、それが、重大な問題となっているのである。
自ら蒔いた種で、自ら、苦難の只中にある。

和歌とは、多くの説明を省略して、簡潔にして、表現できるのが、いい。
今は、短歌という。それは、和歌とは、短歌を含む、多くの歌の表現形態が、あったからである。
しかし、私は、和歌という。

そういえば、ケアンズで、アボリジニの家族に出会って、会話をした。
朝のことである。
私は、インターネットカフェに出掛けたが、まだ、開店していなくて、街の中心に向かって歩いた。すると、中心の広場に、アボリジニの男がいたので、私は、挨拶した。
彼は、すぐに、自分はアボリジニだと言う。そして、今、母と妹と、妹の子と、一緒だと言うのである。
その母と、妹、その子がすぐに、来た。
旅をしているようである。

私が、タバコを吸うと、母親が、見つめるので、一本差し出すと、嬉しそうに、受け取り、自分のライターで、火を点けた。
少し、英語で、会話する。
どこからか、アボリジニの男二人が、やって来た。
私は、三歳になるという子に、何か差し上げたいと思ったが、何もない。
いつも、迷うのだが、その時は、20ドル札を取り出して、プレゼントだと言って、その子に渡した。
母親が、喜んだ。何度も、ありがとうという。
そして、男の子の、ズボンのポケットに、ドル札を入れた。
お金を、渡すのは、実に慎重になる。

相手に失礼になるのではないかと、考える。日本人の感覚である。
だから、私は、それを差し上げる時、ソリー、今は、これしかないと言って、差し出した。

しかし、お金を差し出したのは、その他に、一回だけある。
遊んでいた、アボリジニの男の子に、一緒に写真をと言うと、快くオッケーしてくれたので、感謝の気持ちで、5ドルを差し出した。すると、彼は、10ドル欲しいと、言うのである。
これは、良くないと、思った。
何も、出さなければ、そいう言葉も、出なかったはずである。
私は、もう無いと、言って、断った。

お金を差し出すのは、非常に難しい。
野中が、アボリジニの男に、観光客が、一ドル差し出し、写真を撮らせてと、言うと、男は、金はいらないと言った。そして、撮っても、いいと言うと。それは、恵んでやるという気持ちが、差し出す者にあるからだと、野中は、分析した。
まあ、一ドルは、失礼かもしれない。
物を差し上げる時も、相手のプライドを、傷つけないように、差し上げることを、私は、肝に銘じている。

相手と、対等な立場であることを、明確して、支援するということは、実に難しいことである。
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2008年07月05日

神仏は妄想である 124

仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
道元

これをもう少し卑俗な日常生活に適用すれば、社会や会社の中で自分が修養するということは自分ばかりにこだわっていてはだめで、修養しようとする自分をまず捨てなさい。そして常に自分を捨てよう、捨てようとしていれば、むしろ、まわりの人や人間関係によって生かされてくるはずだ。みんなによって生かされるようになれば、自分自身がそういうことを気にしなくてすむことになる。自分の在り方とか気持ちを気にしなくてすむことになる。自分がそういう状態になるということは、他の人もまた、自分の在り方や心を気にしなくていいことになると言えるでしょう。
栗太勇

道元の教えを、易しく解釈すると、このような、考え方が出来るというものである。

自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり
道元

心身脱落である。
そのために、坐禅という修行形態がある。

道元の文は、最初に結論がある。
だから、迫力があるともいえる。

たき木ははいとなる、さらにかえりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといえども、前後際断せり
道元

たき木が燃えて灰になってしまった。燃えてしまった灰がもしたき木に戻るのであれば、以前はたき木だったけれど、今は灰になっているという言い方もできるだろう。ところが、燃えた灰がたき木に戻ることはありえないのだから、それらの間には、もはや時間的前後関係はない。そうである以上は、灰が後であって、たき木は先にあったんだという言い方自体、意味がない。
たき木はたき木で完結している。・・・
要するに、たき木としては古いとか新しいとかいう比較は許されるが、それ以上に、元々はたき木は木だったとか、あるいは燃えて灰になってしまうというようなことを論じてはならない。それは、もはやたき木の世界ではないからだ。だから「前後際断せり」という言い方が生まれる。たき木となったときから、スパッと以前の以後も、両方とも切り離して考えるべきである。
栗太勇

道元の手法は、皆、これである。

道元が、これだと、思った仏教、禅は、道元の性格に、実に合うものと、道元が、それを、悟ったと、考える。
自己表現の、最も理想とするもの、それが、禅という、形だったのであり、それによって、万人、つまり、衆生を救うと、考えるのは、僭越行為なのである。

自分が、救われたと、信じるのは、一向に問題はないが、それを持って、人を救うとは、誤りである。

そして、それは、道元の思考法に、入らなければ、ならないということである。

これからも、道元の言葉を、書き続けてゆくが、それは、道元流であるということ。その、道元流を、善しとする人には、よいが、合わない人もいる。
合わない人は、道元の禅には、救われない。

生は一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。
道元

一時とは、全時である。
一時の位であるから、それで、完璧な一つの状態である。

つまり、時間的に経過していくと考えると、相対的になってしまう。・・・・
しかし道元は、いまはいま、それがすべてだという。花咲き乱れている春と、雪の降り積もった冬と、並べたり比較してはいかん。それぞれ別の独立しているすべてなのだというのです。
栗太勇

道元を、語る人、この道元の、言葉の明晰さに、また、語るのである。
既成の価値の転換である。

そして、厳密なリアリズムが、道元の禅である。が、それは、道元が、宋に渡り、中国の表現法を持って、我が表現法を、見出したといってもよい。
あくまでも、中国思想の、禅という、やりかたなのである。

正法眼蔵は、幾重にも奥深く錯綜している言葉の密林のようなもので、伝え難い秘密に敢えて表現を与えようとしている苦行そのものの表現と言ってよい。
亀井勝一郎

良く解釈すれば、このようになる。

道元にしかない表現活動であるが、それは、道元に合ったものである。
ここに、問題がある。
それを慕う人にはよいが、そうではない人もいる。
それらの人にも、さあ、道元を読めということは、出来ない。

道元の修行も、そうである。
それを、求める人には、よいが、それを必要としない人には、意味が無い。
万人に意味があるというものは、この世に無い。

この時代は、仏教は、最高の学問であった。
学問自体に、疑問を差し挟む時代ではない。
仏の教えといえば、大手を振って、渡ることが出来る時代である。

江戸時代になり、ようやく、儒者らが、仏教批判に転じるのである。
それまでは、仏教という学問は、批判の対象にもならない。

当時の常識を、もって、見渡すと、宋から、学んで戻った道元の様は、当然、人が受け入れるものという、考え方があった。
隋の頃から、日本にとっては、手本とするべき、大陸の大国である。

