2008年06月06日

タイ旅日記 8 平成20年6月

15日、日曜日、いよいよ、最後の予定、カレン村入りする。

一泊して、子供服支援をする。


午後二時、ホテルから出発する。

すべての、荷物を持ってだ。

カレン村から、そのまま、チェンマイ空港に向かい、バンコクを経由して、帰国するのである。


慧燈財団の小西さんの、案内で、カレン族村に向かう。

小西さんは、その村の、女性と、結婚し、一児をもうけた。

カレン族は、婿が、嫁の家に入るという、日本とは、逆の、パターンである。


奥さんは、慧燈財団の支援により、日本に留学している。日本語も、よく出来る方である。奥さんは、先に、村に入っていた。


チェンマイから、南西に、車で、約二時間の山間部に、その村がある。


カレン族は、赤カレン、白カレン、そして、首長族といわれる、カレン族に、分けられる。

赤カレンは、現在も、ミャンマーの反政府として、戦う。

白カレンは、戦いを、好まず、人里はなれた、山間部に住む。

私が、向かう、カレンの村は、特に、伝統を重んじて、言えば、保守的なカレン族の村である。

他の、カレン族の人々が、伝統を学びに来る村でもある。


タイ国内の、少数部族は、約86万人。

カレン、モン、ラフ、アカ、ヤオ、ティン、リス、ルア、カム、ムラブリ族と、非常に多い。

しかし、それらの、少数部族も、タイ政府の介入により、政策、貨幣経済、近代農業などの、導入により、伝統的生活サイクル、民族独自の伝統文化が、侵食されている。


それを、進歩というのか、何と言うのか、私は知らない。


伝統的生活が、次第に難しくなってゆく様を、どのように見るのか。

見方によって、判断が、分かれる。


さて、カレン人というのは、タイ人が呼ぶ名である。

カレンの人は、自分たちを、パガニョーと呼ぶ。


私の行く村は、バーン・トゥンルアンである。

バーンとは、タイ語で、村を指し、トゥンルアン村ということになる。


人口は、約、345人である。

65世帯、93家族が、住む。


村の標高は、500メートルから900メートル。六の山と、十の川に囲まれている。

追々書くが、村人は、自然に、自然保護の生活をしている。

欲が無いという、見方が出来る。

必要以上に、自然を利用しないのだ。


山間部なので、涼しい風が吹く。

皆さん、朝夕は、寒いという。

私には、心地よく感じられる、気温だった。


車が、空いていて、一時間半ほどで、村に入った。


最初に目に入ったのは、象さんである。

カレンの男は、像使いである。

今回、結婚式に、遭遇しなければ、私は、小西さんの、お兄さん、つまり奥さんのお兄さんに頼み、象に乗る予定だった。


それから、田園が続く。

丁度、田植えの時期である。


村に入った。

高床式住居である。

どこかで、見た風景だと、思った。

伊勢神宮である。

大神のお住まいも、高床式である。


小西さんの、実家に、到着して、奥さんに迎えられた。そして、そのお母さんがいた。


オモチャパー

今日は、という挨拶である。

最後の、パーは、プーの音にも、似る。

オモチャパゥーのような、感じである。


何だか、楽しい挨拶だ。

オモチャであるから、すぐに覚えた。


カレン語は、非常に少ない言葉で、話す。一音が、多い。

どこかで、聞いた話である。

一音に意味がある。

例えば、ご飯を食べるを、オ・メーという。

お茶を飲むを、カムチャという。

おいしいを、グィ、楽しいを、ムという。


家に入るには、階段を登る。

玄関に、何と、注連縄が、張ってあるではないか。

日本の、注連縄と、同じである。

日本の場合は、神の領域という、結界を現す。


どうも、底辺のところで、日本の伝統につながっているようであると、感ずる。


荷物を部屋に置いて、下に降りると、「お茶をのみましょう」と言われた。

すると、奥さんが、湯を七輪で、沸かすのである。

ずくには、出ない。


暫く、湯の沸くのを待つ。


その間に、家の周囲を、回って見た。


まず、豚、黒豚四頭が、目に入る。

鶏と、ヒヨコが、走っている。

犬もいる。

山の湧き水を、家まで引いて使う。だから、水は、冷たい。しかし、実に、まろやかである。

家を建てるのも、田畑をするのも、皆村人が、一丸となってやる。

自給自足である。


米倉を見て、また、驚く。

伊勢神宮の、米倉と、同じなのである。

そして、それぞれの、道具である。

縄文、弥生の、博物館に来て、見ているようなものばかりである。


すべて、手作りである。


