2008年06月23日

もののあわれ224

都の方へとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなる所のいとわりなきかけみちに、輿もかきわづらふを、恐ろしと思ふに、猿の木の葉の中よりいと多く出で来れば

ましもなほ 遠方人の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂
ましもなほ をちかたびとの こえかはせ われこしわぶる たにのよびさか

都へ帰る途中の、越前国、福井県である、かへる山という所を、越える、呼坂という場所は、とても、難儀する険しい道である。
輿を担いで行くのも、大変で、恐ろしいと思う。
猿たちが、木の葉の間から、続々と出で来るのである。

猿よ、お前たちも、遠方人として、声を掛けておくれ。私の、越えあぐねている、この谷の、呼坂で。

遠方人
遠くの方にいる人である。

みづうみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを

名に高き 越しの白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね

琵琶湖にて、伊吹の山の、素晴らしく白く見えること

名高い、越しの山の、白山に行き、その雪山を見慣れたので、伊吹山の、雪など、なにほどのことはない。

伊吹の嶽
いぶきのたけ

なにとこそ見ね
なんのことはなく見える

卒塔婆の年へたるが、まろび倒れつつ人に踏まるるを

心あてに あなかたじけな 苔むせる 仏の御顔 そとは見えねど

卒塔婆とは、梵語、ストゥーバの漢訳である。
死者を葬る場所に建てる、墓標である。
木や石で、作る。現代は、墓といえば、石であるが、昔は、木もあった。

その、卒塔婆が、倒れて、人の踏みつけられてある。

足に踏まれる、石の中から、これが卒塔婆だと思うと、ああ、もったいないことと思う。
苔むして、仏のお顔も、それだと、解らない。
死者を、この頃から、仏と言う。

卒塔婆は、死者の顔として、認識されていた。


結婚が近づいた頃の歌を見る。

けぢかくて たれも心は 見えにけむ ことはへだてぬ ちぎりともがな

親しく話すようになり、互いに、心が通ったでしょう。この上は、隔てをおかない、仲になりたい。

ちぎりともがな
和泉式部日記では、ちぎる、とは、セックスをさした。
ここでは、深い関係を、暗に言う。
これは、宣孝の歌である。男側からのもの。

返し
へだてじと ならひしほどに 夏衣 薄き心を まづ知られぬる

隔てを持たないようにと、思って、いつも、お返事していました。
でも、へだてぬちぎり、をと言う、言葉で、あなたの心の薄さが、解ります。

矢張り、女である。

夏衣
薄いの、枕詞。

男の、へだてぬちぎり、に、動揺し、反発している。
今の言葉で言えば、早く、しましょうと、促している。


峯寒み 岩間氷れる 谷水の ゆくすえしもぞ 深くなるらむ
みねさむみ いわまこおれる たにみずの ゆくすえしもぞ ふかくなるらむ

峯が寒くて、岩間の水が、氷っている流れは、春になれば、氷が解けて、深い流れになります。
そのように、私たちの仲も、深くなることでしょう。

詞書がないが、宣孝の歌である。

紫の、女の固い心を、何とか、ほぐしたいと思っているようである。
要するに、口説いているのである。

早く深い関係になろうと、男が言うと、女は、薄い心だと返す。
きっと、いつかは、深い関係になってゆくと、信じると、男が言う。

何のことは無い、男女のやり取りである。
ただ、それを、歌にするということである。

ラブレターが、歌である。

万葉の相聞歌に、当たる。
相互いに、聞くのである。
相手の言葉を、聞くという行為は、すでに、恋なのである。

言葉を、発することは、成ることであるする、言霊の思想が、そのまま、生きる。

女は、名を教えれば、男を受け入れるという、その習いが、生き続けている。
ちぎり、の前に、言葉の駆け引きがある。それは、現代もそうであろう、か。いや、時代性は、まず、関係から始まり、次にようやく、言葉が発せられる。しかし、今では、それが、面倒だという、男たち多数。
恋が、面倒だという、病は、恋の病より、深く、病んでいるのである。
恋をしない、病は、実は、救いようが無い。
生きることは、恋することであった。
それが、失われると、あるのは、物である。
物だけに、生きるのである。
これは、病の重症である。

恋出来なくば、芸に生きるという訳でもない。
ただ、物のみに、心を動かすという、この時代は、今までにない、時代である。

もののあわれ、など、全く関係ない、日本人が、続々と、現れているのである。
国を愛すると言っても、理解出来ない。出来る訳が無い。
この国のことを、何も知らないのである。
知らないものを、愛することなど、出来るものではない。

しかし、それを、良心の自由をと言い、知らせないという、教育の現場である。
もう、語る言葉が無い。

これを、万事休す、と言う。

大新聞の、読者の声に、公立の教師をしていた者、最後まで、国歌斉唱の際に、起立しなかったことを書く。
公立である。
何故、私立に務めなかったのか。
起立しないことが、自由、それも、良心の自由だと勘違いしている。

公の場で、国歌斉唱の際に、起立するのは、礼儀である。
ちなみに、日本以外の国で、そのような振る舞いをすれば、まず、相手にされない。
イスラム圏ならば、殺されても文句は言えない。

あまりに、未熟で、空いた口が塞がらない。

良心の自由であるから、バリ島の寺院に、短パンで入ろうとすると、止められる。タイの寺院でもそうである。
そんな良心の自由が通用するのは、このアホな国、日本だけである。

公とは、礼を尽くす場である。
公私混同も、ここ、ここに至っては、終わっている。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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