2008年06月18日

神仏は妄想である 97

一切の衆生を成仏せしめねばおかない、とする、法蔵菩薩、つまり、阿弥陀仏の、願が、念仏の、根本義である。

その、願が、無量寿経に書かれてあり、四十八の願がある。

ただし、法蔵菩薩は、もし、願が、成就されなければ、「正覚を取らじ」つまり、仏の位を得ないというが、阿弥陀如来となって、成仏しているという、不思議である。

正覚とは、悟りである。
仏の位の悟りという。

今日までこれら四十八個の中で、浄家が最も深く注意したのは、第十一、十七、十八、十九、二十、二十二などの願であって、概に百千の書物がその意味を解くに捧げられた。そのうちなかんずく重大な意味を持つのは第十八願で、一般に「念仏往生の願」と呼ばれるものである。
柳宗悦

たとえ、我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生まれんと欲して、乃至十念せんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんとばをば除く。

これが、第十八願である。

信楽とは、信じきる。
我が国とは、浄土。
生まれんとは、浄土に往生すること。
乃至十念とは、十度ばかりも、念仏を称えること。
五逆とは、五種の逆罪で、父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身より血を流す、和合僧を破る、である。
正法とは、正しい仏法である。

ちなみに、法然が、浄土門に、目覚めたのは、中国僧、善導による。

一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるは、これを正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に。
観経義疎 より
捨てざるは、とは、称名、念仏を怠らぬ意味。
正定の業とは、弥陀の誓願により、正しく浄土往生が定まるという意味。

仏願は、阿弥陀の大願で、特に十八願を言う。

情報の無い時代である。
仏典という、膨大な書物の中からの、取出しである。

法然は、この一説を、読んで、一心専念弥陀名号と、感涙の涙を流すのである。

罪深い、下品、げぼん、の者さえ、救われる。

称名という易行の道がなくば、凡愚の衆生が救われる術はない。それ故口称念仏の行を、その宗派の眼目とした。
柳宗悦

法然の、浄土宗の、誕生である。

一般庶民は、読み書きが出来ない。下品である。
このような、考え方をするという、時代性である。
さらに、凡愚という。
今の言い方をすれば、アホ、馬鹿である。

何も知らない者たちということになる。

アホ、馬鹿が、救われるのは、易い、念仏の方法しかないと、法然は、気付いた。

何度も言うが、一般庶民に、仏教が伝えられた、きっかけを、法然は、作った。
それは、当時の、既成仏教団を、やわらかく否定することにもなった。

他力本願である。
誰もが、救われる。

浄土に往生することを、救いと、考えた。

これが、親鸞、一遍へと、受け継がれる。

時代性と、私は言った。

法然は、平安後期の人である。
平安とは、抑鬱の時代である。
最澄、空海の、天台と、真言は、国の仏教であり、奈良の六宗は、庶民の手の届かない仏教である。

ただし、当時の僧たちは、色々な宗派を、学ぶことが出来た。自由に、行き来した。唯一、空海の、東寺だけは、他宗の者を、拒んだのみ。

女房文学といわれる、世界最初の小説、源氏物語や、女の日記文学の平安である。
貴族は、危機意識なく、退廃的な生き方を善しとし、アクセサリー的な、仏法の説法を、聞いて、漫然と、過ごしていた。

そして、時代は、武家の登場である。
源平合戦を過ぎて、鎌倉幕府という、武家政権が、誕生する。

誰もが、時代に不安を、抱く。
そこに、法然による、仏法の説法である。

溢れるほどの人が、集った。誰でも、法然の説法が聞ける。
当時の、娯楽である。
その、娯楽が、極楽浄土を、強制する、強迫の教えとは、知らなかった。

はじめて、庶民が、救いという言葉を、聞いた時、何を思ったのか。何も、思わない。救いという、言葉の意味が、解らないのである。

何故、往生しなければならないのか。
死んで、極楽に行くという、妄想を、教えられて、戸惑ったであろう。

極楽を、語るには、地獄を、語ることになる。
地獄は、恐ろしい場所である。
死んで、地獄に落ちると、言われる。

無知な人を、相手にするのである。
何とでも言えるし、何とでも、語れる。

法然には、そんな意識は、全く無かったであろうが、無知な人々を、洗脳したのである。

念仏さえ、称えれば、極楽に行けるというのである。
その、極楽の様を、経は、延々と語る。
法然は、それを、少しづつ、話して聞かせる。

その、語りは、娯楽のない当時、画期的な、娯楽になったと、思われる。
気持ちの良い、極楽の話が、聞けると、友人知人、お誘いあわせの上、どんどんと、人が集ったであろうこと、想像に難くない。

手の届かなかった、仏様の教えが、今、法然によって、語られる。

時代性と、時代精神が、満たされた時である。

その、時代性というものを、考えてこそ、法然の説法が、生きる。
それから、800年ほど、歳月が流れた。
さて、現代は、まだ、法然の説法を、求めるだろうか。

凡て仏教では法を中心にする。そうしてその法は単に静止する理体ではなく、自らを様々に顕示するから、その現れを様々な仏名で呼ぶのである。弥陀はまさにその一つであるが、この弥陀は歴史以後のものではない。以後のものであってはならない。それ故にく歴史をして歴史たらしめる力となるのである。それ故彼の動く世界は、実に衆生のさ中に在る。その衆生は現実の歴史に在るが、もし衆生をして衆生たらしめる法体を欠くなら、存在の意味が現れよう。衆生に働きかけるその法体を弥陀と呼ぶのである。働きなき理体なら弥陀ではない。・・・・それ故彼を離れるなら、私の存在はただ生まれて死ぬというに過ぎぬ。そんな私こそ歴史的意味に欠ける。
柳宗悦


