2008年06月21日

もののあわれ222

久しくおとづれぬ人を思ひ出でたるをり

忘るるは うき世のつねと 思ふにも 身をやるかたの なきぞわびぬる

久しく訪れぬ人とは、夫のことである。
夫を、思い

人を忘れるということは、憂き世の常だと思うにつけ、忘れられた身の、やり場無く、切なく、泣いたことでした。

返し やれてなし

たが里も 訪ひもや来ると ほととぎす 心のかぎり 待ちぞわびにし

お返し 
やれてなし、とは、前の何首かが、無いという、書写の言葉。

ホトトギスは、誰の里にも、訪れるものだ。いずれ、私の元へも、来るだろうと、一心に待ちあぐねている。

心のかぎり 待ちぞわびにし
心の限り、待つことを、知る、とは、そのまま、人生である。
人生は、待つことに、尽きる。
何を、待つのかで、それぞれの、人生模様が違う。

待ち尽くして、何も、来ない人生もある。
死ぬまで、何かを待つ人もいる。

昔、高校教師で、毎日、駅に、誰かを迎えに出ていた人を知っている。
精神の病にあるとは、知りつつ、ただ、その行為のみで、後は、普通の生活が、出来る。
私は、その人を、病にあるとは、思わなかった。
何かを、誰かを、待つ行為こそ、人生であろうと、思った。

その行為を、理解できない妻は、子を連れて、家を出た。
その人は、きっと、もうこの世にいない年である。

待ち続ける姿。
まさに、人生であろう。

忘るるは うき世のつねと 思ふにも
人を忘れるということは、この世の常だという。
そこに、忘れられた、存在もある。

失恋という、心象風景は、忘れられた人の、心模様である。

人に、忘れられてしまったと、感じた時。
失望と、喪失感である。
この、失望と、喪失感を、いかに、生きるか。

離れた人の心を、取り戻すことは、奇跡に近い。

生き別れ、死に別れ、どちらにしても、切ないことである。
しかし、人生に、そういうことは、多い。多すぎるほど、多い。
だから、物だけを、頼りにする人もいる。
それでは、淋しいと、他者は、見るが、本人は、それで、何とか、やり過ごしている場合もある。
誰も、その人を、裁くようなことは、出来ない。

物で、心を埋められるならば、それでも、いいではないか。

お金だけはあるが、淋しい人を多く、知っている。
しかし、それが、幸不幸であると、誰が、判定できるだろうか。

死を、目の前にしても、有り余るお金のみが、友の人もいる。
それで、満足していれば、言うことはない。

人は、それぞれである。
誰が、人を裁くことが、出来るのか。
人は、自分が自分で、裁くのである。

小少将の君の書きたまへりしうちとけ文の物の中なるを見つけて、加賀の少納言のもとに

暮れぬ間の 身をば思はで 人の世の あはれを知るぞ かつはかなしき

小少将の君とは、源時通の女。紫の親友である。
すでに亡くなっていたと、思う。
その彼女の、残された文の、うちとけ文を見て、加賀の少納言、つまり、小少将の友に。

我が身は、暮れぬ間の、儚い命で、明日は、どうなるか、わからない。
あの方の、生涯の儚さを、知ることは、悲しいことです。

人の世の あはれを知るぞ はつはかなしき
この、はつはかなしき、を、生き続ける、人間である。

これは、無常哀感である。
仏教の浄土思想による。
それを、美感に昇華させる時、歌の道があり、物語の道が、拓ける。

万葉の歌と、比べると、どうしようもない、絶望感である。
病むものである。

そこから、仏教の救済へと、向かったか。
一見、そのように、見えるが、しかし、違う。
無常美感を、作り上げてゆく。
そこに、日本民族の、独特の感性が、拓ける。

もののあわれ、は、一環して、底流に流れて、揺るぐことがない。

無常感覚に、美感が、超えるのである。
浄土思想は、実に、陰湿なものである。
しかし、それも、取り入れて、文の世界で、呑み込んでゆく。
仏教を超えてゆくもの、もののあわれ、であり、歌道である。

この歌は、古今集、紀貫之の、
明日しらぬ わが身と思へど 暮れぬ間の 今日は人こそ 悲しかりけり
を、本歌にしている。

たれか世に ながらへて見む 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども

誰が、生き永らえて、あの方の、文を、見るでしょう。
書き残された、この筆の、跡は、消えずに残る、形見です。

跡は消えせぬ 形見なれども

それが、歌道であり、文であり、もののあわれ、である。
すべての歌は、文は、形見である。

返し

亡き人を しのぶることも いつまでぞ 今日のあはれは 明日のわが身を

亡き人を、悲しみ慕うことも、いつまででしょう。
今日の人の無常は、明日、我が身にも、訪れることです。

だから、救われる。
私も、いつか、必ず死ぬのである。
何も、急ぐことはない。
確実に、決定していること、それは、死である。

内裏に、水鶏の鳴くを、七八日の夕月夜に、小少将の君

天の戸の 月の通い路 ささねども いかなるかたに たたく水鶏ぞ

水鶏の鳴く時期は、旧暦六月である。水鶏とは、くひな、と読む。

この夕月の射す、宮中では、戸を閉めていないのだが、水鶏は、どちらの戸を叩いて、いるのでしょう。

天の戸の 月の通い路
宮中の人の通路を、言うのである。

小少将の君の歌である。

返し
槇の戸も ささでやすらふ 月影に 何をあかずと たたく水鶏ぞ
まきのとも ささでやすらふ つきかげに なにをあかずと たたくくひなぞ

夕月のもとに、寝ようかと、槇の戸を閉ざさずいるのに、水鶏は、何が開かないで、不満だと、鳴くのでしょう。

水鶏は、交尾の時期になると、雄が、戸を叩くように鳴くのである。
それを、戸を叩くという。

なにをあかずと
開かずと、飽かずの、掛詞。

飽かずに鳴くのである。

思い出の、歌のやり取りである。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。