天竺から、日本に渡った僧もいるが、それよりも、中国からの僧を、重大に捉え、受け入れている。

中国に、留学することは、当時のステータスだった。
中国思想を通した、釈尊に、帰れという、命題を、道元は行為した。
故に、我は、釈尊の唯一の、法燈を継ぐ者であるという、強大な意識を、持つのである。
それが、大きな自己顕示欲だとは、気付かない。

内大臣久我道親を父とし、摂政藤原元房の息女を母として高貴の家に生まれ、やがて家も傾き孤児となった道元にとって、無常観とともに、こうしたかたちでの自己否定は必然であったと思われる。
亀井勝一郎

果たして、道元の厳しい、行としての、坐禅は、衆生を救いうるものであるか。
限られた者のみに、許される門ではなかったのか。

宋から、帰国し、京都において、弘法行為を行うが、思うように、ならず、遂に、道元は、人里から離れ、福井の地に向かう。

そこを見ることで、道元の、頑なな行為行動を見る。

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アボリジニへの旅 5 平成20年7月

矢張り、暗いうちから、目が覚めた。
四時である。
少しして、また、眠るべく目を瞑る。
五時に目覚めて、起きる。八時間以上寝たのである。

部屋の外に出て、モーテルの敷地を歩く。
暗い。電灯の光だけである。
暫くすると、東の空、明らんできた。

腰巻一つである。風が涼しい。こんな冬なら、大歓迎である。

部屋に戻る頃は、朝日が出た。
野中を起こして、出掛けることにする。
街の中心に行きたいと、思う。そこで、朝のコーヒーを飲む。それが、一番、街を知る手立てになる。

街の中心は、歩いてゆくことにする。
30分ほど、ぶらぶらと、歩いた。
街の中心。驚いた。
その一角が、繁華街だと言うのである。

スーパーから、美容室から、兎に角、そこには、街のすべてがあった。
一軒の店では、数人の女たちが、忙しく、働いている。
その中に入った。

皆、話し好きで、色々と、言葉を掛けてくる。
皆、フィリピンの人だった。
日本語が、少し出来る女もいた。
コーヒーと、サンドイッチを頼む。
野中は、一つで、いいと言う。一つを、二つにしてもらう。
本当に、それで十分だった。

店の前の、コーナーに座り、コーヒーを飲む。
朝は、黒い肌の人が、多く目に付いた。
アボリジニ、ヨォルングの人たちである。

彼らには、ヨーと、声を掛ける。
ハローと同じ意味である。皆に、声を掛ける。

私は、浴衣であるから、日本人だと、すぐに、解るはずである。

本日の、予定は、これから、町外れのガインガルの聖地に行くことである。
野中が、一度来ているので、案内は、いらない。
出て来た、サンドイッチを食べて、そこから、聖地に向かった。

まだ、朝のうちである。
人が少ない。
日差しが強くなる。私は、メガネの上に、サングラス用の、色眼鏡をつけた。

随分と、歩いた。
一人の、アボリジニのおじさんに、確認して、聖地へ向かう。
入り口に来た。

驚いた。
看板がある。
そこには、ワニの絵が描かれてあり、ワニに注意せよ、である。
そして、更に、ワニに、食われないようにとのこと。
ギャ、である。

ワニが出る。
野中は、今は、乾季であるから、大丈夫という。
野中が、来た時期は、雨季であり、川の水かさが増して、怖かったという。
その川を、渡った。
申し訳程度の、水の流れである。

一本の道を、歩き続ける。
私は、ワニが出た時のために、一本の枯れ木を、持った。
もし、ワニが襲ってきたら、それを、口に入れようと思った。
ドキドキし、ワクワクした。

しかし、ワニは、出なかった。
一つ、ワニ捕りの、籠を見た。
中に、鶏三羽が、吊るされてある。
ここでは、ワニを食べるのである。
クロコダイルという、ワニである。

砂道に、ぬかるんで、進んだ。汗が出た。
右手の沼を見て、進む。
睡蓮の花が、丁度時期であり、多く咲いている。
可憐な、小さな薄紫の花である。
その、睡蓮の花が、後で、重要な意味を持つことを、知る。

バードウォッチングの小屋に、白人がいた。
私たちは、無視して、歩き続けた。

到着した、目の前は、沼地である。
大きな、大きな池である。

野中が、声を上げた。
鶴がいた。
番いの鶴である。
鶴を、初めて見たという。

私は、早速、御幣を作る。
付近の木を見て、枝を一つ、頂く。
それを、潅木の一つに、捧げて、祈りの準備をする。

不思議である。

言葉を必要としないのである。

私は、御幣を、太陽に掲げて、神呼びをした。
いつもなら、祝詞を挙げる。
しかし、その必要は無いとの、啓示である。

さて、どうするのか。

天照のみ、御呼びして、待った。
すると、口から、アーと出る。そのままにして、アーと、続ける。

野中を見た。私の写真を撮りつつ、私と共に祈る姿勢である。
異語にしたらと、言う。

説明する。
異語とは、古代語などが、自然に出ることである。
しかし、それには、魔が憑くこと多い。

私は、アーと、続けた。
清音のみでなければならない。
すると、舌が動く。
アーの音の中に、微妙に、音が変化するのである。
そのまま、続けた。

私は、目の前を見ている。
先ほどの、二羽の鶴が、動かない。そして、名の知れぬ鳥が、目の前の木に止まり、それも、動かないのである。
不動の姿勢の鳥を、見て、私は、音霊の、所作を続けた。

鳥たちは、私の清め祓いが、終わるまで、動かなかった。

その沼地を、すべて、清め祓いした。
その時、後から、カップルのアメリカ人が、近づいて来た。
私の様子を見て、戸惑っているので、声を掛けた。

今、日本の方法で、祈りを捧げていると、言った。
彼らは、頷いた。

クリスチャンかと、訊くと、パブテスト派だという。プロテスタントの、一派である。

私は、二人に、あなたたちの幸せを、祈りますと、幣帛を、掲げて、清めた。
神妙にしている。
終わると、サンキューと、言い、私たちに、良いビーチがあると、教えてくれた。
その、ビーチに行くつもりはなかったが、最後の日に、行くことになる。

二人が、いなくなり、私は、再度、清め祓いをして、神送りを始めた。
私は、追悼慰霊のために、来たのである。
この聖地では、アボリジニ、ヨォルングの先祖たちが、鎮まり治まった場所としている。
慰霊の意味も込めて、行ったが、追悼慰霊は、別の所で、行う予定である。

御幣を、そのまま、池に納めて、終わった。

暫く、潅木に腰掛けて、辺りを見ていた。
鳥たちは、やっと、動き出した。
目の前の鳥は、一度だけ、静止したまま、反応した。
私が、音霊の所作をしている時に、一度だけ鳴いたのである。

