2008年04月06日

神仏は妄想である 65

サム・ハリスが「キリスト教国への手紙」に載せている次のデーターは、相関を示す決定的な証明にはなっていないが、それにもかかわらず衝撃的である。

米国における党派関係は、宗教性の完璧な指標ではないが、「赤い(共和党の)州」はもっぱら保守的なキリスト教徒が圧倒的な政治的影響力をもっているおかげで赤いのである。もし、キリスト教保守主義と社会的健全性のあいだに強い相関があるならば、その何らかの徴候を赤い州のアメリカに見ることができると予想していいだろう。しかし見つからない。暴力犯罪の発生率がもっとも低い二十五州のうち、六十二パーセントは「青い」民主党の州にあり、三十八パーセントが「赤い」共和党の州にある。もっとも危険な二十五の都市のうち、七六パーセントは赤い州にあり、二十四パーセントは青い州にある。実際に、米国でもっとも危険な五つの都市のうちの三つは敬虔なテキサス州にある。押し込み強盗のもっとも高い発生率をもつ十二州はどれも赤である。窃盗の発生率がもっとも高い二十九州のうち二十四州が赤である。もっとも高い殺人の発生率をもつ二十二州のうちで十七州が赤である。

ドーキンス

「あなたが本気で、自分が善人であろうとつとめる唯一の理由が神の賛同と褒美を得ること、あるいは非難や罰を避けることだとおっしゃるのですか? そんなものは道徳ではなく、単なるご機嫌取りかゴマすりであり、空にある巨大な監視カメラを肩越しにうかがったり、あるいはあなたの頭のなかにあって、あなたのあらゆる動きを、あらゆる卑しい考えさえ監視している小さくて静かな盗聴器を気にしているだけのことじゃあないですか」

もしあなたが、神が不在であれば自分は「泥棒、強姦、殺人」を犯すだろうということに同意するのなら、あなたは自分が不道徳なことを暴露しているのであり、「それはいうことを聞いたから、私たちは、あなたのことを大きくよけて通らせていただく」。反対に、もしあなたが、たとえ神の監視のもとになくとも自分は善人でありつづけると認めるのであれば、私たちが善人であるためには神が必要だというあなたの主張は、致命的に突き崩されてしまったことになる。私は思うのだが、非常に多くの信仰心のある人間が、自らを善人たらしめるように衝き動かしているのが宗教だと本気で考えているのではないか。個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
以上、ドーキンス

ただ今、ドフトエフスキーの、新訳が出て、多く読まれているという。
読むことは、いいことだが、あれを理解することは、日本人には、やや不可能ではないのかと、思っている。

キリスト教的、神の存在というものを、知らなければ、理解するのは、難しい。
文学としては、非常に評価出来るが、罪と罰、カラマーゾフの兄弟に、代表されるように、神の存在という、忌まわしいものの中で、七転八倒しているような、人間を描いている。
要するに、妄想の神と、一人相撲をしている人間の、七転八倒を、読んでいるのである。

トルストイも、そうであるが、彼らは、神観念の中から、抜け出せないでいる。
それも、嘘の聖書を、母体にして、何やら考えているのてあるから、ご苦労さんである。

ロシアには、伝統というものがない。
極めて、悲しいことに、ロシア正教があるのみ。

ロシアほど、悲劇的な国はない。
帝国ロシア、そして、共産主義による、革命である。その中で、細々と、ロシア正教が、流れていた。それは、共に、領土拡大、つまり、侵略を、国是としてきた国である。それ以外のものは皆無である。

支配者のための国である。
市民の伝統など、生まれる訳が無い。

個人的な罪の意識を組織的に悪用しているような宗教に所属している場合、とりわけそうではないだろうか。
と、ドーキンスは、言う。
すべての、宗教は、そうである。

神仏の名に置いて、信者を、脅し、透かし、支配する。
勿論、支配者は、悪行の限りを尽くすという、オマケである。

信者には、質素倹約を教え、献金、布施、寄付を、求めて、上層部は、たらふく食べて飲んで、更には、贅沢三昧である。

人に前では、修行者のような面をして、顔付きだけは、一人前、いや、三人前である。

偽善の、傲慢ぶりは、甚だしい。

本堂より、庫裏の方が立派な、寺院は多い。
仏の住まいより、僧侶の住まいの方が、立派だということである。

さて、宗教による、道徳は、実に、不健全である。
神仏の罰が当たると、平然として言う。

キーワードは、神仏の罰である。
無いものが、罰を下す訳が無いが、信じる者は、騙される。

道徳心とは、信仰に支えられるものではなく、人間の知性に支えられ、理性によって、行為される。
そして、感性によって、満たされるものである。
それが、真っ当な、道徳感覚である。

