2008年04月18日

神仏は妄想である 77

2005年5月8日 ロンドン・インディペイント紙
歴史的に名高いメッカ、かのイスラム教揺籃の地が、宗教的狂信者による前例のない猛攻撃によって埋もれつつある。この聖地の豊かで何層にも積み重なった歴史のほとんどすべてがいま、消えてしまおうとしている。・・・いまや、預言者ムハンマドの実際の誕生の地は、サウジの宗教権威者たちの黙認のもとで、ブルトーザーで壊される危機に直面している。宗教権威者のなかでも強硬な一派によるイスラム教解釈が、自らの遺産を消滅させることを強いているのである。・・・・

だが、メッカーーーあるいはシャルトル、コークミンスター、ノートルダムの大聖堂、シュダゴン・パゴダ、京都の寺院、あるいはもちろんバーミヤンの大仏像―――をブルトーザーで壊そうとする無神論者がこの世にいるとは、私には信じられない。ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーブン・ワインバーグが言うように、「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。ブレーズ・パスカル(パスカルの賭けのパスカルである)も似たようなことを言っている。「人間は、宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に、完璧かつ快活に悪をなすことはない」
ドーキンス


私は、ドーキンスの「神は妄想である」という本を、引用して、神仏は妄想である、を、書いている。

ドーキンスは、一神教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を、主にして、神というものの、正体を書く。
私は、それに、仏という、ものも、取り上げている。

神と、仏の違いは、神とは、完全無欠に、人間と、隔絶したものである。対立しているのである。
人間は、神の子であるといっても、決して、神には、なれないし、ならないのである。
仏は、人間が、成ることの出来るものである。
仏に成るために、仏教という、宗教がある。

しかし、その、仏教も、矢張り、仏というものを、隔絶しているのである。
仏というより、その手前の、菩薩を見ても、良く分かる。

つまり、菩薩を拝む対象としているのである。
更にまた、開祖、教祖を、拝むということもある。

極めて、一神教の要素が、漂うのである。

勿論、多くの、如来、菩薩、等々があり、それぞれが、信仰の対象になっている。
勿論、それらは、皆、人間の妄想の、産物である。
観念である。

日本の仏典の、多くを漢訳した、玄奘三蔵法師は、天山山脈を越える時に、観世音菩薩を、念じて、越えた。
だから、観世音菩薩が存在するのではない。
多く、玄奘を論ずるものは、観音様の加護により、等々の、気味の悪い話をするが、玄奘ほどの、頭脳明晰な者が、それに、迷うはずもない。

しかし、玄奘は、次に生まれる時には、観世音菩薩の元に、生まれたいと願うという、可愛らしい祈りを捧げている。

その、玄奘が漢訳した、般若経では、観自在と、訳している。
観世音と、訳したのは、クマラジューである。

死ぬ思いをしての、天竺大旅行を終えた、玄奘が、観音様を、観自在と、訳したのである。
つまり、それを、観念と知っていたということである。
故に、自らを観るところに在るものと、訳したのである。

大乗仏教を、徹底的に学んだ、玄奘は、それらを、人間の観念であると、見抜いていた。しかし、それは、方便であると、知っていた。
方便がなければ、教えは、成り立たないのである。

定義を、置かなければ、話が、始まらないのである。

方便は、定義であった。

人間の、無明を知る者、それは、無明を知らない者に、まず、対立したものを、置くことで、説教が始まると、知っている。

仏という、超越したものを、置くのである。
しかし、それは、仏陀が、教えたものではない。
仏陀は、超越したものを、認めなかった。
超越するとしたならば、それは、私である。と、気付いたのである。

更に、重大なことは、仏陀は、行為を持って、行為したのであり、その教えは、行為するものだった。
故に、人は、行為によって成るものに成るというのである。

教えは、一代で、終わるように、仏陀も、一代で、終わった。
以後、仏陀の教えは、堕落し、今、現在の如くである。

仏教の教義は、皆、古代インドの、思想を、持っての、言葉遊びである。

私が言いたいことは、宗教というもの、すべて、一神教に似るということである。
つまり、対立したものを、置いて、それに、祈る、拝むという行為である。

仏陀は、祈ったか。
静かに考え、静かに行為し、静かに、歩くのみである。

崇めるという、気持ち、心理は、古代信仰の、太陽信仰から、発している。
それは、すべての民族の元の、心情である。
崇拝するものは、太陽であった。
それの、名残が、対立した、神や仏を、置くという、宗教というものに、出来上がった。