しかし、そんなことに、意味を云々することはない。

通常と違うことが起こっても、それに反応しない。
祈りは、ただ、あるがままに行う。
何か、普通と違う状況に反応すると、必ず、それは、魔に通ずる。
人は、奇跡と言うが、それは、魔の方便である。

奇跡は、毎日、私に起こっている。私が、生きているということである。
そして、太陽が昇る、沈むということである。
それ以外の、奇跡は、必要ではない。

奇跡を起こすものは、すべて、魔物である。

名残惜しく、私たちは、その場を、後にした。
ワニも、出なかった。
ここで、ワニに食われて終われば、それでも、良かった。
ワニに、食われる程度の、人生である。

帰りの道で、近道を発見した。
二つに分かれる道の、別の道を選ぶと、何と、来た時の、半分の時間で、入り口に着いた。

再び、私たちは、繁華街に向かった。
まだ、昼ではない。

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2008年07月06日

神仏は妄想である 125

尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。悉有それ透体脱落なり。
じんかいはすべてきゃくじんなし、じきかさらにだいににんあらず。
しつうそれとうたいだつらくなり。
道元

仏教、とくに大乗仏教には仏性論という考え方があります。すなわち、人間には誰でも「仏性」という一つの素質、種子が備わっている。したがって、これに目覚め、これを育むことによって、人間は誰でも仏になれるのだという考え方です。
栗太勇

この、大乗の、仏性論というのは、実に、如何わしいのである。
これが、後の人々を撹乱させた。
玄奘の法相宗は、それを、認めていない。玄奘は、大乗の研究としては、第一級の人である。
後に、それを、書くことにするが、後々である。

この思想の、根拠になっているのが、般若経にある、一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易、である。
この中に、すべての仏教の真実が含まれていると、言われると、言う。
誰が言うのか知らないが、そういうのである。

この仏性論について、道元の考えを展開しているのが「仏性」の巻ですが、ここで道元は、従来の通説を打ち破り、それを超越した大胆な考えを示します。この否定の上での飛躍がいかにも道元らしいところです。・・・・
道元は「一切の衆生・悉有が仏性なり」と読めと言う。「悉有」とは「ことごとくにあり」ではなく、彼の言葉でいうと、「悉有」それ自体が仏の言葉であり、仏の舌である。仏祖の目の玉であり、出家者の真実である。つまり、全存在ということになります。
いっさいの生きとし生けるものは、だから悉有の一部であり、山川草木国土が、そっくりそのままズバリ仏性である。全存在が仏性そのものであり、仏性以外の何物でもない、というところまで突き詰めていきます。
栗太勇

尽界はすべて客塵
この世は、すべて主体性そのものであり、対象となるものはないというのである。

直下さらに第二人にあらず
ただいま現在の、いまここに、第二人者、二人目の相手となるようなものはない。ただ、すべて、一人称の一人だけしかいない。

天地宇宙がただ一人、すべてを含んだただ一人のものとして、仏性をさらけ出している。もちろん草木も衆生も、人間も私もあなたも、この悉有そのものであり、仏性そのものです。
栗太勇

以前、日本だからこそ、仏教が、花開いたと言った。
日本人の感性を、持って、仏教というものに、新しい、思想的思索が、加えられた。

その後の、中国仏教が衰退しても、日本には、脈々と、仏教の流れが出来た、そして、今も、それが、ある。
それも、仏教家、僧たちとは、別の形で、である。
日本の仏教思想は、仏教家や、僧たちから、離れて、今、様々な、分野の人々によって、検証され、新たに、生まれようとしている。

それは、宗教という組織を、離れたところで、行われ、それは、実に、理想的に、行われるという、状況である。

宗教という、仏教には、用はないが、仏教という、ものの考え方には、用があるのだ。
それは、人間というものを、考える時に、有効な手段となり得る。それには、私も、賛成である。

後で、道元の求める、求道の姿を言うが、彼の門にいる者、今、誰がそれを、継いでいるのか。ほとんど、誰もいない。
永平寺などは、おおみそかに、NHKが、思い出したかのように、ボーンと、鐘を打つ音を、鳴らして、こ汚い僧たちの、読経の様を、全国に放送するのみの、価値である。

寺にいる間は、清純清潔のように、見せるが、末寺に戻ると、在家よりも、甚だしい、罪の生活をするのである。
在家より、罪深い生活をするのは、何も、禅宗の僧たちだけではない。
全国、日本仏教の僧たちは、皆々、在家より、罪深い生活をして、のうのうとしている様である。

これを、唾棄すべき者という。
更に、信長なれば、全員、焼き討ちである。
私も、そうする。

仏典を、深読みするというのは、日本の仏教家の、特徴である。
皆々、勝手に、仏典を深読みして、それぞれの、教義やら、教えやらを、立てた。
勿論、それは、妄想である。

深読みを、感嘆賛嘆する者もいるが、私は、妄想以外の何物でもないと、見ている。

例えば、日夜、蒲鉾を作る人より、彼らが、優れているとは、思わない。
絶えず、皆が、旨いと思える蒲鉾を、作るということで、奉仕する人に、私は、仏陀の教える、生きるということの、本質を観る。
漁師も、百姓も、日々の生活を送る人である。
更に言えば、捕る、育てて採る、作る人々である。

よい米を作るために、日夜努力奮闘する人より、坐禅をする人が、落ちるのである。
人生の秘密を、知るためならば、坐禅をする前に、人に奉仕する仕事をせよと言う。

仏の教えが、人の心を、救うとか、慰めるという、勘違いは、止めることである。単なる、迷いを、教えているのである。

仏性などいう、カラクリは、単なる、言葉の遊びである。
そんなものを、あえて、持ち出すことなく、仏性や、神を超えたものを、人は、持つのである。

結局、彼ら、有名無名の僧たちも、我の内に在るものに気付いたという。
そのために、無用なことに、汲々とし、仕事もせずに、言葉遊びを、繰り返しているのである。

僧たちの、作務など、子供騙しである。

この世に生まれてきたことは、地獄に生まれたということである。
その、地獄で、仏を云々などしている、暇があろうか。

道元の存在価値も、鎌倉時代という、時代性にある。
現在、道元がいたならば、引きこもり、オタク、危険神仏ではない、危険人物とされる。

道元の書き物を、持って、更に、思想や思索を、深めるというなら、理解する。しかし、道元に、浸りきると、誤る。

道元は、あの時代の道元で、終わっているのである。

すべてが、主体である。
つまり、実存である。
一人称のみ、それ以外は無い。
見事な言葉遊びである。

それで、彼の築いたものは、役立たずの曹洞宗という、僧の集団である。

まだまだ、道元の世界を、続ける。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ236

源氏物語に、分け入ることにする。

私は、源氏物語を、研究するのではない。
世界最古の小説から、もののあわれ、というものを、読み取るのである。

源氏物語に関しては、数多くの解説、研究、その他諸々あるが、私には、あまり興味が無いものである。

最初の小説であるから、小説というものの、書き方など、非常に興味があるが、もう、それも、失せた。
私の、興味があるのは、ただ、物語の中に描かれる、もののあわれ、というものの、有り様である。

