2008年04月13日

神仏は妄想である 71

私は二度と人ゆえに大地を呪わない。人の心は若いときから悪に傾いているからである。私は、もう二度とすべての生き物を滅ぼすようなことはしない。地のあるかぎり種まき時と取り入れ時、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜は、やまないであろうろ。

ノアの洪水の後に、神が、彼らに言う言葉である。

大地は、自分が作ったものである。
更に、人は若いときから悪に傾くと、言う。
これが、罪の意識である。

そして、神は、ノアと、その息子たちを祝福して、言う。

生めよ、増えよ、地に満ちよ。野のすべての獣、空のすべての鳥は、地をはうすべてのものと海のすべての魚とともに、おまえたちを恐れおののくだろう。これらはおまえたちの手に渡される。

これが、自然支配の、根拠となる。

自然を支配するという、傲慢は、ここから、きている。

ちなみに、日本の伝統である、自然との、共感、共生という、考え方は、全く、見当たらない。

食べ物、それ自体に感謝する、日本民族と、神に感謝する民族の、大きな違いが、ここにある。

さて、創世記を、ドーキンスと、読んでゆく。

ノアの箱舟に匹敵する大事件といえる、ソドムとゴモラの破壊において、格別に正義漢だという理由で選ばれて家族ともども許されたのが、アブラハムの甥ロトであった。二人の男の使いがソドムに遣わされ、ロトに向かって地獄の業火がやってくるまえに町を出るように警告した。
ドーキンス

ソドムと、ゴモラは、有名な、悪の、罪の人々の、町と言われる。
特に、同性愛に関しての、差別は、ここから、強く始まった。
ソドミーといえば、同性愛者のことを言った。
不品行の町である。

ロトは使いを家に招き入れもてなしたが、ソドムじゅうの男がまわりに集まり、使いの者を強姦してやるから(ソドムだけに当然か?) その男をさしだせ、とロトに迫った。「今夜おまえのところにきた男たちはどこにいるのか? そいつらをここに出せ。われわれはその者を知ることになるだろう」そうなのだ。「知る」というのは欽定訳聖書でいつも使われる歪曲な意味(性交する)をもっており、この文脈では非常に可笑しいものである。ロトがこの要求をはねつける勇気をもっていたことから考えて、彼がソドムでただ一人の善人として神によって選び出されたとき、神は何か知るところがあったのかもしれない。しかし、ロトの勇敢さは彼が要求をはねつけるときにつけた条件で色あせてしまう。
ドーキンス

少しの説明が、必要である。
旧約聖書の、女性観である。
実に、仰天するような、女性観が、至るところに、表れる。

そして、ドーキンスとは、別の見方から、私は、同性愛について言う。
古代、同性愛は、ギリシャのみならず、実に、神聖な行為の、一つであった。
残されている、絵画でも、古代エジプト時代の、男性の交わりが、描かれる。

メソポタミア文明の、担い手も、同性愛者による。
しかし、それで、同性愛者が、優秀だと、誤解されては困る。

まだ、男女に、関する、意識の未分化だった頃の、男女の関係というものを、冷静に、検証して欲しい。
男女は、別物だったのだ。

未開部族では、少年が、一人前の男になるために、年長の男と、一時的に、愛情関係、つまり、性交の関係を持つという、風習がある。
極端なことを、言えば、年長の男の精液を、飲むことで、一人前の男になると、考えた。
それを、野蛮とか、無知とか、言えるものではない。

人類は、試行錯誤を、繰り返して、現在の男女関係をも、築いてきたのである。

アフリカの、一部では、大地と、男が性交して、豊穣を祈るという行為もあった。
大地に、精液を、蒔くのである。

それらに関して、善い悪いという判断は、出来ない。

さて、ロトの話である。

「どうかみなさん、乱暴なことはしないでください。実は私には、まだ男を知らない二人の娘がおります。あなたがたに娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから」

聖書の、女性蔑視の、甚だしいことを、ここで、知る。
このような、記述が多く、真っ当に聖書を、読むと、とんでもない、女性差別を生むのである。

女は、子供を産むための、家畜同然の存在であり、当然、真っ当な感覚での、交わりは、同性愛の行為にあると、考えられるのである。
考えられたと、いってもよい。

現代感覚では、計り知れない、古代感覚である。

この奇妙な物語がほかにどんな意味をもつにせよ、聖書に描かれた著しく宗教的な文化において、女性に払われる敬意について何ごとかも語っていることは確かである。結局のところ、ロトの娘の処女を安売りする必要はなかった。というのは、使いの二人は奇跡の力で打ち据えて男たちの眼をつぶし、襲撃者たちを撃退することに成功したからである。
ドーキンス

旧約聖書の、女性蔑視を、徹底させているのが、イスラムである。
これで、イスラム圏の、女性たちの、置かれている立場を、理解できる。

女は、家畜と、同じであるから、何人持っても、いいのである。
そして、同性愛は、神が嫌うゆえに、徹底的に、差別し、殺すのである。

ドーキンスは、また、

この、ロトとソドムの人々の物語は、「士師記」第九章において奇妙な形で再現されることになる。こちらの物語では、名の無いレビ人が側女(妾)と一緒にギブアに向かって旅をしている。彼らは親切な老人の家出一夜を過ごした。彼らが夕食を食べているとき、町の人々がやってきて家の戸を叩き、老人にその男の客を渡すことを要求した。「そうすれば、われわれがその者を知るであろう」。老人は、ロトと同じ言葉でいう。「兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。・・・ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思い通りにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない」。ここでまたしても、女性蔑視的な精神が声高に、明瞭に表明されている。
ドーキンス

何故、男には、相当な敬意を、払えというのか。
聖書で、人を言うときは、男のことである。
人とは、マンなのである。

レビ人は、側女を、差し出し、結果、側女は、強姦され、死ぬ。
更に、レビ人は、実に冷酷に、女を、十二に切り離して、イスラエルの全土に送るという。

寛容の心をもって言うが、これもまた、聖書のいたるところに見せれる奇妙な記述の一つなのだ。この物語はロトの物語とあまりに似ているので、写本のある断片が事故によって、どこかの久しく忘れられてい写字室で、場所をまちがえられてしまったのではないかという疑いを禁じえない。聖典の来歴に一貫性が見られないことの例証である。
ドーキンス

一貫性が、見られないが、最初に男を、要求する。そして、男には敬意を、払い、女を、差し出し、女は、強姦されて死ぬ。
更に、男たちは、男を、知るというのである。
同性愛行為を、求めるが、それが、叶わず、女を殺すほど、犯すという。
何か、ここに、重大な問題と、秘密が隠されてある。

私は、当時、神が嫌いな、男性同性愛行為が、通常にあり、女性に対しては、驚くほどの、蔑視があったと、考える。
これ以上書くと、論旨が、変わるので、省略する。

ドーキンスは、明確な、女性蔑視と、聖書に、一貫性が見られないことを言う。
つまり、聖書は、神からのものではなく、人間ものであり、それも、大きな誤りのあるものであるということだ。
奇妙な物語という言葉は、そのまま、奇妙と、受け取っていい。

簡単に言えば、何故、これが、聖典なのであるのか、ということだ。

しかし、驚くべきことは、これからである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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