2008年04月05日

もののあわれについて194

かばかりねんごろにかたじけなき御こころざしを、「見ず知らず心こはきさまにもてなすべき。ことごとはさしもあらず」など思へば、参りなむと思ひ立つ。まめやかなることども、言ふ人々もあれど、耳にも立たず。

これほどまでに、丁寧で、もったいなくも、宮様のお心を、「知らぬふりをして、心無く、振舞っていたでしょうか。ことごとに対する、障害は、大したことではありません」などと、考えていましたので、宮様の、邸に、参ろうと思いました。
真面目に、忠告してくれる人もいますが、今は、耳に入りません。

「心憂き身なれば、宿世にまかせてあらむ」と思ふにも、この宮仕へ本意にもあらず、巌の中こそ住ままほしけれ、また憂きこともあらばいかがせむ。いと心ならぬさまこそ思ひ言はめ。なほかくてや過ぎなまし。

「心、憂き、いとわしい、この身ですから、前世の縁の、ままに、お邸に、上がります」と、思うにつけても、「この、宮仕え、本意ではありません。世の中の、憂きを、逃れて、巌の中にでも、入りたいのですが、そこで、また、憂いごとが、あったらどうしましょう。
さらに、人が、色々と詮索して、言うことでしょう。
やはり、宿世の縁に、任せて、世を過ごしましょう。

近くて親はらからの御有様も見きこえ、また昔のやうにも見ゆる人の上をも見さだめむ」と思ひ立ちにたれば、「あいなし、参らむほどまでに、びんなきこといかで聞こしめされじ。近くてはさりとも御覧じてむ」と思ひて、すきごとせし人々の文をも、「なし」など言はせて、さらに返りごともせず。

近くにいて、親や、姉妹の、様子を見てあげたり、昔の人の、形見の、子供の将来も、見届けてあげたいと」思い立ちましたので、「くだらない。お邸に、参上するまでは、不都合な、おもしろくない、噂は、お耳に、入れたくないものです。
宮様の、お近くに上がれば、私のことは、お解りになります」と、思い、言い寄ってきた男たちの、文にも、「不在」といって、全く、返事を出しませんでした。


宮より御文あり。見れば、「さりともと頼みけるがをこなる」など、多くのことどものたまはせで、「いざ知らず」とばかりあるに、胸うちつぶれて、あさましうおぼゆ。

宮様から、御文がありました。
見ますと、「まさかと、思い、あなたを信じて、愚かでした」などと、多くのことは、お書きにならず、「いざ知らず」と、あり、胸も潰れるほど、驚き、呆れました。


めづらかなるごとどもいと多く出で来れど、「さはれ、ながらむことはいかがせむ」とおぼえて過ぐしつるを、これはまめやかにのたまはせたれば、「思ひ立つことさへほの聞きつる人もあべかめりつるを、をこなるめをも見るべかめるかな」と思ふかなしく、御返聞こえむものともおぼえず、またいかなること聞こしめしたるにかと思ふにはづかしうて御返りも聞こえさせねば、「ありつることをはづかしと思ひつるなめり」とおぼして、「などか御返もはべらぬ、さればよとこそおぼゆれ。


思ってもいない、おかしな、噂が、今までも多くありましたが、「どのように話されても、事実でないことは、どうしようもありません」と、思い、過ごしてきました。
これ、また、宮様が、真剣に仰せになりますので、「私が、邸に、参るという決心を、耳にした、人も、いるでしょう。宮様に、捨てられて、ばかな目に、遭うことになりそうだ」と、思うと、悲しく、お返事を、申し上げる気も、起こりません。
また、どのような噂を、聞かれたのかと、思いますと、気後れして、お返事、申し上げませんでした。
宮様は「先ほどの、私の文に、気後れしているようです」と、思われ、「どうして、お返事を、下さいませんか。はやり、噂は、事実だったのですか。本当に、早くも、心の変わる人ですね。


いととくも変る心かな。人の言ふことありしを、よもとは思ひながら、「思はましかば」とばかりに聞こえしぞ」とあるに、胸すこし開きて、御返気色もゆかしく聞かましくて、「まことにかくもおぼされば、

人が、噂をしていましたことを、まさかと思いましたが、思はましかば、という、気持ちで、申し上げた、だけです」と、お書きになられましたので、女は、ほっと、胸を開いて、宮様の、ご機嫌を、知りたく、思いました。
そして、「まことに、そうお思いならば、

人言は あまの刈る藻に しげくとも 思はましかば よしや世の中
古今集 伊勢の歌



今の間に 君来まさなむ 恋しとて 名もあるものを われ行かむやは

と聞こえたれば、


君はさは 名のたつことを 思ひけり 人からかかる 心とぞ見る



いまのまに きみこまさなむ こいしとて なのあるものを われゆかむやは

今すぐにでも、お越しください、宮様。恋しくても、名のある方の元、私の方からは、行くことが出来ません。

と、申し上げますと、


きみはさは なのたつことを おもひけり ひとからかかる こころとぞみる

あなたは、浮名の立つことを、恐れているのです。
相手によって、そういう、気持ちになられるのです。

人からかかる 心とぞ見る
人から、そのように、見られると、思う心、だと、思います。


これにぞ腹さえ立ちぬる」とぞある。「かくわぶる気色を御覧じて、たはぶれをせさせたまふなめり」とは見れど、なほ苦しうて、女「なほいと苦しうこそ、いかにもありて御覧ぜさせまほしうこそ」と聞こえさせたれば、