それは、大和心と言われる、万葉から、始まり、いや、それ以前から日本人の、心象風景として、存在した。
万葉集によって、それが、記録として、残された。

大和心を、尋ねると、そこには、必ず、もののあわれ、という、心象風景が、広がる。
私は、源氏物語を、その一点で、読む。

明治期になって、西洋の文学手法から、学問として、源氏物語が、研究されたが、物語、小説とは、端的に、娯楽である。
芸術として、云々するのは、否定しないが、面白くなければ、意味が無い。
生きるためではなく、人は、死ぬまでの、暇つぶしに、様々なことに、挑戦する。
小説というものも、その一つであり、それ以外の、何物でもない。

古典は、昔の言葉であるから、読みにくい。そして、古語は、意味が、解らない。解らないものは、面白くない。故に、古典は、一部の人によって、愉しまれる。
それはそれでいい。
新しい物語は、いつの時代も、生まれる。

楽しいならば、源氏物語を、原文で、通して読むことであるが、無理をする必要はない。また、現代文にて、訳されたものを、読んでもいい。
要するに、これこそ、唯一という、読み方は無い。
一生、読まない人もいるだろう.

小説とは、その程度のものである。

私は、源氏物語から、もののあわれ、というものを、観るべく、自然描写、風景描写からみる。
本居宣長は、もののあわれ、を、人と人の触れ合いから、観た。
恋する者の、心の綾から、観た。

平安期の、色好みとは、恋愛の様を言う。
今に至るまで、人間のテーマは、変わらない。
恋愛である。

中には、冷血人間がいて、恋愛などとは、程遠い者もいるだろうが、それはそれで、いい。無理をすることはない。

日本人は、もののあわれ、という、心象風景を、多く、恋の中に観た民族である。
源氏物語も、その一つの切り口に過ぎない。

日本人の、心象風景に、いつもいつも、一本の道がある。
それが、もののあわれ、である。

それを、源氏物語からも、観るとする。

何故、私が、自然描写と、風景描写から、それを、観るのかといえば、簡単である。物語を、初めて書くということは、物語とは、何かということを、いつも、考えて書くであろう。そして、内容は、多く、他に影響される。
実際に、それを、研究する者も多い。

このお話は、どこそこの、どれに、影響された云々。
しかし、自然描写、風景描写は、他に影響されない。当時の見たままであろう。

山川草木を、紫式部が、見たままを、書くのである。
それは、また、日本人の、原風景ともあるものである。

であるから、一切の余計な、解説はしない。
原文を、上げて、それを、もののあわれ、という、一点で、観るのである。

桐壺

いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。

こうして、はじまる。

いずれの時と、明確にしない。
お話は、昔々と始まるのであるが、いずれの時にか、と、曖昧にする。
ありけり。
そして、それが、あったと結ぶ。
長い長い物語が、始まる。

物語は、書き出しで、決まるというが、それならば、これは、名作である。

いとやむこどなき きはには あらぬが
特別な家柄ではないが。
すぐれて時めき給ふ ありけり
特に寵愛を、受けた、お方がいた。
それを、桐壺更衣と言う。

その、桐壺が、玉のような、子を産み、急死した。

その、桐壺の、辞世の句である。

かぎりとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり

いかまほしきは
行く、生く、とを、かける。

勿論、物語にある、歌は、すべて、紫式部の歌である。

想定して、歌を詠むとは、今までに無いことであった。
新古今辺りから、想定した歌を、多く詠むことになるが、紫は、その、先駆けである。

生きたいのは、行きたいのである。
限りあると知る、命であるが、生きたい。別れたくない。別れて逝きたくないのである。

人は、いつの時代も、そのように思い、死んでいった。今、現在もそうである。
誰もが、歌い、詠むべき歌である。

さて、その、桐壺の段にある、風景描写を見る。

野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、つねよりもおぼし出づる事多くて、ゆげひの命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがてながめおはします。かうやうの折りは、御あそびなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音をかき鳴らし、はかなく聞え出づる言の葉も、人より異なりしけはひかたちの、面影につと添ひておぼさるるにも、やみのうつつにはなほ劣りけり。

野分が立ち、風が吹く。
肌寒い夕暮れである。
いつもより、いっそう故人を思い、ゆげひの命婦を遣わした。
夕月夜の美しい時刻に、命婦を、出かけさせ、そのまま、深く物思いに沈む。
ながめおはします。
これは、帝の心境である。
眺めるのである。我が心を。
以前なら、こうした月夜は、音の遊びなどをし、更衣は、その中に加わり、
心ことなる物の音をかき鳴らし
優れた音楽の才を発揮し、また、
はかなく聞え出づる言の葉
儚き歌さえも、優れていたのである。
面影は、帝の目に、立ち添い、消えない。
やみのうつつにはなほ劣りけり
しかし、闇の現、現実の闇の中では、無いものである。
幻は、闇に適わないのである。

野分、肌寒き夕暮れ、夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、である。
闇の迫る、夕暮れは、特に、物悲しいものだった、当時を思い浮かべると、その様、心に与えぬ訳は無い。
風景は、心模様であった。
それほど、自然と、切り離せない生活なのである。
野分が立てば、心に風が吹くのである。
現実の風だけではなく、心に風が吹くのである。
そのような、人の生活を、想像して、読むことだと、思う。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アボリジニへの旅 6 平成20年7月

聖地から、戻り、街中に出て、元の場所に帰った。
もう一度、コーヒーを注文し、しばらく、そこで休んだ。
その時は、地元の人々が、出ていて、コーナーには、一杯の人である。

白人が多いが、アボリジニも多い。
子供たちが、走り回っている。

昼は、モーテルで、食べようと、私は一人で、スーパーに入った。
まず、パンから選ぶ。
兎に角、分量が多い。

食パンを選んだ。食べきれるだろうかと、思いつつ。そして、野菜である。レタスを選んだ。ハムや、サラミは、豊富であるから、選ぶのが大変である。
パンに挟む、チーズは、日本に持って帰ることになる。
ジュースである。一リットルの、混合ジュースを一本買う。
もう一度、野菜売り場に戻り、果物を見る。
リンゴが、日本のものより、小さい。種類が多い。
ミカンを五個にした。
また、中に戻り、カップめんを二つ買った。