唸るしかなかった。

一見は百聞にしかず、という通りである。


日本人が言う、自然保護や、エコライフというものが、如何に、愚かなことか、解る。

自然というものを、知らずに、自然保護や、エコライフを言う。

この村に来て、それが、本当に、どういう意味なのかを、知ることになった。


トイレに行った。

便器があるだけ。横に、水桶があり、それで、汚物を流す。

紙も無い。

つまり、タイ式と同じく、左手で、ウンチを拭く。

今、タイでは、ホテルなど、手動の水掛けが、ついている。それで、尻に水を掛けて、流す。

ここでは、手を使う。


家には、紙というものが、無かった。

最低限の紙である。しかし、一度も、紙を見なかった。

食事の時、私たちだけに、奥さんが、紙を用意した。

他の人は、食べ終わると、水で、手を洗う。


この村の、唯一の文明は、電気である。

電気だけは、通っていた。

しかし、私は、その夜、この村に来て、最も、感動した場面がある。

後で書く。


暫くして、小西さんが、学校に誘ってくれた。

日曜日であるが、子供たちが、集まり、私たちに、カレンの、伝統芸を披露してくれるということだ。

その際に、子供服を子供たちに、差し上げる。


小学生の子供たちが、集い、民族衣装を着て、私たちに、芸を見せてくれた。

まず、男の子の、カレンの竪琴の演奏である。

続いて、女の子たちの、歌と踊り。

実に、素朴で、簡単なものである。


その後、会場のテラスに出て、一人一人に合う衣服を、手渡す。

皆、目が輝いている。

一人一人に、手渡すと、その、笑みが満面に広がる。


この村の女性たちは、すべて、自分たちの衣服は、自分たちで、織る。

女性の、衣服はいらないのである。

男と、子供たちが、必要なのだ。


女性たちの、衣装を見ると、既婚、未婚が、一目で、解る。

未婚の女性は、白い衣装を着ている。

更に、純潔というものを、非常に大切にする。

少数部族から、売春をする者が多いが、カレン族の女性は、決して、そんなことは、しない。

また、離婚も無い。

一生、一人の男に、操を、捧げる。


それは、村の生活を見れば、解る。


日の出から、働き、日の沈む頃、家に戻る。

その繰り返しである。


子供たちと、写真を撮る。

ぬいぐるみを、上げた女の子が、愛しそうに、ぬいぐるみを、抱いているのが、印象的だった。

衣服は、お金で、買わなければならない。しかし、カレンの人は、収入を得る道が、少ない。現在は、レタスなどを作り、それを売って、お金にする。それも、最低限である。

富を持つという、感覚が無い。

田圃も、三耗作が出来るが、ここだけは、一毛作である。




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タイ旅日記 6 平成20年6月

夜中に、目が覚める。

3:30である。日本時間、5:30。つまり、いつもの時間に目覚めるのだ。


少しして、また、寝る。


本日は、朝10時にホテルを出て、バンガート中高学校での、コンサートに向かう。


六時に、起きた。

少し、ぼんやりとして、予定を確認する。

本日の歌の確認もする。


お話など入れて、おおよそ一時間。歌は、その半分の時間くらいになる。

童謡を主にすることにした。

伴奏は、ピアノでの、カラオケを作ってある。


いつもなら、一日、ゆっくりとするところだが、今回は、時間がない。

明日は、街中のホールでの、コンサートである。


旅の最中の体調管理は、重大である。

特に、風邪に注意である。

暑い国に行くと、必ず風邪を引く。暑いと思い、裸になるからである。

私は、必ず病院から、風邪薬を貰って旅に出る。


七時に、ホテルのレストランの前の、道路に面したテラスで、朝食をとった。

すでに、道は、車で混雑している。

朝の、活気はいい。


最初に、チェンマイに来た時も、このホテルだった。来る度に、値段が違う。このホテルを、皮切りに、ゲストハウスに移動した。

今回は、三泊なので、移動せず、ここに泊まることにした。

朝食付き、750バーツは、安い。


閑散期は、どこのホテルも、値段が落ちる。


一時間ほど、テラスで、過ごして部屋に戻った。

野中が、目覚めた。


私は、本日のコンサートの、楽譜を取り出し、歌詞を確認する。

合間に入れる、お話も、少し考える。それを、小西さんに、通訳してもらうので、通常の時間より、お話が倍になる。それほど、多くの曲数は、いらない。また、今回は、野中も、イダキを、披露する。


