2008年06月19日

もののあわれ219

世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名のある所々かいたる絵を見て、塩釜

見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦

この世の、無常なことを、嘆く時。
夫を失ってのことだろう。
松島湾に臨む、塩の生産地として有名な、塩釜は、歌枕である。
その絵を見て。

連れ添った人が、荼毘の煙となり、夕べより、名に親しさを感じる、塩釜の浦。

名ぞむつましき
名前が、むつましい、親しく感じられる。

現代でも、人と人が、親しい様を、睦まじいという。
むつ、交じる、のである。
むウつウ
ウの音は、呼び出しの音である。
相手の心を、呼び出す音。それは、神呼びの音でもある。
これが、音霊、おとたま、である。

音霊を、知らなければ、言霊を知ることなし。

門たたきわづらひて帰りにける人の、つとめて

世とともに あらき風吹く 西の海も 磯べに波も 寄せずとや見し

紫の家の門を、叩いた人。
夫亡き後、男が、言い寄ってきたのであろう。

いつも、荒い風が吹く、西の国の海辺でも、風が、磯辺に波を寄せ付けないのを、見たろうか。
今まで、こんな、酷い仕打ちを、受けたことはない。
言い寄る男の、行為を、酷い仕打ちと思う心が、痛ましい。

夫亡き身の、寂しさに、いい寄る男の、無礼を、歌う。
波も寄せずとや見し
波も寄せ付けないのを、見たのか。
いくら、風が吹いても、波を寄せ付けない、磯辺もあるという、自分自身に見立てている。

と恨みたりける返り事

かへりては 思ひしりぬや 岩かどに 浮きて寄りける 岸のあだ波

と、恨んで、更に詠む

お帰りになって、私の心の堅いことが、解ったでしょうか。
岩角に浮いて、打ち寄せた岸の間の、波のように、浮気っぽく、言い寄ってきた、お方。

かへりて
帰りと、返りの、掛詞で、波の縁語でもある。

あだ波
風もないのに、立つ波である。
あだ、とは、誠意のない行為。また、実体が伴わない事柄。
あだ桜、などという言い方をする。

あだ情け、とは、誠意無く、単なる遊びの、情である。
今風に言えば、プレイラブである。

男は、単なる、あだ情けの行為なのである。

年かへりて、「門はあきぬや」といひたるに

たが里の 春のたよりに 鶯の 霞に閉づる 宿を訪ふらむ
たがさとの はるのたよりに うぐいすの かすみにとづる やどをとふらむ

門は、かど、と読む。

年が明けて、つまり、夫の死の翌年である。
門は、もう開きましたか。喪は明けましたかという人あり

どこの里を、訪れた後に、鶯は、この、霞の中に閉じこもる家を、訪ねて来るのでしょうか。

この歌も、夫の、喪中に言い寄る男を、拒否する歌である。
鶯を、男に掛けている。

当時、夫の喪に対する期間は、一年であった。

さしあはせて、物思はしげなりと聞く人を、人に伝えてとぶらひける
本にやかれてかたなしと

八重山吹を折りて、ある所にたてまつれたるに、一重の花の散り残れるをおこせたまへりけるに

をりからを ひとへにめづる 花の色は 薄きを見つつ 薄きとも見ず

丁度、私と同じように不幸が、襲って、物思いをしている人を、人にことずてて、見舞った。

本にやかれて
これを、写した人が、書き入れたものである。
破れて、あとかたがないという。

八重山吹の花を折り、ある所に、たてまつれり、つまり、身分の高い方のことである。
一重の山吹の花である。

この時期の、花の美しさ。
一重の薄い色合いを見ても、色が薄いとは、思われません。

あなた様の、お心が、薄いなどとは、思いませんというのである。

この歌は、相手からの歌に対する、返歌。

花の色は、薄いが、あなたを思う心は、決して薄くないのですという、歌に対しての、返歌である。

薄きを見つつ 薄きとも見ず
薄い色を見ても、薄い心は、見えない。逆に、思いの深い心の色を見るのである。

季節、季節の花に掛けた、歌が多い。
何も無い時代である。
山川草木に、心を写したのである。

自然の豊かさは、掛け替えの無いものである。
日本人は、この、自然の中で、心を養ってきた。
これほど、恵まれた自然を、有する国も無い。

自然に、培われた心は、自然に添い、共感し、そして、共生していた。
それが、生きることでもあった。
自然に生きる。

それが、自然、しぜん、である。
ジネンと、読ませる、観念の自然ではない。

老荘思想の、自然の思想は、どこか、不自然である。
一見、何やら、高尚かつ、深遠なる思想に思えるが、単なる平面思想である。

私も、一時期、老荘思想というものに、取り組んだが、矢張り、もののあわれ、という、心象風景には、適うものではない。
理屈が過ぎるのである。
ただ、学ぶ価値は、ある。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 98