レジでは、計算しながら、袋に詰めてくれる。
さて、支払いである。
小銭は、全部だして、見せると、その中から、店員が、選んでくれる。
オーストラリアドルの、小銭は種類が多く、帰るまで、どれが幾らか解らなかった。
50ドルを出して、お釣りを貰う。

そして、野中の元に戻った。
買い物袋を持って、モーテルに戻るのは、大変なので、タクシーを使う。
ライトバンのタクシーが多い。
新しいタクシーは、日本と同じである。私たちは、それを、選んだ。
イラン人の、タクシー運転手だった。

何故か、会話が弾むのである。
午後に出掛けた、イルカラ・アートセンターにも、そのタクシー運転手に頼むことにした。
予定では、明日だったが、野中が、今日にしようということで、そうなった。

部屋に戻り、食事をする。
野中は、二つのカップめんを食べた。
私は、パンと、チーズと、ハムを食べる。
水を飲みながらである。

およそ、三千円程度で、明日の朝と、昼の分である。

一度、ベッドに、体を横にして、休んだ。
聖地での、祈りの所作を、思い出した。
野中と、色々話し合う。
アボリジニのことである。

二時頃である。
野中が、今日のうちに、イルカラに行こうと言う。
そこは、四時に閉館するので、十分に間に合うのである。

タクシーでは、10分程度で、着く。
野中は、館長に連絡した。
オッケーとの、返事を頂き、タクシーを呼ぶ。

イラン人の、運転手は、色々なことを、話した。
イランといっても、多くの民族があるという。
彼は、イランの西の地方の出身であった。
その歴史は、古く、四千年以上前からの、陶器の出土品がよく出るという。
ただし、その地方は、貧しい。

私たちが、子供服の支援をしていると、言うと、自分の故郷にも、出掛けて欲しいと言われた。

更に、彼は、日本に出稼ぎに出る、イラン人は、悪いことをして、強制送還されているという。確かに、イラン人は、多くの事件や、犯罪を犯す。
彼は、日本に出る、イラン人は、クズだと言う。本当の、イラン人は、真面目で、勤勉だという。

私たちの、活動にも、興味を示し、色々と、訊いてきた。
誰の命令なのかと訊くので、エンペラーだという。
エンペラーとは、誰か。
天皇という。
天皇とは、何か、誰か。政治的に、影響力があるのか。
政治的権力は、無いが、国民に尊敬されている。
それでは、タイの国王のような存在かという。
そうだと、答える。

あなたたちの費用は、天皇が出すのかと訊く。
いや、私が出す。
そして、天皇に、この活動を差し上げると、言う。

タイ国王と同じということで、相当に理解したようである。
実際は、タイ国王の方が、国民の支持は、大きい。九割のタイ人は、国王を支持する。日本の天皇について、私は知らない。
しかし、私の追悼慰霊の儀は、天皇に、捧げても、行われるのである。

野中の英語を、聞いていて、私は、それに付け加えて言ったのである。

知らない人のために、書く。
天皇は、日本国の象徴である。
昭和天皇は、人間宣言という、変なことを、強制されたが、現人神と言われた。本来、現人神とは、国民のことであり、天皇は、その総代であり、現人御神と、言われる。

天皇の政治は、国民を、公宝、おうみたから、と、呼んで、民を大切にしてきた。

私は、天皇制を、議論する者ではない。
右翼でも、左翼でもない。
私は、上、カミである。
日本の伝統にある、カミと呼ばれる民である。

カミは、また、頭とも、守とも、書く。私は、追悼慰霊の儀を執り行う、守、カミである。

それから、私たちは、フィジー出身、トンガ出身のタクシー運転手と、会うことになる。
そして、大きなテーマに発展した。
トンガにも、衣服の支援をして欲しいと、いうものである。書くと、長くなるので、省略する。

イルカラ・アートセンターに、到着した。
センターの前は、ヨォルングの住まいである。

実は、この、ヨォルングの人々は、強制的に、ここに移住させられた。
それは、鉱山建設のためである。

ゴーブは、鉱山の町なのである。

生活の場を、奪われた、ヨォルングの人々は、この土地を与えられて、仕事なく、国の保護によって、暮らしている。
実に、不自然な、生活である。
つまり、夢も希望も無い。
飼われているようである。

これは、後で、問題提起として書く。

この場所では、祈りは行わない。衣服支援のみである。
実は、明日、行くべきはずの、ダリンブイ・アウトステーションにて、追悼慰霊の祈りと、支援を、行うはずだったが、野中が、タクシー会社に交渉すると、一時間半ほどの道で、往復で、五万円以上の、金額を請求されたのだ。
私は、即座に、断れと言った。
それだけの、お金を使うなら、それを、そのまま、寄付した方がよいと、思った。

とんでもない、金額である。
精々、二万円程度を、想定していたのである。

それで、ここで、支援をすることにした。

最初に、出迎えた方が、館長で、白人の方だった。
そして、私たちは、地元の、代表者に、紹介された。
その方を、通して、皆に、支援物資を差し上げるということである。

これには、訳がある。
アボリジニの人は、物をくれる人は、悪い人という、イメージを持っている。
それは、宣教師たちの、行為だった。
原住民に、物を上げて、支配した。それも、親子を、隔離するという、とんでもない、行為を行った。

アボリジニを、人間と、見なさなかったのである。
文明人に、近くなるように、キリスト教徒に仕立てて、様々な、規則、規律を持って、子供たちを、教育した。

その弊害を受けたのは、現在の、四五十代の人である。
アボリジニの、伝承も、伝統も、受け継げず、さりとて、白人の文明を、受け入れられたかというと、中途半端である。

食事も、バランスの良い、現地の食べ物から、パンと、紅茶という食事にされて、今、それにより、糖尿病の人が、実に多い。紅茶に、大量の砂糖を入れて、飲んだからである。

彼らは、非常に病んでいる。
自分の、自己同一性を、持てないのである。
私は、誰か、何者なのか、という、戸惑いは、精神を深く傷つけた。

センターの前に、私は、衣服を広げた。
代表の方が、子供何人かに、声を掛けた。
丁度、この日は、学校が、休みで、皆、広場で、遊んでいたのである。

だが、いつもの、お渡しと違うのである。

おじさんは、私に、皆の好きにさせて下さいと言った。
私は、いつも、一人一人に、合った衣服を、手渡しで、差し上げる。

子供たちは、少しつづ慣れて、自分の合うものを選んだ。
遠慮しつつ、見守る子供には、私が、積極的に、その子に合うものを、選んだ。

中に、一人の女の子が、これも合わない、これも合わないと、おじさんに、衣服を投げ捨てている。
驚いた。
しかし、おじさんは、何も言わない。
実に、無礼な態度である。
だが、その意味も、解ってくる。