名が立つどころか、腹さえ、立ちました」と、御文がありました。
女は、「私が、こんなに、困っていますのに、それを、御覧になって、からかって、いられるのでしょう」と、思いしまたが、それでも、心苦しく、思われ、「やはり、切なく思います。どのようにしても、私の心を、お見せしたいと思います」と、申し上げますと

この物語の、最も、難しい場面である。

二人の噂は、大鏡にも、書かれるほどの、噂だった。
歴史的、噂である。

奔放な女。
亡き夫の、弟と、契る女。
貴族社会の、格好たる、噂である。

恋心と、噂と、二人の立場の、入り乱れた、感覚である。

だが、噂をするのは、男たちである。
女たちは、ひっそりと、耳をそばだてていた。
見苦しきことではあるが、一抹の、開放的、気分を、味わっていたのかもしれない。

男の、気まぐれに、翻弄される女の、時代である。
和泉式部の、やり方は、大胆不敵である。
要するに、恋をリードするのである。
女、だてらに。

この、日記物語の、価値は、もののあわれ、を、飲み込んだことである。
または、もののあわれ、の世界に、身を投じたことである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神仏は妄想である 64

性的な情熱(情欲)は、人間の野心のや闘争心の相当大きな部分の背後にある原動力であり、その発露の多くは人間のメカニズムの誤作動の結果である。気前の良さや同情への情熱についても、もしそれが、田舎暮らしをしていた祖先の生き方が誤作動を起こした結果であるとすれば、同じことがあてはまってはならない理由は存在しない。祖先の時代に、自然淘汰が私たちの中にこれら二つの情熱を築きあげるには、脳に経験則をインストールするのが最善の方策であった。そうした規則は現在でも私たちに影響を与えており、もともと機能にとって不適切な効果をもたらす状況においてさえ、この仕組みは変わらない。
ドーキンス

科学者は、実に、冷静に分析するものである。
人間が経てきた、道のり、つまり、ドーキンスは、進化であるが、それが、実によく理解できるというものだ。
この地に、生きるために、人は、学び続けてきたということである。

更に、性欲というものを、このように、分析するという、冷静さは、科学者の面目である。

何度も言うが、日本の伝統では、欲望、性欲も含めて、生きるための、欲望を、恵みと、捉えてきた。

これが、宗教に言わせると、罪になるという、驚きである。
人間の欲望を、支配しての、人間把握であるから、実に、偏りがある。
ただし、支配者が、それを、罪を、避けて生きるということはない。
被支配者には、命ずるが、自分たちは、のうのうとして、欲望の限りを尽くすのである。実に、子供騙しをする。

宗教家を、見よ。皆々、そうである。


そのような経験則は、カルヴァンの予定説で言うごとき決定論的なやり方ではなく、文学や習俗、法律や伝統―――そしてもちろん宗教―――のもつ開明的な影響のフィルターを通じて、現在でも私たちに影響を与えている。性的情熱という原始的な脳の規則が、文明のフィルターを通過して「ロミオとジュリエット」に描かれたラヴ・シーンとして具現化するのとまったく同じように、身内かよそものかを区別する原始的な脳の規則は、キャピュレット家とモンタギュー家の長年にわたる争いという形をとって現れる。やがて、利他主義と思いやり(共感)の規則が最後に誤作動して、いさかいの罰を受けた両家の者たちが和解するというラストシーンとなって、私たちを感動させるのだ。
ドーキンス

カルヴァンの、予定説とは、救いにある者は、すでに決定しているというものである。実に、都合の良い教義である。
要するに、その集団に所属すること、すなわち、救われている者、ということになる。

すべての、宗教は、皆々、そのようである。

偽物の、日本仏教も、最澄の、すべての人に、仏性があるというものである。
悉皆仏性である。
すべての物にも、仏性があるという、耳障りの良い言葉である。

その、仏性に、目覚めることが、悟りであるという。
勿論、仏性が、無い者は、妄想によって、そう思い込むのである。

三蔵法師玄奘は、救われない者もいる、という。
つまり、すべての人に、仏性があるとは、言わなかった。
大乗の教えを網羅し、その、経典を訳した、玄奘である。

最澄の天台宗から、すべて、狂ってしまった。
そして、空海の、密教という、とんでもないモノである。
バラモンの、呪術と、マントラを、真言として扱うという、魔物。
マンダラという、誤魔化しをもって、日本の善人善女を、煙に巻いた。
そして、更に悪いのは、鎌倉仏教といわれる、新興宗教である。

妄想の、経典から取り出した、念仏から、経典の、題目に、帰依するという、仰天である。
真っ当な、神経の者なら、決して、触れないものである。

予定説などは、笑うが、念仏、題目は、笑えないのである。
何故か。
日本仏教の大半が、それである。

彼らは、末法という意味が、よく解っていない。
末法とは、仏陀の、教えが、無に帰すということである。
つまり、末法の世に現れたもの、すべては、仏陀の、教えではないということを、知らない。
魔界のものである。

最大の自己矛盾である、末法思想である。

そこには、知性の欠片も無く、感性の鈍さと、理性の、崩壊があるのみ。

末法の、衆生は、気づかないのでしょう、ね。

posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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