2008年06月28日

もののあわれ229

少将・中将と名のある人々の、同じ細殿に住みて、少将の君を夜な夜なあひつつ語らふを聞きて、隣りの中将

三笠山 おなじ麓を さしわきて 霞に谷の へだつなるかな
みかさやま おなじふもとを さしわきて かすみにたにの へだつなるかな

少将、中将と、呼び名がついている人々である。
殿舎の側面、背面などの、細い庇の間で、私が、少将と、語り合うのを聞いて。
少将とは、作者の親しくしていた、小少将のことである。
隣の、局に住む中将が、詠む。

三笠の山の、同じ麓にいるのに、区別して、霞に谷が隔てられてあるようです。
中将も、少将も、同じ場所の、仲間なのに、あなたに、分け隔てされました。

返し

さしこえて 入ることかたみ 三笠山 霞ふきとく 風をこそ待て

三笠山とは、奈良、春日神社のある、山のこと。

霞の覆う谷を越えて行くのは、大変なことです。風が、霞を吹き払い、あなたが、打ち解けてくださるのを、私の方こそ、待っています。

あなたの心が、打ち解けてくれたら、私は親しくなれるという。

女房たちの、呼び名が、少将、中将、大将と、言われていたのである。


紅梅を折りて、里よりまいらすとて

むもれ木の 下にやつるる 梅の花 香をだに散らせ 雲の上まで

雲の上まで、とは、中宮に、紅梅を、献上したのである。

人目に触れず、みすぼらしい梅の花よ、せめて、香りを、宮中の中に、散らしておくれ。

むもれ木の、とは、下にかかる、枕詞。
やつるる、とは、やつれる、と、使う。やつれたものである。みすぼらしいもの。

梅の花を、卑下している。
つまり、自分の里を卑下しているのである。

雲の上は、宮中である。それは、敷居の高い場所なのである。

卯月に八重咲ける桜の花を、内裏わたりにて見る
うづきにやえさけるさくらのはなを、うちわたりにてみる

九重の にほふを見れば 桜狩り かさねてきたる 春のさかりか

寛弘四年、1007年の四月のこと。

今、美しく咲く、八重桜を見ると、桜見物の、春の盛りが、再びやってきたのかと、思われる。

宮中で咲く、桜を見ての、歌である。
桜の花は、華やかに、見える様が、伺える。

にほふを見れば
この、にほふ、とは、美しいという意味である。

にほふ、を、美しいと、解釈した、言葉の、美しさである。

これが、後に、匂うとなり、匂いとなる。
実は、美しさは、匂うものなのである。

香道という世界がある。
それは、香を嗅ぐのではない。
香を、聴くという。

香を嗅ぐ行為を、ものを聴く行為に見立てたのである。

この、見立てる心とは、もののあわれ、である。
また、これを、間合いともいう。
間合いの、確かさが、日本の心である。

すべての、芸術、芸能に、この、間合いというものを、置く。
こり、間合いこそ、もののあわれ、の、真骨頂である。

後に、世阿弥の、花伝書を、読む時に、じっくりと、考えてみる。

上記の歌、伊勢大輔が、宮中に対して詠んだ歌の返歌の、代作といわれる。

いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

古の、奈良の都に咲いた、桜を、本日、九重の美しい桜として、見ることです。

八重桜は、遅咲きである。
春の盛りが、再びきたというほどに、美しい桜であろう。

卯月の祭の日まで散り残りたる、使の少将のカザシにたまわすとて、葉に書く

神代には ありもやしけむ 山桜 今日のかざしに 折れるためしは

カザシとは、簪であろう。この、文字がないゆえに、仮名にした。
カザシは、桂と、葵で作る。中宮から、賜るものである。
カザシは、冠につける。

祭りの、勅使となった、少将のカザシを見て、葉に書き付ける。

神代にも、あったのでしょうか。山桜を、簪につけるという、珍しいことが。

つまり、山桜を、冠につけたのである。
そんな、粋な行為が、神代にあったのかという。

桂と葵と、山桜を、冠に取り付けた、派手やかなものだったと、思える。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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