三分の一が、余った。まだ、貰いに来ていない子供も、多い。

私は、無理せず、暫く、その場に、置いていた。
そして、近くで、タバコをふかし始めた。

もう、終わりかなーと、思いつつ、見ていた。
ところが、一人来て、二人来て、また、差し上げるムードになる。

そして、また、止まる。
その繰り返しで、最後は、すべてが、無くなった。
印象的だったのは、大人たちである。
漸く、心を開いたのか、大柄な男が来た。
丁度、大人物もあり、私は、引き出して、見せた。

もう、その頃は、野中も館内に入り、おじさんも、いない。
私は、何気なく来る子供に合うものを、選んで、差し上げた。

ほとんど、無くなった。
小さな子は、自分に合う、可愛い服を手にして、静かに、微笑んでいた。

最後である。
若い、女性が来た。
決して、愛想がよいわけではない。
ブスッとして、私に、鞄の一つを指差した。
衣服を入れた、鞄が欲しいのだ。
私は、その鞄を、渡した。しかし、何も言わずに、それを、持って去った。

子供用と、大人用。しかし、中学生や、その上の世代が着るものは、無かった。

館内に、17,18,19の男の子などがいた。
私は、この子達に差し上げる物が無いと、気付いた。

言葉を交わす。
だるい笑いがある。
彼らの、親は、隔離されて育った。その子である。
どんな、精神状態かが、伺えた。

将来に、希望を抱く年代である。しかし、その気配が無い。
何かを諦めた顔である。
その、姿勢の様を見れば、解る。
こちらが、尋ねると、ポツリと、答えて終わる。会話が続かない。

歌にする。

17の 少年の憂い 何ゆえか それ以上を 訊けぬ我が胸

子供から 儀式経たあと 民族の あるべき姿 知りて悲しむ

200年の 統治のゆえの 悲劇をば 受けたることの 少年の涙

アボリジニと 我に告げたる 黒き人 オーストランアン 我にあらずと

伝承と伝統にこそ、生きるという、アボリジニの、それを、根こそぎ奪った罪は、重く深い。

何か、空しさを感じつつ、私は、しばし、そこに、佇んだ。
佇む以外にないのである。

悄然として、遠い空を眺めた。
人は、何ゆえ生まれて、何ゆえに、生きるのか。
少年の頃に、考えたことを、ここで、考える。

多くのことを、学んだはずである。
しかし、何一つ、役に立たない。
私は、私で、創造するしかないのである。

生きることは、演じることである。
そうして、今の今までやってきた。
今回は、男を演じて、生きる。今回は、独身で生きる。今回は、やりたいことを、やって生きる。今回は、そのままを、生きる。

今回は、子供を産まない。というより、産めない。

道端の 空見上げたる その先の 何事かある 何事も無い
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2008年07月07日

もののあわれ237

桐壺

月は入りがたの空きよう澄みわたれるに、風いとすずしくなりて、草むらの虫の音もよほしがほなるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。

命婦
鈴むしの 声の限りを 尽くしても 長きよあかず ふる涙かな

えも乗りやらず。

母君

いとどしく 虫のねしげき あさぢふに 露おきそふる 雲のうへ人

かごとも聞えつべくなむ」と、言はせ給ふ。


母君を、見舞う命婦が、帰り支度をする。

月夜の空が、澄み切った中、涼しい風が吹く。
草むらの虫の音が、心に響くのである。
いと立ち離れにくき草のもとなり
帰ろうとするが、その風情に、中々、帰ることが出来ない。

すずむしの こえのかぎりを つくしても ながきよあかず ふるなみだかな

車に乗ろうとした、命婦は、歌を口ずさむ。
あの鈴虫の、声の限りを尽くして鳴くように、長い夜を、泣き明かすことである。

いとどしく むしのねしげき あさぢふに つゆおきそふる くものうへひと

雲のうへ人は、命婦のことである。
虫の音に、あなたも、涙を流されますか。この、浅茅の、草深い上に、涙を置いてゆかれますか。

かえって、ご訪問が、恨めしいと、母君が、女房に言わせた。

桐壺更衣の、突然の死を、嘆き悲しむ、帝を中心とした、人々の心を、描く、桐壺の巻である。

その、桐壺更衣の、母君も、亡くなる。
残されたのは、皇子である、光の君である。

作者は、光を、源氏の君と、呼ぶ。

帝の歌

尋ねゆく まぼろしもがな つてにても たまのありかを そこと知るべく

亡き人を、尋ねるために、道士でもよし、その魂の、在り処を知りたい。

雲の上も 涙にくるる 秋の月 いかですむらむ あさぢふのやど

雲の上の、秋の月も、涙にくれる。
どうしてこの世に住むというのか。生きているというのか。
浅茅生、あさじふ
浅茅が生える、草深い宿に。

桐壺の巻に、藤壺の宮の、入内がある。

兎も角も、桐壺の更衣の、亡き事を、悲しむ。
そして、桐壺更衣に対する、多くの人の嫉妬などの、こと度もが、語られる。

光源氏の、名の由来は、
光る君といふ名は、こまうどのめで聞えて、つけ奉りける、とぞ言ひ伝えたる、となむ。

高麗人の、人相見の言葉から出たという。

その様、桐壺の巻に、書かれてある。

物語は、帝が寵愛する、桐壺の、突然の死によって、幕を開けた。
そして、残された、皇子は、桐壺に似た、美しい男子である。
更に、藤壺の入内は、光る君の、憧れとなった。
母の顔を、知らない、光は、藤壺を慕うのである。

この、桐壺の巻は、多くの研究家の、想像を逞しくしたようである。

いづれの御時にか
ある、研究家は、平安期の、表現を辿り、この表現によって、あたかも、実在の物語が、背後にあるかのように、見せかけることが出来るという。
それは、単なる、見せかけであり、勿論、事実ではない。
しかし、実在しない物語が、真に迫るものになっているのは、作者の、天才的文才であろう。

最初に言った。
物語は、面白いか、面白くないか、である。
当時の人、実に、面白く読んだであろう。

桐壺の最後の段は、光の君の、元服と、左大臣の家へ、婿として入ったことである。

余談であるが、物語の随所に、当時の、風習などが、描かれている。
細心の注意を、払い読むと、皇子などの、元服の際に、公卿などの、少女をおそばに、臥させるというものがある。
それは、つまり、共寝をするということで、暗に、男女の関係を、教えるというものである。

また、男女のことだけではない。
当時は、男性同士の触れ合いが、当然の如くにあったという、事実も伺われる。
それは、私の解釈、読みであるが、追々と、書くことにする。

