なほざりの たより訪はむ 人ごとに うちとけてしも 見えじとぞ思ふ
我が家の、門を通りかかったという。
リラックスしている様を見たいという。それに、返して
いい加減な、通りすがりに訪れる人の言葉に、心を許して、お目にかかることは、決してありません。
これは、夫が、昼間に、訪れたということである。
夫を迎えるために、準備をしていない、その様を、見たいという。
人ごとに
それは、夫のこと。
しかし、夫は、中々、夜には、訪れなくなった。つまり、夜離れである。よがれ、という。
月見るあした、いかに言ひたるにか
よこめをも ゆめといひしは 誰なれや 秋の月にも かでかは見し
月を眺めていた、翌朝、言ってきた。夫が昨夜、来られないという、言い訳である。
他の女に、心を移すことなど、決して無いというのは、どなたでしょう。昨夜の秋の月を、どのように、御覧になったのか。
よこめ
他に目を奪われる。
ゆめ
決して無いということ。
いかでかは
どのようにして、である。
次の歌も、夫の夜離れを、歌う。
なにばかり 心づくしに ながめねど 見しにくれぬる 秋の月影
昨夜の月は、なんとなく、眺めていましたが、見ているうちに、秋の月が、涙で、雲ってしまいました。
心づくし
様々なことを、物思いすること。
心づくしに ながめねど
何も、考えることなく、ただ、眺めていた。
見しにくれぬる 秋の月影
見ているうちに、曇ってきたのである。それは、涙のせいである。
寂しいのである。
心づくしに、という心境で、眺めることは、多々ある。
そのうちに、何となく、色々な物思いに、浸る。そして、思い出し、それに、悲しみ、喜ぶ。すべて、我が心の内のこと。
独り、月影を眺める夜が、あってもよい。
夜に、物を眺める時代である。
さて、現代は、どうだろうか。
田舎では、まだ、夜の空、月や星が見える。
都会では、光が多く、それを見ることは、難しい。しかし、それでも、眺めていれば、夜の空には、物思いの、種がある。
昼間の疲れは、夜の闇が、解放するはずであるが、どうも、そうではないらしい。
夜の空を、見る余裕もなくなった。
昨年の自殺率が、また、更新した。
特に、三十代の人が多い。
過労死も、多い。
大変な時代になった。
歌を詠むどころか、夜の空も、眺めることの出来ない、生活とは、それが、文明生活なのであろうか。
それなら、文明化を、もっと、ゆっくりと進めたいものである。
とは、言うものの、最早、この流れは、止められない。
見しにくれぬる 秋の月影、という、状態に、置くことなど出来ないのである。
人生とは、と、問われたら、即座に、思い出であると言う。
思い出に、しばし、浸る時、心の回復がある。
また、人生は、過ぎた日の、思い出のみが、残る。
この先も、思い出作りである。
その、思い出を、畳み込んで、死の床に就く。
ああ、楽しかったと、息を引き取るか。
一人一人に、与えられた、思い出は、その一人のものである。そして、死後、多くの人の、共有のものとなる。
死後も、生き続けるのは、それである。
心づくしに ながめねど
ぼんやりとして、夜の空を、眺める時、我らの、もののあわれ、というものの、姿を見る。
目には清かに見えぬものを、見る。
もののあわれ、である。
秋の月にも いかでかは見し
あなたは、どんな思いで、秋の月を見たのでしょう。
その、あなたの存在が無い人は、寂しい。
しかし、我が心に、我が心が、共鳴することもある。
その、共鳴に、歌道がある。
歌道も、もののあわれ、に支えられてある。