2008年04月14日

神仏は妄想である 72

ロトの二人の娘は、この物語で少しだけ再登場する。母親が塩の柱に変えられてしまったあと、二人の娘は山に登って洞穴で父親と一緒に暮らしていた。男に飢えた娘たちは、父親を酔わせて、彼と交接することを決めた。ロトは、姉妹が彼の寝床に入ってくるのも出ていくのにもまったく気付かなかったが、妊娠させることができないほど酔っ払っていたわけではなかった。次の夜、二人の娘は、次は妹の番であることで意見が一致した。今度もまたロトは酔っ払っていて気付かなかったが、妹も妊娠させた。もしこの異常な家族が、徳の手本として選び出しうる最良のソドム人であったとすれば、神と彼がソドムの町に与えた天罰の業火にある種の共感を抱きはじめる人がいるかもしれない。
ドーキンス

母親が、塩の柱になったのは、ソドムから逃げる時に、後ろを振り返るなという、命令に、背いたからである。
それで、主なる神は、彼女を、塩の柱にしたという。
一体、何故。
女だったから ?

後で、出てくるが、女は、異教徒の女でも、いいのである。
処女であれば、生かして、子供を産ませる。
家畜同然であるからだ。

しかし、女は、異教徒の男と、寝るくらいなら、近親相姦をするのである。

だが、

道徳上の正しさに関する霊感源として聖書を引き合いに出す人は、そこに実際に何が書かれていることを少しでも考えたことがあるのだろうか? 「レビ記」第20章によれば、次のような罪を犯したものは死刑に値する。すなわち、両親を呪う者、姦淫する者、義母または義理の娘と寝る者、同性愛者、女とその娘とを一緒に娶る者、獣姦する者(そして、不運な動物のほうも、泣きっ面に蜂のこどく、殺されなければならなかった)である。もちろん、安息日に働いた者も処刑された。この点は「旧約聖書」全編を通して、繰り返し何度も述べられている。
ドーキンス

そのように、何度も、述べられているということは、そういう者が、多数いたということである。

そして、驚くべきことは、その罪の対象は、皆、男であるということ。
女は、無いのである。

ロトの娘たちは、罪を、犯すも何も、数のうちに、入らないのである。

女性蔑視ではない。
女性、無視である。

これ以上、何を語ることが、あるだろうか。

だが、女性蔑視は、何も、ユダヤ、イスラム、キリスト教だけではない。
仏陀も、女人救い難しと、言う。

女は、男より、一段も二段も、三段も、四段も、五段も、限りなく、低い地位にある。
何故だろうか。
仏陀も、王子の頃は、女の体を、味わい尽くしたのである。
選り取り緑、糞緑まで、女を、セックスの道具として、扱ったのである。

そして、人生の無常を感じ、出家する。

実は、これを、いい気なものと、言う。

仏陀の、一族は、皆、滅ぼされるのである。
自業自得であろう。

日本の神道も、女は、穢れたものという意識がある。
唯一、古神道だけは、伊勢神宮の、斎女を見ても、お仕えするのは、女である。

私の知る限り、古神道、民族伝統宗教にのみ、女に対する差別はない。

バリ島ヒンドゥーなどは、生理の時だけ、礼拝を、遠慮する程度である。
タイ、仏教も、然り。
アボリジニの、儀式は、男の儀式、女の儀式と、明確に区分けして、行う。
両方、同じ重要さである。

掟は、何故、作られるのか。
それを、行う者がいるからである。
旧約時代は、実に、上記に書かれている罪を、犯す人がいたということが、理解できる。

同性愛者という時は、男のことに言える。
何故、女蔑視、無視なのに、同性愛を、嫌うのかは、簡単である。
支配者の、都合である。
同性愛を、容認すれば、支配に、支障が出る。
彼らが、団結すれば、とてつもない、勢力を、持つと、知っているのである。

今でも、一神教が、ゲイを、毛嫌いするのは、支配者の都合である。

聖書以前の、古代の、司祭たちの多くは、同性愛者が多い。
何故か。
特別な、存在として、認められていた。
それでは、聖書の神の、支配が、真っ当できないのである。

雁字搦めの、支配をするべくの、同性愛、嫌悪である。
そして、女性の能力の高さを、見抜いた者が、女性を、貶めた。

どこに、旧約聖書に、道徳の原理を、見いだすことが、できるのか。

余談である。
男の、戦闘意識、戦闘能力を、最大限に生かすのは、飢えである。
あらゆる飢えである。
同性愛を、承認すれば、戦闘意識が、薄らぐのである。

満たされぬ、性欲の捌け口を、戦闘能力に、生かすべくの、ゲイに対する嫌悪である。

だが、アレクサンダー大王に、見るように、同性愛によって、団結を、絆を、堅くした集団は、最強にも、なる。
それを、怖れる。

聖書の神とは、人間である。
もっとも、人間の、愚かさと、儚さを、持った、人間を、神とするのである。
ドーキンスに、言わせると、もっと、酷い言葉になる、のだが。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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