私は、素人である。
素人ととして、源氏物語を、読んでいる。


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神仏は妄想である 126

道元について、書いているが、少し休んで、日本において、仏教が、生成発展したことを言う。

玄奘三蔵法師が、天竺に向かった当時、その行く道は、すべてが、仏教を報じていた。国王から、仏教徒であった。
しかし、その後、すべてイスラムに乗っ取られた。
仏教は、壊滅である。

何故か。
仏陀の慈悲の思想というものが、いかに、行いにくいかということである。

勿論、日本にても、仏の祈り、戦いに臨んだ者は多い。しかし、それでも、仏陀の慈悲の思想を、手放さなかった。それは、元からあったものであるからだ。

万葉集を読めば、それが、解る。
慈悲というものは、万葉集の、すべての歌に現れてる。

私は、それを、もののあわれ、として、認識している。
それは、慈悲にまつわる、日本人のすべての、心情のことである。それは、心象風景として、更に深まるのである。

そして、仏教を奉じる者で、極地に行く者は、すべて、日本人の感性として、仏教を受け入れているということである。

例えば、念仏の一遍は、捨て聖として、念仏行を行った。
それは、建物も、書き物も、残すことなく、ただ、念仏に、自らを、投入して行く様である。念仏に成り切るという、極地である。
それは、念仏に成り切るというだけではない。
そのように、出来たのは、彼が、日本人の感性を持って、念仏に当たったからである。

つまり、日本人の、自然との、共感と、共生の心を持って、念仏というものを、理解したからである。
それは、実に、自然な行動だった。
跡に何も残さないという、心は、日本人の原風景である。

建物を、残す、書き物を、残す者は、二流以下である。
一流でも、建物や書き物を、残す者がいる。

最上級の者、何一つ、残す物は無いのである。
それは、日本人ならば、すべて、自然に帰るということを、知っているからである。

念仏も自然に帰るのである。
その自然を、仏と、呼んでもいいのである。

華厳宗の明恵という、僧がいる。
彼もまた、日本人の感性として、仏教を受け入れた人である。

密教、念仏宗などが、盛んであり、堕落していた、奈良の仏教を立て直したとされる人である。

その教えは、ひたすら、釈迦の教えに帰れ、だった。
しかし、その釈迦の教えとは、何かと問われれば、膨大な仏典の中から、選ぶことになる。しかし、明恵は、釈迦の教えを、伝統から、理解した。

それの証拠は、明恵の歌にある。
彼は、何十年にも、渡って、自分が見た夢を、綴った、夢の記、というものを、書いている。それも、不思議なことであるが、彼の歌に見る、大和心である。

山寺に 秋のあかつき 寝覚めして 虫とともにぞ 鳴きあかしつる

山の寺で、秋の明け方、目覚めた。そして、虫の音に、聞き惚れて、ついには、虫と共に鳴き明かす。

虫を対立したものとは、置かない。
虫ともに、鳴くのである。

夜のうちに 汲みほす水に あえなくも いつまでとてか 宿る月かげ

夜のうちに、汲み干してしまう、水の中に、写る月影。
ただ、それだけである。

そのままを、詠む。
それが、大和心である。

大和心にて、釈迦を、理解するのである。
だから、日本人にして、仏教は、更に生成発展したという。

それは、仏教だからではない。
日本人だから、仏教になっていったのである。

でなければ、シルクロードのイスラム化は、いかなることか。
アフガニスタンなども、仏教遺跡の多い、仏教の国々だった。しかし、今は、御覧の通り、イスラムである。

仏教を、より深くしたのは、日本人だからである。
更に、仏陀の地は、そのインドは、バラモンと、ヒンドゥーに、取って代わられたであろう。今は、仏教など、見る影も無い。

今、残る仏教は、小乗が伝わった地域である。

大乗の偽の、仏教が、ここまで、成長したのは、日本人による。

嘘、偽の、仏教を、大和心により、本物にしたのである。

息吹を吹きいれたのである。

大和心で、である。

世の中の せめてはかなき ためしにや 月さえかりの 宿りにぞすむ

月さえ、仮の宿りに棲む、と、歌う、心根は、大和心である。

万葉にあっても、おかしくない歌である。

月の光でさえ、仮の宿りに写るのである。それならば、この人の世の、儚さは、いかなるものか。

はかなき、は、あわれ、にゆくのである。
神仏は妄想である。
しかし、神仏を、奉じた者が、妄想ではない。
現実に生きた人である。

法然、一遍、明恵と、何物も、残すことがなかったという点では、私は、理想的な、宗教家であるという。

法然の書き物は、人の求めに応じて、その弟子たちが、まとめたものである。

その点では、最澄や、空海は、評価しない。
空海は、稀代の詐欺師である。
千年も、その詐欺に、気付かないという、愚かさは、また、ただ事ではない。

さらに、道元を見てゆく。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アボリジニへの旅 7 平成20年7月

イルカラに出掛けて、疲れた。
帰りも、同じイラン人の運転手だが、もう、言葉は交わさなかった。

単なる、疲れではない。
私は、部屋に入り、もう、どこにも出て行きたくないのである。
野中が、お湯を沸かして、紅茶を煎れた。

書くのを、忘れたが、アートセンターでの、最後は、楽しかった。
野中が、一本の、イダキを買うため、色々と、探っていたのだが、その、イダキを吹く音がするので、館内に入り、更に、職員専用の、広場に出た。

おばさん二人が、イダキの、絵模様を描いている。
そして、子供たちが、野中と、一緒に、イダキを吹いているのである。

館内には、イダキを売る専用の部屋があるが、子供たちのために、子供に合わせた、イダキを陳列している場所もある。
子供たちは、好きに、吹いていいのだ。

7歳から、10歳前後の子供たちが、イダキを吹く。
上手だ。
野中の音とは、また、違う。
更に驚いたのは、子供たちが、イダキの伝統曲を、暗譜していることである。

私は、感激して、聴いていた。すると、子供たちは、いよいよ、盛んに吹くのである。
女の子もいたが、それは、男の子のものであるから、聴くのみである。しかし、女の子たちは、男の子たちを、見守りつつ聴くのである。

男の世界と、女の世界が、明確に分かれている。
それが、また、イギリス人を誤解させたのであるが。

野中が、女の子に、訊いた。
吹かないの。知っているけれど、私たちは、吹かないの。
知っているが、私たちは、吹かないという。それは、男のものである。

儀式も、男と、女の儀式は、違う。

また、もう一つ、明確に、区分けされているものがある。
陰陽という、考え方が、東洋思想にはあるが、アボリジニには、イリチャと、ドゥワァという、区分けがある。
それは、子供の頃から、教えられる。
非常に難しいことなので、後で書く。