科学者である、ドーキンスは、実に、高尚な切り口で、それを、語る。

日本語の、道徳とは、特に至る道である。
その、徳を、儒教的、徳として、考えていた時期が、長い。
その、原点は、孔子の論語である。

孔子は、平面思想である。
神鬼を、語らずという、冷静さである。
それは、十分に、真っ当である。
しかし、日本にては、垂直思考により、それが、実行された。

簡単に言う。
孔子は、目に見える世界のみに、語る。
日本には、目に見えない、もののあわれ、という、情感がある。
カミの世界である。つまり、自然の核にある、恐れ多く、賢いもの。
畏れ多くも、畏くもである。
おそれおおくも、かしこくも。
畏れ、という、字は、畏敬である。

孔子の、徳は、日本にて、完成したといえる。

日本の道徳感情は、細々しく、相手のことを、思う行為にある。
その、根本は、もののあわれ、あはれ、という、感覚である。
つまり、極悪な、行為を犯す、罪意識というものではない。
ゆえに、罪を憎んで人を、憎まず、という、言葉が、出来たほどである。

人間は、罪を、犯すようなものではないという、根本的考え方があったのである。
もっと、言えば、欧米で言う、罪という意識はなかった。

日本で、ツミとは、恵みのものである。
海神、わだつみ、山神、やまつみ、とは、海の恵み、山の恵みである。
それを、カミと、称した。

これはついては、まだまだ、説明が必要である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もののあわれについて195


うたがはじ なほ恨みじと 思ふとも 心に心 かなはざりけり

御返り


恨むらむ 心は絶ゆな かぎりなく 頼む君をぞ われもうたがふ

と聞こえてあるほどに、暮れぬればおはしましたり。宮「なほ人の言ふことのあれば、よもとは思ひながら聞こえしに、かかること言はれじとおぼさば、いざたまへかし」などのたまはせて、明けぬれば出でさせたまひぬ。



うたがはじ なほうらみじと おもふとも こころにこころ かなはざりけり

疑わない、恨まないと、思いつつ、なお、心に素直に、従えないのです。
心に心 かなはざりけり
心に心が、沿わないのである。

お返し


うらむらむ こころはたゆな かぎりなく たのむきみをぞ われもうふがふ

私のことを、恨む心は、絶えずにいてください。
私も、宮様のことを、頼りにしていますが、疑うことが、あるのですから。

と、申し上げます。
そのうちに、日も暮れてきました。
宮様は、お出でになられました。
「やはり、人は、あなたの噂を、あれこれ、申します。よもや、とは、思いましたが、お便りいたしました。このようなことを、言われたくないなら、さあ、早く、邸に、お出でください」などと、仰せになり、夜が明けますと、お帰りに、なられました。


現代でも男と、女の、噂話は、絶えない。
芸能人は、毎日、その噂話に、晒されている。

噂に、翻弄される者、噂を、超えて行く者。
男と女の、関係は、いつも、新しいのである。

性懲りも無く、続けて行くのであろう。

その、千年単位の、噂話が、この、物語である。
この、物語から、噂話は、抜け出ていないのである。

最新の、心理学では、人間の、自由意志というものは、無いという。
自由恋愛というが、実は、自由でも、我の意思でも無いというのである。

錯覚。
自由であるという、錯覚。
意志。
意志であるという、錯覚。

ヒトの雌は、子育てをする間、雄を、留めておくために、性的エネルギーを全開にする。
その前に、恋をする。
セックスである。
恋とは、セックスであった。

セックスを、恋という言葉で、曖昧にするほど、前頭葉が、発達した。

万葉時代は、女が、男に、名を名乗ると、それは、セックス承諾の、合図となった。

その、発情の、きっかけは、自由意志だと、思われていたが、ここに来て、自由意志ではないと、言われる。
それでは、何が、ヒトを、発情させるのか。

脳が、指令を、下す前に、すでに、手が動くという、実験を通して、脳ではない、何か、別のものが、指令を出していると、解ったのだ。

意志を、脳の働きだと、考えていた科学者は、まさか、と、呆然としたという。
意志の指令を、脳が、発していないとすると、指令は、どこから、出るのか。
人間の自由意志とは、何か。

次の、科学のテーマになるだろう。

さて、物語も、終わりに、近い。
いよいよ、宮様の、願いに、従い、宮廷入りする、和泉式部である。

簡単に言えば、宮廷に入り、宮様の、妾になるということである。
正妻ではない。妾、めかけ、つま、とも、読む。

恋愛の、手引きとしても、面白い、古典文学であった。

私は、もののあわれ、というものを、知る、べくして、この、物語を、読んだ。
日記全体に、もののあわれ、というものが、ある。

もののあわれ、というものは、こうして、表現されるということだ。

本居宣長が、源氏物語の、端々から、もののあわれ、の、様を、探し出した。
それも、一つの手である。
彼は、源氏物語の、価値は、もののあわれ、であると、言い切るのである。

だが、私は言う。
万葉集から、日本文学は、もののあわれ、というものに、貫かれていると。

書き表せないもの、もののあわれ、を、書くために、日本文学がある。それを、意識する、しないに、関わらずである。
というような、読み方も、あって、いいと、思う。

こんなもの、人間の、生き死ににあっては、お話である。

こんなもの、人間の、生き死にを、もののあわれ、として、観た、日本人を、私は、誇りに思う。

こんなものである。


posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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