2008年06月04日

タイ旅日記 4 平成20年6月

戦うために、道を作る。

日本軍が、タイに道を作ったのは、二本である。

最初の計画は、八本の道だったが、最終的に、二本に絞られた。


その一本は、バンコク・チェンマイ・メーホンソーン・トンウーに、続く道である。

そして、もう一本は、バンポン・カンチャナブリ・ダンチェリー・サンオン・タンビュー・ザヤップである。

この、二本目の道が、泰緬鉄道とされる。


タイと、ビルマは、それまでに、44回の戦争をしている。その時に使用された道が、泰緬鉄道の道でもある。


幅一メートルで、全長414.9キロである。

始発点は、ラーチャブリー県バンヌンパルックで、カンチャナブリ県の、東北部を通り、ケオノイ・ダンチェリーサンオンを通り、ビルマに入る。


ビルマの、タンビューザヤップにつながり、それによって、ビルマは、日本の支配下におかれた。その後、インドのインパールへと、入るのである。


時は、昭和17年である。

その後は、中国の南側の道を通り、インドへ入る。


当時、チェンマイから、メーホンソーンの道は無く、日本軍によって、道が作られたのである。


そして、敗戦の色濃くなった頃、インド、ビルマに出た日本兵が、タイに戻って来た。

そうして、辿り着いた場所が、クンユアンのバンホイトヌンである。

何千人という数の日本兵が、そこで、亡くなった。


バンホイトヌンとは、博物館のある場所である。


インパール作戦については、前回のタイ、遥かなる慰霊の旅に書いている。


さて、この道の建設に、携わった者たちは、タイ人が多い。

日本軍は、メーホンソーンの、タイ人だけでは足りないと、チェンマイ・ランプーン・ランパーン・チェンライ・プレーの各県から、人を集めた。

更に、驚いたのは、建設道具が、ナタとクワだけだというのだ。


最初は、人が一人通れるほどの道だったところを、山を削り4メートルの幅に広げて、作っていったのである。


ここでも、忘れてならないのは、日本人だけの、死者ではないということだ。

建設現場で、多くのタイ人も、亡くなった。

食料の不足と、現場の危険。そして、山の病である。

一番、多くのタイ人が亡くなったのは、メーホンソーンに入る手前、40キロ地点の、アンプーパンマパーのドイタンマケンという場所である。


一日に、40人から、50人が、死んだと言われる。


建設中は、川原にキャンプを張って、過ごしていた。

火葬をする暇もなく、多くの人は、川沿いに土葬された。

メーナムコンからメーナムパイまでの、川沿いに、多くのタイ人が、埋葬されている。


日本人の、追悼慰霊も、更に、タイ人の追悼慰霊も、必要なのである。


救いは、日本人と、タイ人との、友好関係だ。

皆、タイ人の家に、泊まったりと、友好を深めたという。

物資の物々交換も、よくしていた。


日本人が、タイ人と、共に、建設現場で、働いていたということで、私は安堵した。タイ人を、ただ、監視していたとすれば、余りに、むごいことである。


更に、日本軍は、別ルートの道も、作っている。

クンユアムから、チェンマイに抜ける道である。それは、三箇所ある。それらは、すべて、敗走の際に使われたという。


クンユアムでの、日本兵の生活は、二つの種別がある。

一つは、道路建設の日本兵である。

彼らは、日本が、戦争に勝っていた頃の兵士で、生活は、豊だった。

当時の、クンユアムの村人は、貧しいが、タイ国が、日本兵を支援せよとの、命を下したことから、村人たちは、日本兵に、食料を売った。

勿論、日本兵は、それらを、お金で買った。しかし、それは、日本軍が、紙幣を、いくらでも、作ることが出来たからである。


さて、もう一つの、日本兵は、ビルマから、逃れて来た者たちである。

これは、悲惨だった。


日本軍には、食料が、ほとんどなかったという。

また、タイへ行く道は、各地で、寸断されていた。

ビルマにいる、日本兵は、最悪の状態だったという。


余談であるが、哀しい話がある。

今でも、ビルマ国境の町、タチレクから、タイ側の、メーサイの町に掛かる橋に、日本兵の幽霊が出るという。

幽霊は、橋を渡り、タイ側に入ろうとするが、入られず、また、戻って行くというのだ。


私が、前回、タチレクの川沿いで、追悼慰霊儀をと、思ったことは、間違いなかった。


前回は、時間無く、トゥクトゥクのおじさんとの、言葉のやり取りが、出来ず、慰霊をすることが、出来なかった。

残念である。


次の機会には、必ず、川沿いにて、追悼慰霊をしたいと、思う。


日本兵が、ビルマから敗走して来た時は、寺、村人の家、学校、村の病院などに、住んだという。

どこも、一杯の状態だった。

更に、村の家の、一軒に、5人から20人くらいが、住んだという。

その場所の無い者は、道の傍らに、野宿する者もいたという。


その際に、日本兵は、村人の生活の手伝いをして助けた。

出来ることは、何でもやったという。

クンユアムの人々は、日本兵を嫌いだと思わなかったのが、救いである。


上記の、情報は、チューチャイ警察署長の書いた、第二次世界大戦でのクンユアムの人々の日本の兵隊さんの思い出、という、冊子から、頂いた。


以下、私の歌である。


戦いは 終わりてありや されど今 今も戦う 霊の悲しさ


異国にて 斃れたる人の 慟哭は 我をして ただ 佇むことの


遺留品 声無き声の 涙あり 故郷偲ぶ 者の悲しさ


品々の 思い伝わる もののふの 意気と無念の 大和魂


ああ悲し 君死にたもう ことなかれ 祈る家族も 今は亡き人


父母も 待ち疲れては 今は亡く 共に遊べや 神の世界で


この祈り 遥かな時を 超えてゆき 天地に寄する 命尊き


崩 (かむあがり) されたと祈る 声を聞け われ故郷への 音霊ありて


昭和天皇神呼びて歌う


皆様へ 天皇(すめらみこと)の お隠れを 伝えて祈る 尽くす哀悼


木村天山会心の歌


寂しさの 極みに耐えて 斃れたる 兵士の最期 かあさんと聞く



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2008年06月05日

もののあわれ205

空海における、もののあわれ、というものの、感覚は、如何なるものだったのかと、考える。

創造者としての、空海は、大和心というものも、自身の信仰形態の中に、取り入れた。
その一つは、「和歌はこれ陀羅尼なり。唯だ心の動くところらしたがって陀羅尼を詠ず。これ阿字の本分なり」という。
陀羅尼は、真言の、極めであり、呪術である。

漢語にも、日本語にも、訳すことが、出来ない、梵語の呪である。
阿という字は、梵語の根源といわれ、一切の文字の母とされる。
和歌が、阿字の、本分というところに、空海は、落ち着いた。

言霊の和歌である。
つまり、神ながら、という、世界である。
この、大和心との、統一を、空海は目指した。
実は、空海は、神道も、自身の宗教体系に、取り入れたいという、欲求があり、神道修行もしている。
仏道宗教だけでない。雑修と、言われる。
修験道などは、それである。

神仏混合と、言われる。
だが、それは、便宜上のものであり、神の道は、神の道であり、仏の道は、仏の道である。
いずれ、本地垂迹という、考え方が生まれるのだが。
神は、仏の化身であるというものである。

大日如来と、天照大神を、結びつける。

そして、もう一つの、空海の、もののあわれ、に関する言葉である。
能く迷い能く悟る よくまよい よくさとる
これは、大和言葉の、たゆたい、である。

大和言葉の、言霊を、自身の語密に、結びつけた。

密教の、実践は、祈祷と、修法である。
そして、修法とは、印実を結ぶという、指で様々な形を、表すものであり、真言を唱え、三昧の境地に没入するということである。
これで、成仏という、境地に達するという、空海の、オリジナルである。
その、是非は、今は、問わない。

