2008年06月17日

神仏は妄想である 96

さて、法然は、日本で民衆に仏教、浄土門を説いた最初の、仏教家であり、それは、画期的な行動だった。
実に、それは、評価に値する。
あの、時代性を、考えれば、行き着くところ、当然である。
更に、法然は、知恵第一と言われたほどの、学識を、持っての、既成仏教との、決別という、行為も成した。

仏教は、最初、天皇、皇室のものであり、国家のものであった。そして、貴族に行き渡り、庶民には、手の届かないものだった。
鎌倉仏教の、衝撃は、余りある。

私は、法然の浄土宗という、宗派を、評価する。
そして、批判し、検証する。

まず、浄土門の、聖典と言われるものは、無量寿経、観無量寿経、そして、阿弥陀経である。浄土三部経と、言われる。
阿弥陀仏を中心とした、経典である。

法蔵菩薩が正覚を成じたその時、呼んで阿弥陀仏といわれ、阿弥陀如来とあがめられた。仏教での仏は基督教などでいう神とは多くの開きがある。仏とは「覚者」である。覚(さとり)を得ることが仏に成ることである。その仏で済度を行ずるものが如来である。如来は「如来る」とも「来るが如し」とも読め、「従如来生」(如より来る生ず)とも解き得ようが、この「如」は如来るもの、真実なるものであるから、「真如」とか「如如」とかいう言葉が生まれた。無上なるもの、無碍なるものを指すのである。
柳宗悦

無上なるもの、無碍なるものを指す、根拠は、上記の、経典である。
それを、信じる者は、それで、納得するが、それを、信じない者を、彼らは、無明にあるという。つまり、迷いにあるという。

覚者とは、悟りを得た者である。
一体、何をもって、悟りを得たというのか。
そのために、法蔵菩薩というものを、見ることにする。

柳氏の、案内で行く。

法蔵菩薩が成仏して阿弥陀如来と呼ばれるに至ったのである。このことは「大無量寿経」に述べられてあるが、いわば本生譚の一つである。釈迦如来にも本生譚があるが、つまり仏となる前世の譚で、仏と成ったのは由って来たる深い因の報いであるのを告げる。この因縁の物語こそ、なかなかに意味が深い。
柳宗悦

譚とは、ストーリィーである。
前世からの、お話である。
前世とは、科学で言えば、仮設に止まっている。
それは、証明されなければならない。
現在、確実に、前世調査というものが、科学によって、成されている事実がある。

今は、それに、触れずに、法蔵菩薩について書く。

経によれば、一日、ある国王が、世自在王仏の説法を聞かれ、翻然と省みるところがあり、その地位を捨て、国土を去り、一沙門となって、つまり、僧のようになって、名を法蔵と改めた。
行を積み、仏を讃え、覚を願う。
生死の苦の根を絶とうと求めた。
そのため五劫という、長い間苦慮し、思索し、徳行に励み、ついにもろもろの大願を起こすに至った。
いずれも、衆生を済度し、浄土に導こうとする切なる願いである。そうして、その願いが満たされないならば、成仏はせぬとまで、誓いを立てた。
いわゆる「正覚を取らじ」という強い決意である。
その、誓願は、四十八にも、及び、ひたすらに、仏土の具現を求めた。

経に「法蔵菩薩、今すでに成仏して西方に在す。ここを去ること十億刹なり。その仏の世界を名づけて安楽界と日う」
阿弥陀経には「これより西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽と日う。その土に仏まします。阿弥陀仏と号す。今現にいまして説法したまふ」

極楽思想の、はじまりである。
ここで、劫とか、刹とかの、時間を計る言葉が出る。
膨大な、気の遠くなる時間である。

法蔵が、菩薩の位から、如来の位に入ってこのかた、十劫を経たと、経には、記してある。これを、「十劫正覚」という。

変だ。

如来にならないと、願をかけたではないか。
と、このように、仏典は、長ければ長いほど、矛盾が、続出する。

ここでよく問いを受ける。法蔵菩薩とは架空の人物ではないのかと。そういう菩薩を描いて何を意味しようとするのかと。ただの比喩に過ぎぬのなら、弥陀といい浄土といい、何の確実さがあろうかと。そもそもどうその物語を解したらよいのか。数々の質疑が集まるであろう。
柳宗悦

柳氏は、懇々と、架空であっても、その意味があると、続けるのであるが、省略する。

物語である。

面白いのは、

実は凡ての大乗経典は、その法の深き真を伝えようとするのである。たとえ外面的な歴史としては架空だといわれても、内面的な法の歴史としては、これより真実な説話はないともいえよう。
と、言う。

歴史を歴史たらしめるもの、それを「法」と名づける。
とも、言う。

内面的な法の歴史としては、これより真実な説話はないともいえよう。とは、一体、どういう意味として、受け取ればいいのか。

ドーキンスの、神は妄想であるの中でも、聖書を道徳の、手本とするという話で、どの部分を、誰が、何の基準で、計るのかという、話があった。
それと同じで、内面的な法の歴史として、誰が、何を基準として、決められるのか、ということになる。