衆生にむかってひとえに「仏願に乗ぜよ」というのは、この願の上に乗りさえすれば、往生が決定するのを報らせるためである。丁度海を渡るのに舟に乗るのと同じである。これに乗れば易々と港に着くことが出来る。自らの力で泳いだら、いつ着き得るであろう。またいつ力が絶えるか分からぬ。あの沈むべき重い石でさえ大きな舟に乗せられるなら、沈むことはあり得ないではないか。人間の場合も同じだと浄土門の教えは説くのである。それ故、他力門というのである。
柳宗悦

浄土門だけではない。
大乗仏教というもの、すべてに、それが言える。

大きな舟に乗せて、彼岸へ渡るという。

何故、往生して、彼岸へ、渡らなければならないのかという、問いには、答えない。兎に角、往生すべきだという。
極楽へ、行くために。

その極楽は、理想的想像、創作の、阿弥陀如来が居るという。

この願文において最も驚くべきことは、法蔵菩薩の成仏と、我々の成仏とが同時だということである。われわれの往生するその時はまた彼が如来となるその時なのを意味する。言葉を換えると、救いたいという願いと、救われたいという行いとが同時に一体となっている。いつこんな不思議な出来事が起こるか。それは十声でも、否、一声でも仏の名を称える時に起こるのである。
柳宗悦

つまり、十方の衆生が、わがくににむまれんとねがひて、わが名号をとなふる事、下十声にいたるまで、わが願力に乗じて、もしむまれずば、われほとけにならじ

法然の、浄土宗略抄
つまり、十八願の一つである。

柳の文章は、往生するのが、当たり前であり、人は、往生するべきものだとの、前提での、言葉である。

誰でもが出来る、行為、念仏を称えるという行為。
それを、凡夫往生の願、という。

今なら、さしずめ、傲慢不遜と、言われる。
当時の、時代性であるから、認められ、人が集った。

後に、凡夫の自覚等々について、書くが、凡夫であることが、何故、いけないのか。
凡夫のままであることから、何故、救われなければ、ならないのか。

勝手に創作した、極楽という、ユートピアに、往生せよとの、教えは、脅迫であろう。
それに、何故、気付かないのか。

法然も言う。
我れ浄土宗を立てる心は、凡夫の報土に生きるを示さんがためなり

何故、一人で、凡夫として、念仏をし、死ぬことかなかったのか。
衆生を救うとは、僭越至極であろう。

それはとりわけ平のために設けられた宗門である。民衆の宗教、庶民の宗教である。それ故在家仏教とも呼ばれてよい。在俗の者、貧窮の者、下賎の者、無学の者、田舎の者、農民、漁夫、職人、商人等々、社会の低い層に活きねばならぬあらゆる衆生、とりわけそういう人々のために開かれた宗門こそは、この第十八願に依る念仏の一道である。否、それどころではない。罪ある者、愚かなる者、穢れたる者、汚れたる者、邪なる者、高ぶる者、虐げられた者、それら一切の者たちこそ、凡夫ではないか。
柳宗悦

そう、誰もが、救われると、説くのである。

現代では、これは、差別の何物でもないだろう。
人間を、貴賎に分けるのである。

更に、民衆の宗教というところが、面白い。
現在の新興宗教も、おおよそ、皆々、民衆の宗教と言う。
民衆の宗教と、言い、多くの人を集める。集まると、金が集まる。そして、組織を作る。更に、金を集める。
金を信者が、出すことを、供養と言う。徳を積むという。更に、それで、救われるとまで、言う。

この、宗教の、いかがわしさと言ったら無い。
しかし、今も昔も、信じる者は、騙された。騙され続けてきた。
それでも、何かを信じたい、拝みたいと思う。
何故か。

一人では、生きられないからである。
グループ、皆々がいると思う、安心感である。
しかし、そこには、救いは無い。

すでに、救われているという、詭弁を持って、騙すのである。

人間に、救いという観念を、持たせた宗教の罪は、余りに重く、重すぎる。

何度も言う。
何故、救われなければ、ならないのか。
それに、誰も答えぬ。

誠に第十八願の短文が、東洋思想に及ぼした波紋は、終わるところを知らぬほどに無量である。
柳宗悦

違う。
それが、及ぼした波紋は、終わるところを、知らぬほど、人間を迷いの、世界に貶めたのである。

妄想の、救いの観念に、貶めた。
更に、悪いことに、想念として、死後も、その、救いの観念に、迷うもの多く、あるはずもない、極楽浄土を、求めて、さ迷うのである。
更に、悪いことは、それらの、想念が集い、仏魔の世界を、作り出すものである。

さ迷う、念仏宗の人々が、次元を移動できずに、ひたすら、念仏を、称える次元がある。

死後も、念仏について、云々と、そして、延々として、無明に迷う。
南無阿弥陀仏と称えて、一体、どこに、何を求めて行くのか。
生きるという、地獄の世界から、解放されても、まだ、地獄の様を、背負っていること、念仏宗の、開祖、教え親たちに、解るのか。

観念の世界を、極楽だと、思い込む面々である。

その、観念を、より、深めた、次の段階に移ることにする。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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