仏という、強烈な、印象を持った対象を、描いて、それに、成りきろうとする。実は、仏とは、誰も知らない、存在である。
それを、このようであると、断定した。
それは、後の、浄土教の考え方にもある。
仏になれない、この身であれば、弥陀の本願に頼るという、他力である。

いずれにせよ、時代性を、反映する。

空海に、おける、もののあわれ、というものは、その野心に、隠されて、中々理解しずらいものがあるが、和歌を、真言といい、よく迷いよく悟る、などという、言葉には、大和心を無視できなかったのである。

大和心と、断絶したものではないと、言いたかったのであろう。

前回も、言ったが、空海は、天才である。
その創造力は、他を圧する。
宗教的天才というより、芸術的天才と、私は、思う。
曼荼羅の中に、すべての、存在を認めた。

だが、ここで、一つだけ、空海は、付け加えて、体系を作るが、大和心は、削り取って、ゆくという、相違がある。

空海の、密教は、インドバラモンの、行法に、大和心を、加えたものである。
そういう意味では、新である。
彼は、独自の宗教体系を、創造したのである。

平安初期の画期的な、言動であったが、それは、奈良仏教に対しても、揺るがないほどである。
以後の、宗派にも、その芸術美術的装飾の影響を、与え続けた。

当時の人に与えた、影響は、計り知れない。

それでは、和歌を、真言と言う空海の、密教に、和歌の世界は、影響を受けたのだろうか。
もののあわれ、という、情感と、心象風景に、影響を、与えたのかといえば、無い。
和歌は、その姿を、変えずに、別の道に進むのである。

決して、空海の、密教により、和歌は、変質も、変節もしなかった。
もののあわれ、は、厳然として、揺るがない。

たゆたう心も、それを、よく迷い、よく悟りと、言うが、変わらないのである。矢張り、たゆたう、のである。

更に、空海の行為行動にある、無限定とも思えるものも、もののあわれ、という、心象風景には、適わないのである。

もののあわれ、は、何一つも、曼荼羅のようなものを、作ることがなかった。
一筋に、心の、あわれの様である。
描くことも、秘密にして、語ることも出来ないものであった。

平安期の、女房たちが、心を寄せたのは、浄土の、教えの方だった。
当然である。
弥陀の本願に、すがるという、あわれ、というものを、更に深めた、浄土思想に、曳かれた。
たゆたう心に、憧れという、心象風景を、与えたのである。

浄土への、あこがれ、は、新しい、情緒、新しい、心象風景だった。

浄土信仰の、静かさを、好んだといえる。
空海の、信仰は、男に許されるものであり、女の世界ではなかった。しかし、浄土思想は、女房だけを、取り込んだのではない。
多くの、貴族、武士までも、取り込んだ。

あこがれ、という、心象風景は、時代性であった。

もののあわれにある、たゆたう心と、儚き心に、あこがれ、という、情緒が、生まれた。

加持祈祷より、念仏を申すことの方に、心の安らぎを得たのである。

それが、和泉式部の歌
暗きより 暗き道にぞ 入りむべき 遥かに照らせ 山の端の月
と、なる。
山の端の月とは、仏の慈悲である。

空海の行動力は、国家を相手のものである。
東寺を任せられた空海は、自由自在に、その野心を、満足せしめたであろう。
その、著作は、空海の創造の野心に、満ち溢れている。

ちなみに、密教とは、既成仏教の中では、一宗と、名乗るほどのものではなかった。一つの、呪術部門であった。
中国、唐が、そうである。
しかし、空海は、一宗とし、更に、他の宗派の上に、置いたのである。
それが、十住心論をもって、体系化された。
他宗と、対等ではなく、他宗の行き着くべき、最高の段階としたのである。
ここに、空海の野心がある。

東寺を、頂いた時に、他宗の僧を、拒んだのも、今までにないことだった。
宗派間では、自由に行き来して、学ぶことが出来たが、空海から、それを、廃止した。
独立性という、凄みである。

バラモンの、呪術を、ここまでに高めた人物は、いない。
空海の真言密教を、信仰し、解説、解釈する人はいるが、空海の密教に、更に、何かを加えて、新なるものを、創造する者は、今だかって、現れない。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 84

宗教は疑いの余地なく、不和を生み出す力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである。しかし、宗教集団あるいは宗派間の戦争や反目が、神学的な意見の不一致についてのものであることは現実にはほとんどないということが、しばしば、そして正しく言われている。アルスターのプロテスタントで準軍事組織に属する男が一人のカトリック教徒を殺したとき、彼は「これでもくらえ、化体論者の、マリア崇拝の、抹香臭い畜生め! 」というようなことを呟いていたわけではない。彼は、世代を越えて持続する過程で、別のカトリック教徒によって殺された別のプロテスタントの死の仇を討とうとしていた可能性のほうがはるかに高い。宗教は、内集団、外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカー・チームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる。
ドーキンス

差別的発言になることを、あえて言うが、欧米人、アラブ人は、どうして、あのような単細胞的行動を取って、人を殺すのか、理解に苦しむのである。
そして、殺人にまで、至るものは、すべて、宗教、宗派間の対立による。
もっとも、平和的であろうはずの、宗教により、暴力、紛争、戦争に、至るのである。

ヨーロッパの歴史は、宗教戦争に、明け暮れている。

現在のテロリストの、原理も、世界イスラム帝国へのための、テロなのである。
果たして、ユダヤ教、キリスト教が、それを、非難する、権利があるのか、疑問である。


そう、もちろん、北アイルランドにおける紛争は政治的なものである。そこには一方の集団による他方の集団の経済的、政治的抑圧が存在し、それは数世紀以前にまでさかのぼる。そこには現実に不備とか不正が存在し、それらは宗教とほとんど関係がいなように思われる。ただ一つーーーこれは重要であるが、ひろく見過ごされてきたーーー宗教がなければ、誰を抑圧し、誰に復讐するのかを判断するラベルがなくなってしまうだろうということを除いて。そして、北アイルランドにおける本当の問題は、このラベルが何世代にもわたって受け継がれてきたということである。・・・・・この二組の人間たちは、同じ肌の色をもち、同じ言語をしゃべり、同じことをして楽しむが、まるで別の種に属しているかのようであり、両者の歴史的な分裂は根深い。そして宗教と、宗教的に分離された教育がなければ、そうした分裂は絶対に存在しなかっただろう。コソボからパレスチナまで、イラクからスーダンまで、アルスターからインド亜大陸まで、対立する集団間の手に負えない反目と暴力が見られる世界のどの地域でもいい、注意深く見てほしい、内集団や外集団のしるしとして用いられるラベルのうち、宗教が大勢を占めていることに、たぶんあなたは気付くだろう。かならずそうだとは言えないが、その可能性は高いはずである。
ドーキンス

ドーキンスが、ここまで、分析していることを、宗教集団の人々が、読んで、何を感じるだろうか。
ほとんど、空言、戯言に、感じるだろう。
それほど、冒されているのである。宗教という、妄想に、である。

例えば、現在の日本の宗教に関しても、最澄の天台宗は、誤りである、空海の真言宗は、誤りである、等々を、仏教思想によって、解説しても、聞く耳を持たないだろう。
それほど、信じてしまうと、他の、客観的な、ものの見方を、受け入れなくなるのである。

仏陀本人が、仏に成ることが、出来なかったという、事実を、言う。
仏陀最期の、時である。
それを、知らない。
まして、それらの、伝言仏典によって、起こした、日本仏教の教祖たちが、何をか言う。
単なる、迷いの、宗派を、立ち上げただけである。

誰か、我、仏になれり、として、立教しただろうか。
誰一人としていない。
仏陀さえ、そうなのである。

極めつけは、悪魔の好む、法華経を、仏陀最期の教えとして、唱える者たちに、言っても、理解しないし、解らないのである。
また、聞く耳を持たない。

この、蒙昧は、計り知れないのである。
生活クラブ、仲良しクラブのような、組織にいて、仏法だと、喧伝しているのであるから、終わっている。
さらに、悪いことに、信者からの、金を、組織の社会的地位のために、さんざん使い、学校から、美術館から、何から何まで、やるのである。
騙されている、信者は、せっせと、教団に、金を運ぶ。
嬉々として、金を運ぶのである。

