2008年04月19日

神仏は妄想である 79

さて、道徳的な観点からして、イエスが「旧約聖書」の残忍な鬼畜よりもかなりまともになっているのは否定できない。実際イエスは、もし実在したのであれば(あるいは彼でなければ、実際に聖書を書いた誰かでもいいのだが)確かに、歴史上の偉大な倫理革新者の一人であった。
ドーキンス

私は、新約聖書のイエスに、少年時代、浸りきった者である。
イエスの言葉、つまり、新約聖書の言葉を、拡大解釈する、司祭、牧師の話を、支持していた。
ところが、イエスの言葉は、世界的に、拡大解釈して、考えられないものであると、知る。

ユダヤ教と、二千年前の、当時の、ある地域を、検証すると、それが、解る。
イエスは、日本のことを、知っていたのか。
イエスが、日本にまで、やって来たというような、お話は、楽しいものだが、それは、ほら吹き話である。

聖書を、書いた者は、日本の存在を知らない。
世界の果てにまで行き、私の言葉を、述べ伝えよ。
あの当時の地域の人の、世界というものが、如何なるものだったのか。

拡大解釈をして、世界の果てまで行き、人殺しをしたのは、誰か。

私が、キリストの絶唱を、書いたのは、イエスの奇跡を、絶対肯定した。
教祖たるものになるには、奇跡が、必要不可欠である。
今でも、病が、癒えると、ほら吹き嘘を、喧伝して、信者を集める宗教もどきが、多い。
普通のことを、言っていては、信者は、集まらない。
奇跡を起こすのである。

宗教を、立ち上げた時、教祖、及び幹部たちは、まず、伝言ゲームのように、奇跡話を、広める。
関西にある、有名教団の最初も、そうだった。
関西弁で、おもろ奇跡の話を、広めた。
なおるんやて
何が
病気が
ホンマ
ホンマ
銭かからんって
ホンマカ
ホンマ
行こ
ほな、行こか

そして、紙袋を渡されて、毎日、一円でも、十円でも、百円でも、いいから、感謝の心で、入れなさい。それを、教団に持ってゆくという、愛は地球を救うという、胸糞悪いテレビのように、金を集めた。
金は、貧乏人から、広く集めるというのが、大阪商人である。いや、近江商人か。いや、瀬戸内商人か。どうでも、ええは。

兎に角、人を集めることなのである。
人が集えば、金が集う。
どんなに、いいことを、言っても、それは、透けて見える。
それで、会館、学校、あらゆる施設を建てる。
信者は、我が教団は、と、誇るが、皆、信者の金である。
ところが、指導者、教祖を、崇めるという、愚かさ。

拝みたい、騙されたいと、いう人多く、矢張り、この世は、地獄である。
拝まれたい、騙したいという、者あり、この世は、地獄である。

山上の垂訓は時代のずっと先をいくものだった。彼の「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」は、ガンジーやマーティン・ルーサー・キングを2000年も先取りするものである。

イエスは自らの倫理を、彼の成長のよりどころとなった聖書から導き出すだけでよしとしなかった。彼ははっきりと「旧約聖書」と決別し、たとえば、安息日の掟を破ることについての怖ろしい警告を諌めた。「安息日は人間のためにつくられたのであり、安息日のために人間がつくられたわけではない」という彼の言葉は、賢明な言葉として一般化されている。本章の主要なテーマは、私たちの道徳を聖書から導き出していないし、また引き出すべきではないということだから、イエスは、まさにこのテーマを実践した模範として、讃えられるべきである。
ドーキンス

イエスの言葉が、当時画期的だったことは、安息日に行動することは、死刑なされたということである。信じられないことだが。

つまり、イエスの言葉は、当時のユダヤ教に対する、最大の挑戦であり、いずれは、殺されること、必至なのである。

これは、聖書作家の、イエスの十字架への道の、伏線でもあると、私は、見ている。

まず、人の心を、掴むには、二つの方法がある。
特に、宗教においては。
まず、既成の教えを、延長したところから、新しいものを、重ねる方法である。
新興宗教の方法である。

