2008年04月10日

神仏は妄想である 68

すべての絶対論が宗教に由来するわけではない。にもかかわらず、絶対論的な道徳が正当であると弁護したいなら、宗教的なもの以外に根拠を見いだすのはかなりむずかしい。私が思いつくことができる唯一の対抗馬は愛国心、とくに戦時における愛国心である。スペインの高名な映画監督であるルイス・ブニュエルは、「神と国は無敵のチームだ。抑圧と虐殺のあらゆる記録が、彼らによって破られる」と言った。徴兵制は、狙いをつけた若者の愛国的義務感に強く訴える。
ドーキンス

私は、戦争犠牲者の、追悼慰霊を、始めてから、それを、とみに考えるようになった。
愛国心というものである。
それは、状況によっては、絶対的なものになる。

敗戦で、終わった太平洋戦争の時には、とんでもない、愛国心が、国民に伝播した。勿論、軍部と、大本営の、喧伝である。

現人神と、天皇を、祭り上げて、若者を、戦場に送り出し、果ては、特攻として、死ぬことを命じたのである。
絶対主義である。

もし、本当に、天皇を、奉じていたならば、また、国民が天皇の子であるというならば、国民を、もっと、大切に扱ったであろう。

アメリカの、ブッシュは、イラクで、どれだけの若者の、命を、捨てたか。
あれは、愛国心か。
キリスト教原理主義と、その、愛の思想等々、すべてに、矛盾する様、それは、病気というしかない。

愛国心が、絶対主義に陥る時、それは、宗教の絶対主義と、変わらなくなる。
私は、愛国心の、教育は、必要だと思うが、絶対主義の愛国心は、病であるとみるから、漢語での、愛国心ではなく、国を愛する心としての、大和言葉にある、国を思うことの、情操教育を言う。
しかし、これだけでは、説明不十分である。
いずれ、書く。

人々は良心的徴兵拒否を、たとえ敵国の人間であっても軽蔑した。なぜなら、愛国心は絶対的な美徳であるとみなされていたからである。将来いつの日かあなたが敵と呼ぶことを選ぶかもしれない政治家を誰であっても殺すことに加担させるスローガンとして、職業軍人の「善かろうが悪かろうがわが祖国」よりも絶対的なものを探すのはむずかしい。帰結主義者の推論は戦争に向かう政治的決断には影響を与えるかもしれないが、ひとたび戦争が宣言されると、絶対論的な愛国心が、宗教以外では見られないような暴力と権力をもって、すべてを支配する。
ドーキンス

宗教以外では、見られないと、トーキンスは言う。

しかし、その、戦争は、何によって起こるのかという時、そこに、宗教の匂い、あるいは、宗教の浄化という、命題がある。
民族浄化は、宗教浄化の、別名である。
特に、欧米の戦争は、宗教戦争であった。勿論、アラブもである。

絶対主義の、宗教と、絶対主義の愛国心との、相乗効果抜群の、絶対主義である。
ホント、やってられないのである。

倫理学に関する本章の議論のたたき台は、神がなければ道徳は相対的で恣意的なものになってしまうという、宗教の側から出されることを想定した、仮想上の主張であった。カントやその他の倫理学者は別にして、また愛国的情熱をしかるべく評価した上で、絶対論的な道徳をよしとする素地をつくるのはふつう、歴史が正当化できる限度をはるかに超える権威をもつと考えられている、いわば聖典の類である。実際、聖典の権威の信奉者は、彼らの聖典の(ふつうはきわめて疑わしい)歴史的な起源について、悲しくなるほどわずかな好奇心しか示さない。
ドーキンス

聖典の、信奉者は、無知蒙昧であるということである。
その証拠に、ドーキンスは、旧約聖書を、徹底的に、検証するのである。

実際、私も、長年、旧約聖書を、読み続けてきたが、改めて、その、偏狭さに、気付かされた。
洗脳によって、聖書の神に対する、絶対服従を、強いられていたのである。

何故、疑問を、持たずに、聖書という、権威に、従っていたのか、よく解らないのである。
要するに、信じてしまえば、簡単さ、ということである。
兎に角、信じ込んでしまえば、簡単なのである。

ステンドグラスの、教会の聖堂で、祈ることが、兎も角、心地よいのである。つまり、ムードの信仰である。
そこで、聖人ぶった、偽善者である、司祭や、牧師から、説教されて、何やら、その気になって、神を仰ぐという、偽善に気付かない、偽善である。

主よ、
今日、ここに、集まれる、あなたを求める人々の祈りを、
聞き入れたまえ。
あなたの、愛の光に、包まれて、私たちは、明日も、よりよく生きられますように。
主よ。
更に、本日、ここに、来られなかった多くの、罪人、迷える人にも、光を、お与えください。
一時も、早く、罪人なる人々が、悔い改めて、あなたの愛を受け入れますように。

と、いう具合に、何とでも、言えるというのが、特徴である。
延々と、ゴタゴタと、祈りの言葉を、続けることが出来る。
常日頃使用する、話し言葉での、祈りであるから、延々と、愚痴のように、続けることが出来る。

初めて、古神道の、祈りを、知り、言挙げせずという、祈りを、知った。
言の葉である。
口にだして言うことは、成る、というものであり、多くを語ることを、戒めるものである。

偏狭な、宗教や、行者と言われる者の、祈りではない。
日を拝する。
太陽を拝する。
そして、黙祷である。

日本人は、所作の中に、祈りを、取り入れた民族である。
作法の中に、祈りを、取り入れた民族である。

私は、しないが、食事の前に、手を合わせて、「いただきます」と言う。
宗教信者が、神仏に、祈りを、捧げるという、偽善ではない。
「いただきます」と、言葉にすることが、祈りになるのである。
更に、食事後は、「ごちそうさまでした」という。
所作の中に、祈りがある。

グッバイ、とは、神と共に、である。
さようなら、とは、左様である。そのようである、という意味であり、別れというものを、そのあるようにと、言う。
それは、徹底した、実存である。

神の朝、神の昼、神の夜。
すべて、妄想の神の名を語る語源とは、全く違う。

お早う、今日は、今晩は。
すべて、実存である。
以下省略。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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