三次元に、少しかかっている、幽界のレベルの、狐の霊に憑依されている、ある教団は、平然と、手かざしにて、清めるという。
一体、何を清めるのか、解っていない。
邪霊、悪霊を、祓うというのか。
それを、指導している者が、邪霊、悪霊なのである。
笑う。

いずれ、日本の仏教の開祖を、徹底的に、検証する。

北アイルランドにおいて、このような事態を、引き起こしたものは、宗教指導者である。実に、無知蒙昧の指導者が、この、蒙昧な、状態の種を、蒔いたのである。
単に、宗派が違うというだけで。同じ神を奉じていても、である。

インドが分割された当時、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教的な騒乱で100万人以上の人間が虐殺された(そして1500万人がすんでいた土地から追い出された)。誰を殺すかのラベルを貼るのに、宗教的なラベル以外には何もなかった。詰まるところ、彼らを区別するものは宗教以外になかったのだ。サンマル・ランシュディは、より最近に起こった宗教的虐殺の勃発に心を動かされて、「宗教は昔も今も、インド人の世に混じった毒である」というエッセイを書いた。ここに示すのは、その結びの文章である。

このどこに、あるいは畏れ多き宗教の名において世界中ではほとんど毎日のようにおこなわれている犯罪のどこに、尊敬すべき何があるというのか? たとえいかに致命的な結果がもたらされようと、宗教はなんと巧みにトーテムを立てることか、そしてわれわれはなんと唯々諾々とそのために人を殺すことか! そして、われわれはしばしばそれを十二分にやり遂げ、その結果として起こる感情の鈍磨は、それを繰り返すことを容易にする。
ゆえに、インドの問題は世界の問題となる。インドで起こったことは、神の名において起こったのだ。
その問題の名は神である。

良識というのは、宗教とは、関係なく、有るということである。
宗教以外の人々によって、世界の良識がなるといってもいい。

科学者と、無神論者と、高い霊的能力のある人々によって、新しい、生き方の、指針を学ぶべきである。
妄想の観念から、離れたところのもの、それが、必要である。

今、それを、私は、節に祈る。
世界が最悪の状態に、陥るのは、宗教の、信者たちによる。


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タイ旅日記 5 平成20年6月

メーホンソーンに、二泊して、チェンマイ入りした。

昼にチエンマイに着く。


慧燈財団の、小西さんが、出迎えてくれた。

今回の、追悼慰霊の、アドバイスも、小西さんからのものである。

また、車の手配も、お願いした。


以前にも書いたが、カレン族の女性と結婚し、チェンマイ在住である。

その、カレン族の村にも、後で入ることになる。


小西さんに、ラーメンが食べたいと言う。

日本のラーメンが、食べたくなった。

チェンマイには、多くの日本料理店がある。ピンからキリまである。

ラーメンを専門にする店に、連れて行ってもらった。


味噌ラーメンである。

味噌と、醤油が欲しくなる。日本人である。


馴染みの味を食べると、安心する。

私は、特に、この頃、食べることを、楽しみに、また、大切にしている。

それは、限られた時間しかないからであり、食べることは、命をつなぐことでもあるからだ。

日本では、ほとんど、自炊である。

最も、それが、いい。


その後、小西さんが、お気に入りの、店に連れて行ってくれた。


街中にあるが、森の中にあるような、店だった。

私は、アイスクリームを注文した。

疲れると、甘いものが食べたくなる。


タイは、雨季である。

その店にいる間に、スコールに、見舞われた。

見る見る、水かさが増す。

道が、水で溢れる。


パラソルの下にいた、私たちも、店の中に入った。


スコールは、やや暫く続いた。

その間に、追悼慰霊の様を、話していた。

小西さんは、遺骨収集も行っており、色々な話が聞ける。

まだ、すべての遺骨収集が、終わっている訳ではない。


更に、宗教の話から、古神道の、話にまで及んだ。

小西さんも、独学で、様々な宗教を学んでいた。


そして、矢張り、古神道に行き着いた人である。


スコールが止み、漸く、ホテルに向かった。

馴染みの、ターペー門の前の、モントリーホテルである。

三泊の予定である。


丁度、食事付きで、750バーツの、キャンペーンをやっていた。

約、2500円である。一部屋の値段であるから、二人で、一泊、2500円ということになる。


タイも、バリ島も、ホテルの料金は、一部屋で、計算する。


小西さんは、私たちが、チェックインするまで、付き合ってくれた。


部屋に入り、浴衣を脱いで、シャワーを浴びて、タイパンツをはき、Tシャツを着た。

そして、ベッドに体を、横たえた。


少し、放心状態である。

メーホンソーンの追悼慰霊が、色濃く心を、支配した。


夕方、私たちは、漸く、タイマッサージを受けるために、部屋を出た。

ホテル並びの、マッサージ店に行く。

顔馴染みの、マッサージ嬢だけでなく、新しい顔が多くあった。ただし、皆、おばさんである。


一時間、100バーツという、安さの、コースを選んだ。

約、330円である。

ところが、私たちについたのは、新入りの、おばさんである。

私の方は、まだ、何とか良かったが、野中についたおばさんは、お喋りばっかりで、手がおろそか。

身の上話を、延々としていた。

野中が、気の毒になった。


マッサージを終えて、一度、ホテルに戻った。

野中曰く、マッサージをして、更に疲れたと。


夜、何を食べるかである。


私は、近くにある、和食の店にした。野中も、それでいいと、言う。

蕎麦が、食べたくなったのだ。

昼は、ラーメン、夜は、蕎麦である。

麺類を望むのは、また、疲れている証拠である。


寿司セットを一つと、ざる蕎麦を、それぞれ、注文した。


面白いことに、お客は、皆、タイ人である。

タイ人も、和食を食べるようになっているのである。


ただ、どうも、麺類は、タイ人の好みで、伸びている。

歯ごたえが無い。


寿司にも、蕎麦にも、わさびが、多くついている。わさびの、辛さは、タイには無いものである。


私たちは、食べ終わり、すぐに、ホテルに戻った。


その日は、野中も、外出せずに寝た。


私は、歌を詠む。


チェンマイは 雨季にありては 時に雨 すこぶる強く 叩きつけたる


スコールの 後の清しさ たとえなく 息を吸い込む 時の嬉しさ


雨ありて 風起こしたる スコールの 人の心の 乱れに似たる


来るたびに お堀の水の 清まりて このチェンマイを 愛し始める


よしやよし 定め無き世の 常なるは 定めを捨てて 常に生きるか


疲れては 旅のひと時 ただ眠る 眠り眠りて ただ眠るなり


更に、

感じて歌を詠む


情けなき 人の世に 生まれ来て 情けなきかな 人の世を去る

これ 悲しむべきか 喜ぶべきか いまだ わからぬことなりて


無定形の歌である。


矢張り、慰霊の様を、思い出し、歌う。


蛙鳴く 虫も鳴くなり 追悼の いしぶみ超えて 慰霊天を突く


この、慰霊天を突くを、尽くにするかどうかと、暫く迷った。

結局、わからず、最初の、突くにした。


尽くすと、いう気持ちもあるが、嘆きは、天を突くと、感じた。


歌の道こそ、ゆかしけれ、である。

床しい。

それが、奥床しい、という心象風景になり、更に、幽玄へと、至る。


しかし、幽玄と、漢字にすると、観念が、先に立つ。

もののあわれ、の、一つの風景であると、する。


posted by 天山 at 16:16| タイ旅日記  平成20年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月06日