しかし、中には、日蓮のように、すべて否定して、斬新、新鮮な、教えを、掲げる者もいる。それでも、既成のものから、抜けてはいないのだが。

神道系の教団は、必ず、古事記からの、お話を、盗み、教団の教義、経典を、作る。
仏教系は、既成宗派の、教義を、盗む。

何とでも、言えるのだから、何とでも言う。

天理教は、天理王の命、大本教は、丑寅の金神とか。
教祖の妄想、彼らは、霊能力と言うが、それが、どこのレベルの霊能力かを、知らないのであるから、哀れである。

普通の生活が出来る程度の、狂いが必要なのである。
その、狂いが、教祖たる、資格を持つ。

そして、教祖を、見ていて、私も、教祖になって、拝まれたいと思う者が、また、宗教を、作る。
懲りない面々である。

一々例を上げるが、面倒なので、言わない。

「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」アメリカのコメディアンであるジュリア・スウィーニーは、自分のワン・ウーマン、ショー「神様さようなら」の中で、自らの困惑を次のように表明している。「それはカルトがやることじゃない? あんたに教えを授けるために、あんたが自分の家族を拒絶するようにさせるなんて? 」そのいくぶん危なっかしい家族観にもかかわらず、イエスの倫理上の教えはーーー少なくとも「旧約聖書」が倫理に関しては惨憺たるものであったことに比べてーーー賞賛すべきものた゛った。
ドーキンス

ここでも、私は、気付くことがある。
夫を、捨ててとは、出てこないのである。
男に対する言葉であるということだ。
イエスは、女を弟子にしなかった。
何故か。
以下省略。

さて、ルカの福音書では、
私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架をせおって私に従え。自分の命を救おうと思うものは、それを失い、私のために命を失う人は、それを救うのである。

明らかに、イエスの死後を経て、解釈したものであること、明々白日である。
新約聖書の、四つの、福音書は、すべて、後からの解釈により、書かれたものであることが、解る。

上記の、訳は、私が中学の頃から、読んでいた聖書である。
実に、最低の訳である。
そのせいで、私の文章も、このようになったと、思う。しかし、今更、変えられない。

さて、キリスト教徒は、旧約に、問題があっても、新約に救いがあると信じる。
しかし、新約にも、重大な、キリスト教の中心教義にある、暴論がある。
それが、パウロ神学として、現在のローマカトリックの教義を作っている。

決して、イエスの教義ではないところが、ミソである。
パウロという、イエスを知らない者が、打ち立てた教義である。

ちなみに、聖書の最初にある言葉である。

カトリック教会は、ヴァチカン公会議において、聖書を次のように定義した。
聖書は、最初普通の本のように書かれ、後に公教会の認可を得たか、あるいは、啓示された教理を純粋に含んでいるという理由のためではなく、実に、聖霊の霊感のもとにしたためられ、その著者として神をいただき、またそうした著書(霊感によるもの)として公教会にまかせられたという理由のために、「正典」として認めるものである。

上記、この感覚が、カトリックの、まとも、なのである。

支離滅裂な、暴言としか、言いようが無い。

平然として、嘯くあたりは、宗教の見本であり、手本である。

世にある、宗教の経典とは、皆々、この類なのである。

いかに、ギリシャ神話、源氏物語、千夜一夜物語が、真っ当であるかが、解る。

聖書を定義する。聖霊の霊感という。霊感とは、教会が魔と決定しているのではないか。公教会に任せられたという。誰か任せた? 勝手に、そう言うだけである。
単なる、権力により、ユダヤキリスト教徒から、奪ったものではないか。
そして、だから、正典として認めるという。何の根拠も無いのである。

明日から、私が、主イエスキリストの、唯一の、後継者であると、言ってもいいのである。

韓国の、イエスキリストの生まれ変わりだという、最低最悪の統一教会の教祖と、変わらない。金集めには、手段を選ばないという。今でも、霊感商法をもって、日本で金集めをしているのである。

話にならない。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。