朝、10時に、小西さんが、迎えに来てくれた。

バーンガート学校は、最初の追悼慰霊の場所でもある。


本日は、日本語を学ぶ、50人ほどの生徒の前で、歌う。

慧燈財団が、ここに、日本語教師を派遣しているのだ。

小西さんも、元教師として、教壇に立っていた。


会場は、学校の一階にある、多目的ホールである。

その前に、校長先生に、ご挨拶に、伺った。


前回の時は、校長先生は、留守で、お会い出来なかった。

初めて、お会いする。

先生は、生徒は、まだそれほど、日本語に堪能ではないという。そして、感謝の言葉である。


私たちは、すぐに、会場に入り、準備を始めた。

まず、持ってきたCDが鳴るのか、心配だった。

それは、大丈夫ということで、次に、マイクである。私は、生声で、歌うつもりだったが、全く残響が無い部屋である。均等に声が聞こえるようにと、マイクを使用することにした。


リハーサルを、生徒が覗く。

その度に、手を振り、挨拶する。


男女共学の学校で、男の子も、女の子もいる。皆、礼儀正しい。

面と向かうと、両手を合わせて、挨拶する。


開演は、12:00である。

15分前から、生徒が、入りはじめた。

私は、舞台前のソファーに座り、生徒を待った。


教務課の先生も、いらっしゃり、生徒と、同じく席に着く。

小西さんの、お話で、はじまった。

私と、野中の紹介である。


野中のイダキ演奏で、開始である。


私の、最初の曲は、砂山。

海は荒海、向こうは佐渡よ、すずめ鳴け鳴け、もう日が暮れる


すずめをテーマにした曲です、ということでの紹介をした。


雨降りお月さん

トンボのめがね

それぞれ、曲の前に、解説が入る。

そして、タイ演歌に影響を与えた、昔の歌、蘇州夜曲を歌った。


この歌は、東京音頭から、王将を書いた、西条八十の作詞で、歌謡曲を代表する。

ちなみに、西条は、ドイツ文学を、早稲田で講義し、詩人でもある。学者でありながら、俗曲といわれる歌の作詞を、手がけた。その数、おおよそ、千曲といわれる。


メロディーに、馴染みがあるのか、生徒は、静まり返って聴いた。


童謡を歌う時に、生徒が、私に笑いかけるので、安堵した。


最後に私は、扇子を取り出し、朗詠しつつ、舞うことにした。

それは、皆様の、幸福を祈るものですと、前置きをつけた。


日本の国旗があったので、舞の最後に、それを取り出して、扇子と、国旗で、最後のポーズである。


野中が、それを写真に撮った。

実に、右翼ぽい写真になるであろうと、思えた。


個人的には、日の丸が好きである。

単純明快が、いい。


白地は、天地、赤は、太陽である。

文句はない。


おおよそ、一時間のコンサートを、終えた。

生徒が、私たちに、感謝の挨拶をする。


それからである。

先生が、イダキに興味を示し、手に取り、吹く。生徒は、大笑いである。

更に、生徒も、手に取り、吹き始めた。

一人の生徒が、巧い。


私は、キスの上手な人は、巧く吹けますという。

小西さんが通訳すると、歓声が、上がった。


無事に、終了して、私は、すぐに慰霊碑に向かった。

野中と、小西さんも、駆けつけた。


木の枝を取り、依り代にして、御幣を作り、捧げた。

ここでは、二度目の、慰霊の儀である。

慧燈財団が、建てた、タイ・ビルマ戦線戦争犠牲者の碑である。


大祓えの祝詞を唱えて、四方を清めた。

小西さんと、野中を清め、そして、私も、野中に清めて貰った。

小西さんが、その様を、ビデオ撮影していた。


小西さんにも、それを、行って欲しいと思い、ビデオ撮影して貰った。


その後、チェンマイ市内に戻り、タイ料理の店に行き、昼食をとった。

終わると、三時を過ぎていた。


ホテルに戻り、矢張り、疲れた体を、ベッドに横たえた。

暑さもあるが、緊張感もある。

ホッとしたが、明日もあるのだ。


まだ、覚えていない歌詞を、夜のうちに、覚えようと思う。

マッサージに行く、元気も無いということもある。

その日は、マッサージに行くのを、止めた。

posted by 天山 at 16:16| タイ旅日記  平成20年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 85