私は、一生懸命に、イダキを吹く子供たちに、何かをプレゼントしたかった。
そこで、思い出したのが、野中が、皆、ペロペロキャンディが好きだということだった。

私は、センターの前にある、スーパーに、走った。
そして、キャンディーを、買った。
一袋に、四個セットの、キャンディーが入っているものを、三個買った。全部で、12個である。
それを、ばらして、子供たちに、配った。
わーーーと言って、子供たちが、集った。

子供服の時とは、大違いである。
もう一つ、もう一つと言う子もいる。

その時、丁度、タクシーが来たので、早々に退散した。

私は、部屋の前のコーナーに、座り、タバコをふかした。
野中も、出て来た。
野中には、ペットボトルの水を買って来て貰うことにした。

私は、浴衣を脱ぎ、シャワーを浴びて、タイパンツに、着替えた。
そして、ベッドに横になった。

時々、ギャギャーと鳴く、オウム、ホワイトカカトゥという鳥の鳴き声が聞こえる。
この鳥は、白くて美しいが、鳴き声が、喧しい。
頭についている、冠が、特徴的だ。

そういえば、この、ホワイトカカトゥが、聖地に行く私たちに、一羽、案内するように、着いて来ていた。あたかも、案内する如くである。

その夜も、早々にベッドに就き、寝た。

最後の日である。
ダリンブイに行くことを、止めたので、追悼慰霊の儀を、どうするかと、考えた。

朝、モーテルに備え付けの、インスタントコーヒーを、飲んで、考えた。
兎に角、一度、街に出て、少し買い物をしようと思った。

この日に、起こることは、想像もしていない。
何が起こるかは、その時に解る。

ぶらぶらと、歩いて、道沿いにある、カトリック教会に、入った。
扉が開いている。
つまり、安全な街なのである。

プロテスタントの、チャペルにはない、聖母の像がある。
聖水もある。
祭壇の前で、写真を撮る。
父と子と精霊の御名によりてアーメンと、唱える。

私の少年時代は、カトリック教会の思い出ばかりである。
思い出は、人生である。

今、跪くことはしないが、思い出は、大切である。
未だに、最初に手にした聖書と、祈祷書を、持っているのである。
ボロボロである。

今回は、実は、ロザリオを持って来ていた。
何かのためにである。
ロザリオの祈りは、聖母を通して祈るものである。
アベマリアへの、祈りである。聖母を通して、イエスに行くものである。
プロテスタントとの、論争が、最も、大きい問題である。
聖母像は、偶像である。

人は、何故、祈るのか。
そして、祈りとは、何か。
古神道では、明確である。
いのり
い宣り、である。言葉は、すなわち、言霊であり、それは、音霊が、動くものである。
イ音は、受け入れる意味である。
のオ、とは、オの、送る音である。そして、更に、りイと、受け入れる。

言葉自体が、動くのである。
故に、言葉は、カミであるとする。
カミとは、霊である。つまり、言葉は、霊なのである。
霊は、目に見えないものである。音も、目に見えないが、耳に聞こえるものである。
耳に聞こえないものも、ある。
最後は、だから、黙祷という姿勢になる。
慰霊の儀を、執り行って、解ることは、黙祷の意義である。
最高の祈りは、黙祷である。

教会を出て、別の道から、繁華街に向かった。
すると、二人のヨォルングが、道端に座っている。

私は、ヨーと、声を掛けた。
おじいさんである。
二人は、手を上げた。

そして、一人の老いた、おじいさんが、私に話し掛けた。
それが、何と、長老と言われ、世界的な、イダキの名手である、ジャルーの、兄弟だったのだ。

実に、親しげに、話し掛けるのである。
私は、タバコを二人に差し上げた。
すると、私に何やら言うのである。
別のおじいさんが、言った言葉に、野中が、驚いた。

先生、と、私を呼ぶ野中。
ジャルーの、弟さんだよ。
そのおじいさんは、私に、歌を歌う者だと言った。

野中は、おじいさんに、一度逢っていますと言った。
コタです。
野中は、一度、ジャルーに逢いに、ここに来ている。
コタ。
はい、コタです。

それから、驚くことばかりが、続いたのである。

兎に角、ジャルーの弟さんは、私と、以前からの付き合いのような親しさである。
そして、ジャルーは、今日から、ここにいると言うのである。
そこに、家族も、やって来た。
彼の、娘たちである。
私は、皆に、タバコを差し上げた。

暫くの会話である。

ようやく、私たちは、買い物をするために、スーパーに向かった。
野中は、ジャルーが、いると、興奮していた。
逢えるかもしれないという、思いであたろうと、私は、思った。

買い物を、終えて、私たちは、また、来た道を戻ると、先ほどの、家族が、皆揃っていた。
私は、再び、おじいさんの、横に座った。

野中が、何か話す。
お金が無くて、車を待っていると言う。
要するに、タダで乗せてくれる車を、待っているのである。

彼らは、スキービーチに帰るのだ。

私は、それなら、一緒にそこに行くと、言った。
タクシーを呼んでくださいと、家族の人に言った。

娘の一人が、飛び出すように、タクシーを、呼ぶために、走った。
一台の、ワゴン車が来た。
七人、それに乗った。

20ドルである。
私たちの好意を、運転手は、理解したのだ。

その、ビーチは、実に美しいビーチで、昨日のアメリカ人のカップルが、教えてくれた場所である。

15分ほどして、おじいさん、二人が降りた。
私たちも降りて、最後の握手をし、写真を撮った。

そして、娘さんの家に向かった。
その、ビーチの道は、両側に、海があり、見るに値する風景である。

一軒の家の前に、車が止まり、皆が、降りた。
私たちも、降りて、矢張り、写真を撮った。
次に来た時は、来てくださいと、言われた。

車に乗り込むと、運転手が、サービスで、少し辺りを回ってくれた。

そして、その運転手が、何と、ジャルーの、娘さんと、結婚して、私たちが、行くはずだった、ダリンブイに住んでいると言うのである。

出身は、トンガである。
更に、ダリンブイの、若手三人兄弟の、イダキ奏者の、マネージャーも務めているというのである。
野中が、驚いた。
ヨーロッパ公演などしている、グループである。

話は、尽きなかった。
帰り道は、大いに盛り上がった。
次に、来た時は、空港に迎えに来てくれ、ダリンブイに、テントを張り、泊まるようにと言う。
グループの者の、車を使うので、ガソリン代だけでいいという。

彼は、ゴーブに一軒だけある、タクシー会社の社員だった。
タクシー運転手は、ほとんどが、海外から来た者である。

トンガでは、成績の良い者は、皆、他国に出稼ぎに行くという。
彼も、その一人で、ここで、結婚したのだ。それが、ジャルーの娘だった。
posted by 天山 at 17:07| アボリジニへの旅 平成20年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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