2008年04月15日

神仏は妄想である 73

ロトのおじのアブラハムは、三つの「偉大な」一神教すべての始祖である。家父長的な地位にあるアブラハムの場合、神に比べていくぶんではあるが役割モデルとして受け止めづらくなっている。しかし、どんな現代の道徳家が彼に従いたいと望むのか? 長い生涯の比較的早い時期に、アブラハムは飢饉を耐え忍ぶために、妻のサライとともにエジプトに行った。彼は妻のように美しい女性はエジプト人が自分のものにしたがり、そのために夫である自分の命が危険にさらされるかもしれないことに気付いた。
ドーキンス

以下、長くなるので、私が、簡潔に書く。

そこで、アブラハムは、妻を、妹として、偽らせる。
サライは、ファラオのハーレムに入り、その結果、アブラハムは、ファラオの寵を受けて、金持ちになる。当然、妻は、女として、扱われた。
神は、その馴れ合いを、許さず、ファラオと、その家に、疫病を与えた。
ドーキンスは、何故、アブラハムにではなく、ファラオにかと、疑問符である。

当然、憤慨したファラオは、何故、嘘をついたのか、訳を知りたいと言う。
サライを、アブラハムの元に返して、二人を、エジプトから追放した。
これは、創世記の、第12章にある。

そして、また、同じことを、ゲラル王アビメレクの時代に、行う。
創世記、第20章にある。

よく似た、記述は、テキストが信用できないものではないかと、ドーキンスは言う。

アブラハムの物語におけるこのような不愉快なエピソードも、彼が自分の息子イサクを犠牲にした悪名高い物語(イスラム教の聖典も、アブラハムの別の息子イシュマエルについて、同じような物語を述べている) に比べれば、ほんの微罪でしかない。神はアブラハムに、久しく待ち望んで生まれた息子を焼き尽くす献げ物として供えるように命じた。アブラハムは祭壇を築き、薪を並べ、イサクを縛って薪の上に載せた。そこへ天の使いが劇的に登場し、土壇場の計画変更の報せをもって割ってはいる。
ドーキンス

この物語は、私が、カトリック教会に、通っていた時に、アブラハムの信仰の深さということで、何度も、毎年、少なくても、一度は、聞かされていた。

太祖の一人としての、アブラハムは、聖人を超えた、神に近い人物の一人だった。
クリスマス前の、待降節という、四週間にわたる、時期の最初の人物が、アブラハムである。

ちなみに、ムハンマド、イスラムの開祖も、このアブラハムの信仰に、回帰することを、掲げて、イスラムを、作った。
私の、イスラムについて、を、参照してください。

結局のところ、神はたわむれにアブラハムを「誘惑」し、彼の信仰を試していただけだった。現代の道徳家なら、子供がそのような心理的トラウマからどうしたら回帰できるのかという危惧を禁じえない。現代の道徳基準では、このような恥ずべき物語は、児童虐待の実例であると同時に、二つの非対称的な力関係の板ばさみとなって起こったイジメの実例でもあり、「私は命令に従っていただけです」というニュンルンベルク裁判の弁護記録に残る、有名な台詞の最古の用例である。なのにこの伝説は、三つの一神教すべてにおいて、偉大な基本神話の一つとされているのである。

・ ・・もう一つは、もし文字通りの事実ではないとしたら、この物語を私たちはどう受け止めるべきなのか、ということだ。寓話として? だとすれば、何のための寓話なのか? 称賛すべきことではないのは確かだ。道徳的教訓として? しかし、この恐るべき物語からいったいどんな種類の教訓が引き出せるというのだ。思い出してもほしいのだが、いまここで私たちが確認しようとしているのはまさしく、事実の問題として、聖書は道徳の根拠や手本ではないということにほかならない。
ドーキンス

そして、もし、聖書の中から、道徳的なものを、取り出すとしたら、何か、独立した基準が必要だという。
その基準は、聖書から、くるのではなく、私たち、すべてが利用できる、規準であろうともいう。

追い討ちをかけるように、ドーキンスは、次の物語を、言う。
士師記、第11章である。

軍隊の指揮官エフタは、もし神がアンモンの人々に対する勝利を、保障するならば、「私が帰ったとき、私の家の戸から出てきて、私を迎えるものは誰であれ」その者を、焼き尽くす捧げ物として、必ず捧げるという誓いをする。
そして、非常に多くの人を、殺して帰った。
出迎えたのは、一人娘だった。
娘は、それを、承諾したが、処女であることを、嘆くために、二ヶ月、山に入ることを願う。そして、二ヵ月後に、父親によって、焼き殺される。

このような、野蛮な物語は、聖書以外に無いと、言ってもよい。

罪の無い者を、生け贄にするという、根性は、どこからのものか。

ここでも、女は、焼き殺されるが、男は、残るということである。
これは、私の見解である。
女は、家畜と同じ扱いなのである。
これが、不思議でしょうがない。

この、神もどきは、女嫌いで、同性愛を、憎むのである。
何故。
心理学では、答えられるはずである。

大量虐殺の話が、あまりに多いのも、気になる。

そのまま、司祭や、牧師の話を信じているうちは、いいが、矢張り、どこか、おかしいと気付く時、それを、宗教家は、信仰の、揺らぎだと言う。また、信仰が、確固たるものになっていないと、言う。

実は、疑問を、持つことが、通常の神経である。
疑問を、持たずにいると、簡単に、テロリストになる。

スペインが、カトリックの名で、南米で殺した人の数は、一億人である。
清教徒が、アメリカインディアンを、殺しつくして、アメリカを、建国した。
大量虐殺が、当たり前なのである。

オーストラリアでは、アボリジニの、先住民族を、無きものにしようとしたが、生き延びている。
漸く、今年、オーストラリア政府は、アボリジニに対して、謝罪した。
謝罪して、許されるものではないが、謝罪した。
何もとりえの無い、オーストラリアは、アボリジニ文化を持って、オーストラリアだといが、現在、アボリジニに対する政策は、実に、みすぼらしいのである。
聖書を、奉ずる民族の有り様を、見る、思いがする。

自戒を込めて、日本の場合を見る。
琉球に対する、薩摩藩の有様は、琉球を、地獄に突き落とした。
沖縄である。
アイヌに対する、和人の有様は、どうだったか。
無情な差別である。
しかし、皆殺しは、なかった。
それでも、対応は、甚だしく、無礼なものだった。

生殺しも、切ないものである。
日本は、謝罪外交で、有名であるが、琉球と、アイヌに対する、謝罪は、聞いたことが無い。

勿論、謝罪して、済むことではない。

沖縄や、アイヌの人が、独立したいと言えば、独立させるべきである。
沖縄と、北海道を、返すといい。

限りなく、不可能ではあるが、その位の、気持ちを、持っていいと、思う。

さて、聖書である。
野蛮極まりない、記述の多い、書物であるということ。
道徳の、規準など、見いだせないということ。

自分の選んだ民がライヴァルの神に気を引かれたときにつねに見せる、神の途方もない激怒は、恋愛における最悪な種類の嫉妬とこれ以上はないというほどよく似ており、現代の道徳家に、これは到底役割モデルにはできないという印象を与えるにちがいない。
ドーキンス

続けて、旧約聖書を、検証してゆく。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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