神仏は妄想であるを、書き続けて、85回になった。

ドーキンスの、神は妄想であるという、著作の紹介が、長くなった原因であるが、これからも、延々と書き続けなければならないと、思っている。
まだまだ、足りないのである。

日本仏教の、誤りについて、書くことが、必要だと思っている。
すべての、仏教家を、検証する。
つまり、すべての、宗派を、叩き斬る。

仏陀の、もし、仏教というものがあればであるが、それを、根本仏教と、一応呼ぶことにする。その、根本仏教というものは、日本の仏教には無い。
すべて、中国思想に、侵された仏教もどきの、思想である。

さて、ただ今、ドーキンスの、対処する、聖書の宗教についての、検証をしている。
その、宗教の蒙昧である。

私は、カトリックの洗礼を受けている。
つまり、私も、キリスト教徒の一人である。

そこで、私の立場を明確にしておく。
ドーキンスは、カトリックを、最も、反吐の出る集団だと、言い切るが、それは、実によく理解している。

私は、今でも、イエスキリスト信仰を、持つ。
それは、私の作り上げた、イエスキリストのことである。
つまり、教会の信仰を、持つ者ではない。
その証拠に、私は、私の信仰を、布教、喧伝するという意志は無い。

私は、少年時代に、イエスキリスト、つまり、新約聖書によって、多くのことを、学んだ。日本人として、その、聖書の語句を、理解した。それは、実に、有意義であった。
日本人の感性を、持っての、イエスキリストの言葉であるから、欧米人のように、理解しなかったということが、幸いした。

つまり、私は、私が、創作した、イエスキリストの信者であるということだ。
それでは、プロテスタントの、聖書主義と、同じかといえば、そうではない。
プロテスタント主義の、聖書解釈も、していない。
それでは、内村鑑三のようにというのも、違う。
詳しい説明は、避けるが、勝手な解釈、勝手な理解が、私の聖書解釈である。
勿論、カトリック教理というものに、大きな影響を受けたが、結局、私が、辿りついたイエスキリストは、私のだけの、イエスキリストなのである。

その最大の特徴は、私のイエスキリストを、宣教しないということである。

私が、新しいキリスト教会を、創立しないということであり、それは、実に画期的なことだ。

多くの、日本の、新興キリスト教は、私のように、勝手な解釈勝手な想像、創作を、教理として、宗教団体を、起こして、信者を作るという、愚かなことをしている。

そこでは、必ず付き物なのは、病が、癒えた、運勢が良くなった等々の、現世利益のような、宣伝文句である。
信者になって、苦難苦悩ばかりが、続くとは、誰も言わない。
万が一、それを、言うと、必ず、神の摂理によって、その苦難も苦悩も、消滅したというオチになる。

信仰しても、何も変わらないというのが、真実の信仰である。

何かを、変えるのは、私自身である。

ところが、私自身を、変えることが、出来たのも、信仰の、おかげと言う、アホがいる。

信じるということを、知らない。
信じるというのは、疑い、思索するという意味である。

法然は、称号念仏を、唱え、親鸞は、更に、唱える前の、信じるという心の在り方を、追求したというが、とうだろうか。

弥陀の本願を信じるといっても、弥陀というものが、妄想、架空のものである。
何故、それを、信じると言えるのか。
観念を、信じて、それで、救われると、思う根性が、怪しい。
だから、怪しい霊界に、行くのである。

選択仏教といい、鎌倉仏教は、一つの教えだけを、多くの中から抜き出して、念仏や、題目、座禅と、絞ったが、時代性である。
しかし、今の時代には、通用しない。
通用させているのは、邪悪なものだからである。

邪ま、よこしま、なものほど、広がるという、この世は、地獄である。

念仏を持って、仏法などと、言えば、仏陀が、泡を吹く。

題目を持って、仏法などと、言えば、仏陀は、吐くであろう。

仏陀は、そんなことを、一言も言っていないからである。

日蓮などは、仏陀を、引き摺り下ろそうとする、ある、霊界というか、魔界のエネルギーを、受けて、あろうことか、仏陀を、更に越えた道が、法華経にあることを言うという、仰天である。

