2008年04月07日

神仏は妄想である 66

私たちが道徳的であるために神を必要とするということが、たとえ真実であったとしても、それで神が存在する可能性がより高くなるわけではなく、単に望ましくなるだけのことにすぎない( 多くの人はこの違いがわからない) 。しかし、それはここで論じる問題ではない。私の想像上の宗教擁護者は、神様へのゴマすりが善行をおこなうための宗教的動機であることを認める必要をまったく感じなていないようである。むしろ彼の主張は、善人であることへの動機がどこから来るにせよ、神なしでは、何が善であるかを判断する基準が存在しないだろうということだ。私たちはそれぞれが善についての自分の判断をつくり、それに従って行動することができる。宗教のみにもとづく道徳原理( たとえば「黄金律」「あなたが人にしてもらいたいと思うようなことを人にもしてあげなさい」というように説く宗教上の教え) のように、しばしば宗教と結び付けられるが、ほかからも由来しうる原理に対立するものとして) は、絶対論的であるということができよう。善は善、悪は悪であり、特定の場合に、たとえば誰かが苦しむかどうかによって、判断に手間取ったりはしない。私の想像上の宗教擁護者ならば、宗教だけが、何か善であるかの根拠を提出することができると主張するだろ。
ドーキンス

哲学者は、神ではなく、人間の義務としての、道徳を考えた。
例えば、カントである。
「普遍的な法則となるべきことをあなた自身が同時に望むことができるような格率(基準)に従ってのみ行動せよ」

ところが、ドーキンスは、これにも、誤りがあると言う。

更に、読み進めると、宗教、特に、旧約聖書に基づく、道徳観念についての、検証は、見事である。
全く、道徳などない、逆に、人間の悪の様を見せ付ける、聖書の悪行、つまり、聖書の神の悪行を、炙り出すという。

一部の哲学者、とりわけカントは、非宗教的な源泉から絶対的道徳を導こうと試みた。彼自身は、その時代の人間にはほとんど避けがたいこととして、宗教的な人間であったが、道徳の根拠を、神のための義務ではなく義務のための義務に求めようと試みた。かれの有名な至上命令(定言命法)は、私たちに「普遍的な法則となるべきことをあなた自身が同時に望むことができるような格率(基準)にしたがってのみ行動せよ」と命じる。これは、たとえば嘘をつくという例についてはみごとにうまくいく。嘘をつくのが善いことで、しかも道徳的なことだとされていて、原則的に嘘をつくような人々から成る世界というものを想像してみてほしい。もしそのような世界があれば、嘘をつくことそのものが無意味になるだろう。嘘は、まさにその定義のゆえに、真実を仮定する必要がある。もし道徳的な原理というものが、すべての人間がそれに従うとみなしてよいものであれば、嘘をつくことは道徳上の原理になりえない。なぜなら、この原理そのものが意味を失い、機能しなくなるからである。
ドーキンス

カントも、キリスト教の、神絶対主義から、逃れられなかったといえる。
普遍的という言葉自体に、神観念が、まとわりつくのである。

義務のための義務という言葉も、おかしい。
義務を、宗教的絶対主義と、置き換えれば、宗教と、なんら変わらないのである。

すべての絶対論が宗教に由来するわけではない。にもかかわらず、絶対論的な道徳が正当であると弁護したいなら、宗教的なもの以外に根拠を見いだすのはかなりむずかしい。・・・ドーキンス

日本の場合は、儒教が、最も道徳に対する観念となったが、それ以前を、みると、人の道ということで、おのずからなるもの、おのずから発するものと、なっている。
それは、自然を観て、自然の有様から、学んだ、生き方の方法である。
道徳は、自然から、自然発生的に、起こったものである。

仁義礼知忠信孝悌とは、人倫の道の、順番だった。
しかし、それは、儒教の言葉の世界である。

日本人には、それ以前に、自然の様から、たゆたう、という心的状態にある、思いに、人の道の有り様を学んだ。
つまり、絶対というもののない、状態である。
絶対という状態に陥ると、それを、穢れとして、清め祓いをしたのである。

いつも、事は、流れている、動いている。
ある場面では、善いことだが、違う場面では、悪しきことである。
臨機応変に、対応するという、たゆたう、心の状態を、善しとした。

そして、それの基準というものを、もののあわれ、というものに置いたゆえに、定義も、無い。言葉で、明確にすることもなかった。
ここが、欧米の思想との、最大の相違である。

倫理学者たちは、善悪について考えるということにかけては、プロである。ロバート・ハイドンが簡潔に述べているように、「道徳的教えは、かならずしも理性によって構築されているわけではないが、理性によって弁護できる」ということで、彼らのあいだの意見は一致している。彼らは自らをさまざまなやり方で分類するが、現代用語では、大別して「義務論者」(カントのような)と「帰結主義者」(ジェレミー・ベンサムのような「功利主義者」を含む)の二派があるようだ。義務論というのは、道徳が規則に従うことから構成されるとていう信念につけられた名である。それは文字通りには義務の科学という意味で、「縛りつけられたもの」を意味するギリシャ語に由来する。義務論は道徳絶対論とまったく同じものではないが、宗教について書かれた本では、その目的からしては、この区別にこだわる必要はほとんどない。それに対して、絶対的な善と悪、その正さが結果とまったくかかわりがない命令(義務)が存在すると考えるのが絶対論者だ。帰結主義は、より現実主義的に、一つの行為の道徳的性はその結果によって判断されるべきだと考える。帰結主義のバリエーションの一つが、ベンサム、彼の友人のジェヘムズ・ミル、およびその息子のジョン・スチュワート・ミルらが説いた功利主義である。功利主義はしばしば、「最大多数の最大幸福が道徳と法の基礎である」という、ベンサムの残念ながら不正確なキャッチフレーズに要約される。
ドーキンス




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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