ちなみに、宗教という観念は、キリスト教から出たものである。

侵略した、土地土地の、部族の信仰を、見た者が、キリスト教とは、違う信仰形態がある、と、それを、研究するべく、宗教という観念が出来上がった。非常に、歪なものである。
それらの、部族信仰は、発達途上のものであり、いずれは、キリスト教に行き着くと考えた。
しかし、根がアホである。
行き着くはずなどない。

要するに、キリスト教という、ものの見方、考え方しか、頭に無いから、理解出来ない。アホであろう。
人間は、自分の内に無いものは、見えない、理解出来ないのである。
宗教学というものが、他信仰の理解と、相違点を考えるものになっていったのである。

人間は、単細胞の者が多い。
一神教は、そういう人間にとって、理解しやすいものである。


この節の目的は、私たちが聖書から道徳を得るべきではないと立証することではない(私は個人的にはそう思うが)。私の目的は、私たち(そしてここにいる大部分の宗教を信じる人々が含まれる)が事実の問題として、聖書から道徳を得ていないと実証することにあった。
ドーキンス

しかし、道徳もなにも、宗教指導者たちの、傲慢な、無知振りを見れば、明らかであるが、手の付け様も無い、状態に、陥っているのである。

私は、提案する。
是非とも、精神医学の立場から、彼ら、宗教指導者の、病理を、解明して欲しいと。

あれは、病気であろう。
そう、こころの病である。

一人が、狂えば、病院行きだが、大勢が狂えば、宗教となる。
つまり、宗教とは、狂った者たちの、集団であるということである。

と、言うことは、手のつけようが無いと、判断する。

それらが、世界を、指導しているのである。

この世は、地獄である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 76

・ ・・あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を妬みといい、妬みの神である。
出エジプト記 第34章13節

そう、私はもちろん、当然のことながら、時代が変わり、今日の宗教指導者の誰も(タリバンやアメリカのキリスト教のような過激な原理主義者は別にして) モーセのように考えてはいないことを知っている。しかし、それこそが私の言いたい要点なのだ。私がここで確認しようとしているのは、現代における道徳は、それがどこに由来するにせよ、聖書に由来するものではないということにつきる。・・・・選び出した聖書の言葉を、文字通りのものではなくむしろ「象徴的な」ものとして解釈するというお気に入りをたとえ使ったとしてさえ、言い逃れるのは無理だ。なぜなら、いかなる基準によって、どの文章が象徴的なもので、どの文章が文字通り理解すべきものであるかを判断しろというのだ。
ドーキンス

象徴的なものとして、解釈する。
その通り、実に、宗教を、やる者、勝手な解釈、何とでも、言う。
そういう意味では、詐欺師の上前を行くのである。

何とでも、いえるのである。
何故か。
それが、宗教である。
妄想なのであるから、何とでも、言う。
嘘でも、そのうちに、本当のように思えてくるから、不思議である。
聞いている方ではない、言っている方である。
それを、おめでたいと、言う。

日が昇るのも、神、花が咲くのも、神、ご飯が食べられるのも、神、何から何まで、神である。勿論、何からなにまで、仏の人もいる。
しまいに、南無阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏を唱えるのであるという、禅的妄想の、言葉遊びに至り、恍惚としている様、哀れである。

悟り病というのである。
だから、仏教徒が、逝くと、仏魔の世界に行くと言われる。
頭の中で、捏ね繰り回しているから、霊的上昇など、出来ない。
三次元の少し上の方で、悟り済ましているのである。

方法を目的にしているということに、気付かないのである。

モーセの時代に始まった民族浄化は「ヨシュア記」において血まみれの成果をもたらすが、「ヨシュア記」のテキストは、そこに記録された血に飢えた大虐殺と、その模様を描く上でこれでもかと盛り込まれるよそもの嫌いの感情において注目すべきものである。魅力的な古い黒人霊歌は得意げにこう伝えている。「ヨシュアはエリコを攻めた。崩れ落ちる城壁・・・エリコの戦いにおける古のヨシュアにかなうものなんていない」古のヨシュアは、イスラエルの民が「男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽く」すまで、休むことがなかった。
「ヨシュア記第6章21節」

