2008年04月12日

神仏は妄想である 70

公正のために言えば、聖書に書かれたことのほとんどが首尾一貫して悪いものだ、というわけではない。しかし、私たちには縁がなく、お互い同士も交流のない何百人という無名の著者、編集者、書写生によって九世紀にわたって編纂、改訂、翻訳、歪曲および「改善」されてきた支離滅裂な文書を、雑然と寄せ集めてこしらえ上げた集成であることから予想される通り、聖書は奇妙としか形容のしようがない書物なのである。こうした来歴を考え合わせればたしかに、聖書の純然たる奇妙さのいくつかは説明できるかもしれない。しかし遺憾なことに、熱狂的な宗教信者が私たちの道徳と生き方のルールにかんするまちがいのない典拠として掲げるのが、この同じ奇妙な書物なのだ。
ドーキンス

ところが、カトリック司祭の、書くことは、以下の通り。

キリスト教と他宗教との著しい相違点は、聖書が神の啓示であるという点にあります。人間の知恵では、はかり知れない神の奥義の一部分、すなわち神のみ心の感じ方、神の考え方、行動の仕方などが聖書を通して人間に明らかに示されたのです。

勝手な解釈、勝手な想像であることは、間違いなし。
コーラン、仏典は、それでは、何かということになる。
皆、それぞれが、勝手な解釈、勝手な妄想で、何やら言う。

他宗教との著しい相違点は・・・
とんでもない、誇大妄想である。

他の、経典は、神のものではない。
当然である。
聖書の神は、キリスト教、中でも、カトリックのみに、与えられたと、解釈する、支離滅裂である。

彼は、聖書の民は、教会であると言う。
つまり、教会が、神に選ばれた、民であるというのである。

こうして、自己催眠、自己陶酔して、どっぷりと、妄想に漬かり、更に、人に、それを、説くという、傲慢である。

彼らが、神というモノ、どんな、モノなのかを、聖書を検証してみる。
案内は、ドーキンスである。
まず「創世記」の非常に好まれているノアの物語から始めよう。この話はバビロニアのウトナピシュチィム神話に由来し、いくつかのさらに古い神話でも知られている。動物が二頭ずつ箱舟に乗せられるという伝説は魅力的だが、ノアの物語に込められた教訓は唖然とさせられるものだ。神は人間をあまりよく思っておらず、そこで(一家族だけを例外にして)子供を含めた多数の人間を溺死させた、というのだから。
ドーキンス

いずれにせよ、学識ある神学者の善意にもかかわらず、驚くほど多くの人間がいまでもなお、ノアの物語を含めて聖書を文字通りに受け取っている。・・・
また、2004年のスマトラ沖地震による津波が、地殻プレート運動のせいではなく、バーで酒を飲んだりダンスをしたりしたことから馬鹿げた安息日の規則を破ることにまでいたる人類の罪のせいだと非難したアジアの聖職者たちの多くも、そうであるのは疑いない。ノアの物語が頭に染み付き、聖書以外の知識をまったく知らなければ、誰が彼らを非難できよう? 彼らの受けた教育全体が、自然災害を、プレートテクトニクスのような非人格的なものよりもむしろ、人間界の出来事と密接に結びついたもの、たとえば人間の品行不良の報いとみなすように仕向けられてきたのである。

更に、続けて

ついでながら、神(あるいは地殻プレート) が起こすような規模で地球を揺すぶるような出来事が、つねに人間と結びついていなければならないと信じるというのは、なんという思い上がった自己中心性だろう。創造と未来のことを気にかけている神が、なぜ、ちっぽけな人間の不品行などという些細なことを心配しなければならないのだ? 私たちは、人間だからこそ、たとえ宇宙的な意義のレベルではないほんの小さな「罪」でしかなくとも、そんなに大袈裟にもったいぶるのだ !


2005年の、カトリーナ台風の時に、ニューオリンズの町が、洪水によって、壊滅的な被害を、受けた。
アメリカで、もっとも、有名な、テレビ伝道師パット・ロバートソン牧師は、この台風を、たまたま、ニューオリンズに住んでいた、レズビアンの、コメディアンのせいだと、非難したという。

この程度の、頭の持ち主が、有名牧師である。

無知蒙昧を、曝け出すが、知らないものは、知るはずがない。
こういう者を、聖書原理主義という。
要するに、聖書しか、知らない。他の、知識と、教養は、何も無い。

更に、驚きは、こういう者が、多くの人に対して、説教を、繰り返しているという、事実である。

そして、更に、驚きは、神に代わって、人を、裁くのである。
何ゆえ、そのような、傲慢な、思い上がりを、持てるのか。
神の側にいるという、妄想である。

寄せ集めの、聖書が、神のお考えであり、教えであるという、神経は、ただ事ではない。

更に、聖霊とまで、言う。
聖霊に導かれた、霊感によると。
霊感を、悪魔のものだと言うのは、誰か。
教会であろう。
しかし、教会の中での、霊感は、聖霊なのである。

私の霊学から、言う。
聖霊の霊感は、魔界の霊の仕業である。
と、こういう、私も、妄想のもの、更に、彼らからは、悪魔のものと、言われる。

ゆえに、私は、霊感という言葉を、使用しないようにした。
感受性という言葉に、置き直す。

支離滅裂な、お話を、神のものであるという、根性は、正に、魔のものであろうが、それを、知ることはない。
信じると、完璧に騙される。
更に、強迫的に、信じる行為に、没頭する。

知性を、持たない、信仰、感性を、磨くこと無い、信仰、そして、理性の行為を、捨てる信仰である。

人間の、すべての、資質を、神という、妄想に、明け渡すのである。
人間の、尊厳とは、何か。
人間性とは、何か。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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