2008年04月17日

神仏は妄想である 75

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって言った。さあ、われわれの先に立って進む神々をつくってください。エジプトの国からわれわれを導き上がった人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。
出エジプト記 第32章1節

人々が、山に触れると、死刑になる、その山で、モーセは、神と語らい、二枚の石版を得ていた。神の怒りに、触れず、神に近づくことが、できるのは、モーセ一人である。

アロンは、人々に、金を集めさせて、それを、溶かして、金の子牛を作った。人々は、それを拝んだ。

そう、人々はそのように神に背を向けるなどという馬鹿なことをしないだけの分別をもっているべきだった。神は山の上にいたかもしれないが、結局のところ全能であり、即座にモーセを執行人として送り出した。モーセは、神が十戒を書き記した石版を手に持って、大急ぎで山を駆け下った。麓に到着し金の子牛を見たとき、彼は怒りに燃えて石版を投げ打ち、砕いた(神はのちに代わりのものを彼に与えた)。モーセは金の子牛をつかみ、火で焼いて粉々にすりつぶし、それに水を混ぜ、人々にそれを呑み込ませた。それから、聖職者の部族であるレビに属するすべての人間に対して、剣を執り、できるかぎり多くの人間を殺すようにと告げた。殺された人間の数は三千にも達し、これだけ殺せば、嫉妬に駆られた神の不機嫌をなだめるのに十分ではなかったのかと思う人もいるかもしれない。しかしちがった。神はそれだけではすまさなかった。この怖ろしい章の最後の一節で下された神の最後の一撃は、「民が子牛を、アロンにつくらせたから」という理由で、残った人々に災厄をもたらすことだった。
ドーキンス

「民数記」は、神がモーセにどのようにしてミディアン人を攻撃するように仕向けたかを述べている。彼の兵たちは、あっという間にすべての男を虐殺し、ミディアン人のすべての町を焼いたが、女と子供は殺さなかった。部下の兵たちがこのように慈悲深い自制をはたらかせたことにモーセは激怒し、すべての男児と、処女でないすべての女を殺せと命じた。「女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい」第31章18節。

不幸なミディアン人は、聖書の記述から言える限りにおいては、自分の生まれ育った国で虐殺された犠牲者であった。
ドーキンス

キリスト教徒よ、見えるか
聖地にいる彼らが
どんなふうに、ミディアン人の群れが
うろつきまわっているか
キリスト教徒よ、立ち上がり、彼らを討て
勝利を考え、敗北を思うな
彼らを打ち倒せ
聖なる十字架の霊験によって

ああなんということか、中傷を受け虐殺された哀れなミディアン人が、ヴィクトリア朝時代の賛美歌で、普遍的な悪を象徴する詩的表現としてのみ記憶されるとは。
ドーキンス

一体、何事か。
何故、なにゆえに、彼らは殺されたのか。
部族、民族、拝む神が違うからか。
異教徒は、殺す、殺せということか。

これか、果たして、道徳の、基本になるものだろうか。

成るわけが無い。

自分に取って代わられるかもしれない神に対してヤハウェが狂気のような嫉妬を繰り広げる悲劇的な茶番劇は「旧約聖書」を通して繰り返し何度も現れる。
ドーキンス

そして、驚くべきことに、神は、自分で言う。
主はその名を妬みといい、妬みの神である。

これで、この神の正体が、解るというものである。

ここ、ここに至ると、何も言葉が無い。

キリスト教徒、マジ、なの、ホント。
全知全能の神。
誰のこと。

在って在るものである。

何とでも、言える。

すべての、神と名を置く宗教は、この程度である。

ちなみに、日本の、教派神道という、新興宗教も、神という言葉を使用する。
例えば、天理、金光、大本等々、である。
神、カミという、言霊を、知らない者が、カミを、言うから、笑う。
大本は、言霊学を、立てたというが、邪霊、悪霊の、類から聞いた言霊の、説明をしても、解るわけが無い。

出口王仁三郎というが、鬼三郎の、間違いであろう。
確かに、巨人であった。誇大妄想の、巨人である。
出口ナオに懸った神と名乗る、その正体を知らないのである。

多くの人、出口に、相当な感激をしているが、性格異常である。
強烈な、精神の狂いによる、霊的能力を、発揮して、人々の心を掴んだといえる。

今でも、大本教を、古神道と思う人がいるようだが、古神道は、開祖、教祖無く、教義も無い。
宗教組織を作るということ、自体に、古神道という、目覚めがないのである。

古神道とは、伊勢神宮である。
勿論、今は、神社本庁という、宗教法人が、何やら、当たっているが、元々、古神道であるから、本来は、関係ないのである。
あるとすれば、天皇陛下のみである。

誇大妄想は、宗教家の、独断場である。
主観のみであり、全く、客観というものがない。
精々、悪霊、邪霊の類で、奇跡めいたことを、行い、人を撹乱させる程度である。

神は、奇跡を、起こさないと、相場が決まっている。

神と名乗るほどの、馬鹿でなし、ということである。本当は。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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