2008年04月11日

神仏は妄想である 69

聖書が道徳ないし生き方のルールに関する典拠となる道筋は二つ考えられる。一つは、たとえば十戒を通して、直接に指令することによってで、アメリカの後進地域で繰り広げられる文化戦争において、きわめて激しい争いの主題である。もう一つは、お手本として、すなわち、神あるいは聖書に出てくる誰か他の人物がーーー現代風の業界用語を使えばーーー役割モデルをつとめるのである。この聖書を生き方の指針とする二つの「道」を、もし宗教的に(この副詞は、比喩的な意味で用いられているが、その起源を視野に入れている)たどっていくならばどちらも、宗教を信じているかいないかを問わず文明化されたあらゆる現代人が、醜悪―――これ以上に穏当な言い方を私はできないーーーと感じるような道徳体系を推奨することになるだろう。
ドーキンス

さて、そこで、キリスト教では、聖書を、どのように、捉えるか。
1965年11月18日のバチカン公会議で可決承認された「神の啓示に関する教義憲章」11章でこういっている。

聖書に含まれ、かつ示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものである。・・・
神は、聖書の著作にあたって、固有の能力と素質をもった人間を選んで、これを使用した。それは神が彼らの内に、また彼らによって働く間に、彼らは、神が臨むことをすべて、そしてそれだけを、真の作者として書くためである。・・・したがって、聖書は、神がわれわれの救いのために書かれることを望んだ真理を堅く、忠実に、誤りなく教えるものと言わなければならない。

まず、誰が、可決承認すれば、それが、正しくなるのだろうか。
神の言葉を、可決承認するという、傲慢であろうが、気付かない。

そして、憲章の言葉にある、聖霊の霊感によって・・・カトリックは、それらを、悪魔の仕業として、承認したではないのか。
聖霊の、云々を、誰が、承認するのであるのか。
聖霊の仕業であると、承認するという、傲慢である。

宗教家というものは、勝手な解釈の、大好きなものであるから、何とでも言う。
これに、解説として、日本の司祭が、付け加える。

人はただ神のオルガノン(道具)となって、神のみことばを聖霊の導きのままに文字で表現し、それを編集したにすぎません。霊感とは、神がまず編集者の心を動かして執筆の意欲を起こさせ、次に編者の知覚や心や知恵を照らして、ご自分が伝えようとお望みになることを知らせ、最後にこれを忠実に書きとめさせ、書いているうちにまちがわないように絶えず筆の動きを導いたという一種のインスピレーションであります。

上記、支離滅裂なものである。

要するに、信じなさいと、言うのである。
信じてしまえば、それで、よし。

何とでも言える、典型である。

更に、本当に旧約聖書を、読んでいるのかと、思わせる、記述である。

また慈悲深い神は、全人類の救いを切に望んで、これを計画かつ準備し、アブラハムやモイゼを通して神の民と契約を結び、ことばとわざをもって、ご自分を啓示し、人びとを約束の地に導き、保護したのです。

慈悲深い神。
聖書の神は、全く、慈悲深くない。
全人類の救いとは、何か。
約束の地に、導きというが、未だに、そんなことは、無い。

完璧に、頭を、やられている。
架空の、お話より、悪いのである。
妄想。
信じ込むと、このように、無明になる。

すべての、宗教に言えるのである。
例えば、日本、仏教の、お話。
極楽に、いらっしゃる、お釈迦様。
霊界に、極楽などないのである。
適当に、言うのである。

言う、自分たちも、よく解らない、地獄、極楽を、説教して、成仏するかしないか、解らないが、信者には、成仏を、解くのである。

更に、悪いことは、開祖を、拝む。
開祖が、霊界の、どこにいるかを、知らず、拝むという、愚行である。

もっと悪いことは、何一つ、根拠がない。
経典に書かれてあるとの、一点のみ。その、経典さえ、真面目に、読んでいないという、仰天である。
そして、経典が、嘘であることを、知らない。

ここでも、要するに、信じてしまえば、よし、なのである。

馬鹿は、死んでも、治らない、とは、本当である。
死んでも、馬鹿のままである。

ご苦労なことに、このようにまで、書く。

なお聖書の宇宙創造は科学的にどうか、聖書の内容は現実性があるのかどうか、いろいろ問題があるでしょうが、とにかく聖書は、聖パウロもいうように「われわれの教訓のために書かれた」ものですから、聖書の中に救いに関する神のご計画を読み取り、宗教的な教訓をわが身にあてはめ、実行にうつすように努力しなければなりません。

そんなことを、しては、いつも、人を殺していなければならないのである。と、知らない。
本当に、聖書を、読んでいるのであろうかと、疑う。

要するに、信じてしまいなさい、ということである。

とにかく聖書は、聖パウロもいうように・・・
どうして、ここで、聖パウロが、出るのか。
パウロが、正しいのか。何故、パウロが、正しいのか。

カトリック教義は、イエスの、教義ではなく、パウロの教義である。
強迫的、キリスト教を、作り上げた人物が、パウロである。
要するに、彼の好みを、教義にしたのである。

問題があるでしょうが、と、言うが、それが、もっとも、問題であろう。

こういうのを、薄ら馬鹿という。

宗教とは、皆々、そのようである。
日本仏教の、お話は、妄想、想像を、更に、飛躍させて、支離滅裂である。
更に、言うことと、やることが、全く違う。
一々例を上げないが、僧たちを、見ていれば、よく解る。

本人も、解っていないことを言うから、どうしようもない。
聖書が、終われば、それらを、徹底検証することにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。