驚くべき、民族浄化であり、これを、真っ当に読んでいるとしたら、イスラエルが、神に与えられた土地ということで、軍事行動を起こすことが、理解できるというものである。

本当に、聖書を理解すべきである。
何が、書かれているのか、である。

肝心なのは、真実であろうがなかろうが、聖書が私たちの道徳の源泉として引き合いに出されることである。そして、聖書のヨシュアによるエリコの破壊や約束の地全般への侵略の物語は、道徳的には、ヒトラーのポーランド侵略やサダム・フセインによるクルド族やマーシュ・アラブ族の大虐殺と区別しがたいものである。
ドーキンス

日本の古事記には、日本が世界の中心の、中津国であるから、他の国は、皆、日本に恭順しなければならないのである、と言ったら、どうなるか。
気違いである。
我らの神、天照大神を、拝せよと、言ったら、アホである。

どうであろうか。
こうして、比べると、良く分かる。

排他的、非寛容の、聖書の記述は、恐るべき、蒙昧である。

世界の三代書物に、聖書、コーラン、仏典と、挙げられるが、全く、誤りである。
ギリシャ神話、源氏物語、千夜一夜物語であろう。

ついでながら、この物語における「神」という人格が、約束の地の占領にともなう大虐殺や民族殲滅について、何らかの疑念や罪の意識を抱いていたとは思わないでほしい。逆に、たとえば「申命記」第20章における神の命令は、情けのかけらもなくあけすけである。彼は彼自身にとって必要な地に住んでいる人間と遠く離れたところにすんでいる人間を明確に区別した。後者は平和的に降伏するように勧告しなければならない。もし拒絶すれば、男は殺し、女は繁殖のために連れ去られ。この比較的人道的な扱いと対照的に、あまりにも不運なことは、すでに約束された生存圏に定住してしまっていた部族にいったいどんなことが用意されていたか、見るがいい。「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、エプス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさなければならない」
ドーキンス

スペインが、平気で、南米にて、一億人を殺す。
アメリカインディアンを、殺して、建国する、等々の、意味が分かるというものである。

私を愕然とさせるのは、現在でも人々が、ヤハウェのような怖ろしい役割モデルを生き方の基盤にしているということであり、こちらはもっと始末におえないことだが、彼らがその同じ邪悪な怪物(事実であれフィクションであれ) を、残りの私たちに居丈高に押し付けようとするにちがいないことである。
ドーキンス

どんなに、穏健な宗教家によっても、それらを、止めることは出来ない。
穏健な、宗教家も、元は、それから、発しているのである。
穏健は、それらの、過激な原理主義を、やんわりと、後押しするということである。
それは、実に、また、怖ろしいことである。

世界各国に、穏健な宗教家たちが、福祉や、ボランティア活動を通して、教えを広めている。そして、その原動力は、邪悪な人格を、持つ、主なる神なのである。
その、神の名を述べ伝えるための、活動である。

本人たちも、羊のようにと、思うが、皮を剥ぐと、狼なのである。
しかし、本人たちも、それに気付かない。

核兵器以上に、危険な武器を、持つと知らずに、善意を行うという。

その国、地域の伝統を、破壊し、そして、邪悪な主なる神の教えを、伝える、所業は、悪である。

日本人が、世界各地に行き、ボランティア活動をしても、決して、天照大神を、伝えるものではない。
まして、何かの、イデオロギーを伝えるものではない。
それを、思えば、単なる金儲けと、見られる活動も、甘いものである。
金で、片をつけるのである。
惨殺、虐殺など、頭に無い。

いかに、表面を、装っても、これで、大元が、解られたということである。

末端の宣教師たちは、きっと、信仰の情熱に駆られて、宣教活動を、繰り返したのであろうが、その後は、見て御覧の通りである。
虐殺、虐殺、また、虐殺である。

最初は、羊が来るが、後で、狼が来る。

最も、罪深いものは、宗教指導者、それらである。
手を汚すことなく、悪行の限りを尽くす。

霊界には、天国も極楽も、地獄も無いが、できれば、地獄というもの、彼らのために、開かれて欲しいと願う。

宗教の開祖、教祖は、多く、ナメクジのように、霊界で、這っているが、それだけでは、済まされないということを、私は、願うものである。

ちなみに、私見であるが、この世は、地獄である。
見て御覧の通りである。


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