もののあわれ206

さて、空海の次には、浄土思想を、取り上げた、源信である。
往生要集は、寛和元年、985年の作である。

無常観と共に、厭離穢土という、観念と、そこから、欣求浄土という、観念が生まれる。
この、浄土思想が、女房文学の中に、表現されてゆくのである。

浄土思想は、当時の知識階級の、不安を、そのまま、受け止めたと、思われる。
何故、不安なのか。何が、不安だったのか。

私は、平安貴族の平和ボケだという。
頽廃した生活を送り、危機意識皆無の状態であり、なおかつ、何か、先の知れない、不安感というもの。
実は、現代に続く、抑鬱の状態を、この頃から、持ち合わせていた。

女たちも、男の愛を、ひたすら待つという、状態の中で、いつ来るのか解らない男を、待ち続けという、不安と、倦怠である。

それなのに、仏教では、何かしら、危機意識を、煽る。
その典型が、源信の、日本版、死者の書とも、言える、往生要集であった。

極楽への、往生を願うという気持ちは、飛鳥時代から、あったといわれる。
ここで、成仏と、往生の違いである。

実に、仏教の、成仏と、往生は、面倒な話である。
成仏するのか、往生するのかという、観念に、嵌めて、要するに、脅しである、それで、信仰を、強要するという、脅しである。

早々簡単に、成仏など出来るものではないと、知る者が、往生を唱えた。それが、浄土思想である。

あわれ、という、心象風景が、変質してゆくのが、この、浄土思想である。
あわれ、に、無常観を、伴うという、病理と、私は言う。

病むことを、浄土思想は、求めたのである。
それが、厭世観である。
要するに、この世は、汚辱に、まみれているという、考え方である。
汚辱に、まみれているから、この世というのであるが、当時は、新鮮な思想だったといえる。

更に、それに、拍車を掛けたのが、末法思想である。
これも、どうかと思うが、観念である。
1052年が、末法の初年と、言われる。一体、誰が決めて、誰が、それを、証明するのか、全く根拠がないが、未だに、仏教家たちは、末法と掲げている。
実は、末法とは、仏陀の教えが、無に帰すといわれるのである。
そうであれば、常識として、仏教壊滅であろうが、未だに、仏教と、喚いている辺りは、アホとしか、思えないのである。

さて、源信の、往生要集である。
「往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賎誰か帰せざるものあらん。ただし顕密の教法、その文一にあらず、事理の業因、その行これ多し。利智精進の人はいまだ難しとなさず。予がごとき頑魯の者、あにあへてせんや。この故に念仏の一門によっていささか経綸の要文を集め、それをひらいてこれを修せば、覚り易く行じ易からん」
との、書き出しである。

内容は、厭離穢土、欣求浄土、極楽の証拠、正修の念仏、助念の方法、別時の念仏、念仏の利益、念仏の証拠、往生の諸行、問答料簡、である。

つまるところ、死ぬ準備のための、ものである。
当時としては、画期的な書き物であった。

それはそれとして、善し。文学としては、非常に面白いが、それをもって、信仰を、特に、念仏行を云々ということになると、どうであろうか。

さて、深入りすることは、出来ない。
そこに、もののあわれ、というものが、何がしか影響を、与えたのか、与えられたのか。

もののあわれ、という心象風景を、持つ者、この、往生要集に、少なくても、曳かれたであろう。

新たな、救いの道のような、ものとして、現れたのである。
もののあわれ、の心象風景に、蔭を落とした。
万葉の、古今の、もののあわれ、を、更に、深めたのか、変節されたのか、いや、心を病むことにもなったと、思える。

それが、思想の深みに、至ったともいえるが、余計な観念を、植え付けられたとも、言える。

しかし、この、厭離穢土、欣求浄土は、戦国時代、いや、第二次世界大戦まで、続く、日本人の潜在的意識にまで、なったと、思える。

変な、話である。
この世を、厭い、この世に生きるというのであるから。
だから、死後は、極楽浄土にと、思うのだと、言われてみれば、それもそうだが、観念である。

しかし、確実に、もののあわれ、というものに、影響を与えた。

否定できない。

実際、厭離穢土とは、源信の書では、地獄の様を、描いているのである。
それが、また、非常に鮮明に描かれて、多くの人に、無用な恐れを抱かせた。現代でも、これを、そのままに、利用する者がいるが、想像力のものである。
ダンテの、地獄篇のようなものである。
芸術家の、想像力は、歓迎するが、宗教家の想像力は、迷惑である。

先に進むが、結果は、もののあわれ、に、怪しい蔭を落として、やや、歪んでくるのである。

これを、突き進んで、更に、もののあわれ、というものを、見つめてゆきたいと、思う。

ちなみに、源信から、法然へ、そして、親鸞へと、念仏の道は、進む。
鎌倉仏教へと、受け継がれるのである。

王朝の危機感は、女房文学の場合、主として無常感、宿世の思い、念仏の心として描かれるだけである。地獄の和風的表現などみあたらない。色好みに生ずる罪の自覚はあるが、刀葉林のような強烈であくどい描写を好まず、また罪をあのようなかたちで確認することへの嫌悪があったのだろう。或いは「神ながら」の「祓」の形式が、なお根強く存在し、仏教的罪悪感情のなかに混在していたことも考えられる。
亀井勝一郎 日本人の精神史

古代日本人の、死生観は、死者の霊は山に帰り、空に上る。または、海に帰る。
万葉の挽歌にあるように、言葉によって、霊を、清め祓うのである。

明確な、死後の世界の意識は、無いが、追悼慰霊の深い思いは、ある。
それが、たゆたい、となり、あわれ、となって、心象風景を作るのである。

源信の書は、漢語の影響大である。
ひらがな、では、あのような世界を描くことは、難しい。

一つ、残念なことは、仏教によって、
死と死後の観念が生まれたことにより、挽歌を詠むということが、なくなったことである。
これは、実に、ゆゆしきことである。

この、仏教における、追善儀礼なるもの、新しい、魂鎮めの行為になったと、亀井勝一郎は言うが、それは、甚だしく、勘違いである。
歴史としては、そのように、見えるが、実際、それにより、魂鎮めは、行われないのである。

単なる、気休めである。
そう、仏教というもの、単なる、気休めなのである。

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神仏は妄想である 85

神仏は妄想であるを、書き続けて、85回になった。

ドーキンスの、神は妄想であるという、著作の紹介が、長くなった原因であるが、これからも、延々と書き続けなければならないと、思っている。
まだまだ、足りないのである。

日本仏教の、誤りについて、書くことが、必要だと思っている。
すべての、仏教家を、検証する。
つまり、すべての、宗派を、叩き斬る。

仏陀の、もし、仏教というものがあればであるが、それを、根本仏教と、一応呼ぶことにする。その、根本仏教というものは、日本の仏教には無い。
すべて、中国思想に、侵された仏教もどきの、思想である。

さて、ただ今、ドーキンスの、対処する、聖書の宗教についての、検証をしている。
その、宗教の蒙昧である。

私は、カトリックの洗礼を受けている。
つまり、私も、キリスト教徒の一人である。

そこで、私の立場を明確にしておく。
ドーキンスは、カトリックを、最も、反吐の出る集団だと、言い切るが、それは、実によく理解している。

私は、今でも、イエスキリスト信仰を、持つ。
それは、私の作り上げた、イエスキリストのことである。
つまり、教会の信仰を、持つ者ではない。
その証拠に、私は、私の信仰を、布教、喧伝するという意志は無い。

私は、少年時代に、イエスキリスト、つまり、新約聖書によって、多くのことを、学んだ。日本人として、その、聖書の語句を、理解した。それは、実に、有意義であった。
日本人の感性を、持っての、イエスキリストの言葉であるから、欧米人のように、理解しなかったということが、幸いした。