だから、東から、仏陀の、西へ、新しく仏法が、戻るというような、誇大妄想を抱くという。
手のつけようの無い、狂いを、持つのである。

道元などは、座禅こそ、仏陀の法統を継ぐものであり、我こそ正統な道であると、思い込んだ。
勿論、彼の著作は、日本文学の中でも、実に、見事なものであるが、それは、別にして、仏法の道としては、勘違いである。
座禅とは、仏陀以前の、バラモン、ヨガの修行法である。
確かに、仏陀も、座ったが、座禅による、悟りという、妄想ではなかった。

仏陀の教えは、行為であった。
生き方の、考え方と、その行為である。

いずれにせよ、それらを、検証する。

さて、私は、イエスキリストを信奉し、仏陀の教えを、信奉する。
そして、やはり、古神道の、あり方に、生きる者である。
古神道の、魂鎮めと、ニルバーナという、涅槃の境地は、同じものである。

仏や、神を、対立したものとは、考えない。

更に、古神道は、カミとは、御親、みおや、つまり、祖先に続く者であるという、意識である。

どこにも、断絶は無い。

ただし、仏教教団が言う、仏に成るという、観念とは、違う。あれは、断絶している。

更に、仏陀も、仏にはならなかったということが、仏陀の言葉で、証明されている。
それを、見落としている、仏教家の、面々であるから、終わっている。

また、仏陀が、苦行を、嫌った意味を、知らないのである。

寒中に寒修行するという、アホ振りである。氷点下の海に入って、一体、何を修行するというのか。とても、信じられない真似をする。水をかぶるという、馬鹿馬鹿しいことをして、修行も何も無い。
逆に、それによって、思考が固まり、とても、通常の神経とは、思われない、歪な性格を作り上げる。傲慢で、頑固な、手のつけられない、性格である。
あれは、サドマゾである。

厳しい修行に耐えて、大半が、頑迷な者に、成って行く。
ただ、念だけは、強くなり、レベルの同じ霊を相手に、戦うという、オチである。
それを見て、信者は、驚く。そして、洗脳される。

こういう、者どもを、救い難しという。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ206

さて、空海の次には、浄土思想を、取り上げた、源信である。
往生要集は、寛和元年、985年の作である。

無常観と共に、厭離穢土という、観念と、そこから、欣求浄土という、観念が生まれる。
この、浄土思想が、女房文学の中に、表現されてゆくのである。

浄土思想は、当時の知識階級の、不安を、そのまま、受け止めたと、思われる。
何故、不安なのか。何が、不安だったのか。

私は、平安貴族の平和ボケだという。
頽廃した生活を送り、危機意識皆無の状態であり、なおかつ、何か、先の知れない、不安感というもの。
実は、現代に続く、抑鬱の状態を、この頃から、持ち合わせていた。

女たちも、男の愛を、ひたすら待つという、状態の中で、いつ来るのか解らない男を、待ち続けという、不安と、倦怠である。

それなのに、仏教では、何かしら、危機意識を、煽る。
その典型が、源信の、日本版、死者の書とも、言える、往生要集であった。

極楽への、往生を願うという気持ちは、飛鳥時代から、あったといわれる。
ここで、成仏と、往生の違いである。

実に、仏教の、成仏と、往生は、面倒な話である。
成仏するのか、往生するのかという、観念に、嵌めて、要するに、脅しである、それで、信仰を、強要するという、脅しである。

早々簡単に、成仏など出来るものではないと、知る者が、往生を唱えた。それが、浄土思想である。

あわれ、という、心象風景が、変質してゆくのが、この、浄土思想である。
あわれ、に、無常観を、伴うという、病理と、私は言う。

病むことを、浄土思想は、求めたのである。
それが、厭世観である。
要するに、この世は、汚辱に、まみれているという、考え方である。
汚辱に、まみれているから、この世というのであるが、当時は、新鮮な思想だったといえる。

