2008年04月09日

神仏は妄想である 67

神仏は妄想である、を、書いている。

イージス艦と、衝突した、清徳丸の、親子の捜索が、打ち切られて、つまり、親子は、海を漂流しているということである。

防衛省は、大量の人員を、罰したというが、そんなものは、どうでもいい。

二人の親子が、海に漂流していることを、言う。

私の、故郷は、北海道の、漁村である。
漁師の生き方を、見て育った。
海は、恵みの海であり、命を落とす、危険な海でもあった。
特に、冬の海は、命懸けである。
こうした、漁師の漁によって、食生活が、出来る。

生長の家の、初代総裁の書くものに、突然の死、大量の死に対して、それを、浄化と言うのである。
すでに、使命を終わり、速やかに、霊界入りすべくの、神の計らいという。
戦争の死もそうである。
原爆の死も、そうである。
しかし、実に、矛盾していることも書く。
何とでも、書ける。

突然の急激なる打撃(例えば不慮の災禍)で肉体が死に、霊界へ移転する霊魂は、急激に、その人の霊魂が今までの業を離脱して急速に浄化向上するための摂理です。地球の一周期の終わりに世界的な大戦争や、大々的な天変地異などで多数の人類が大量死滅することもあるのも、地球の一周期の終わりには、地球上の人類のうちの或る周期に他の天体から移動して来た霊魂の総決算期が近づいているので、浄化すべき霊は、速やかに浄化して置かなければならないからであります。

上記、全く、主観である。客観的なものは、一つも無い。
そして、旧約聖書、新約聖書、多くの仏典等々を、持って、それらを、証明するという、驚きである。
それらが、嘘八百の書き物だとは、知らないとは、正に驚きである。

この人の、書物は、多くの人の、気の病などを軽くしたが、あまりの、誇大妄想に、愕然とするのである。

突然の災禍で肉体が死に、霊魂が肉体を抜け出す時には、急に大急ぎでその家から住む人が何物もとりあえずに飛び出すのと同じように、その人の霊魂は自分の身についた業を持たずに、謂わば丸裸で肉体を飛び出すので、その人の業が速やかに潔められるので、その人の霊魂にとって寧ろ祝福さるべきことなのです。

それを、そのまま、信じれば、ある特定の人は、安心するのであろう。

この人が、物を書く時を、霊視したという信者は、その背後に、神のごとき、霊人が、立っていたという。
つまり、その霊人の、情報である。

人間は”神の像”に創造されたと「創世記」にある通り、その実相は完全であり、「全て善し」と神によって宣言せられ、全てを支配する権能を与えられているのだけれども、その完全なる神の像の上に、もっとも、素晴らしい先生の油絵の上に、弟子が再び絵具を塗って拙い絵を描いたために、先生の折角立派に描いた絵が覆い隠されてしまっているのと同じように、神の真創造なる世界が、人間の迷妄心によって覆い隠されてしまっているのである。このことを「創世記」第二章には、「霧たちのぼりて・・・」という風に書かれている。迷いの霧を晴らしてしまわなければ実相の完全な相を見ることはできないのである。

創世記の、神が、如何なるものであるかを、知らないようである。

創世記にある通りと、聖書を根拠にするのである。

あらゆる、経典を、使用し、混濁した、考え方を、述べる。
果たして、それが、本当なのか、嘘なのか。なんとも、判断できないのである。
更に、交霊術による、証拠を、持ち出すのである。

人のことならば、何とでも言える。
私は、イージス艦と、衝突して、未だに、海を漂うであろう、二人の親子の、死を悲しむ者である。
私の、親兄弟だと思うと、悲しみは、更に深い。

悲しみを、軽減するために、方便として、教えるというなら、少しは、理解する。

それは決して神罰ではなく愛ふかき神の摂理です。魂の発達の傾向があまりに方法が外れているときは、不慮の災禍で肉体が死に、魂がとるものも取り合えず「肉の宮」を飛び出すために、今までの業(即ち心の習慣性)を霊界へもって出るひまが無く魂が浄められるように摂理の手が導いているのです。

随分と、都合の良い、話である。
仏教の業について、様々に、論じるのだが、ここにきて、いきなり、神の摂理によって、業を、霊界にもって出るひまがなく、という。

こうして、手品のような、論述を、繰り返すのである。
つまり、何とでも、言えるということである。

ところが、信者は、騙されるから、病が消えたと、大声で、喧伝するという、有様。

治らなかった、病が、癒えるという、宣伝は、多くの人を動かす。
魔法のようであるが、心理学である。

霊学から、言えば、その教団の背後霊団である。

さて、私は、清徳丸の、親子の、冥福を祈る。
すでに、亡くなっている。
この時期の海で、生存するのは、無理である。

因縁による、業を、神の摂理で、無きものにするなど、有り得ない。
一体、何を根拠にしているのか。
単なる、主観であり、一切の、客観性は、無い。

信じることである。
信じることで、救われるという、ご存知、宗教の、手口である。

信じるという、妄想に身を入れて、病が癒えても、問題の解決には、ならない。

催眠術の、一時的な効果である。
それが、来世に、持ち込まれることを、何故言わないのか。

あちらの、物には、こう書かれている。こちらの、物には、こう書かれてある。だから、こうである。
その、書かれた物が、妄想のものであれば、どうする。

実に、書かれた物は、妄想である。

仏陀も、イエスも、書き物を、一つも、残さなかった。
お解りか。
何故、書き物を、残さないか。
このような、者が、大勢出て、書き物を、根拠に、あること、無いことを、喧伝するからである。

更に、後々に、書き続けることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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