つまり、私は、私が、創作した、イエスキリストの信者であるということだ。
それでは、プロテスタントの、聖書主義と、同じかといえば、そうではない。
プロテスタント主義の、聖書解釈も、していない。
それでは、内村鑑三のようにというのも、違う。
詳しい説明は、避けるが、勝手な解釈、勝手な理解が、私の聖書解釈である。
勿論、カトリック教理というものに、大きな影響を受けたが、結局、私が、辿りついたイエスキリストは、私のだけの、イエスキリストなのである。

その最大の特徴は、私のイエスキリストを、宣教しないということである。

私が、新しいキリスト教会を、創立しないということであり、それは、実に画期的なことだ。

多くの、日本の、新興キリスト教は、私のように、勝手な解釈勝手な想像、創作を、教理として、宗教団体を、起こして、信者を作るという、愚かなことをしている。

そこでは、必ず付き物なのは、病が、癒えた、運勢が良くなった等々の、現世利益のような、宣伝文句である。
信者になって、苦難苦悩ばかりが、続くとは、誰も言わない。
万が一、それを、言うと、必ず、神の摂理によって、その苦難も苦悩も、消滅したというオチになる。

信仰しても、何も変わらないというのが、真実の信仰である。

何かを、変えるのは、私自身である。

ところが、私自身を、変えることが、出来たのも、信仰の、おかげと言う、アホがいる。

信じるということを、知らない。
信じるというのは、疑い、思索するという意味である。

法然は、称号念仏を、唱え、親鸞は、更に、唱える前の、信じるという心の在り方を、追求したというが、とうだろうか。

弥陀の本願を信じるといっても、弥陀というものが、妄想、架空のものである。
何故、それを、信じると言えるのか。
観念を、信じて、それで、救われると、思う根性が、怪しい。
だから、怪しい霊界に、行くのである。

選択仏教といい、鎌倉仏教は、一つの教えだけを、多くの中から抜き出して、念仏や、題目、座禅と、絞ったが、時代性である。
しかし、今の時代には、通用しない。
通用させているのは、邪悪なものだからである。

邪ま、よこしま、なものほど、広がるという、この世は、地獄である。

念仏を持って、仏法などと、言えば、仏陀が、泡を吹く。

題目を持って、仏法などと、言えば、仏陀は、吐くであろう。

仏陀は、そんなことを、一言も言っていないからである。

日蓮などは、仏陀を、引き摺り下ろそうとする、ある、霊界というか、魔界のエネルギーを、受けて、あろうことか、仏陀を、更に越えた道が、法華経にあることを言うという、仰天である。

だから、東から、仏陀の、西へ、新しく仏法が、戻るというような、誇大妄想を抱くという。
手のつけようの無い、狂いを、持つのである。

道元などは、座禅こそ、仏陀の法統を継ぐものであり、我こそ正統な道であると、思い込んだ。
勿論、彼の著作は、日本文学の中でも、実に、見事なものであるが、それは、別にして、仏法の道としては、勘違いである。
座禅とは、仏陀以前の、バラモン、ヨガの修行法である。
確かに、仏陀も、座ったが、座禅による、悟りという、妄想ではなかった。

仏陀の教えは、行為であった。
生き方の、考え方と、その行為である。

いずれにせよ、それらを、検証する。

さて、私は、イエスキリストを信奉し、仏陀の教えを、信奉する。
そして、やはり、古神道の、あり方に、生きる者である。
古神道の、魂鎮めと、ニルバーナという、涅槃の境地は、同じものである。

仏や、神を、対立したものとは、考えない。

更に、古神道は、カミとは、御親、みおや、つまり、祖先に続く者であるという、意識である。

どこにも、断絶は無い。

ただし、仏教教団が言う、仏に成るという、観念とは、違う。あれは、断絶している。

更に、仏陀も、仏にはならなかったということが、仏陀の言葉で、証明されている。
それを、見落としている、仏教家の、面々であるから、終わっている。

また、仏陀が、苦行を、嫌った意味を、知らないのである。

寒中に寒修行するという、アホ振りである。氷点下の海に入って、一体、何を修行するというのか。とても、信じられない真似をする。水をかぶるという、馬鹿馬鹿しいことをして、修行も何も無い。
逆に、それによって、思考が固まり、とても、通常の神経とは、思われない、歪な性格を作り上げる。傲慢で、頑固な、手のつけられない、性格である。
あれは、サドマゾである。

厳しい修行に耐えて、大半が、頑迷な者に、成って行く。
ただ、念だけは、強くなり、レベルの同じ霊を相手に、戦うという、オチである。
それを見て、信者は、驚く。そして、洗脳される。

こういう、者どもを、救い難しという。

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タイ旅日記 6 平成20年6月

夜中に、目が覚める。

3:30である。日本時間、5:30。つまり、いつもの時間に目覚めるのだ。


少しして、また、寝る。


本日は、朝10時にホテルを出て、バンガート中高学校での、コンサートに向かう。


六時に、起きた。

少し、ぼんやりとして、予定を確認する。

本日の歌の確認もする。


お話など入れて、おおよそ一時間。歌は、その半分の時間くらいになる。

童謡を主にすることにした。

伴奏は、ピアノでの、カラオケを作ってある。


いつもなら、一日、ゆっくりとするところだが、今回は、時間がない。

明日は、街中のホールでの、コンサートである。


旅の最中の体調管理は、重大である。

特に、風邪に注意である。

暑い国に行くと、必ず風邪を引く。暑いと思い、裸になるからである。

私は、必ず病院から、風邪薬を貰って旅に出る。


七時に、ホテルのレストランの前の、道路に面したテラスで、朝食をとった。

すでに、道は、車で混雑している。

朝の、活気はいい。


最初に、チェンマイに来た時も、このホテルだった。来る度に、値段が違う。このホテルを、皮切りに、ゲストハウスに移動した。

今回は、三泊なので、移動せず、ここに泊まることにした。

朝食付き、750バーツは、安い。


閑散期は、どこのホテルも、値段が落ちる。


一時間ほど、テラスで、過ごして部屋に戻った。

野中が、目覚めた。


私は、本日のコンサートの、楽譜を取り出し、歌詞を確認する。

合間に入れる、お話も、少し考える。それを、小西さんに、通訳してもらうので、通常の時間より、お話が倍になる。それほど、多くの曲数は、いらない。また、今回は、野中も、イダキを、披露する。


朝、10時に、小西さんが、迎えに来てくれた。

バーンガート学校は、最初の追悼慰霊の場所でもある。


本日は、日本語を学ぶ、50人ほどの生徒の前で、歌う。

慧燈財団が、ここに、日本語教師を派遣しているのだ。

小西さんも、元教師として、教壇に立っていた。


会場は、学校の一階にある、多目的ホールである。

その前に、校長先生に、ご挨拶に、伺った。


前回の時は、校長先生は、留守で、お会い出来なかった。

初めて、お会いする。

先生は、生徒は、まだそれほど、日本語に堪能ではないという。そして、感謝の言葉である。


私たちは、すぐに、会場に入り、準備を始めた。

まず、持ってきたCDが鳴るのか、心配だった。

それは、大丈夫ということで、次に、マイクである。私は、生声で、歌うつもりだったが、全く残響が無い部屋である。均等に声が聞こえるようにと、マイクを使用することにした。