更に、それに、拍車を掛けたのが、末法思想である。
これも、どうかと思うが、観念である。
1052年が、末法の初年と、言われる。一体、誰が決めて、誰が、それを、証明するのか、全く根拠がないが、未だに、仏教家たちは、末法と掲げている。
実は、末法とは、仏陀の教えが、無に帰すといわれるのである。
そうであれば、常識として、仏教壊滅であろうが、未だに、仏教と、喚いている辺りは、アホとしか、思えないのである。

さて、源信の、往生要集である。
「往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賎誰か帰せざるものあらん。ただし顕密の教法、その文一にあらず、事理の業因、その行これ多し。利智精進の人はいまだ難しとなさず。予がごとき頑魯の者、あにあへてせんや。この故に念仏の一門によっていささか経綸の要文を集め、それをひらいてこれを修せば、覚り易く行じ易からん」
との、書き出しである。

内容は、厭離穢土、欣求浄土、極楽の証拠、正修の念仏、助念の方法、別時の念仏、念仏の利益、念仏の証拠、往生の諸行、問答料簡、である。

つまるところ、死ぬ準備のための、ものである。
当時としては、画期的な書き物であった。

それはそれとして、善し。文学としては、非常に面白いが、それをもって、信仰を、特に、念仏行を云々ということになると、どうであろうか。

さて、深入りすることは、出来ない。
そこに、もののあわれ、というものが、何がしか影響を、与えたのか、与えられたのか。

もののあわれ、という心象風景を、持つ者、この、往生要集に、少なくても、曳かれたであろう。

新たな、救いの道のような、ものとして、現れたのである。
もののあわれ、の心象風景に、蔭を落とした。
万葉の、古今の、もののあわれ、を、更に、深めたのか、変節されたのか、いや、心を病むことにもなったと、思える。

それが、思想の深みに、至ったともいえるが、余計な観念を、植え付けられたとも、言える。

しかし、この、厭離穢土、欣求浄土は、戦国時代、いや、第二次世界大戦まで、続く、日本人の潜在的意識にまで、なったと、思える。

変な、話である。
この世を、厭い、この世に生きるというのであるから。
だから、死後は、極楽浄土にと、思うのだと、言われてみれば、それもそうだが、観念である。

しかし、確実に、もののあわれ、というものに、影響を与えた。

否定できない。

実際、厭離穢土とは、源信の書では、地獄の様を、描いているのである。
それが、また、非常に鮮明に描かれて、多くの人に、無用な恐れを抱かせた。現代でも、これを、そのままに、利用する者がいるが、想像力のものである。
ダンテの、地獄篇のようなものである。
芸術家の、想像力は、歓迎するが、宗教家の想像力は、迷惑である。

先に進むが、結果は、もののあわれ、に、怪しい蔭を落として、やや、歪んでくるのである。

これを、突き進んで、更に、もののあわれ、というものを、見つめてゆきたいと、思う。

ちなみに、源信から、法然へ、そして、親鸞へと、念仏の道は、進む。
鎌倉仏教へと、受け継がれるのである。

王朝の危機感は、女房文学の場合、主として無常感、宿世の思い、念仏の心として描かれるだけである。地獄の和風的表現などみあたらない。色好みに生ずる罪の自覚はあるが、刀葉林のような強烈であくどい描写を好まず、また罪をあのようなかたちで確認することへの嫌悪があったのだろう。或いは「神ながら」の「祓」の形式が、なお根強く存在し、仏教的罪悪感情のなかに混在していたことも考えられる。
亀井勝一郎 日本人の精神史

古代日本人の、死生観は、死者の霊は山に帰り、空に上る。または、海に帰る。
万葉の挽歌にあるように、言葉によって、霊を、清め祓うのである。

明確な、死後の世界の意識は、無いが、追悼慰霊の深い思いは、ある。
それが、たゆたい、となり、あわれ、となって、心象風景を作るのである。

源信の書は、漢語の影響大である。
ひらがな、では、あのような世界を描くことは、難しい。

一つ、残念なことは、仏教によって、
死と死後の観念が生まれたことにより、挽歌を詠むということが、なくなったことである。
これは、実に、ゆゆしきことである。

この、仏教における、追善儀礼なるもの、新しい、魂鎮めの行為になったと、亀井勝一郎は言うが、それは、甚だしく、勘違いである。
歴史としては、そのように、見えるが、実際、それにより、魂鎮めは、行われないのである。

単なる、気休めである。
そう、仏教というもの、単なる、気休めなのである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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