全ての、大乗経典と、言う。
全ての、大乗経典は、そのように、書かれてあるということである。
これには、驚きであろう。

桃太郎や、浦島太郎のお話を、どう解釈しても、誰も、太郎たちを、崇拝し、信仰することはないが、何故、仏典になると、信仰するのか・・・

ここで言う、法とは、インド哲学の、ダルマという言葉から、きているのだろう。
法とは、真理である。宇宙の真理。

一体、誰が、宇宙の真理として、証明出来るのか。

彼を架空の人だというが、この架空なものより真実なものは考えられない。と、柳氏は、言うのである。

あるいはこれを人間の原素なるもの、本有なるものの姿と解してもよい。とも言う。

これは、ただ事ではない。
つまり、人間の本質的な、姿を、創作して、作り出した仏であり、それは、真実の姿であるということなのだ。
それを、別名、仏という、ということになる。

柳宗悦氏の、南無阿弥陀仏は、信じるということを、前提に書かれてある。
信じない者には、何の興味も、関心も、持たれないのである。

それは、人間は、仏を目指して、救われなければならないという、強迫観念を、持たせるというものである。

私の、提案である、何故、悟りという、観念が必要か、救われなければ、ならせないのかを、再度言う。

架空であるが、真実であるという物語の、阿弥陀仏を、信仰して、創作の極楽に、行くために、何故、念仏を唱えるのか。

次に、その理由を、見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ217

亡くなりし人の女の、親の手書きつけたりける物を見て、いひたりし

夕霧に み島がくれし 鴛鳥の子の 跡を見る見る まどはるるかな
ゆうぎりに みしまがくれし をしのこの あとをみるみる まどはるるかな

亡くなりし人の、女、むすめ、とは、亡夫の他の妻の娘のこと。
親の筆で、書き付けた物を、見て、歌を詠む。

夕霧に、島影の姿が、隠れた、をしの鳥の足跡を見て、途方に暮れる、子のように、亡くなった父の筆跡を見ながら、悲嘆に暮れている。

跡、筆跡の跡、足跡の、跡を、掛けている。

跡を見る見る まどはるるかな
跡を見つめ続けるのである。そして、まどはるる、かな、である。この悲嘆は、はるる、という、心境である。はるる、とは、遥かに思う。
その哀しみは、手の届かないほど遠い哀しみである。
我が哀しみも、手が届かないほど、遠いのである。

悲しいと、言っても、それは、千差万別である。
人間は、悲しみ、哀しみを、生きて歴史を、積み重ねてきた。

この、悲というものを、慈悲として、仏教は、象徴した。
この悲は、深い祈りになる。
それは、悲に、対する、共感という心的状態を生むのである。

実は、もののあわれを、漢訳すれば、慈悲になるのである。
慈は、慈しみである。
いつくしみ、それを、共感する心、つまり、もののあわれ、というものである。

悲しみを共感する心。
もののあわれ、の、一つの心象風景である。

同じ人、荒れたる宿の桜のおもしろきこととて、折りておこせたるに

散る花を 嘆きし人は 木のもとの さびしきことや かねて知りけむ
ちるはなを なげきしひとは このもとの さびしきことや かねてしりけむ
「思ひ絶えせぬ」と、亡き人の言ひけることを思ひ出たるなりし。

父が亡くなり、手入れの出来ない荒れた我が家でも、桜は、春を忘れず、美しく咲いた。
折りて、おこせる
その枝を、折り、歌を添える。

桜の花の散ることを、嘆いていた、あの方は、花の散った跡に残る、木のもとの、寂しさを、さらに、亡くなった後の、子供の寂しさを、知っていたのでしょうか。

残された者の、悲しみと、寂しさを、亡き人は知るのだろうか。
それは、誰にも、解らない。
死者は、語らない。
いつの世も、死者は、語らない。

昔の人は、「死人に口無し」と言った。
だが、語らない死者が、多くを語ることもある。
それは、残されたものを、見た時である。
更に、その生き方である。

死者の、生き様は、確定している。
揺ぎ無いものになっている。
これ程、確実なことはない。

生者は、いつも、不安定である。確定していない。
生とは、確定しない、不安定なことである。つまり、動いている。刹那も、留まることがない。
心とは、そういう、モノである。

大脳生理学でも、脳が心だと、言えなくなってきた。
行動を起こす、ほんの少し前に、つまり、脳が、指令を出す前に、行動が起こるという、実験結果が、出た。

脳が、心であると、唱えていた学者たちは、愕然とした。
一体、何があるのか。
脳でないとすれば、何が、動かすのか。
心とは、どこにあるのか。
未だ、不明である。というより、不明であるということが、証明された。

科学は、一秒たりとも、定説に留まらない。
仮説は、いつも、新しく提言される。そして、否定されたり、肯定されたりしつつ、進歩する。

霊学から言えば、心とは、水落の辺りにあるとする。
肉体の胸である。
丸みを帯びた球体である。

オーラ測定器が、出来たが、それは、微量な電流の色合いである。
次に、心を計るものが、出来るだろう。

今は、それ以上を言えない。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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