リハーサルを、生徒が覗く。

その度に、手を振り、挨拶する。


男女共学の学校で、男の子も、女の子もいる。皆、礼儀正しい。

面と向かうと、両手を合わせて、挨拶する。


開演は、12:00である。

15分前から、生徒が、入りはじめた。

私は、舞台前のソファーに座り、生徒を待った。


教務課の先生も、いらっしゃり、生徒と、同じく席に着く。

小西さんの、お話で、はじまった。

私と、野中の紹介である。


野中のイダキ演奏で、開始である。


私の、最初の曲は、砂山。

海は荒海、向こうは佐渡よ、すずめ鳴け鳴け、もう日が暮れる


すずめをテーマにした曲です、ということでの紹介をした。


雨降りお月さん

トンボのめがね

それぞれ、曲の前に、解説が入る。

そして、タイ演歌に影響を与えた、昔の歌、蘇州夜曲を歌った。


この歌は、東京音頭から、王将を書いた、西条八十の作詞で、歌謡曲を代表する。

ちなみに、西条は、ドイツ文学を、早稲田で講義し、詩人でもある。学者でありながら、俗曲といわれる歌の作詞を、手がけた。その数、おおよそ、千曲といわれる。


メロディーに、馴染みがあるのか、生徒は、静まり返って聴いた。


童謡を歌う時に、生徒が、私に笑いかけるので、安堵した。


最後に私は、扇子を取り出し、朗詠しつつ、舞うことにした。

それは、皆様の、幸福を祈るものですと、前置きをつけた。


日本の国旗があったので、舞の最後に、それを取り出して、扇子と、国旗で、最後のポーズである。


野中が、それを写真に撮った。

実に、右翼ぽい写真になるであろうと、思えた。


個人的には、日の丸が好きである。

単純明快が、いい。


白地は、天地、赤は、太陽である。

文句はない。


おおよそ、一時間のコンサートを、終えた。

生徒が、私たちに、感謝の挨拶をする。


それからである。

先生が、イダキに興味を示し、手に取り、吹く。生徒は、大笑いである。

更に、生徒も、手に取り、吹き始めた。

一人の生徒が、巧い。


私は、キスの上手な人は、巧く吹けますという。

小西さんが通訳すると、歓声が、上がった。


無事に、終了して、私は、すぐに慰霊碑に向かった。

野中と、小西さんも、駆けつけた。


木の枝を取り、依り代にして、御幣を作り、捧げた。

ここでは、二度目の、慰霊の儀である。

慧燈財団が、建てた、タイ・ビルマ戦線戦争犠牲者の碑である。


大祓えの祝詞を唱えて、四方を清めた。

小西さんと、野中を清め、そして、私も、野中に清めて貰った。

小西さんが、その様を、ビデオ撮影していた。


小西さんにも、それを、行って欲しいと思い、ビデオ撮影して貰った。


その後、チェンマイ市内に戻り、タイ料理の店に行き、昼食をとった。

終わると、三時を過ぎていた。


ホテルに戻り、矢張り、疲れた体を、ベッドに横たえた。

暑さもあるが、緊張感もある。

ホッとしたが、明日もあるのだ。


まだ、覚えていない歌詞を、夜のうちに、覚えようと思う。

マッサージに行く、元気も無いということもある。

その日は、マッサージに行くのを、止めた。

posted by 天山 at 16:16| タイ旅日記  平成20年6月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