ただ、生まれて、死ぬに過ぎぬ。
人間は、ただ、生まれて、死ぬに過ぎぬ存在ではないのか。

その、ただ、生まれて死ぬ存在として、耐えられぬから、弥陀という、想像の、産物を、作るのか。
ここのところを、深く検証する。

何故、意味を、求めるのか。
生きる意味意識は、架空の存在である、創作の、産物が必要であるのか。

確かに、過去から、現在、未来に、流れる、真理という、法の、中に、歴史というものがあると、捉える考え方があっても、いいと、思う。
それは、しかし、実に、極めて個人的な、物思いであろう。
哲学や、思想の一つとして、それを、容認するが、何故、それを、人に、教え、強制して、強迫するのか。

私は、宗教の誤りを、その、強制と、強迫に置く。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ218

絵に物の怪のつきたる女のみにくきかたかきたる後に、鬼になりたるもとの妻を、小法師のしばりたるかたかきて、男は経読みて物の怪せめたるところを見て

亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやあらぬ

物の怪の憑いた、醜い女の姿を描いた、背後に、鬼の姿になった、先妻を、小法師が縛り、更に、夫が、お経を読んで、物の怪を退散させようとしている絵を見て。

妻に憑いた、物の怪を、夫が亡き先妻のせいにして、てこずっているということは、我が身の内にある、鬼に、苦しんでいるということでは、ないだろうか。

実に、冷静沈着な判断の歌である。

当時は、不思議な現象を、物の怪として、扱い、加持祈祷などをしていた頃である。
そんな中で、我が身のこころの内にあるものと、看破したということは、実に、冷静であり、真っ当な感覚である。
この、冷静さが、紫式部を、物語作家にしたのである。

我が心の内にある鬼。

心の鬼とは、疑心暗鬼である。
暗鬼、つまり、心の暗闇に存在する、鬼であり、他でもない、我が内にあると、観たのである。

人は、我の妄想を見て、何物かだと、思う。しかし、それは、我の妄想なのである。
紫も、浄土思想に、影響された者であるが、決して、その救いという、観念に流されなかった。

かごとをかけて わづらふも
理由をつけて、煩うが、それは、まさに、我自身であったという。
現代の宗教信者に、聞かせたいものである。

返し

ことわりや 君が心の 闇なれば 鬼の影とは しるく見ゆらむ

お返し

なるほど、言われる通りです。
あなたの心が、また、あれこれと迷い闇ゆえに、物の怪の疑心暗鬼の、鬼の正体を見破ったのでしょう。

これも、冷静な受け止め方である。
あなたも、闇なれば、とは、また、おもしろい。

鬼の影とは しるく見ゆらむ
鬼の影であると、はっきりと、見たのでしょう。

作者の、侍女の歌である。

さすがに、侍女も、鋭い。

絵に、梅の花見るとて、女の、妻戸押し開けて、二三人居たるに、みな人々寝たるけしきいたるに、いとさだすぎたるおもとの、つらづえついていて眺めたるかたあるところ

春の夜の 闇のまどひに 色ならぬ 心に花の 香をぞしめつる

梅の花を見ている絵を見る。
女が、二三人いて、眠っている様。
いとさだすぎたるおもと
年老いた女房であり、おもと、とは、身分ある女房への、敬称である。
その女房が、頬杖をついて眺めている様を、見て。

春の夜の、闇にまぎれて、花の美しさは、見えないが、色気を持たない、心の梅の、香りを、深く味わうことができた。

さだすぎたるおもと、の、心を観て、詠む歌である。

色ならぬ 心の花の
女の、盛りを過ぎて、色気を持たない、枯れた風情の、女の姿である。それに、心の花を、観ているのである。

心の花に 香をぞしめつる
しめつる、占めるのである。

心の花にこそ、香りが、充満している。

花は心 種は技なるべし
世阿弥が、語る。
風姿花伝

心を込めるから、良いのではない。
心を込めるためには、技である種を、持たなければならない。
技を極めてこそ、心の花というものが、十二分に表現できるのである。

もののあわれ、を、所作として、表現する際の、極意である。

いずれ、世阿弥の風姿花伝も、紹介する。

同じ絵に、嵯峨野に花見る女車あり。なれたる童の、萩の花に立ち寄りて、折りとるところ

さを鹿の しかならはせる 萩なれや 立ち寄るからに おのれ折り伏す

同じ絵に、女車、牛車である、なれたる童、物慣れた女の童が、萩の花の前で、佇み、それが、折て、垂れるのを見る。

牡鹿が、いつも、そのように慣らしているのか、童が立ち寄ると、すぐに、萩が、自ら折れ曲がり、頭を下げているようである。

童は、わらは、であり、女の召使のことである。
女の童、めのわらは、と読む。

鹿が、萩の花を、妻として、慕うという、歌が古来からあった。
それを、持っての歌である。

しかならはせる
そのように、という意味で、鹿の縁語とされる。
ならはせる
慣れさせるという、意味である。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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