タイ旅日記 8 平成20年6月

15日、日曜日、いよいよ、最後の予定、カレン村入りする。

一泊して、子供服支援をする。


午後二時、ホテルから出発する。

すべての、荷物を持ってだ。

カレン村から、そのまま、チェンマイ空港に向かい、バンコクを経由して、帰国するのである。


慧燈財団の小西さんの、案内で、カレン族村に向かう。

小西さんは、その村の、女性と、結婚し、一児をもうけた。

カレン族は、婿が、嫁の家に入るという、日本とは、逆の、パターンである。


奥さんは、慧燈財団の支援により、日本に留学している。日本語も、よく出来る方である。奥さんは、先に、村に入っていた。


チェンマイから、南西に、車で、約二時間の山間部に、その村がある。


カレン族は、赤カレン、白カレン、そして、首長族といわれる、カレン族に、分けられる。

赤カレンは、現在も、ミャンマーの反政府として、戦う。

白カレンは、戦いを、好まず、人里はなれた、山間部に住む。

私が、向かう、カレンの村は、特に、伝統を重んじて、言えば、保守的なカレン族の村である。

他の、カレン族の人々が、伝統を学びに来る村でもある。


タイ国内の、少数部族は、約86万人。

カレン、モン、ラフ、アカ、ヤオ、ティン、リス、ルア、カム、ムラブリ族と、非常に多い。

しかし、それらの、少数部族も、タイ政府の介入により、政策、貨幣経済、近代農業などの、導入により、伝統的生活サイクル、民族独自の伝統文化が、侵食されている。


それを、進歩というのか、何と言うのか、私は知らない。


伝統的生活が、次第に難しくなってゆく様を、どのように見るのか。

見方によって、判断が、分かれる。


さて、カレン人というのは、タイ人が呼ぶ名である。

カレンの人は、自分たちを、パガニョーと呼ぶ。


私の行く村は、バーン・トゥンルアンである。

バーンとは、タイ語で、村を指し、トゥンルアン村ということになる。


人口は、約、345人である。

65世帯、93家族が、住む。


村の標高は、500メートルから900メートル。六の山と、十の川に囲まれている。

追々書くが、村人は、自然に、自然保護の生活をしている。

欲が無いという、見方が出来る。

必要以上に、自然を利用しないのだ。


山間部なので、涼しい風が吹く。

皆さん、朝夕は、寒いという。

私には、心地よく感じられる、気温だった。


車が、空いていて、一時間半ほどで、村に入った。


最初に目に入ったのは、象さんである。

カレンの男は、像使いである。

今回、結婚式に、遭遇しなければ、私は、小西さんの、お兄さん、つまり奥さんのお兄さんに頼み、象に乗る予定だった。


それから、田園が続く。

丁度、田植えの時期である。


村に入った。

高床式住居である。

どこかで、見た風景だと、思った。

伊勢神宮である。

大神のお住まいも、高床式である。


小西さんの、実家に、到着して、奥さんに迎えられた。そして、そのお母さんがいた。


オモチャパー

今日は、という挨拶である。

最後の、パーは、プーの音にも、似る。

オモチャパゥーのような、感じである。


何だか、楽しい挨拶だ。

オモチャであるから、すぐに覚えた。


カレン語は、非常に少ない言葉で、話す。一音が、多い。

どこかで、聞いた話である。

一音に意味がある。

例えば、ご飯を食べるを、オ・メーという。

お茶を飲むを、カムチャという。

おいしいを、グィ、楽しいを、ムという。


家に入るには、階段を登る。

玄関に、何と、注連縄が、張ってあるではないか。

日本の、注連縄と、同じである。

日本の場合は、神の領域という、結界を現す。


どうも、底辺のところで、日本の伝統につながっているようであると、感ずる。


荷物を部屋に置いて、下に降りると、「お茶をのみましょう」と言われた。

すると、奥さんが、湯を七輪で、沸かすのである。

ずくには、出ない。


暫く、湯の沸くのを待つ。


その間に、家の周囲を、回って見た。


まず、豚、黒豚四頭が、目に入る。

鶏と、ヒヨコが、走っている。

犬もいる。

山の湧き水を、家まで引いて使う。だから、水は、冷たい。しかし、実に、まろやかである。

家を建てるのも、田畑をするのも、皆村人が、一丸となってやる。

自給自足である。


米倉を見て、また、驚く。

伊勢神宮の、米倉と、同じなのである。

そして、それぞれの、道具である。

縄文、弥生の、博物館に来て、見ているようなものばかりである。


すべて、手作りである。


唸るしかなかった。

一見は百聞にしかず、という通りである。


日本人が言う、自然保護や、エコライフというものが、如何に、愚かなことか、解る。

自然というものを、知らずに、自然保護や、エコライフを言う。

この村に来て、それが、本当に、どういう意味なのかを、知ることになった。


トイレに行った。

便器があるだけ。横に、水桶があり、それで、汚物を流す。

紙も無い。

つまり、タイ式と同じく、左手で、ウンチを拭く。

今、タイでは、ホテルなど、手動の水掛けが、ついている。それで、尻に水を掛けて、流す。

ここでは、手を使う。


家には、紙というものが、無かった。

最低限の紙である。しかし、一度も、紙を見なかった。

食事の時、私たちだけに、奥さんが、紙を用意した。

他の人は、食べ終わると、水で、手を洗う。


この村の、唯一の文明は、電気である。

電気だけは、通っていた。

しかし、私は、その夜、この村に来て、最も、感動した場面がある。

後で書く。


暫くして、小西さんが、学校に誘ってくれた。

日曜日であるが、子供たちが、集まり、私たちに、カレンの、伝統芸を披露してくれるということだ。

その際に、子供服を子供たちに、差し上げる。


小学生の子供たちが、集い、民族衣装を着て、私たちに、芸を見せてくれた。

まず、男の子の、カレンの竪琴の演奏である。

続いて、女の子たちの、歌と踊り。

実に、素朴で、簡単なものである。


その後、会場のテラスに出て、一人一人に合う衣服を、手渡す。

皆、目が輝いている。

一人一人に、手渡すと、その、笑みが満面に広がる。


この村の女性たちは、すべて、自分たちの衣服は、自分たちで、織る。

女性の、衣服はいらないのである。

男と、子供たちが、必要なのだ。


女性たちの、衣装を見ると、既婚、未婚が、一目で、解る。

未婚の女性は、白い衣装を着ている。

更に、純潔というものを、非常に大切にする。

少数部族から、売春をする者が多いが、カレン族の女性は、決して、そんなことは、しない。

また、離婚も無い。

一生、一人の男に、操を、捧げる。


それは、村の生活を見れば、解る。


日の出から、働き、日の沈む頃、家に戻る。

その繰り返しである。


子供たちと、写真を撮る。

ぬいぐるみを、上げた女の子が、愛しそうに、ぬいぐるみを、抱いているのが、印象的だった。

衣服は、お金で、買わなければならない。しかし、カレンの人は、収入を得る道が、少ない。現在は、レタスなどを作り、それを売って、お金にする。それも、最低限である。

富を持つという、感覚が無い。

田圃も、三耗作が出来るが、ここだけは、一毛作である。


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2008年06月07日

神仏は妄想である 86

神は妄想である。
リチャード・ドーキンスによる、論文から、これを書いている。
第7章 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神」より

本章は、いかに好意的な見方で臨もうとも、私たちがーーー宗教を信じる人間でさえもーーー道徳上の判断を下す根拠は聖書からは得られないと示すことからはじまった。それならば、私たちは何が正しくて何がまちがっているかを、どのようにして判定するのだろう?
この疑問にどう答えるかにかかわらず、私たちが事実の問題として、正しくあるいはまちがっているとみなすものについては意見の一致が、驚くほどひろく行き渡った見解の一致が存在する。この見解の一致は、宗教とは明白な結びつきをもたない。けれどもそれは、本人たちが自らの道徳が聖書に由来すると考えていようといまいと、信仰をもつ人にまで及んでいる。
ドーキンス

見解の一致は、聖書主義や、信仰を持つ人、無神論者、多々幅広く、それは、存在するという。

ここでいう、時代精神というものは、実に、重大である。
人類の歴史は、この時代精神によって、成る。
試行錯誤を繰り返して、人類は、論証しつつ、進んできた。

時代精神を、認識しない人は、歴史を理解できない。
端的に言う。
その時代だから、行為することが、出来たのであるということ、歴史を見れば、解る。

ドーキンスの、論述と共に、それを、見てゆく。

私たちは言論の自由を信じ、たとえ言われている内容に同意できない場合でも擁護する。税金を払い、人を騙さず、人を殺さず、近親相姦に走らず、自分がしてほしくないことは他人にしない。こうした善行に関する原則の一部は聖書に見出すことができるが、それはまともな人間なら従いたくないと思うようなことと一緒に埋め込まれている。そして聖書は、善行に関する原則を悪行に関する原則と区別するためのいかなる基準も提供していない。
ドーキンス

聖書解釈は、断片主義であると、私は言う。
こじ付け、捏造を得意として、支配者の都合に合わせて、解釈される。

多くの宗教、特に、教義というものを、掲げる宗教は、時に、驚くべき、素早さで、その解釈を変更することがある。
それは、時代精神ではなく、時代迎合である。
または、集金能力を上げるためにである。

カトリック教会が、最初は、ラテン語で祈り、次には、文語体で、祈り、更に、口語体での、祈りに変更した。
このような、変更は、取り立てて、問題は無い。
しかし、教義解釈や、聖書解釈に関しての、変更は、何か、魂胆がある。

例えば、冒すことが出来ない、ご本尊を、ペンダントにまで、印字して、売るという行為などは、唖然とするより、あまりの、変質に、彼らの信仰の、虚偽を見るのである。

一端信じ込んでしまった、信者には、何でも通用するという、驕りが有る。
いくらでも、騙すことが、出来るというものである。
信者は、その信仰により、羊のように、従順になるということだ。

信仰とは、人間改造に、他ならない。
人間革命など、あろうはずがない。
単なる、勘違いである。更に、思い違い、心得違いとなる。

ドーキンスが言う。
次に示すのは現代の「新十戒」の一つで、私がまたまた無神論者のウェブサイトで見つけたものである。

自分がしてほしくないと思うことを他人にするな。
あらゆる事柄において、人を傷つけないように努めよ。
あなたの仲間である人類、あなたの仲間である生物、そして世界全般を、愛、誠実および敬意をもって扱え。
悪を見逃さず、正義を執行することにひるむな。しかし、進んで認め、正直に後悔しているならば、いつでも悪事を許す心構えをもて。
喜びと驚き感覚をもって人生を生きよ。
つねに何か新しいことを学ぶように努めよ。
あらゆる事柄を検証せよ。つねに、あなたの考えを事実に照らしてチェックし、どんな大切な信念でも、事実と合わなければ棄てる心構えをもて。
けっして反対意見を検閲したり、耳を傾けることを拒絶したりしてはならない。つねに他人があなたに反対する権利を尊重せよ。
あなた自身の理性と経験をもとにして独立した意見をつくれ。むやみに他人の意見に導かれることを許してはならない。
あらゆることに疑問を発せよ。

更に、ドーキンスは、それに、付け加えた。

あなたの性生活を( ほかの誰にも危害を及ぼさないかぎり)楽しみ、他人が個人的に楽しむものを、それがいかなる性癖であろうと、ほうっておくこと。それはあなたに関係ないことなのだから。

性別、人種、あるいは( 可能なかぎり)生物の種のちがいをもとにして、差別や抑圧をしない。

子供を教化しない。子供には自分で考える方法、あなたに異議を唱える方法を教えよ。

本来を自分のもつ時間のスケールよりも大きなスケールで評価せよ。

以上である。

どこかの、新興宗教が、即、採用するような、実に良い内容である。
だが、上記の新十戒も、ドーキンスも、無神論者である。

奴隷制は、聖書の時代および歴史の大部分を通して当然のこととして受け取られてきたものだが、文明国では19世紀に消滅した。選挙および陪審員としての女性の投票権は、1920年代まで広い範囲で否定されていたが、現在ではすべての文明国が男性と同等の権利を認めている。現代の文明化された社会(ここには、サウジアラビアは明らかに含まれない)では、女性はもはや財産とみなされないが、聖書の時代には明らかにそうだった。――――
かように、宗教を信じていようといまいと、私たちは誰しも、何が正しくて何が悪いかという態度において大きな変化をとげてきた。この変化はどういう性質のものであり、何がその原動力なのだろうか?
ドーキンス

どんな社会にも、どことなく謎めいた見解の一致が存在し、それが、十年単位で変化する。それを、ドーキンスは、ドイツ語から、借用した、時代精神という言葉に当てたのである。

このような、考え方を、知性の産物と言う。
さらに、それを、感じ取る力を、感性が養う。そして、理性が行為させる。

人類は、そうして、歴史を進んできた。

宗教は、その、人類の進んできた、道のりを、無知蒙昧で、覆い尽くす。
神や仏で、突然、その、進んできた道のりを、解釈し、裁断する。

更に、一本進んで、何故、人は、神や仏という、絶対者というものに、曳かれるのだろうかということだ。
そして、祈りを上げ、そのために、膨大な時間を費やす。

一つは、行為自体に、安心感を得る。
そして、個としての存在感に対する、不安である。
もし、一人で、神や仏に対座していたら、どうだろうか。
生活集団としての、仲間意識よりも、何か、特別なモノを、拝むという、集団に属していなければという、分離不安ゆえに、宗教の集いに参加する。

奴隷としての、黒人が、信仰によって、最低の生きる意味意識を得ていた事実がある。
それは、悲しいほど、悲劇的なことである。
生きるために、必要不可欠な、信仰というものがある。
それを、考慮しても、宗教というものは、団体になると、集団になると、悪行になるということである。

アメージング・グレイスという歌がある。
黒人霊歌としても、イギリス民謡としても、歌われる。
これは、イギリスの奴隷船の船長だった、男が、ある航海で、大嵐に遭遇し、九死に一生を得た。そして、自分のしている、奴隷を売るという、悪行に気付いたという。
彼は、即座に、改心して、宣教師になった。
そして、書いた曲が、それである。

内容は、私は、今まで罪を犯していました。どうぞ、私を許してください。というようなものだ。

一見して、納得するような、話だが、どうも、腑に落ちない。
何故、神に改心したのだろうか。
それが、時代精神、時代性である。

今なら、違う形になった、可能性がある。
19世紀も後半のことである。
まだ、宗教の蒙昧の中にある、時代である。
改心の方法は、一つだけしかなかった。

よく、キリスト教会で、言われる話がある。
宇宙船の乗組員が、宇宙を見て、神の存在を確信し、宣教師になったというものである。
人知を超えたモノを、感じた時に、神というものに、傾倒するというのは、神という言葉に、その、人知を超えたものを、置き換えるのである。

計り知れないモノを感じた時に、絶対者という、存在を置くという、感覚は、矢張り時代性である。

それが、何故、神でなければならないのか。
大いに疑問である。

実は、簡単なことである。
それ以外に、考える言葉か無いからである。
要するに、思考停止状態に陥るのである。
この、思考停止状態に、陥ることを、宗教指導者、支配者は、待っている。
思考が停止すると、人間は、兵隊のようになる。

罪意識を、徹底的に植え付けて、思考停止状態にさせて、教義に雁字搦めにする。
すると、信者は、兵隊になり、宗教の思うままに、行動する。
それを、洗脳という。

教育は、緩やかな、強制を伴う。
しかし、その、緩やかな、強制の中に、疑問を発する精神を、養い、自分の頭で考える力を、養うべくの、教育が、最上の教育となる。

私の霊学から、言う。
一人一人の、神や仏があっていい。しかし、それを、集団としての、宗教に、委託するのは、完全に誤りであるということだ。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれ207

末法思想が、もののあわれ、に与えた影響は大きい。

永承七年、1051年から、末法の世に入ると、言われた。
仏陀滅後、正法が、保たれ、続いて、像法の時代が来て、仏法は衰退し、末法の時代に入ると、人心荒廃して、修行をしても、徴しなく、つまり、仏法が消滅すると言われる。

それは、藤原の衰退期に、合う。だが、政治的なことではない。
一つの観念に、覆われると、見るもの、そのように、見えるのである。

一つの信仰の、危機意識を促すものであろうと、思うが、末法思想は、人々を、抑鬱に、満ちたものにしたようである。

1999年に、世が終わるという、ノストラダムスの預言のように、扱われたのかもしれない。
暗黒の世が始まる予兆である。

そして、それから、中世へと、時代は移行する。

宿世のあわれから、さすらい、という、心象風景に移行してゆくのである。

ここでは、歴史を、解説するものではないから、省略するが、中世に向かうということでは、まず、藤原の栄華と、衰退、源平合戦、平泉の壊滅、鎌倉幕府の成立、乱世といわれる、時代を抜けてきたのである。が、続く時代も、また、乱世である。

もののあわれ、というものの、推移を歌道でみると、藤原俊成、そして、西行に代表されると、思われる。
新古今と、山花集である。

女房文学は、姿を消す。だが、その美意識を、歌道は、受け継ぐ。そして、もののあわれ、というものも、受け継がれる。

末法思想により、人々は、更に、阿弥陀の本願にすがるしかないという、気持ちになっていった。
念仏の救いを、信じて、またそれは、自らが、どうすることも出来ない、救いというものを、阿弥陀の本願を信じるということで、解決するというふうに。
一般の人々には、それ以外の方法が無いのである。

他力信仰の誕生である。
それが、法然、親鸞に受け継がれて、絶対他力と、呼ばれるようになる。

源信の場合は、まだ、自力の要素があったが、法然になると、「疑いながらも念仏すれば、救われる」そして、親鸞になると、念仏申さんと、欲する時、すでに、弥陀の救いの中にあるという、妄想が生まれる。

信仰の内面性というが、また、思索の深さと言うが、妄想である。

救われがたい者という意識が、ただ、念仏によってしか、救われないという、境地に達する。

末法は、人の心を、鬱々とさせたといえる。

彼らは、もののあわれ、というものを、抱く大和心に、更に、進んで、あわれ、と儚さ、そして、たゆたいと、さすらう、人の心に、入り込んだ信仰を、創造した。

だが、歌道は、それでも、もののあわれ、というものを、見つめ続けていた。決して、念仏に、すべてを、委ねることはしない。
出家した、西行も、僧形を、取ったが、歌を詠む心は、大和心である。

この、仏教における、末法思想の只中で、新古今集、そして、西行の歌が輝く。

だが、私は、和泉式部日記から、一足飛びに、そこには、行かない。

源氏物語の、作者である、紫式部の歌を、読み、もう少し、もののあわれ、というものの、心象風景を、深めたい。
もののあわれ、における、美意識というものも、そこにはある。
物語は、語られるが、歌は、あまり知られていないゆえに、取り上げることにする。

そして、源氏物語に、入ってゆく。
そこに、もののあわれ、というものの、一つの定義が、示される。
そこから、更に、進んで、新古今と、山花集を、読む。

中世から、戦国時代に至る道は、また、人々の心を、抑鬱とさせる、時代であり、時代性といえる。

紛争、戦争の地では、多くの人が、抑鬱反応を、示すことを、知らない。
アフガンや、イラクなどでは、不眠や、抑鬱で、精神不安の人が多い。
一つの精神安定剤、睡眠薬、睡眠導入剤があれば、救われる人がいるということは、知られていない。

乱世は、また、抑鬱の時代である。
うつ病は、今にはじまったことではない。
平安期の、退廃した貴族社会の、抑鬱から、乱世の中に生きる人々の抑鬱は、薬のなかった時代、何かにすがるという意味では、念仏の効果は、大きかったと、思える。

そんな中でも、美意識としての、もののあわれ、というものを、見つめ続けた人もいるのである。

日本人の精神が、もののあわれ、というものに、貫かれていたといえる。
その、時代性、時代精神に、合わせて、もののあわれ、というものは、表現された。

華やかな、江戸元禄でも、もののあわれ、という心象風景は、表現された。

室町期は、現在言われる、日本の伝統文化誕生の時代であるが、そこでも、また、もののあわれ、というものが、表現された。
能、茶の湯、いけばな、等々によってである。

戦乱の世、戦国時代でさえ、安土桃山として、もののあわれ、は表現された。

そして、江戸太平の世でも。
更に、明治維新による、世でも。

日本人は、絶えず、もののあわれ、という、心象風景を、持ち続けた民族である。

取り急ぎ、精神的時代背景を、眺めて、みた。

歌の世界では、短歌、俳句という、定型に行き着き、そして、不定形な、短文の歌が、登場した。
山頭火や、尾崎方哉である。
その、心に、一にして、通じているものは、もののあわれ、というものである。

posted by 天山 at 00:00| もののあわれに第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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